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万葉集読解・・・268(4139~4155番歌)
頭注に「天平勝宝二年三月一日の夕暮れ、春の園に桃と季(すもも)の花を眺めて作った歌二首」とある。天平勝宝二年は750年。
4139 春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ娘子
(春苑 紅尓保布 桃花 下照道尓 出立(女+感)嬬)
「紅にほふ」は「紅に染まる」ないし「輝く」という意味。「下照る」は「にほふ」とほぼ同意。鮮やかで絵画的な歌である。
「春の園紅(くれない)に輝く桃の花その下の道も紅に輝いている。その道に出て立つ乙女」という歌である。
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万葉集読解・・・268(4139~4155番歌)
頭注に「天平勝宝二年三月一日の夕暮れ、春の園に桃と季(すもも)の花を眺めて作った歌二首」とある。天平勝宝二年は750年。
4139 春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ娘子
(春苑 紅尓保布 桃花 下照道尓 出立(女+感)嬬)
「紅にほふ」は「紅に染まる」ないし「輝く」という意味。「下照る」は「にほふ」とほぼ同意。鮮やかで絵画的な歌である。
「春の園紅(くれない)に輝く桃の花その下の道も紅に輝いている。その道に出て立つ乙女」という歌である。
4140 吾が園の李の花か庭に散るはだれのいまだ残りたるかも
(吾園之 李花可 庭尓落 波太礼能未 遣在可母)
「はだれ」は「斑(まだら)」のこと。1420番歌に「沫雪かはだれに降ると見るまでに~」とある。
「わが庭の園のまだら模様は白い李(すもも)の花が散り敷いたものだろうか。それとも淡雪が消え残ったのだろうか」という歌である。
(吾園之 李花可 庭尓落 波太礼能未 遣在可母)
「はだれ」は「斑(まだら)」のこと。1420番歌に「沫雪かはだれに降ると見るまでに~」とある。
「わが庭の園のまだら模様は白い李(すもも)の花が散り敷いたものだろうか。それとも淡雪が消え残ったのだろうか」という歌である。
頭注に「はばたき飛ぶ鴫(しぎ)を見て作った歌」とある。
4141 春まけてもの悲しきにさ夜更けて羽振き鳴く鴫誰が田にか住む
(春儲而 <物>悲尓 三更而 羽振鳴志藝 誰田尓加須牟)
「春まけて」は「春をまちかねて」という意味。「まけて」は1485番歌に「夏まけて咲きたるはねず~」とある。「羽振(はぶ)き鳴く鴫(しぎ)」は「はばたいて鳴くシギ」のこと。
「春をまちかねてものがなしい今宵が更けてきて、羽ばたきつつ鳴くシギは誰の田に住むシギだろう」という歌である。
4141 春まけてもの悲しきにさ夜更けて羽振き鳴く鴫誰が田にか住む
(春儲而 <物>悲尓 三更而 羽振鳴志藝 誰田尓加須牟)
「春まけて」は「春をまちかねて」という意味。「まけて」は1485番歌に「夏まけて咲きたるはねず~」とある。「羽振(はぶ)き鳴く鴫(しぎ)」は「はばたいて鳴くシギ」のこと。
「春をまちかねてものがなしい今宵が更けてきて、羽ばたきつつ鳴くシギは誰の田に住むシギだろう」という歌である。
頭注に「二日、黛のような柳を折り取って京師(みやこ)を思う歌」とある。
4142 春の日に萌える柳を取り持ちて見れば都の大路し思ほゆ
(春日尓 張流柳乎 取持而 見者京之 大路所念)
「萌える柳を」は「芽吹いてきてぴんと張った柳の葉」のこと。
