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万葉集読解・・・137(2061~2079番歌)
2061 天の川白波高し我が恋ふる君が舟出は今しすらしも
(天河 白浪高 吾戀 公之舟出者 今為下)
定訓どおりこのまま解そうとすると不思議な歌である。各書とも一様に「白波が高い、あなたの舟が今漕ぎ出されるようだ」としている。が、「だからどうなんだ」と言いたくなる。「白波が高い」ことと「漕ぎ出されるらしい」との間に何の因果関係もない。それどころか波が高いので舟出を控えるというなら分かるが、波が高いので舟出したというのでは歌意が通らない。本歌は二様に解される。 崘鯒塙發掘廚髻崘鯒塙發も」と訓じ、「天の川に白波が高いけれど、我が恋しの君はそれでも今、舟出をなさるようだ」という解と、結句の「今しすらしも」の「今し」を「たった今」と解し、「天の川に高く白波が立っている。我が恋しの君がたった今、舟を漕ぎ出したらしい」という解の二つだ。どちらも可だが、私は後者が歌意に相応しいとみる。舟出したからといって、「岸に立って見ている織姫の目に届くような白波が立つものだろうか」などと理屈っぽく考えてはいけない。天の川といっても、次歌のように、小川に毛の生えた程度の川と見立てて詠んだ歌もあるのである。
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万葉集読解・・・137(2061~2079番歌)
2061 天の川白波高し我が恋ふる君が舟出は今しすらしも
(天河 白浪高 吾戀 公之舟出者 今為下)
定訓どおりこのまま解そうとすると不思議な歌である。各書とも一様に「白波が高い、あなたの舟が今漕ぎ出されるようだ」としている。が、「だからどうなんだ」と言いたくなる。「白波が高い」ことと「漕ぎ出されるらしい」との間に何の因果関係もない。それどころか波が高いので舟出を控えるというなら分かるが、波が高いので舟出したというのでは歌意が通らない。本歌は二様に解される。 崘鯒塙發掘廚髻崘鯒塙發も」と訓じ、「天の川に白波が高いけれど、我が恋しの君はそれでも今、舟出をなさるようだ」という解と、結句の「今しすらしも」の「今し」を「たった今」と解し、「天の川に高く白波が立っている。我が恋しの君がたった今、舟を漕ぎ出したらしい」という解の二つだ。どちらも可だが、私は後者が歌意に相応しいとみる。舟出したからといって、「岸に立って見ている織姫の目に届くような白波が立つものだろうか」などと理屈っぽく考えてはいけない。天の川といっても、次歌のように、小川に毛の生えた程度の川と見立てて詠んだ歌もあるのである。
2062 機物の蹋木持ち行きて天の川打橋渡す君が来むため
(機 蹋木持徃而 天<漢> 打橋度 公之来為)
「機物(はたもの)の蹋木(ふみき)」は、機織り機の足で踏む板のこと。「打橋(うちばし)」は、2056番歌に出てきたばかりだが、杭を打って長い板を渡した仮橋。「機織り機の踏み板を持って行って、あの人が渡ってこられるように、天の川に打橋を渡そうかしら」という歌である。
(機 蹋木持徃而 天<漢> 打橋度 公之来為)
「機物(はたもの)の蹋木(ふみき)」は、機織り機の足で踏む板のこと。「打橋(うちばし)」は、2056番歌に出てきたばかりだが、杭を打って長い板を渡した仮橋。「機織り機の踏み板を持って行って、あの人が渡ってこられるように、天の川に打橋を渡そうかしら」という歌である。
2063 天の川霧立ち上る織女の雲の衣のかへる袖かも
(天漢 霧立上 棚幡乃 雲衣能 飄袖鴨)
