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万葉集読解・・・147(2252~2270番歌)

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     万葉集読解・・・147(2252~2270番歌)
 2239番歌から続く秋相聞歌の続き(2311番歌まで)。
 頭注に「露に寄せて」とある。2259番歌まで。
2252  秋萩の咲き散る野辺の夕露に濡れつつ来ませ夜は更けぬとも
      (秋芽子之 開散野邊之 暮露尓 沾乍来益 夜者深去鞆)
 読解を要さない平明歌。
 夜更けに男を誘う歌は希有。宴会の場で戯れに詠われた歌なのだろうか。古今和歌集224番歌に「萩が花散るらむ小野の露霜に濡れてをゆかむ小夜はふくとも」(読人知らず)とある。が、こちらは男の歌で、かつ、万葉歌を意識して作歌したと見られる。
 「萩の花が咲きこぼれる野辺の道を夕露に濡れながらいらして下さい。夜は更けていても」という歌である。

2253  色づかふ秋の露霜な降りそね妹が手本をまかぬ今夜は
      (色付相 秋之露霜 莫零<根> 妹之手本乎 不纒今夜者)
 「色づかふ」は「色づかせる」という意味。「な降りそね」は「な~そ」の禁止形。また、「まかぬ今夜は」は「彼女の手枕で寝るわけではない今夜は」という意味である。
 「木々を色づかせる秋の露霜よ、今宵は降り注がないでおくれ。彼女の手枕で共寝するわけじゃなく、たった独りで寝なくちゃならないのだから」という歌である。

2254  秋萩の上に置きたる白露の消かもしなまし恋ひつつあらずは
      (秋芽子之 上尓置有 白露之 消鴨死猿 戀乍不有者)
 本歌は1608番歌と全く同一の重複歌。
 「秋萩の上に付いた白露のように露と消えて死んでしまいたい。こうしてもんもんと恋いこがれているくらいなら」という歌である

2255  我が宿の秋萩の上に置く露のいちしろくしも我れ恋ひめやも
      (吾屋前 秋芽子上 置露 市白霜 吾戀目八面)
 「我が宿の」は「我が家の庭の」という、「いちしろくしも」は「はっきりと」という意味。下二句だけの歌で上三句は比喩。
 「我が家の庭の萩にはぴっしりと露が降りている。その露のようにはっきりと人目につくような恋などできようか」という歌である。

2256  秋の穂をしのに押しなべ置く露の消かもしなまし恋ひつつあらずは
      (秋穂乎 之努尓<押>靡 置露 消鴨死益 戀乍不有者)
 1608番歌の際にも述べたが、本歌の下二句は2254番歌及び2258番歌と同じである。どうして一首置きに下二句同じ歌が並んでいるのか理由は分からない。写本の際の書写ミスであろうか。
 「秋の稲穂にぴっしり付いた白露のように露と消えて死んでしまいたい。こうしてもんもんと恋いこがれているくらいなら」という歌である。

2257  露霜に衣手濡れて今だにも妹がり行かな夜は更けぬとも
      (露霜尓 衣袖所沾而 今谷毛 妹許行名 夜者雖深)
 「今だにも」は「今すぐにでも」という、「行かな」は「行こう」という意味である。また、「妹がり」は現在でも「暗がり」と使われるように「~の所」という意味。
 「露や霜で懐手が濡れてしまうだろうが、でも、今すぐにでも彼女のもとへ行こう。夜は更けても」という歌である。

2258  秋萩の枝もとををに置く露の消かもしなまし恋ひつつあらずは
      (秋芽子之 枝毛十尾尓 置霧之 消毳死猿 戀乍不有者)
 すでに2256番歌の際に記したように、最後の類歌。
 「枝がたわむばかりに秋萩に付いた白露のように露と消えて死んでしまいたい。こうしてもんもんと恋いこがれているくらいなら」という歌である。