「春の日に芽吹いてきてぴんと張った柳の葉のついた小枝を折り取って眺めていると、活発に動き出した都大路が思い起こされる」という歌である。
4142 春の日に萌える柳を取り持ちて見れば都の大路し思ほゆ
(春日尓 張流柳乎 取持而 見者京之 大路所念)
「萌える柳を」は「芽吹いてきてぴんと張った柳の葉」のこと。
「春の日に芽吹いてきてぴんと張った柳の葉のついた小枝を折り取って眺めていると、活発に動き出した都大路が思い起こされる」という歌である。
頭注に「堅香子(かたかご)の花折り取っての歌」とある。「かたかご」はカタクリのこと。百合科の多年草。
4143 もののふの八十娘子らが汲み乱ふ寺井の上の堅香子の花
(物部乃 八十(女+感)嬬等之 は乱 寺井之於乃 堅香子之花)
「もののふの」は枕詞。「八十娘子(やそをとめ」は「たくさんの乙女」。「寺井の上の」は「寺井のほとり」のこと。「寺井」は「寺に湧き上がる泉」という意味だろう。
「たくさんの乙女たちが寺井のほとりで、入り乱れて水を汲んでいる、そこに咲くカタクリの花」という歌である。
4143 もののふの八十娘子らが汲み乱ふ寺井の上の堅香子の花
(物部乃 八十(女+感)嬬等之 は乱 寺井之於乃 堅香子之花)
「もののふの」は枕詞。「八十娘子(やそをとめ」は「たくさんの乙女」。「寺井の上の」は「寺井のほとり」のこと。「寺井」は「寺に湧き上がる泉」という意味だろう。
「たくさんの乙女たちが寺井のほとりで、入り乱れて水を汲んでいる、そこに咲くカタクリの花」という歌である。
頭注に「帰る雁を見て二首」とある。
4144 燕来る時になりぬと雁がねは国偲ひつつ雲隠り鳴く
(燕来 時尓成奴等 鴈之鳴者 本郷思都追 雲隠喧)
「雁がね」は雁のこと。平明歌。
「燕がやってくる時節になった。雁は自分の国を思い起こしながら遙か彼方を雲隠れしながら鳴いている」という歌である。
4144 燕来る時になりぬと雁がねは国偲ひつつ雲隠り鳴く
(燕来 時尓成奴等 鴈之鳴者 本郷思都追 雲隠喧)
「雁がね」は雁のこと。平明歌。
「燕がやってくる時節になった。雁は自分の国を思い起こしながら遙か彼方を雲隠れしながら鳴いている」という歌である。
4145 春まけてかく帰るとも秋風に黄葉の山を越え来ざらめや [一云 春されば帰るこの雁]
(春設而 如此歸等母 秋風尓 黄葉山乎 不<超>来有米也 [一云 春去者 歸此鴈])
「春まけて」は「春をまちかねて」という意味。
「春をまちかねて寒い冬国に帰っていく雁だが、秋風が吹く頃になれば黄葉の山を越えてこちらに戻って来るだろうに」という歌である。
異伝歌は上二句が「春が来れば帰っていく雁」となっている。
(春設而 如此歸等母 秋風尓 黄葉山乎 不<超>来有米也 [一云 春去者 歸此鴈])
「春まけて」は「春をまちかねて」という意味。
「春をまちかねて寒い冬国に帰っていく雁だが、秋風が吹く頃になれば黄葉の山を越えてこちらに戻って来るだろうに」という歌である。
異伝歌は上二句が「春が来れば帰っていく雁」となっている。
頭注に「夜の内に千鳥が鳴くのを聞いて二首」とある。
4146 夜ぐたちに寝覚めて居れば川瀬尋め心もしのに鳴く千鳥かも
(夜具多知尓 寐覺而居者 河瀬尋 情毛之努尓 鳴知等理賀毛)
「夜ぐたちに」は「夜が更けて」という意味。「川瀬尋(と)め」は「川瀬尋ねて」ないし「川瀬求めて」という意味。「千鳥」は「多くの鳥」という意味で使われることもあるが、ここではコチドリやシロチドリのこと。
(夜降而 鳴河波知登里 宇倍之許曽 昔人母 之努比来尓家礼)