霧を織姫の雲の着物の袖に見立てた歌。「天の川に霧がかかっている。あれは織姫が羽織っている雲の着物の袖がひるがえっているからだろうか」という歌である。
(天漢 霧立上 棚幡乃 雲衣能 飄袖鴨)
霧を織姫の雲の着物の袖に見立てた歌。「天の川に霧がかかっている。あれは織姫が羽織っている雲の着物の袖がひるがえっているからだろうか」という歌である。
2064 いにしへゆ織りてし服をこの夕衣に縫ひて君待つ我れを
(古 織義之八多乎 此暮 衣縫而 君待吾乎)
「いにしへゆ」は「昔から」というより「ずっと前から」の意。結句の「君待つ我れを」は「あなたを待っているこの私なのです」という意味である。「今宵のためにずっと前から織ってきた布で着物に仕立て、あなたを待っているこの私なのです」という歌である。
(古 織義之八多乎 此暮 衣縫而 君待吾乎)
「いにしへゆ」は「昔から」というより「ずっと前から」の意。結句の「君待つ我れを」は「あなたを待っているこの私なのです」という意味である。「今宵のためにずっと前から織ってきた布で着物に仕立て、あなたを待っているこの私なのです」という歌である。
2065 足玉も手玉もゆらに織る服を君が御衣に縫ひもあへむかも
(足玉母 手珠毛由良尓 織旗乎 公之御衣尓 縫将堪可聞)
足玉と手玉をつけて織っている様子を見たことがなく、具体的にはどんな玉なのか分からない。足首や手首につける鞠状の飾り玉のことだろうか。とすると、「ゆらに」は擬声音ではなく、「ゆらゆら激しく揺れる様」をあらわす形容表現。「足玉や手玉を激しく揺り動かしながら一心に織った布ですが、あの方に似合いの着物に仕立てられるかしら」という歌である。
(足玉母 手珠毛由良尓 織旗乎 公之御衣尓 縫将堪可聞)
足玉と手玉をつけて織っている様子を見たことがなく、具体的にはどんな玉なのか分からない。足首や手首につける鞠状の飾り玉のことだろうか。とすると、「ゆらに」は擬声音ではなく、「ゆらゆら激しく揺れる様」をあらわす形容表現。「足玉や手玉を激しく揺り動かしながら一心に織った布ですが、あの方に似合いの着物に仕立てられるかしら」という歌である。
2066 月日おき逢ひてしあれば別れまく惜しかる君は明日さへもがも
(擇月日 逢義之有者 別乃 惜有君者 明日副裳欲得)
「月日おき」→「月日えり」、「別れまく」→「別れむの」、「惜しかる君は」→「惜しくある君は」など、細部で何かと訓の相違のある歌だが、歌意に大きな差異を来すとは思えない。「月日おき逢ひてしあれば」はいうまでもなく、「一年ぶりにお逢いしたのですもの」という意味である。「別れまく」(原文「別乃」)は「お別れが」、「明日さへもがも」は「明日もまた」である。「一年ぶりにお逢いしたのですもの、お別れするのが惜しゅうございます。明日の宵もまたお逢いできればいいのに」という歌である。
(擇月日 逢義之有者 別乃 惜有君者 明日副裳欲得)
「月日おき」→「月日えり」、「別れまく」→「別れむの」、「惜しかる君は」→「惜しくある君は」など、細部で何かと訓の相違のある歌だが、歌意に大きな差異を来すとは思えない。「月日おき逢ひてしあれば」はいうまでもなく、「一年ぶりにお逢いしたのですもの」という意味である。「別れまく」(原文「別乃」)は「お別れが」、「明日さへもがも」は「明日もまた」である。「一年ぶりにお逢いしたのですもの、お別れするのが惜しゅうございます。明日の宵もまたお逢いできればいいのに」という歌である。
2067 天の川渡り瀬深み舟浮けて漕ぎ来る君が楫の音聞こゆ
(天漢 渡瀬深弥 泛船而 掉来君之 楫音所聞)
「渡り瀬深み」の「み」は「~ので」の「み」。他は読解不要だろう。「天の川の渡場が深いので舟を浮かべ、漕いでくるあの方の楫の音が聞こえる」という歌である。
