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そ の 289 へ
万葉集読解・・・288(4395~4403番歌)
頭注に「独り龍田山の桜花を惜しむ歌」とある。
4395 龍田山見つつ越え来し桜花散りか過ぎなむ我が帰るとに
(多都多夜麻 見都々古要許之 佐久良波奈 知利加須疑奈牟 和我可敝流刀<尓>)
「龍田山」は奈良県生駒郡平群町近辺の山とされる。龍田川という名が残っている。
「帰るとに」は「帰り着くまでに」という意味。1822番歌に「~、君呼び返せ夜の更けぬとに」とある。
「龍田山を桜を見ながら越えて来たが、自分が帰りつくまでに散ってしまうのだろうか」という歌である。
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万葉集読解・・・288(4395~4403番歌)
頭注に「独り龍田山の桜花を惜しむ歌」とある。
4395 龍田山見つつ越え来し桜花散りか過ぎなむ我が帰るとに
(多都多夜麻 見都々古要許之 佐久良波奈 知利加須疑奈牟 和我可敝流刀<尓>)
「龍田山」は奈良県生駒郡平群町近辺の山とされる。龍田川という名が残っている。
「帰るとに」は「帰り着くまでに」という意味。1822番歌に「~、君呼び返せ夜の更けぬとに」とある。
「龍田山を桜を見ながら越えて来たが、自分が帰りつくまでに散ってしまうのだろうか」という歌である。
頭注に「独り堀江に浮かび漂う木屑を見て、貝玉がこないのを惜しんで作った歌」とある。
4396 堀江より朝潮満ちに寄る木屑貝にありせばつとにせましを
(保理江欲利 安佐之保美知尓 与流許都美 可比尓安里世波 都刀尓勢麻之乎)
堀江は難波の堀江。「つと」は手みやげ。
「難波の堀江に朝潮が満ちてきて木屑が流れてきた。この木屑が玉のような貝だったら手みやげにできるのに」という歌である。
4396 堀江より朝潮満ちに寄る木屑貝にありせばつとにせましを
(保理江欲利 安佐之保美知尓 与流許都美 可比尓安里世波 都刀尓勢麻之乎)
堀江は難波の堀江。「つと」は手みやげ。
「難波の堀江に朝潮が満ちてきて木屑が流れてきた。この木屑が玉のような貝だったら手みやげにできるのに」という歌である。
頭注に「官舎の我が家の門、堀江の南に美女を見て作った歌」とある。
4397 見わたせば向つ峰の上の花にほひ照りて立てるは愛しき誰が妻
(見和多世波 牟加都乎能倍乃 波奈尓保比 弖里?多弖流<波> 波之伎多我都麻)
「花にほひ」は「花々が輝き」という意味。
「見わたすと、あの丘の上の花々が輝き、照り映えている。そこに立っている女性は美しく可愛いひとだ。誰の妻だろうか」という歌である。
左注に「右三首は二月十七日、兵部少輔大伴家持作」とある。二月十七日は天平勝宝7年(755年)。「兵部少輔」は兵部省次官。
4397 見わたせば向つ峰の上の花にほひ照りて立てるは愛しき誰が妻
(見和多世波 牟加都乎能倍乃 波奈尓保比 弖里?多弖流<波> 波之伎多我都麻)
「花にほひ」は「花々が輝き」という意味。
「見わたすと、あの丘の上の花々が輝き、照り映えている。そこに立っている女性は美しく可愛いひとだ。誰の妻だろうか」という歌である。
左注に「右三首は二月十七日、兵部少輔大伴家持作」とある。二月十七日は天平勝宝7年(755年)。「兵部少輔」は兵部省次官。
