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万葉集読解・・・290(4413~4424番歌)
4413 枕太刀腰に取り佩きま愛しき背ろがめきこむつくの知らなく
(麻久良多之 己志尓等里波伎 麻可奈之伎 西呂我馬伎己無 都久乃之良奈久)
「枕太刀(まくらたし)」(原文「麻久良多之」)は「枕太刀(まくらたち)」の東国訛り。問題は「めきこむ」(原文「馬伎己無」)。これを「佐々木本」と「伊藤本」は「まき来む」と訓じている。馬は「ま」とはよめない。まは、第一句と第三句に「麻」の字を使用している。「岩波大系本」や「中西本」は原文のように「めき来む」と読んでいる。が、結果的には他書と同様「帰ってくる月は分からない」と解している。この歌意は妙だ。太刀を帯びた夫の門出にそぐわない。つくを月と解する例も希有だ。つきは万葉集では通常月と表記している。歌意から考えて、「めきこむ」は「向きむかふ」の東国訛り。「つく」は「着く」ではないだろうか。「難波に向かって行くがそこに着くのはいつのことか分からない」という意味に相違ない。私は以下のように解する。
「枕元に置いた太刀を腰に帯びて愛しい夫は(難波に)向かって出発し、いつ到着するか分からないけれどご無事に」という歌である。
左注に「右は、上丁、那珂郡の桧前舎人石前(ひのくまのとねりいはさき)の妻、大伴部真足女(おほともべのまたりめ)の歌」とある。上丁は武蔵国の国造(くにのみやつこ)の上級使用人。那珂郡(なかのこほり)は、おおむね埼玉県児玉郡と本庄市一帯にあった郡。
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万葉集読解・・・290(4413~4424番歌)
4413 枕太刀腰に取り佩きま愛しき背ろがめきこむつくの知らなく
(麻久良多之 己志尓等里波伎 麻可奈之伎 西呂我馬伎己無 都久乃之良奈久)
「枕太刀(まくらたし)」(原文「麻久良多之」)は「枕太刀(まくらたち)」の東国訛り。問題は「めきこむ」(原文「馬伎己無」)。これを「佐々木本」と「伊藤本」は「まき来む」と訓じている。馬は「ま」とはよめない。まは、第一句と第三句に「麻」の字を使用している。「岩波大系本」や「中西本」は原文のように「めき来む」と読んでいる。が、結果的には他書と同様「帰ってくる月は分からない」と解している。この歌意は妙だ。太刀を帯びた夫の門出にそぐわない。つくを月と解する例も希有だ。つきは万葉集では通常月と表記している。歌意から考えて、「めきこむ」は「向きむかふ」の東国訛り。「つく」は「着く」ではないだろうか。「難波に向かって行くがそこに着くのはいつのことか分からない」という意味に相違ない。私は以下のように解する。
「枕元に置いた太刀を腰に帯びて愛しい夫は(難波に)向かって出発し、いつ到着するか分からないけれどご無事に」という歌である。
左注に「右は、上丁、那珂郡の桧前舎人石前(ひのくまのとねりいはさき)の妻、大伴部真足女(おほともべのまたりめ)の歌」とある。上丁は武蔵国の国造(くにのみやつこ)の上級使用人。那珂郡(なかのこほり)は、おおむね埼玉県児玉郡と本庄市一帯にあった郡。
4414 大君の命畏み愛しけ真子が手離り島伝ひ行く
(於保伎美乃 美己等可之古美 宇都久之氣 麻古我弖波奈利 之末豆多比由久)
「真子が手離(はな)り」は「彼女の手を離し」という意味である。
「大君の仰せを恐れ多いと思い、愛しいあの子の手を離し、島伝いに航行していく」という歌である。
