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万葉集読解・・・148(2271~2290番歌)

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     万葉集読解・・・148(2271~2290番歌)
 2239番歌から続く秋相聞歌の続き(2311番歌まで)。
 頭注に「花に寄せて」とある。2271~2293番歌まで23首。
2271  草深みこほろぎさはに鳴くやどの萩見に君はいつか来まさむ
      (草深三 蟋多 鳴屋前 芽子見公者 何時来益牟)
 「草深み」は「~ので」の「み」。「こほろぎさはに」は「コオロギがいっぱい」という意味。
「やどの」は「我が家の庭の」という意味。「いつか来まさむ」は「いつになったらいらっしゃるのでしょう」という意味である。
 「我が家の庭は草深く、コオロギがいっぱい鳴きます。あなたはいつになったら我が家の萩を見にいらっしゃるのでしょう」という歌である。

2272  秋づけば水草の花のあえぬがに思へど知らじ直に逢はざれば
      (秋就者 水草花乃 阿要奴蟹 思跡不知 直尓不相在者)
 「水草(みくさ)の花の」は「水辺の草花の」という意味。「あえぬがに」は「こぼれ落ちるように」という意味である。「直(ただ)に」は「直接」という意味。
 「秋がやってくると、水辺の草花がこぼれ落ちるように、私の思いも切なく途切れそうになる。この気持ちあなたは知らないでしょうね。直接逢うこともないので」という歌である。

2273  何すとか君を厭はむ秋萩のその初花の嬉しきものを
      (何為等加 君乎将猒 秋芽子乃 其始花之 歡寸物乎)
 「何すとか」は「どうして」という意味である。前歌に応えた歌なのだろうか。作者が作者自身を初花にたとえた歌と受け取りたい。
 「どうしてあなた様を嫌がりましょう。初めて萩が花開くときは嬉しいものですのに」という歌である。

2274  臥いまろび恋ひは死ぬともいちしろく色には出でじ朝顔の花
      (展轉 戀者死友 灼然 色庭不出 朝容皃之花)
 「臥(こ)いまろび」は寝転がること。各書とも、結句の「朝顔の花」を「朝顔の花のごと」と「ごとく」を補って解釈している。が、名詞止めは鮮烈な詠い方。「朝顔の花」と止めたことによって鮮烈な朝顔の花が印象づけられる。それを「~ごとく」としたのでは歌がふにゃけてしまう。「朝顔の花」は恋から立ち直らんとする作者自身の筈である。「臥いまろび恋ひは死ぬとも」も、鮮烈な詠い出し方である。が、このフレーズもまた各書の解は疑問。「恋ひは死ぬとも」は「恋に死ぬ」ではない。原文にちゃんと「戀者死友」とある。「者」は「は」であって、限定の主格助詞。決して「恋に死ぬ」とは記されていない。整理すると「恋に破れても」あるいは「恋が終わりを告げても」ということである。「いちしろく」は「はっきりと」という意味。
 凛として気品あふれる女性像が浮かんでくる。凛として鮮烈な気概は朝顔の花にうってつけ。私の独断に過ぎないかも知れないが、結句の「朝顔の花」は強烈な印象を与え、万葉集きっての名歌ではなかろうか。名歌中の名歌として名高い、数々の名歌に負けない名歌と私には映ずる。
 「もだえ苦しみ抜いた恋が終わりを告げても、はっきりと表に出すものですか。私は私、朝顔の花」という歌である。

2275  言に出でて云はばゆゆしみ朝顔の穂には咲き出ぬ恋もするかも
      (言出而 云者忌染 朝皃乃 穂庭開不出 戀為鴨)
 「言(こと)に出でて云はば」は「口に出していうのは」という、「ゆゆしみ」は「憚られる」という意味。「朝顔の穂」は「朝顔が突きだした部分」すなわち「花」のこと。
 「口に出していうのははばかられるので朝顔の花が咲き出さないままの密かな恋をしています」という歌である。