「夜くたちて」と「千鳥」は前歌参照。
「夜も更けて鳴く川千鳥、昔から人々が切ない声というのも、まさにもっともだ」という歌である。
4146 夜ぐたちに寝覚めて居れば川瀬尋め心もしのに鳴く千鳥かも
(夜具多知尓 寐覺而居者 河瀬尋 情毛之努尓 鳴知等理賀毛)
「夜ぐたちに」は「夜が更けて」という意味。「川瀬尋(と)め」は「川瀬尋ねて」ないし「川瀬求めて」という意味。「千鳥」は「多くの鳥」という意味で使われることもあるが、ここではコチドリやシロチドリのこと。
「夜が更けてもなかなか寝られないでいると、川瀬を求めて心も哀切に鳴く千鳥の声がきこえる」という歌である。
4147 夜くたちて鳴く川千鳥うべしこそ昔の人も偲ひ来にけれ(夜降而 鳴河波知登里 宇倍之許曽 昔人母 之努比来尓家礼)
「夜くたちて」と「千鳥」は前歌参照。
「夜も更けて鳴く川千鳥、昔から人々が切ない声というのも、まさにもっともだ」という歌である。
頭注に「暁に雉が鳴くのを聞いて二首」とある。
4148 杉の野にさ躍る雉いちしろく音にしも泣かむ隠り妻かも
(椙野尓 左乎騰流雉 灼然 啼尓之毛将哭 己母利豆麻可母)
「さ躍る雉」のさは強意。「飛びはね騒ぐ」という意味。「いちしろく」は「はっきりと」。「杉木立の野に飛びはね騒ぐ雉のくっきりした鳴き声。その雉のように、お前は泣かずにいられない、隠れ妻なのか」という歌である。
4148 杉の野にさ躍る雉いちしろく音にしも泣かむ隠り妻かも
(椙野尓 左乎騰流雉 灼然 啼尓之毛将哭 己母利豆麻可母)
「さ躍る雉」のさは強意。「飛びはね騒ぐ」という意味。「いちしろく」は「はっきりと」。「杉木立の野に飛びはね騒ぐ雉のくっきりした鳴き声。その雉のように、お前は泣かずにいられない、隠れ妻なのか」という歌である。
4149 あしひきの八つ峰の雉鳴き響む朝明の霞見れば悲しも
(足引之 八峯之雉 鳴響 朝開之霞 見者可奈之母)
「あしひきの」は枕詞。「鳴き響(とよ)む」は「鳴き立てる」こと。
「あちこちの峰で雉が鳴き立てている。朝明けの霞を見ているともの悲しくなる」という歌である。
(足引之 八峯之雉 鳴響 朝開之霞 見者可奈之母)
「あしひきの」は枕詞。「鳴き響(とよ)む」は「鳴き立てる」こと。
「あちこちの峰で雉が鳴き立てている。朝明けの霞を見ているともの悲しくなる」という歌である。
頭注に「遥かに川を遡りながら唄をうたう船人の唄声を聞いての歌」とある。ここにいう川は現在高岡市や小矢部市を流れる小矢部川のこと。家持の住んでいた館は小矢部川河口近く。当時は射水川と呼んでいた。
4150 朝床に聞けば遥けし射水川朝漕ぎしつつ唄ふ舟人
(朝床尓 聞者遥之 射水河 朝己藝思都追 唱船人)
平明歌。「朝床にいて聞こえるのは、遙か射水川を遡った所を漕ぎながら唄う舟人の声」という歌である。
4150 朝床に聞けば遥けし射水川朝漕ぎしつつ唄ふ舟人
(朝床尓 聞者遥之 射水河 朝己藝思都追 唱船人)
平明歌。「朝床にいて聞こえるのは、遙か射水川を遡った所を漕ぎながら唄う舟人の声」という歌である。
頭注に「三日、守大伴宿祢家持の舘で開いた宴会の席での歌三首」とある。
4151 今日のためと思ひて標しあしひきの峰の上の桜かく咲きにけり
(今日之為等 思標之 足引乃 峯上之櫻 如此開尓家里)
「思ひて標(しめ)し」の標(しめ)しだが、実際に縄などで印をつけること。ここでは「心の中で目星をつけておいた」ことを意味している。
「宴を開く今日のためと思って目星をつけておいた峰の上の、あの桜がこのように咲いてくれた」という歌である。