左注に「右は、助丁、秩父郡の大伴部小歳(おほともべのをとし)の歌」とある。助丁は國造(くにのみやつこ)の下級使用人。秩父郡(ちちぶのこほり)は埼玉県秩父市および秩父郡一帯を指す。
(於保伎美乃 美己等可之古美 宇都久之氣 麻古我弖波奈利 之末豆多比由久)
「真子が手離(はな)り」は「彼女の手を離し」という意味である。
「大君の仰せを恐れ多いと思い、愛しいあの子の手を離し、島伝いに航行していく」という歌である。
左注に「右は、助丁、秩父郡の大伴部小歳(おほともべのをとし)の歌」とある。助丁は國造(くにのみやつこ)の下級使用人。秩父郡(ちちぶのこほり)は埼玉県秩父市および秩父郡一帯を指す。
4415 白玉を手に取り持して見るのすも家なる妹をまた見てももや
(志良多麻乎 弖尓刀里母之弖 美流乃須母 伊弊奈流伊母乎 麻多美弖毛母也)
白玉は真珠のことで、貴重で大切という意味で使用している。「持して」は「持ちて」の、「見るのすも」は「見るなすも」の東国訛り。「真珠を手にとってしげしげと眺めるように」という意味。「見てももや」は「見てむもや」の東国訛り。「眺めたいものだ」という意味。
「真珠を手にとってしげしげと眺めるように、家にいる彼女(妻)を再び眺めたいものだ」という歌である。
左注に「右は、主帳、荏原郡物部歳徳(もののべのとしとこ)の歌」とある。主帳は郡の書記官。荏原郡(えばらのこほり)ははっきりしないが、東京都大田区、品川区、目黒区、世田谷区にかけてあったとされる郡。
(志良多麻乎 弖尓刀里母之弖 美流乃須母 伊弊奈流伊母乎 麻多美弖毛母也)
白玉は真珠のことで、貴重で大切という意味で使用している。「持して」は「持ちて」の、「見るのすも」は「見るなすも」の東国訛り。「真珠を手にとってしげしげと眺めるように」という意味。「見てももや」は「見てむもや」の東国訛り。「眺めたいものだ」という意味。
「真珠を手にとってしげしげと眺めるように、家にいる彼女(妻)を再び眺めたいものだ」という歌である。
左注に「右は、主帳、荏原郡物部歳徳(もののべのとしとこ)の歌」とある。主帳は郡の書記官。荏原郡(えばらのこほり)ははっきりしないが、東京都大田区、品川区、目黒区、世田谷区にかけてあったとされる郡。
4416 草枕旅行く背なが丸寝せば家なる我れは紐解かず寝む
(久佐麻久良 多比由苦世奈我 麻流祢世婆 伊波奈流和礼波 比毛等加受祢牟)
「草枕」はお馴染みの枕詞。「背な」は「背子」の東国形。3444番歌「~背なと摘まさね」、3544番歌「~背ななと二人~」等多くの例がある。
「旅行くあなたが着物をきたままごろ寝するのですもの。家にいる私だって紐を解かないでそのまま寝ましょう」という歌である。
左注に「右は、妻、椋椅部刀自賣(くらはしべのとじめ)の歌」とある。
(久佐麻久良 多比由苦世奈我 麻流祢世婆 伊波奈流和礼波 比毛等加受祢牟)
「草枕」はお馴染みの枕詞。「背な」は「背子」の東国形。3444番歌「~背なと摘まさね」、3544番歌「~背ななと二人~」等多くの例がある。
「旅行くあなたが着物をきたままごろ寝するのですもの。家にいる私だって紐を解かないでそのまま寝ましょう」という歌である。
左注に「右は、妻、椋椅部刀自賣(くらはしべのとじめ)の歌」とある。
4417 赤駒を山野にはがし捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ
(阿加胡麻乎 夜麻努尓波賀志 刀里加尓弖 多麻<能>余許夜麻 加志由加也良牟)
「はがし」は「はなち」の、「捕(と)りかにて」は「捕りかねて」の東国訛り。「多摩の横山」の多摩は東京都の西方を西北から東南に流れる多摩川流域のことで、広大な地域。多摩川の南岸に列なる山並みを横山と言ったらしい。