2276  雁がねの初声聞きて咲き出たる宿の秋萩見に来我が背子
      (鴈鳴之 始音聞而 開出有 屋前之秋芽子 見来吾世古)
 「宿の秋萩」は「我が家の庭の萩」をいう。
 「雁が初めて鳴くのを待っていたかのように咲き出した秋の萩、ねえ、あなた、見にいらっしゃいな」という歌である。

2277  さを鹿の入野のすすき初尾花いづれの時か妹が手まかむ
      (左小牡鹿之 入野乃為酢寸 初尾花 何時<加> 妹之手将枕)
 「さを鹿の」を「入りにかかる枕詞」とする書があるが、えっと驚く。「さを鹿の」は22例にも及んでいるのに「入野」にかかる例は本歌以外皆無。「入野」は地名説もあるが、ススキが生える所はいくらでもあり、湾内の野ととって歌意は十分に成立する。
 「牡鹿が入り込む入野にススキが初めて尾花を付ける季節がやってきた。いったいいつになったら彼女の手枕で共寝できるのだろう」という歌である。

2278  恋ふる日の日長くしあれば我が園の韓藍の花の色に出でにけり
      (戀日之 氣長有者 三苑圃能 辛藍花之 色出尓来)
 「日(け)長くしあれば」は「幾日も重なれば」という意味。「韓藍(からあゐ)の花」は秋にニワトリのトサカのような真っ赤な花をつけるケイトウの花のことである。結句の「色に出でにけり」はちょっと悩ましい。「目立って顔に出てしまった」という意味なのか「人に知られるようになってしまった」という意味なのかはっきりしない。第二句に「日長くしあれば」とあることから私は後者に解しておきたい。
 「あの子に恋するようになって日が経つので、庭の鮮やかなケイトウの花の色のように、はっきりと人に知られるようになってしまった」という歌である。

2279  我が里に今咲く花の女郎花堪へぬ心になほ恋ひにけり
      (吾郷尓 今咲花乃 娘部四 不堪情 尚戀二家里)
 「女郎花(オミナエシ)」は実景というより、秋相聞という区分中の歌なので彼女の寓意と取って解した方が分かりやすい。「堪(あ)へぬ心」は「耐え難い」という意味。
 「我が里に今を盛りと咲く女郎花。その美しい彼女に恋い焦がれるのは耐え難いけれどそれでも恋い焦がれる」という歌である。

2280  萩の花咲けるを見れば君に逢はずまことも久になりにけるかも
      (芽子花 咲有乎見者 君不相 真毛久二 成来鴨)
 「まことも久(ひさ)に」は「まことに久しく」という意味。
 「萩の花が咲く季節になって花を見るにつけ、あの方にお逢いしないまま随分長く時が流れてしまったと思わずにいられません」という歌である。

2281  朝露に咲きすさびたる月草の日くるるなへに消ぬべく思ほゆ
      (朝露尓 咲酢左乾垂 鴨頭草之 日斜共 可消所念)
 「すさび」は「風吹きすさぶ」と同義で、「勢いよく」という意味である。月草は露草のこと。「~なへに」は「~とともに」という意味。
 「朝露を浴びて勢いよく朝咲きする露草だが日が暮れるにつれてしおれていく。私の恋心も次第にしおれ、消え入りそうに思われる」という歌である。

2282  長き夜を君に恋ひつつ生けらずは咲きて散りにし花ならましを
      (長夜乎 於君戀乍 不生者 開而落西 花有益乎)
 「生(い)けらずは」は苦心の訓。原文「不生者」で明快なように「生きることなく」という意味。なので「生けらずは」などという耳慣れない言葉を案出するよりも「生くよりも」と訓じた方がいいように思われる。
 「この長い秋の夜をあの人に恋い焦がれながら生きるくらいならいっそ咲いて散る花になりたい」という歌である。