頭注に「防人(さきもり)の情感に思いをいたして作った歌と短歌」とある。
4398番長歌
大君の 命畏み 妻別れ 悲しくはあれど 大夫の 心振り起し 取り装ひ 門出をすれば たらちねの 母掻き撫で 若草の 妻は取り付き 平らけく 我れは斎はむ ま幸くて 早帰り来と 真袖もち 涙を拭ひ むせひつつ 言問ひすれば 群鳥の 出で立ちかてに とどこほり かへり見しつつ いや遠に 国を来離れ いや高に 山を越え過ぎ 葦が散る 難波に来居て 夕潮に 船を浮けすゑ 朝なぎに 舳向け漕がむと さもらふと 我が居る時に 春霞 島廻に立ちて 鶴が音の 悲しく鳴けば はろはろに 家を思ひ出 負ひ征矢の そよと鳴るまで 嘆きつるかも
(大王乃 美己等可之古美 都麻和可礼 可奈之久波安礼特 大夫 情布里於許之 等里与曽比 門出乎須礼婆 多良知祢乃 波々可伎奈O 若草乃 都麻波等里都吉 平久 和礼波伊波々牟 好去而 早還来等 麻蘇O毛知 奈美太乎能其比 牟世比都々 言語須礼婆 群鳥乃 伊O多知加弖尓 等騰己保里 可<弊>里美之都々 伊也等保尓 國乎伎波奈例 伊夜多可尓 山乎故要須疑 安之我知流 難波尓伎為弖 由布之保尓 船乎宇氣須恵 安佐奈藝尓 倍牟氣許我牟等 佐毛良布等 和我乎流等伎尓 春霞 之麻<未>尓多知弖 多頭我祢乃 悲鳴婆 波呂<婆>呂尓 伊弊乎於毛比O 於比曽箭乃 曽与等奈流麻O 奈氣吉都流香母)
4398番長歌
大君の 命畏み 妻別れ 悲しくはあれど 大夫の 心振り起し 取り装ひ 門出をすれば たらちねの 母掻き撫で 若草の 妻は取り付き 平らけく 我れは斎はむ ま幸くて 早帰り来と 真袖もち 涙を拭ひ むせひつつ 言問ひすれば 群鳥の 出で立ちかてに とどこほり かへり見しつつ いや遠に 国を来離れ いや高に 山を越え過ぎ 葦が散る 難波に来居て 夕潮に 船を浮けすゑ 朝なぎに 舳向け漕がむと さもらふと 我が居る時に 春霞 島廻に立ちて 鶴が音の 悲しく鳴けば はろはろに 家を思ひ出 負ひ征矢の そよと鳴るまで 嘆きつるかも
(大王乃 美己等可之古美 都麻和可礼 可奈之久波安礼特 大夫 情布里於許之 等里与曽比 門出乎須礼婆 多良知祢乃 波々可伎奈O 若草乃 都麻波等里都吉 平久 和礼波伊波々牟 好去而 早還来等 麻蘇O毛知 奈美太乎能其比 牟世比都々 言語須礼婆 群鳥乃 伊O多知加弖尓 等騰己保里 可<弊>里美之都々 伊也等保尓 國乎伎波奈例 伊夜多可尓 山乎故要須疑 安之我知流 難波尓伎為弖 由布之保尓 船乎宇氣須恵 安佐奈藝尓 倍牟氣許我牟等 佐毛良布等 和我乎流等伎尓 春霞 之麻<未>尓多知弖 多頭我祢乃 悲鳴婆 波呂<婆>呂尓 伊弊乎於毛比O 於比曽箭乃 曽与等奈流麻O 奈氣吉都流香母)
長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「平らけく」は「ご無事で」。「言問ひすれば」は「話しかけるので」という意味。「葦が散る」は難波の枕詞(?)。「さもらふと」は「待機していると」という意味。「負ひ征矢(そや)の」は「背負った弓矢」のこと。
(口語訳)