「赤駒(馬)を山野に放ってしまって、捕獲しかねてしまった。夫に多摩の山並みを徒歩で旅立たせることになろうか」という歌である。
左注に「右は、豊嶋郡の上丁、椋椅部荒虫(くらはしべのあらむし)の妻、宇遅部黒女(うぢべのくろめ)の歌」とある。豊嶋郡(としまのこほり)は東京都、豊島区、荒川区、文京区、板橋区一帯にあった武蔵国の郡とされる。はっきりした郡域は不詳。上丁は武蔵国の国造(くにのみやつこ)の上級使用人。
(阿加胡麻乎 夜麻努尓波賀志 刀里加尓弖 多麻<能>余許夜麻 加志由加也良牟)
「はがし」は「はなち」の、「捕(と)りかにて」は「捕りかねて」の東国訛り。「多摩の横山」の多摩は東京都の西方を西北から東南に流れる多摩川流域のことで、広大な地域。多摩川の南岸に列なる山並みを横山と言ったらしい。
「赤駒(馬)を山野に放ってしまって、捕獲しかねてしまった。夫に多摩の山並みを徒歩で旅立たせることになろうか」という歌である。
左注に「右は、豊嶋郡の上丁、椋椅部荒虫(くらはしべのあらむし)の妻、宇遅部黒女(うぢべのくろめ)の歌」とある。豊嶋郡(としまのこほり)は東京都、豊島区、荒川区、文京区、板橋区一帯にあった武蔵国の郡とされる。はっきりした郡域は不詳。上丁は武蔵国の国造(くにのみやつこ)の上級使用人。
4418 我が門の片山椿まこと汝れ我が手触れなな土に落ちもかも
(和我可度乃 可多夜麻都婆伎 麻己等奈礼 和我弖布礼奈々 都知尓於知母加毛)
「我が門の片山椿」は少女の比喩。片思いの恋か?。「我が手触れなな」は「おいらは手に降れないできた」という意味。
「おいらの家のそばに咲く椿よ。あんたには手を付けないできた。けれどもこのまま旅立ってしまえば、他の男の手に落ちてしまうかも」という歌である。
左注に「右は、荏原郡の上丁物部廣足(もののべのひろたり)の歌」とある。上丁は國造(くにのみやつこ)の使用人。荏原郡(えばらのこほり)は4415番歌左注参照。
(和我可度乃 可多夜麻都婆伎 麻己等奈礼 和我弖布礼奈々 都知尓於知母加毛)
「我が門の片山椿」は少女の比喩。片思いの恋か?。「我が手触れなな」は「おいらは手に降れないできた」という意味。
「おいらの家のそばに咲く椿よ。あんたには手を付けないできた。けれどもこのまま旅立ってしまえば、他の男の手に落ちてしまうかも」という歌である。
左注に「右は、荏原郡の上丁物部廣足(もののべのひろたり)の歌」とある。上丁は國造(くにのみやつこ)の使用人。荏原郡(えばらのこほり)は4415番歌左注参照。
4419 家ろには葦火焚けども住みよけを筑紫に至りて恋しけ思はも
(伊波呂尓波 安之布多氣騰母 須美与氣乎 都久之尓伊多里弖 古布志氣毛波母)
「家(いは)ろには」(原文「伊波呂尓波」)は「家(いえ)ろには」の東国訛り。ろは親愛の「ろ」。「葦火(あしふ)」(原文「安之布」)は「葦火(あしひ)」の東国訛り。
「家では葦火(あしび)を焚いて暖を取る貧しい家庭だったが、住みよい生活だった。九州の筑紫に行ったら、家が恋しく思われるだろうか」という歌である。
左注に「右は、橘樹郡の上丁物部真根(もののべのまね)の歌」とある。上丁は前歌参照。橘樹郡(たちばなのこほり)は神奈川県東端の川崎市、横浜市一帯にあった郡。
(伊波呂尓波 安之布多氣騰母 須美与氣乎 都久之尓伊多里弖 古布志氣毛波母)
「家(いは)ろには」(原文「伊波呂尓波」)は「家(いえ)ろには」の東国訛り。ろは親愛の「ろ」。「葦火(あしふ)」(原文「安之布」)は「葦火(あしひ)」の東国訛り。