(天漢 渡瀬深弥 泛船而 掉来君之 楫音所聞)
「渡り瀬深み」の「み」は「~ので」の「み」。他は読解不要だろう。「天の川の渡場が深いので舟を浮かべ、漕いでくるあの方の楫の音が聞こえる」という歌である。
2068 天の原ふりさけ見れば天の川霧立ちわたる君は来ぬらし
(天原 振放見者 天漢 霧立渡 公者来良志)
本歌は、百人一首の古今集歌、安倍仲麿の「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」を想起してしまう歌である。が、「天の原ふりさけ見れば」は他の古今集歌にはないが、万葉集には長短歌あわせて9例もある。一種の決まり文句だったようだ。
「空を仰いでみると天の川に霧が立ちこめている、あの方がやって来るらしい」という歌である。
(天原 振放見者 天漢 霧立渡 公者来良志)
本歌は、百人一首の古今集歌、安倍仲麿の「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」を想起してしまう歌である。が、「天の原ふりさけ見れば」は他の古今集歌にはないが、万葉集には長短歌あわせて9例もある。一種の決まり文句だったようだ。
「空を仰いでみると天の川に霧が立ちこめている、あの方がやって来るらしい」という歌である。
2069 天の川瀬ごとに幣をたてまつる心は君を幸く来ませと
(天漢 瀬毎幣 奉 情者君乎 幸来座跡)
幣(ぬさ)は神に対する捧げ物、お供え。「天の川の瀬毎に神にお供えするのは、あなた様が無事にいらっしゃいという気持からです」という歌である。
(天漢 瀬毎幣 奉 情者君乎 幸来座跡)
幣(ぬさ)は神に対する捧げ物、お供え。「天の川の瀬毎に神にお供えするのは、あなた様が無事にいらっしゃいという気持からです」という歌である。
2070 ひさかたの天の川津に舟浮けて君待つ夜らは明けずもあらぬか
(久<堅>之 天河津尓 舟泛而 君待夜等者 不明毛有寐鹿)
「ひさかたの」はお馴染みの枕詞。川津(かはづ)は舟付き場。「君待つ夜らは」はの「ら」は現代でも「~などは」と使われる一種の強調語。「天の川の舟付き場に舟を浮かべてあの方を待つ今宵くらいは明けずにいてほしい」という歌である。
(久<堅>之 天河津尓 舟泛而 君待夜等者 不明毛有寐鹿)
「ひさかたの」はお馴染みの枕詞。川津(かはづ)は舟付き場。「君待つ夜らは」はの「ら」は現代でも「~などは」と使われる一種の強調語。「天の川の舟付き場に舟を浮かべてあの方を待つ今宵くらいは明けずにいてほしい」という歌である。
2071 天の川なづさひ渡る君が手もいまだまかねば夜の更けぬらく
(天河 足沾渡 君之手毛 未枕者 夜之深去良久)
「なづさひ」は1016番歌や1750番歌に出てきたように「難渋して」という意味である。「まかねば」は手枕の慣用句。「天の川を難渋しながらやってくるあなたの手を手枕もしていないのに(共寝もしていないのに)夜が更けて行く」という歌である。
(天河 足沾渡 君之手毛 未枕者 夜之深去良久)
「なづさひ」は1016番歌や1750番歌に出てきたように「難渋して」という意味である。「まかねば」は手枕の慣用句。「天の川を難渋しながらやってくるあなたの手を手枕もしていないのに(共寝もしていないのに)夜が更けて行く」という歌である。
2072 渡し守舟渡せをと呼ぶ声の至らねばかも楫の音のせぬ
(渡守 船度世乎跡 呼音之 不至者疑 梶聲之不為)
「渡し守」は船頭。他は読解不要であろう。牽牛の歌。「おーい船頭さんよ、早く舟を出してくれと呼びかけたが、声が聞こえないのか、やってくる楫の音がしない」という歌である。
(渡守 船度世乎跡 呼音之 不至者疑 梶聲之不為)