大君のご命令を畏んで妻と別れることになった。悲しいけれど、男気をふるい立たせて準備を整えて門出にたつ。母は私の頭を掻き撫で、若草のような妻は私にとりすがって言う。ご無事をお祈りしています、どうかご無事で早くお帰り下さいと・・・。我が着物の袖に取り付き、涙を拭い、むせび泣きつつ話しかけるので、鳥のように飛び立ちがたくて振り返りながら国を出てきた。故郷から遠く離れ、はるばる山を越えて葦が生えるここ難波にやってきた。夕潮どきに船を浮かべ、朝なぎを待って舳先を向けて漕ぎ出そうと待機していると、春霞が島のあたりに立った。鶴が悲しそうに鳴くとはるばるやってきた故郷の家を思い出し、背負った弓矢がそそと鳴るまで嘆いた
大君のご命令を畏んで妻と別れることになった。悲しいけれど、男気をふるい立たせて準備を整えて門出にたつ。母は私の頭を掻き撫で、若草のような妻は私にとりすがって言う。ご無事をお祈りしています、どうかご無事で早くお帰り下さいと・・・。我が着物の袖に取り付き、涙を拭い、むせび泣きつつ話しかけるので、鳥のように飛び立ちがたくて振り返りながら国を出てきた。故郷から遠く離れ、はるばる山を越えて葦が生えるここ難波にやってきた。夕潮どきに船を浮かべ、朝なぎを待って舳先を向けて漕ぎ出そうと待機していると、春霞が島のあたりに立った。鶴が悲しそうに鳴くとはるばるやってきた故郷の家を思い出し、背負った弓矢がそそと鳴るまで嘆いた
4399 海原に霞たなびき鶴が音の悲しき宵は国辺し思ほゆ
(宇奈波良尓 霞多奈妣伎 多頭我祢乃 可奈之伎与比波 久尓<弊>之於毛保由)
平明歌。「国辺し」は「故郷を」という意味。
「海原に霞がたなびいて鶴の鳴き声が悲しく聞こえる宵はしきりに故郷が思われてならない」という歌である。
(宇奈波良尓 霞多奈妣伎 多頭我祢乃 可奈之伎与比波 久尓<弊>之於毛保由)
平明歌。「国辺し」は「故郷を」という意味。
「海原に霞がたなびいて鶴の鳴き声が悲しく聞こえる宵はしきりに故郷が思われてならない」という歌である。
4400 家思ふと寐を寝ず居れば鶴が鳴く葦辺も見えず春の霞に
(伊<弊>於毛負等 伊乎祢受乎礼婆 多頭我奈久 安之<弊>毛美要受 波流乃可須美尓)
平明歌
「故郷を思って寝るに寝られずにいると、鶴が鳴いている葦辺も見えない。春の霞がたちこめていて」という歌である。
左注に「右三首は二月十七日、兵部少輔大伴家持作」とある。二月十七日は天平勝宝7年(755年)。「兵部少輔」は兵部省次官。
(伊<弊>於毛負等 伊乎祢受乎礼婆 多頭我奈久 安之<弊>毛美要受 波流乃可須美尓)
平明歌
「故郷を思って寝るに寝られずにいると、鶴が鳴いている葦辺も見えない。春の霞がたちこめていて」という歌である。
左注に「右三首は二月十七日、兵部少輔大伴家持作」とある。二月十七日は天平勝宝7年(755年)。「兵部少輔」は兵部省次官。
4401 唐衣裾に取り付き泣く子らを置きてぞ来のや母なしにして
(可良己呂武 須<宗>尓等里都伎 奈苦古良乎 意伎弖曽伎<怒>也 意母奈之尓志弖)
「唐衣(からころむ)」(原文「可良己呂武」)は「唐衣(からころも)」の訛り。渡来人風の着物。「子ら」は愛称のら。「来のや」は「来ぬよ」の訛り。「来ぬよ」は3425番歌に一例だけ「~の川原よ石踏まず空ゆと来ぬよ汝が心告れ」とある。
「渡来人風の着物の裾に取り付いて泣く子を置いて来ました。子には母親もいないというのに」という歌である。
左注に「右は、國造、小縣郡他田舎人大嶋(をさだのとねりおほしま)の歌」とある。國造(くにのみやつこ)は土地の豪族で、朝廷から任命された地方官。小縣郡(ちひさがたのこほり)は長野県上田市一帯にあった郡。現在も青木村と長和町がある。