4151 今日のためと思ひて標しあしひきの峰の上の桜かく咲きにけり
(今日之為等 思標之 足引乃 峯上之櫻 如此開尓家里)
「思ひて標(しめ)し」の標(しめ)しだが、実際に縄などで印をつけること。ここでは「心の中で目星をつけておいた」ことを意味している。
「宴を開く今日のためと思って目星をつけておいた峰の上の、あの桜がこのように咲いてくれた」という歌である。
4152 奥山の八つ峰の椿つばらかに今日は暮らさね大夫の伴
(奥山之 八峯乃海石榴 都婆良可尓 今日者久良佐祢 大夫之徒)
「奥山の八つ峰の椿」は次句の「つばらかに」を導く序歌。「つばらかに」は本来「つまびらかに」という意味だが、ここは「存分に」という意味。
「奥山のあちこちの峰に咲く椿ではありませんが、本日はつばらかに(存分に)楽しもうではありませんか。大夫の各々方」という歌である。
(奥山之 八峯乃海石榴 都婆良可尓 今日者久良佐祢 大夫之徒)
「奥山の八つ峰の椿」は次句の「つばらかに」を導く序歌。「つばらかに」は本来「つまびらかに」という意味だが、ここは「存分に」という意味。
「奥山のあちこちの峰に咲く椿ではありませんが、本日はつばらかに(存分に)楽しもうではありませんか。大夫の各々方」という歌である。
4153 漢人も筏浮かべて遊ぶといふ今日ぞ我が背子花かづらせな
(漢人毛 筏浮而 遊云 今日曽和我勢故 花縵世奈)
「漢人(からひと)も」は「唐人も」という意味だが、ニュアンスとしては「かの外国の人も」ということである。「花かづらせな」は「髪に花かづらをして」という意味。
「かの外国の人も筏を浮かべて遊ぶという。今日こそその日。皆々の衆、髪に花かづらをして羽目を外そうではありませんか。」という歌である。
(漢人毛 筏浮而 遊云 今日曽和我勢故 花縵世奈)
「漢人(からひと)も」は「唐人も」という意味だが、ニュアンスとしては「かの外国の人も」ということである。「花かづらせな」は「髪に花かづらをして」という意味。
「かの外国の人も筏を浮かべて遊ぶという。今日こそその日。皆々の衆、髪に花かづらをして羽目を外そうではありませんか。」という歌である。
頭注に「八日、白い大鷹を詠める歌一首併せて短歌」とある。
4154番長歌
あしひきの 山坂越えて 行きかはる 年の緒長く しなざかる 越にし住めば 大君の 敷きます国は 都をも ここも同じと 心には 思ふものから 語り放け 見放くる人目 乏しみと 思ひし繁し そこゆゑに 心なぐやと 秋づけば 萩咲きにほふ 石瀬野に 馬だき行きて をちこちに 鳥踏み立て 白塗りの 小鈴もゆらに あはせ遣り 振り放け見つつ いきどほる 心のうちを 思ひ延べ 嬉しびながら 枕付く 妻屋のうちに 鳥座結ひ 据えてぞ我が飼ふ 真白斑の鷹
(安志比奇乃 山坂超而 去更 年緒奈我久 科坂在 故志尓之須米婆 大王之 敷座國者 京師乎母 此間毛於夜自等 心尓波 念毛能可良 語左氣 見左久流人眼 乏等 於毛比志繁 曽己由恵尓 情奈具也等 秋附婆 芽子開尓保布 石瀬野尓 馬太伎由吉? 乎知許知尓 鳥布美立 白塗之 小鈴毛由良尓 安波勢也理 布里左氣見都追 伊伎騰保流 許己呂能宇知乎 思延 宇礼之備奈我良 枕附 都麻屋之内尓 鳥座由比 須恵弖曽我飼 真白部乃多可)
4154番長歌
あしひきの 山坂越えて 行きかはる 年の緒長く しなざかる 越にし住めば 大君の 敷きます国は 都をも ここも同じと 心には 思ふものから 語り放け 見放くる人目 乏しみと 思ひし繁し そこゆゑに 心なぐやと 秋づけば 萩咲きにほふ 石瀬野に 馬だき行きて をちこちに 鳥踏み立て 白塗りの 小鈴もゆらに あはせ遣り 振り放け見つつ いきどほる 心のうちを 思ひ延べ 嬉しびながら 枕付く 妻屋のうちに 鳥座結ひ 据えてぞ我が飼ふ 真白斑の鷹