「渡し守」は船頭。他は読解不要であろう。牽牛の歌。「おーい船頭さんよ、早く舟を出してくれと呼びかけたが、声が聞こえないのか、やってくる楫の音がしない」という歌である。
2073 ま日長く川に向き立ちありし袖今夜巻かむと思はくがよさ
(真氣長 河向立 有之袖 今夜巻跡 念之吉沙)
「ま日(け)長く」は「幾日も幾日も」。「ま」は接頭語。日(け)は「日にち」。「幾日も幾日も川に向き合って見てきた妻の着物の袖、いよいよ今宵袖枕に(共寝)出来ると思うとわくわくする」という歌である。
(真氣長 河向立 有之袖 今夜巻跡 念之吉沙)
「ま日(け)長く」は「幾日も幾日も」。「ま」は接頭語。日(け)は「日にち」。「幾日も幾日も川に向き合って見てきた妻の着物の袖、いよいよ今宵袖枕に(共寝)出来ると思うとわくわくする」という歌である。
2074 天の川渡り瀬ごとに思ひつつ来しくもしるし逢へらく思へば
(天河 渡湍毎 思乍 来之雲知師 逢有久念者)
第三句の「思ひつつ」だが、何を、誰を「思いつつ」か判然としない。キーは結句の「逢へらく思へば」。これを「中西本」のように「逢っているときを空想すると」とすると、第4句の「来しくもしるし」(やってきた甲斐があった)がぼやけてしまう。逢ってもいないのに「やってきた甲斐があった」では妙だからである。そこで結句は「今こうして逢っていることを思うと」という意味に相違ない。牽牛が逢った相手は織姫をおいてほかにない。なので第三句の「思ひつつ」は織姫のこととはっきりする。「天の川の渡り瀬を越えるたびに織姫に逢える時を楽しみに遠い舟路をやってきた。今こうして逢っていることを思うと、遠路苦労してやって来た甲斐があった」という歌である。
(天河 渡湍毎 思乍 来之雲知師 逢有久念者)
第三句の「思ひつつ」だが、何を、誰を「思いつつ」か判然としない。キーは結句の「逢へらく思へば」。これを「中西本」のように「逢っているときを空想すると」とすると、第4句の「来しくもしるし」(やってきた甲斐があった)がぼやけてしまう。逢ってもいないのに「やってきた甲斐があった」では妙だからである。そこで結句は「今こうして逢っていることを思うと」という意味に相違ない。牽牛が逢った相手は織姫をおいてほかにない。なので第三句の「思ひつつ」は織姫のこととはっきりする。「天の川の渡り瀬を越えるたびに織姫に逢える時を楽しみに遠い舟路をやってきた。今こうして逢っていることを思うと、遠路苦労してやって来た甲斐があった」という歌である。
2075 人さへや見継がずあらむ彦星の妻呼ぶ舟の近づき行くを [一云 見つつあるらむ]
(人左倍也 見不継将有 牽牛之 嬬喚舟之 近附徃乎 [一云 見乍有良武])
「人さへや」は「相手星の織女星ばかりか、この私たち人間も」という意味である。「見継(つ)がずあらむ」は反語表現で「見守り続けずにいられようか」である。この部分異伝では「見つつあるらむ」(見守っていることだろう)となっている。「相手星の織女星ばかりか、この私たち人間も見守り続けずにいられようか、彦星の乗った舟が妻を求めて近づいて行くのを」という歌である。
(人左倍也 見不継将有 牽牛之 嬬喚舟之 近附徃乎 [一云 見乍有良武])
「人さへや」は「相手星の織女星ばかりか、この私たち人間も」という意味である。「見継(つ)がずあらむ」は反語表現で「見守り続けずにいられようか」である。この部分異伝では「見つつあるらむ」(見守っていることだろう)となっている。「相手星の織女星ばかりか、この私たち人間も見守り続けずにいられようか、彦星の乗った舟が妻を求めて近づいて行くのを」という歌である。
2076 天の川瀬を早みかもぬばたまの夜は更けにつつ逢はぬ彦星