(可良己呂武 須<宗>尓等里都伎 奈苦古良乎 意伎弖曽伎<怒>也 意母奈之尓志弖)
「唐衣(からころむ)」(原文「可良己呂武」)は「唐衣(からころも)」の訛り。渡来人風の着物。「子ら」は愛称のら。「来のや」は「来ぬよ」の訛り。「来ぬよ」は3425番歌に一例だけ「~の川原よ石踏まず空ゆと来ぬよ汝が心告れ」とある。
「渡来人風の着物の裾に取り付いて泣く子を置いて来ました。子には母親もいないというのに」という歌である。
左注に「右は、國造、小縣郡他田舎人大嶋(をさだのとねりおほしま)の歌」とある。國造(くにのみやつこ)は土地の豪族で、朝廷から任命された地方官。小縣郡(ちひさがたのこほり)は長野県上田市一帯にあった郡。現在も青木村と長和町がある。
4402 ちはやぶる神の御坂に幣奉り斎ふ命は母父がため
(知波夜布留 賀美乃美佐賀尓 奴佐麻都里 伊波布伊能知波 意毛知々我多米)
「ちはやぶる」は枕詞。神の御坂は神が宿る坂。「幣奉(ぬさまつ)り斎(いは)ふ」は「お供えをして無事を祈る」という意味。
「神様のいらっしゃる坂にさしかかってお供えをし、わが生命の無事をお祈りするのは母と父のためです」という歌である。
左注に「右は、主帳、埴科郡神人部子忍男(かむとべのこおしを)の歌」とある。主帳は郡の書記官。埴科郡(はにしなのこほり)は長野県長野市や千曲市の一部に広がっていた郡。現在も坂城町がある。
(知波夜布留 賀美乃美佐賀尓 奴佐麻都里 伊波布伊能知波 意毛知々我多米)
「ちはやぶる」は枕詞。神の御坂は神が宿る坂。「幣奉(ぬさまつ)り斎(いは)ふ」は「お供えをして無事を祈る」という意味。
「神様のいらっしゃる坂にさしかかってお供えをし、わが生命の無事をお祈りするのは母と父のためです」という歌である。
左注に「右は、主帳、埴科郡神人部子忍男(かむとべのこおしを)の歌」とある。主帳は郡の書記官。埴科郡(はにしなのこほり)は長野県長野市や千曲市の一部に広がっていた郡。現在も坂城町がある。
4403 大君の命畏み青雲のとのびく山を越よて来ぬかむ
(意保枳美能 美己等可之古美 阿乎久牟乃 <等能>妣久夜麻乎 古与弖伎怒加牟)
「青雲(あをくむ)の」(原文「阿乎久牟乃」)は「青くもの」の、「とのびく」は「たなびくの」の訛り。また、「越よて来ぬかむ」は「越えて来ぬかも」の訛り。
「大君のご命令を畏んで、青雲のたなびく山を越えて来ました」という歌である。
左注に「右は小長谷部笠麻呂(をはつせべのかさまろ)の歌」とある。
4401番歌以下三首の注として「二月廿二日、信濃國の防人部領使(防人の引率者)、道中病を得て来たらず。大伴家持に奉った歌の數十二首、但し拙劣歌は登載せず」とある。
(2017年3月23日記)
(意保枳美能 美己等可之古美 阿乎久牟乃 <等能>妣久夜麻乎 古与弖伎怒加牟)
「青雲(あをくむ)の」(原文「阿乎久牟乃」)は「青くもの」の、「とのびく」は「たなびくの」の訛り。また、「越よて来ぬかむ」は「越えて来ぬかも」の訛り。
「大君のご命令を畏んで、青雲のたなびく山を越えて来ました」という歌である。
左注に「右は小長谷部笠麻呂(をはつせべのかさまろ)の歌」とある。
4401番歌以下三首の注として「二月廿二日、信濃國の防人部領使(防人の引率者)、道中病を得て来たらず。大伴家持に奉った歌の數十二首、但し拙劣歌は登載せず」とある。
(2017年3月23日記)