2259  秋萩の上に白露置くごとに見つつぞ偲ふ君が姿を
      (秋芽子之 上尓白霧 毎置 見管曽思怒布 君之光儀呼)
 萩に降りた白露はきらきら光り輝いて美しい。その白露を、自分が慕う男の姿に見立てた歌と思われる。
 「萩に降りた白露を見るたびに思い浮かべる我が君の姿を」という歌である。

 頭注に「風に寄せて」とある。
2260  我妹子は衣にあらなむ秋風の寒きこのころ下に着ましを
      (吾妹子者 衣丹有南 秋風之 寒比来 下著益乎)
 「衣(ころも)にあらなむ」は「着物であったなら」という意味である。
 「彼女が着物であったなら、寒い秋風が吹くこの頃、ずっと肌身につけて着ていたい」という歌である。

2261  泊瀬風かく吹く宵はいつまでか衣片敷き我がひとり寝む
      (泊瀬風 如是吹三更者 及何時 衣片敷 吾一将宿)
 泊瀬(はつせ)は奈良県桜井市の初瀬のことである。「泊瀬風」というのは、伊吹山から吹き下ろす風を伊吹下ろしというが、そのような強風のことだろう。「衣(ころも)片敷き」は「着物をふとんがわりに敷いて」という意味である。
 「泊瀬風が吹き付ける宵はいつまで続くのだろう。私は着物をふとんがわりに敷いて独り寝をしなければならないのに」という歌である。

 頭注に「雨に寄せて」とある。
2262  秋萩を散らす長雨の降るころはひとり起き居て恋ふる夜ぞ多き
      (秋芽子乎 令落長雨之 零比者 一起居而 戀夜曽大寸)
 長雨(ながめ)は幾日も降り続く雨。
 「萩の花を散らす雨が幾日も降り続く頃になると、(外出が厄介なので)独り家に居てあの子が恋しくなる夜が多くなる。」という歌である。

2263  九月のしぐれの雨の山霧のいぶせき我が胸誰を見ばやまむ [一云 十月しぐれの雨降り]
      (九月 四具礼乃雨之 山霧 烟寸<吾>胸 誰乎見者将息 [一云 十月 四具礼乃雨降])
 「九月(ながつき)のしぐれの雨の」(異伝歌では「十月(かみなづき)しぐれの雨降り」)は「~のしぐれの雨で」という意味である。「いぶせき」は「心が晴れやらない」という意味。
 「九月のしぐれの雨で山霧がかかったように、心が晴れやらぬ日々だが、いったい誰に逢えたら心晴れるのだろう」という歌である。

 頭注に「蟋(コオロギ)に寄せて」とある。 蟋は秋鳴く虫の総称。・
2264  こほろぎの待ち喜ぶる秋の夜を寝る験なし枕と我れは
      (蟋蟀之 待歡 秋夜乎 寐驗無 枕与吾者)
 「こほろぎの待ち喜ぶる」は新鮮な表現。「しきりにコオロギが鳴いている」をこう表現したもので、歌才の確かさを感じさせる歌。「験(しるし)なし」は「甲斐がない」という意味。結句の「枕と我れは」も新鮮な表現。「枕を抱えて独り寝する」という意味である。
 「しきりにコオロギが鳴きたてるせっかくの秋の夜長なのに、枕を抱えて独り寝するしかどうしようもない私」という歌である。