(天漢 瀬乎早鴨 烏珠之 夜者闌尓乍 不合牽牛)
「ぬばたまの」は枕詞。「早みかも」の所に「なかなか渡れないからか」を補って読むと明瞭。「天の川の瀬の流れが早くて、なかなか渡りきれないためか、夜は更けてゆくというのにまだ織姫に逢えないでいる彦星」という歌である。
(天漢 瀬乎早鴨 烏珠之 夜者闌尓乍 不合牽牛)
「ぬばたまの」は枕詞。「早みかも」の所に「なかなか渡れないからか」を補って読むと明瞭。「天の川の瀬の流れが早くて、なかなか渡りきれないためか、夜は更けてゆくというのにまだ織姫に逢えないでいる彦星」という歌である。
2077 渡し守舟早渡せ一年にふたたび通ふ君にあらなくに
(渡守 舟早渡世 一年尓 二遍徃来 君尓有勿久尓)
2072番歌同様、「渡し守」は船頭。「おーい船頭さん。早く舟をこちら岸に渡してちょうだい。一年に二度と逢えないお方なんですから」という歌である。
(渡守 舟早渡世 一年尓 二遍徃来 君尓有勿久尓)
2072番歌同様、「渡し守」は船頭。「おーい船頭さん。早く舟をこちら岸に渡してちょうだい。一年に二度と逢えないお方なんですから」という歌である。
2078 玉葛絶えぬものからさ寝らくは年の渡りにただ一夜のみ
(玉葛 不絶物可良 佐宿者 年之度尓 直一夜耳)
「玉葛(たまかづら)」の玉は美称。また、葛は「くづ」が一般的。根が格段に生命力旺盛で絶えることがない。「さ寝らくは」はの「さ」は「さ夜」、「さ霧」等の用例でお分かりのように強意等の接頭語。「葛の根のように私たちは絶えることなく結びついているけれど、逢えるのは一年に一度だけ」という歌である。
(玉葛 不絶物可良 佐宿者 年之度尓 直一夜耳)
「玉葛(たまかづら)」の玉は美称。また、葛は「くづ」が一般的。根が格段に生命力旺盛で絶えることがない。「さ寝らくは」はの「さ」は「さ夜」、「さ霧」等の用例でお分かりのように強意等の接頭語。「葛の根のように私たちは絶えることなく結びついているけれど、逢えるのは一年に一度だけ」という歌である。
2079 恋ふる日は日長きものを今夜だに乏しむべしや逢ふべきものを
(戀日者 <食>長物乎 今夜谷 令乏應哉 可相物乎)
本歌は2017番歌「恋ひしくは日長きものを今だにも乏しむべしや逢ふべき夜だに」とうり二つの相似歌。その際私は、「乏しむべしや逢ふべき夜だに」の部分を「岩波大系本」が「もの足りなく思わせるべきでしょうか。お逢い出来る夜だけでも」としているのは奇異と記した。そして次のように記した。
「「乏(とも)しむべしや」は「もの足りなく思わせる」ではなく、反語表現で、全く逆の意味「もの足りなく思うべきでしょうか」なのである。」
本歌も全く同様で、「幾日も幾日も恋い焦がれてきたのだもの。今宵一日だけでも大切に思わなければ、せっかく逢える夜ですもの」という歌である。
(2015年1月31日記)
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(戀日者 <食>長物乎 今夜谷 令乏應哉 可相物乎)
本歌は2017番歌「恋ひしくは日長きものを今だにも乏しむべしや逢ふべき夜だに」とうり二つの相似歌。その際私は、「乏しむべしや逢ふべき夜だに」の部分を「岩波大系本」が「もの足りなく思わせるべきでしょうか。お逢い出来る夜だけでも」としているのは奇異と記した。そして次のように記した。
「「乏(とも)しむべしや」は「もの足りなく思わせる」ではなく、反語表現で、全く逆の意味「もの足りなく思うべきでしょうか」なのである。」
本歌も全く同様で、「幾日も幾日も恋い焦がれてきたのだもの。今宵一日だけでも大切に思わなければ、せっかく逢える夜ですもの」という歌である。
(2015年1月31日記)