2283  我妹子に逢坂山のはだすすき穂には咲き出ず恋ひわたるかも
      (吾妹兒尓 相坂山之 皮為酢寸 穂庭開不出 戀度鴨)
 「彼女に逢う」を「逢坂山」にかけた表現。「はだすすき」は「ススキの穂すなわち尾花」のことに相違ない。
 「愛しい子に逢うという逢坂山のススキ。尾花になって咲き出すこともなく、ひっそりと恋つづけています」という歌である。

2284  いささめに今も見が欲し秋萩のしなひにあるらむ妹が姿を
      (率尓 今毛欲見 秋芽子之 四搓二将有 妹之光儀乎)
 「いささめに」は1355番歌にも出てきたが、「かりそめに」という意味。「秋萩のしなひにあるらむ」は「萩がしなうようにたおやかな」という意味である。
 「かりそめにでもいいから、今逢いたいものだ。萩がしなうようにたおやかな彼女の美しい姿に」という歌である。

2285  秋萩の花野のすすき穂には出でず我が恋ひわたる隠り妻はも
      (秋芽子之 花野乃為酢寸 穂庭不出 吾戀度 隠嬬波母)
 「穂(ほ)には出でず」は「尾花のように目に立つことはなく」という意味である。「隠(こも)り妻はも」は「人目につかないようにしてくれている愛人」という意味なのであろう。 「萩の花が咲く野、その花に隠れているススキ。そのススキのように人目につかないようにしてくれている、恋しい恋しい私の彼女よ」という歌である。

2286  我が宿に咲きし秋萩散り過ぎて実になるまでに君に逢はぬかも
      (吾屋戸尓 開秋芽子 散過而 實成及丹 於君不相鴨)
 「我が宿に咲」は「我が家の庭に」という意味。「実になるまでに」は単純な叙述句ではあるまい。「実になる頃になるというのに」という心情がこめられている。
 「庭に咲いていた萩の花も散ってしまい、もう実になる頃になるというのに、あなた様にはお逢いできぬままですのね」という歌である。

2287  我が宿の萩咲きにけり散らぬ間に早来て見べし奈良の里人
      (吾屋前之 芽子開二家里 不落間尓 早来可見 平城里人)
 「早来て見べし」は直訳すると「早く来て見て頂戴」。「庭の萩が咲きましたよ。花散る前に、早くいらしてご覧下さい。奈良の里にお住まいのあなた」という歌である。

2288  石橋の間々に生ひたるかほ花の花にしありけりありつつ見れば
      (石走 間々生有 皃花乃 花西有来 在筒見者)
 「石橋の間々に」は「飛び石のあいだ、あいだに」という意味。「かほ花」は1630番歌にも詠われているが、朝顔、かきつばた、むくげ等諸説あってはっきりしない。1630番歌の際に「歌の内容から考えると、「かほ花」は具体的な花の名ではなく、「どの花を見てもあなたに見える」という意味だ」と記した。本歌も同様の意味だろう。「岩波大系本」等が説くように決して相手の女性に失望した歌ではあるまい。「あの子にはがっかりした」などという歌を相聞歌に掲載するとは思われない。意味は全く逆。
 「飛び石のあいだ、あいだに咲く美しいどの花にも彼女は似ている。見れば見るほどいい子だ」という歌である。

2289  藤原の古りにし里の秋萩は咲きて散りにき君待ちかねて
      (藤原 古郷之 秋芽子者 開而落去寸 君待不得而)
 「藤原の古りにし里」は奈良県橿原市にあった藤原京のこと。都が奈良の平城京に遷される直前の都。
 「古京藤原の里の秋萩は咲いて散ってしまいました。あなた様がいらっしゃるのを待ちかねて」という歌である。

2290  秋萩を散り過ぎぬべみ手折り持ち見れども寂し君にしあらねば
      (秋芽子乎 落過沼蛇 手折持 雖見不怜 君西不有者)
 「散り過ぎぬべみ」は「~ので」の「み」。
 「萩の花が散ってしまいそうなので、手折って眺めたけれど、あなたではないので寂しい」という歌である。
           (2015年3月13日記、2018年10月11日)
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