 頭注に「蝦(かはづ)に寄せて」とある。
2265  朝霞鹿火屋が下に鳴くかはづ声だに聞かば我れ恋ひめやも
      (朝霞 鹿火屋之下尓 鳴蝦 聲谷聞者 吾将戀八方)
 「鹿火屋(かひや)が下に」の鹿火屋について「岩波大系本」は補注を設け、「古来難訓の語」とした上、3818番歌と2649番歌を引き合いに出し、「鹿火屋であるか、蚊火屋であるか決定的なことはいまだ言えない」としている。早速両歌を紹介すると次の通りである。
  朝霞鹿火屋が下の鳴くかはづ偲ひつつありと告げむ子もがも(3818番歌)
あしひきの山田守る翁が置く蚊火の下焦れのみ我が恋ひ居らむ(2649番歌)
 三歌とも「鹿火」は「かひ」と訓じられている。が、原文を見ると、「鹿火屋之」とあるのは本歌のみであり、3818番歌は「鹿」の代わりに「香」の字をあて、「香火屋之」となっている。2649番歌の原文は「置蚊火之」となっている。
 さて、2649番歌は「置く蚊火の」であって、「鹿(香)火屋の」のように「屋」はない。そもそも、「鹿火屋(建物)を置く」などとは言わない。「屋」は建物ないし建物の一部であって、「置く蚊火の」は「蚊火を屋に置く」という意味なのである。
 これですっきり整理出来る。「蚊火(かひ)」は、蚊取り線香を炊く容器のようなものに相違ない。「屋に置く」とか「屋の下」の「屋」は縁側のことなのだろう。
 「朝霞にけむる朝、蚊火の置かれた縁側の下で鳴く小さな蛙の声だけでも聞くことが出来るなら、あなたのことをこんなにも恋い焦がれるでしょうか」という歌である。

 頭注に「雁に寄せて」とある。
2266  出でて去なば天飛ぶ雁の泣きぬべみ今日今日と言ふに年ぞ経にける
      (出去者 天飛鴈之 可泣美 且今日々々々云二 年曽經去家類)
 「泣きぬべみ」は「~なので」の「み」。
 「出立してしまったら、妻(ないし彼女)が空飛ぶ雁が鳴くように泣くだろうと思って、出立を一日延ばしにしている内に年を越してしまった」という歌である。

 頭注に「鹿に寄せて」とある。
2267  さを鹿の朝伏す小野の草若み隠らひかねて人に知らゆな
      (左小牡鹿之 朝伏小野之 草若美 隠不得而 於人所知名)
 「草若み」は「~なので」の「み」。「まだ草が若いので丈が低く隠れ場がなく」という意味である。
 「牡鹿が朝伏せっていた小野の草はまだ若いので丈が低く隠れ場がない。そんなことで人に知られるようになさらないで下さいな」という歌である。

2268  さを鹿の小野の草伏いちしろく我がとはなくに人の知れらく
      (左小牡鹿之 小野之草伏 灼然 吾不問尓 人乃知良久)
 「小野の草伏」は「小野の草に伏せっていたかのように」という意味である。「いちしろく」は「はっきりと」という意味。「とはなくに」は「妻問いしたわけではないのに」という意味である。
 「牡鹿が伏せっていた小野の草にははっきりとその跡が残っている。そんな風にはっきり彼女に迫ったことはないのに、いつのまにか人が知るところになってしまった」という歌である。

 頭注に「鶴に寄せて」とある。
2269  今夜の暁降ち鳴く鶴の思ひは過ぎず恋こそまされ
      (今夜乃 暁降 鳴鶴之 念不過 戀許増益也)
 「暁(あかとき)降(くた)ち」は「明け方が過ぎて」という意味である。「鳴く鶴(たづ)の」は「早朝に鳴く鶴の声の切なさ」を示している。
 「夜の明け方過ぎの早朝、鶴の切ない鳴き声がする。そんな鳴き声のように私の切なさは募り、恋心が増すばかり」という歌である。

 頭注に「草に寄せて」とある。
2270  道の辺の尾花が下の思ひ草今さらさらに何をか思はむ
      (道邊之 乎花我下之 思草 今更尓 何物可将念)
 「思ひ草」は尾花(ススキ)の根に寄生するナンバンギセルのことと言われる。思い草のようにいつも思い続けているという心情を詠っている。
 「路傍に生えるススキの根元の思い草、(これ以上)今更何を思えというのか」という歌である。
           (2015年3月10日記、2018年10月10日)
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