(安志比奇乃 山坂超而 去更 年緒奈我久 科坂在 故志尓之須米婆 大王之 敷座國者 京師乎母 此間毛於夜自等 心尓波 念毛能可良 語左氣 見左久流人眼 乏等 於毛比志繁 曽己由恵尓 情奈具也等 秋附婆 芽子開尓保布 石瀬野尓 馬太伎由吉? 乎知許知尓 鳥布美立 白塗之 小鈴毛由良尓 安波勢也理 布里左氣見都追 伊伎騰保流 許己呂能宇知乎 思延 宇礼之備奈我良 枕附 都麻屋之内尓 鳥座由比 須恵弖曽我飼 真白部乃多可)
長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「しなざかる」は「遠く隔たった」という意味。「語り放(さ)け見放(さ)くる人目」は「語り合ったり、目を合わせたり」という意味である。「石瀬野(いはせの)」は不詳。富山県内には高岡市石瀬、富山市には東岩瀬と四方西岩瀬(よかたにしいわせ)と岩瀬のつく地名が複数あって決めがたい。
「馬だき行きて」は「馬を操って」、「あはせ遣り」は「鷹を放ち」という意味。「真白斑(ましらふ)」は「矢羽根の模様をした尾羽」のこと。
「馬だき行きて」は「馬を操って」、「あはせ遣り」は「鷹を放ち」という意味。「真白斑(ましらふ)」は「矢羽根の模様をした尾羽」のこと。
(口語訳)
「山や坂を越えた遠い遠い越の国にやってきて、年が変わるまで長く住んでいる。大君(天皇)のお治めになる国は都もここ越の国も同じだと心では思っている。けれども官員等人が少なく、語り合ったり目を合わせたりする機会が少ない。なのでそんな機会の多い都への思いがしきりである。心のなぐさめにしようと、秋になると萩の花が美しい石瀬野に馬を駆って出かける。あちこちで鳥を追い立て、白銀の小鈴を響かせて鷹を放つ。大空を飛んで行く鷹を目で追いつつ憤懣やるかたのない心を解放し、晴れやかになる。共寝用の妻屋に鷹座をこさえて飼う、斑模様の真っ白なわが鷹」
「山や坂を越えた遠い遠い越の国にやってきて、年が変わるまで長く住んでいる。大君(天皇)のお治めになる国は都もここ越の国も同じだと心では思っている。けれども官員等人が少なく、語り合ったり目を合わせたりする機会が少ない。なのでそんな機会の多い都への思いがしきりである。心のなぐさめにしようと、秋になると萩の花が美しい石瀬野に馬を駆って出かける。あちこちで鳥を追い立て、白銀の小鈴を響かせて鷹を放つ。大空を飛んで行く鷹を目で追いつつ憤懣やるかたのない心を解放し、晴れやかになる。共寝用の妻屋に鷹座をこさえて飼う、斑模様の真っ白なわが鷹」
4155 矢形尾の真白の鷹を宿に据ゑ掻き撫で見つつ飼はくしよしも
(矢形尾乃 麻之路能鷹乎 屋戸尓須恵 可伎奈泥見都追 飼久之余志毛)
矢形尾は矢羽根の模様をした尾羽。宿は妻屋。
「矢形尾をした真っ白な鷹を妻屋に据えて、撫でたり見入ったりして飼うのはいいもんだ」という歌である。
(2016年12月15日記、2019年4月12日)
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(矢形尾乃 麻之路能鷹乎 屋戸尓須恵 可伎奈泥見都追 飼久之余志毛)
矢形尾は矢羽根の模様をした尾羽。宿は妻屋。
「矢形尾をした真っ白な鷹を妻屋に据えて、撫でたり見入ったりして飼うのはいいもんだ」という歌である。
(2016年12月15日記、2019年4月12日)