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芭蕉のことをあまり知らなかった私は「漂白の詩人」という漠然とした印象しかなかった。ところが、「芭蕉祭」というWEBに次のような一文を見つけた。
「伊賀市は、俳聖松尾芭蕉のふるさとです。旅に生き、旅に死んだ漂白の詩人、芭蕉翁は元禄7年(1694)10月12日、51歳で亡くなりました。」
ぴったり「漂白の詩人」という表現が使われている。松尾芭蕉は「旅に生き、旅に死んだ」とは、無知だった私の記憶に残っている芭蕉像にぴったり。が、少し知るようになった最近の私の芭蕉像はこれとはやや異なる。
芭蕉は多くの人に慕われ、門下に入る人も多かった。「旅に生き」という私の印象は、多くが独り旅だと思っていたせいである。ところが馬に乗っていったり、「野ざらし紀行」では千里が同行、「鹿島詣」では曽良・宗波が同行、「笈の小文」では越人が同行、「更級紀行」では越人が同行、「奥の細道」では曾良が同行と、遠出の旅はほとんど同行者がいたのである。それだけ芭蕉は人に慕われていたのである。
そして色々な所に滞在したり停泊したりし、多くの場合、挨拶やお礼の句を残している。そうした挨拶吟は決しておざなりな句ではなく、たとえば、大垣藩士高岡三郎亭に招かれて作った次のような一句である。
その誠実な姿勢は決して独立独歩ではなく、多くの門下生を引き付ける力を持っていたのである。ある意味では松尾芭蕉は幸せな人だったに相違ない。
芭蕉のことをあまり知らなかった私は「漂白の詩人」という漠然とした印象しかなかった。ところが、「芭蕉祭」というWEBに次のような一文を見つけた。
「伊賀市は、俳聖松尾芭蕉のふるさとです。旅に生き、旅に死んだ漂白の詩人、芭蕉翁は元禄7年(1694)10月12日、51歳で亡くなりました。」
ぴったり「漂白の詩人」という表現が使われている。松尾芭蕉は「旅に生き、旅に死んだ」とは、無知だった私の記憶に残っている芭蕉像にぴったり。が、少し知るようになった最近の私の芭蕉像はこれとはやや異なる。
芭蕉は多くの人に慕われ、門下に入る人も多かった。「旅に生き」という私の印象は、多くが独り旅だと思っていたせいである。ところが馬に乗っていったり、「野ざらし紀行」では千里が同行、「鹿島詣」では曽良・宗波が同行、「笈の小文」では越人が同行、「更級紀行」では越人が同行、「奥の細道」では曾良が同行と、遠出の旅はほとんど同行者がいたのである。それだけ芭蕉は人に慕われていたのである。
そして色々な所に滞在したり停泊したりし、多くの場合、挨拶やお礼の句を残している。そうした挨拶吟は決しておざなりな句ではなく、たとえば、大垣藩士高岡三郎亭に招かれて作った次のような一句である。
そのままよ月もたのまじ伊吹山 (松尾芭蕉)
「いや、素晴らしい亭ですね。名月がなくとも、伊吹山はそのままで美しいですね」という意味の句だが、「月もたのまじ」と間接表現で高岡亭を誉めている。一生懸命作句している。その誠実な姿勢は決して独立独歩ではなく、多くの門下生を引き付ける力を持っていたのである。ある意味では松尾芭蕉は幸せな人だったに相違ない。
今年また紫陽花咲けりこの路傍 (桐山芳夫)
(2019年6月3日)
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(2019年6月3日)
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