「家では葦火(あしび)を焚いて暖を取る貧しい家庭だったが、住みよい生活だった。九州の筑紫に行ったら、家が恋しく思われるだろうか」という歌である。
左注に「右は、橘樹郡の上丁物部真根(もののべのまね)の歌」とある。上丁は前歌参照。橘樹郡(たちばなのこほり)は神奈川県東端の川崎市、横浜市一帯にあった郡。
4420 草枕旅の丸寝の紐絶えば我が手と付けろこれの針持し
(久佐麻久良 多妣乃麻流祢乃 比毛多要婆 安我弖等都氣呂 許礼乃波流母志)
「草枕」はお馴染みの枕詞。「針持し」は「針持ち」の東国訛り。
「旅のごろ寝で着物の紐が切れたなら、私の手が縫うと思ってこの針をもって付けて下さい」という歌である。
左注に「右は、妻、椋椅部弟女(くらはしべのをとめ)の歌」とある。
(久佐麻久良 多妣乃麻流祢乃 比毛多要婆 安我弖等都氣呂 許礼乃波流母志)
「草枕」はお馴染みの枕詞。「針持し」は「針持ち」の東国訛り。
「旅のごろ寝で着物の紐が切れたなら、私の手が縫うと思ってこの針をもって付けて下さい」という歌である。
左注に「右は、妻、椋椅部弟女(くらはしべのをとめ)の歌」とある。
4421 我が行きの息づくしかば足柄の峰延ほ雲を見とと偲はね
(和我由伎乃 伊伎都久之可婆 安之我良乃 美祢波保久毛乎 美等登志努波祢)
「息づくしかば」は「ため息が出たら」という意味である。「足柄の峰(足柄山)」は神奈川県南西部の山。「峰延(は)ほ」は「峰延ふ」の、「見とと」は「見つつ」の東国訛り。
「私が旅に出た後、嘆息のため息が出たら、足柄山の峰を這う雲を見ながら私を偲んでおくれ」という歌である。
左注に「右は、都筑郡の上丁服部於由(はとりべのおゆ)の歌」とある。上丁は前々歌参照。都筑郡(つつきのこほり)は神奈川県横浜市都筑区、青葉区、緑区、旭区一帯にあった郡。
(和我由伎乃 伊伎都久之可婆 安之我良乃 美祢波保久毛乎 美等登志努波祢)
「息づくしかば」は「ため息が出たら」という意味である。「足柄の峰(足柄山)」は神奈川県南西部の山。「峰延(は)ほ」は「峰延ふ」の、「見とと」は「見つつ」の東国訛り。
「私が旅に出た後、嘆息のため息が出たら、足柄山の峰を這う雲を見ながら私を偲んでおくれ」という歌である。
左注に「右は、都筑郡の上丁服部於由(はとりべのおゆ)の歌」とある。上丁は前々歌参照。都筑郡(つつきのこほり)は神奈川県横浜市都筑区、青葉区、緑区、旭区一帯にあった郡。
4422 我が背なを筑紫へ遣りて愛しみ帯は解かななあやにかも寝も
(和我世奈乎 都久之倍夜里弖 宇都久之美 於妣波等可奈々 阿也尓加母祢毛)
「背な」は「背子」の東国形。「帯は解かなな」は「帯は解かないでいたい」という意味。「かも寝も」は「かも寝む」の東国訛り。
「あの人を筑紫へ送り出した後も愛しい帯は解かずにおこう。これからはひとりもやもやしながら寝ることになるのでしょうか」という歌である。
左注に「右は、妻、服部呰女(はとりべのあさめ)の歌」とある。
(和我世奈乎 都久之倍夜里弖 宇都久之美 於妣波等可奈々 阿也尓加母祢毛)
「背な」は「背子」の東国形。「帯は解かなな」は「帯は解かないでいたい」という意味。「かも寝も」は「かも寝む」の東国訛り。
「あの人を筑紫へ送り出した後も愛しい帯は解かずにおこう。これからはひとりもやもやしながら寝ることになるのでしょうか」という歌である。
左注に「右は、妻、服部呰女(はとりべのあさめ)の歌」とある。
4423 足柄の御坂に立して袖振らば家なる妹はさやに見もかも
(安之我良乃 美佐可尓多志弖 蘇埿布良波 伊波奈流伊毛波 佐夜尓美毛可母)
