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前回、伝統文化について俳句の例を掲げ、俳句はたった17文字(音)の窮屈な詩。かつ、その窮屈なルールに、さらに五七五にまとめ、季節を表す季語を入れなければならないという、いっそう窮屈なルールを課している、と記した。
にもかかわらず、わが日本人はその窮屈な俳句ルールを受け入れ、幾世代にもわたって受け継いできている。なぜだろう。ここが重要な点なので実例をもう少し紹介して一文を続けてみたい。有名な俳人の句に次のようなものがある。
1:ほろほろと山吹散るか瀧の音 (松尾芭蕉)・・・春の句
2:寂として客の絶え間のぼたんかな(与謝蕪村)・・・夏の句
3:散る芒寒くなるのが目に見ゆる (小林一茶)・・・秋の句
4:しぐれふるみちのくに大き仏あり(水原秋桜子)・・冬の句
5:海に出て木枯帰るところなし (山口誓子)・・・冬の句
いかがであろう。これらは各俳人の句でありながら、同時に日本そのものを表象しているではありませんか。
ご承知のように、日本は風光明媚な列島国家である。山吹、滝、ぼたん、薄(ススキ)、しぐれ、木枯らし等々いずれも我が日本を代表する風物である。つまり、わが日本は春夏秋冬の四季がはっきりしており、それに応じて花鳥風月が変化し、時節の行事や風習が営まれている。これは世界的に見ても希有な特徴に相違ない。緯度が似通った地域であっても、森林や乾燥地帯であったり、何よりも周囲が海に囲まれた海洋国家である点は希有な存在である。四季の存在と海に囲まれた列島国家、これこそ、窮屈な俳句文化が営々と営まれてきた本質に相違ない。つまり、五七五と季語、それは単にルールなんかではなく、列島国家の本質を表す象徴なのだ。奔放に破ってよいものではないと私は思う。
(2016年4月1日)
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前回、伝統文化について俳句の例を掲げ、俳句はたった17文字(音)の窮屈な詩。かつ、その窮屈なルールに、さらに五七五にまとめ、季節を表す季語を入れなければならないという、いっそう窮屈なルールを課している、と記した。
にもかかわらず、わが日本人はその窮屈な俳句ルールを受け入れ、幾世代にもわたって受け継いできている。なぜだろう。ここが重要な点なので実例をもう少し紹介して一文を続けてみたい。有名な俳人の句に次のようなものがある。
1:ほろほろと山吹散るか瀧の音 (松尾芭蕉)・・・春の句
2:寂として客の絶え間のぼたんかな(与謝蕪村)・・・夏の句
3:散る芒寒くなるのが目に見ゆる (小林一茶)・・・秋の句
4:しぐれふるみちのくに大き仏あり(水原秋桜子)・・冬の句
5:海に出て木枯帰るところなし (山口誓子)・・・冬の句
いかがであろう。これらは各俳人の句でありながら、同時に日本そのものを表象しているではありませんか。
ご承知のように、日本は風光明媚な列島国家である。山吹、滝、ぼたん、薄(ススキ)、しぐれ、木枯らし等々いずれも我が日本を代表する風物である。つまり、わが日本は春夏秋冬の四季がはっきりしており、それに応じて花鳥風月が変化し、時節の行事や風習が営まれている。これは世界的に見ても希有な特徴に相違ない。緯度が似通った地域であっても、森林や乾燥地帯であったり、何よりも周囲が海に囲まれた海洋国家である点は希有な存在である。四季の存在と海に囲まれた列島国家、これこそ、窮屈な俳句文化が営々と営まれてきた本質に相違ない。つまり、五七五と季語、それは単にルールなんかではなく、列島国家の本質を表す象徴なのだ。奔放に破ってよいものではないと私は思う。
(2016年4月1日)