「足柄の御坂」は神奈川県足柄山の足柄峠。「立して」は「立ちて」の、「家(いは)なる」(原文「伊波奈流」)は「家(いへ)なる」の東国訛り。「見もかも」は「見むかも」の東国訛り。
「足柄山の足柄峠に立って、袖を振ったならば、家の妻ははっきりと見ているであろうか」という歌である。
左注に「右は、埼玉郡の上丁藤原部等母麻呂(ふじはらべのともまろ)の歌」とある。上丁は國造(くにのみやつこ)の使用人。埼玉郡(さきたまのこほり)は埼玉県の東部、越谷市、さいたま市、熊谷市等を含む南北にまたがる広大な一帯にあった郡。
(安之我良乃 美佐可尓多志弖 蘇埿布良波 伊波奈流伊毛波 佐夜尓美毛可母)
「足柄の御坂」は神奈川県足柄山の足柄峠。「立して」は「立ちて」の、「家(いは)なる」(原文「伊波奈流」)は「家(いへ)なる」の東国訛り。「見もかも」は「見むかも」の東国訛り。
「足柄山の足柄峠に立って、袖を振ったならば、家の妻ははっきりと見ているであろうか」という歌である。
左注に「右は、埼玉郡の上丁藤原部等母麻呂(ふじはらべのともまろ)の歌」とある。上丁は國造(くにのみやつこ)の使用人。埼玉郡(さきたまのこほり)は埼玉県の東部、越谷市、さいたま市、熊谷市等を含む南北にまたがる広大な一帯にあった郡。
4424 色深く背なが衣は染めましをみ坂たばらばまさやかに見む
(伊呂夫可久 世奈我許呂母波 曽米麻之乎 美佐可多婆良婆 麻佐夜可尓美無)
「背な」は「背子」の東国形。「み坂たばらば」は「足柄峠を通る許可を賜って」という意味である。4372番長歌に「足柄のみ坂給はり ~」とある。
「色濃くあの人の着物を染めておくんだった。神の許可を賜って足柄峠を通るとき、はっきりと見えることだろうに」という歌である。
左注に「右は、妻、物部刀自賣(ものべのとじめ)の歌」とある。
4413番歌以下十二首の総注として「二月廿九日、武蔵國の防人部領使、掾正六位上安曇宿祢三國(あづみのすくねみくに)がとりまとめ、奉った歌の数廿首、但し拙劣歌は登載せず」とある。防人部領使(さきもりのことりづかひ)は防人を京に引率する役目。二月廿九日は天平勝宝7年(755年)。掾は国司(国の役所)に置かれた四部官。守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)の一つ。3番目の官。三國が奉った相手は大伴家持。
(2017年4月2日記、2019年4月19日)
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(伊呂夫可久 世奈我許呂母波 曽米麻之乎 美佐可多婆良婆 麻佐夜可尓美無)
「背な」は「背子」の東国形。「み坂たばらば」は「足柄峠を通る許可を賜って」という意味である。4372番長歌に「足柄のみ坂給はり ~」とある。
「色濃くあの人の着物を染めておくんだった。神の許可を賜って足柄峠を通るとき、はっきりと見えることだろうに」という歌である。
左注に「右は、妻、物部刀自賣(ものべのとじめ)の歌」とある。
4413番歌以下十二首の総注として「二月廿九日、武蔵國の防人部領使、掾正六位上安曇宿祢三國(あづみのすくねみくに)がとりまとめ、奉った歌の数廿首、但し拙劣歌は登載せず」とある。防人部領使(さきもりのことりづかひ)は防人を京に引率する役目。二月廿九日は天平勝宝7年(755年)。掾は国司(国の役所)に置かれた四部官。守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)の一つ。3番目の官。三國が奉った相手は大伴家持。
(2017年4月2日記、2019年4月19日)