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そ の 173 へ
万葉集読解・・・172(2750~2771番歌)
2750 我妹子に逢はず久しもうましもの安倍橘の苔生すまでに
(吾妹子 不相久 馬下乃 阿倍橘乃 蘿生左右)
「うましもの」は「上等な」という意味。安倍橘(たちばな)は柚(ゆず)に似た橙(だいだい)の実。「彼女に逢わなくなってから随分久しくなった。あの立派な安倍橘も古くなって苔が生えてきたなあ」という歌である。
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万葉集読解・・・172(2750~2771番歌)
2750 我妹子に逢はず久しもうましもの安倍橘の苔生すまでに
(吾妹子 不相久 馬下乃 阿倍橘乃 蘿生左右)
「うましもの」は「上等な」という意味。安倍橘(たちばな)は柚(ゆず)に似た橙(だいだい)の実。「彼女に逢わなくなってから随分久しくなった。あの立派な安倍橘も古くなって苔が生えてきたなあ」という歌である。
2751 あぢの住む渚沙の入江の荒磯松我を待つ子らはただ独りのみ
(味乃住 渚沙乃入江之 荒礒松 我乎待兒等波 但一耳)
あぢはアジガモのことという。「渚沙(すさ)の入江」は和歌山県有田市に鎮座する須佐神社のあたりとも、愛知県南知多町の須佐湾ともいう。「~荒磯松」までは次句の「我を待つ子らは」の待つを導く序歌。「子ら」の「ら」は親しみをこめた言い方。「アジガモの棲む渚沙の入江にある荒磯に立っている松。その松ではないが、私を待っていてくれる子はただ一人」という歌である。
(味乃住 渚沙乃入江之 荒礒松 我乎待兒等波 但一耳)
あぢはアジガモのことという。「渚沙(すさ)の入江」は和歌山県有田市に鎮座する須佐神社のあたりとも、愛知県南知多町の須佐湾ともいう。「~荒磯松」までは次句の「我を待つ子らは」の待つを導く序歌。「子ら」の「ら」は親しみをこめた言い方。「アジガモの棲む渚沙の入江にある荒磯に立っている松。その松ではないが、私を待っていてくれる子はただ一人」という歌である。
2752 我妹子を聞き都賀野辺のしなひ合歓木我れは忍びず間なくし思へば
(吾妹兒乎 聞都賀野邊能 靡合歡木 吾者隠不得 間無念者)
「我妹子を聞き」は「彼女のことを噂に聞き」という意味である。都賀野(つがの)はどこか不詳。「しなひ合歓木(ねぶ)」は「しなやかな合歓木(ねむのき)」のこと。「彼女の噂を聞くにつけ、都賀野辺にしなう合歓木からしなやかな彼女を思い出し、私は忍び難く、ひっきりなしに思い出す」という歌である。
(吾妹兒乎 聞都賀野邊能 靡合歡木 吾者隠不得 間無念者)
「我妹子を聞き」は「彼女のことを噂に聞き」という意味である。都賀野(つがの)はどこか不詳。「しなひ合歓木(ねぶ)」は「しなやかな合歓木(ねむのき)」のこと。「彼女の噂を聞くにつけ、都賀野辺にしなう合歓木からしなやかな彼女を思い出し、私は忍び難く、ひっきりなしに思い出す」という歌である。
2753 波の間ゆ見ゆる小島の浜久木久しくなりぬ君に逢はずして
(浪間従 所見小嶋 濱久木 久成奴 君尓不相四手)
「波の間ゆ」は「波の間から」という意味。浜久木はアカメガシワ、キササゲ、雑木類等々の説があって不確定。「~浜久木」までは次句の「久しく」を導く序歌。「波間より見える小島の浜久木、その名のように随分久しくなりましたわ、あなたにお逢いしないまま」という歌である。
(浪間従 所見小嶋 濱久木 久成奴 君尓不相四手)
「波の間ゆ」は「波の間から」という意味。浜久木はアカメガシワ、キササゲ、雑木類等々の説があって不確定。「~浜久木」までは次句の「久しく」を導く序歌。「波間より見える小島の浜久木、その名のように随分久しくなりましたわ、あなたにお逢いしないまま」という歌である。
2754 朝柏潤八川辺の小竹の芽の偲ひて寝れば夢に見えけり
(朝柏 閏八河邊之 小竹之眼笶 思而宿者 夢所見来)
「朝柏」は朝の柏の木で、潤んだ柏から「潤八川(うるはかは)」にかかる。潤八川は不詳。「小竹(しの)の芽の」は「篠の芽の」で、次句の「偲(しの)ひて」にかかる。「朝の柏の木が潤んでいる潤八川の川辺に生える篠の芽ではないが、あの方を偲んで寝たら夢に出てきました」という歌である。
(朝柏 閏八河邊之 小竹之眼笶 思而宿者 夢所見来)
「朝柏」は朝の柏の木で、潤んだ柏から「潤八川(うるはかは)」にかかる。潤八川は不詳。「小竹(しの)の芽の」は「篠の芽の」で、次句の「偲(しの)ひて」にかかる。「朝の柏の木が潤んでいる潤八川の川辺に生える篠の芽ではないが、あの方を偲んで寝たら夢に出てきました」という歌である。
2755 浅茅原刈り標さして空言も寄そりし君が言をし待たむ
(淺茅原 苅標刺而 空事文 所縁之君之 辞鴛鴦将待)
浅茅(あさぢ)は丈の低い茅(かや)。「刈り標(しめ)さして」は「俺の彼女だと草刈りの標を立てた」という意味である。「空言(むなこと)も寄そりし」は「噂を立てられて」。「浅茅原に草刈りの標を立てたぞと根も葉もない噂を立てられたあなた様ですが、直接の言葉をいただきたいものですわ」という歌である。
(淺茅原 苅標刺而 空事文 所縁之君之 辞鴛鴦将待)
浅茅(あさぢ)は丈の低い茅(かや)。「刈り標(しめ)さして」は「俺の彼女だと草刈りの標を立てた」という意味である。「空言(むなこと)も寄そりし」は「噂を立てられて」。「浅茅原に草刈りの標を立てたぞと根も葉もない噂を立てられたあなた様ですが、直接の言葉をいただきたいものですわ」という歌である。
2756 月草の借れる命にある人をいかに知りてか後も逢はむと言ふ
(月草之 借有命 在人乎 何知而鹿 後毛将相<云>)
月草は露草のことで、はかない命にたとえる。「借れる命」は「仮の命」のこと。「露草のようにはかない身であるこの私をどう思っておいででしょう。後も逢おうとおっしゃるけれど」という歌である。
(月草之 借有命 在人乎 何知而鹿 後毛将相<云>)
月草は露草のことで、はかない命にたとえる。「借れる命」は「仮の命」のこと。「露草のようにはかない身であるこの私をどう思っておいででしょう。後も逢おうとおっしゃるけれど」という歌である。
2757 大君の御笠に縫へる有間菅ありつつ見れど事なき我妹
(王之 御笠尓縫有 在間菅 有管雖看 事無吾妹)
「~有間菅(ありますげ)」までは「ありつつ」を導く序歌。有間菅は兵庫県有馬地方に産する菅。「事なき我妹」は「欠点のない彼女」。「大君の御笠を縫うのに使われる有馬産の菅。その名のようにずっと続けて見ているが、本当に申し分のない彼女だよな」という歌である。
(王之 御笠尓縫有 在間菅 有管雖看 事無吾妹)
「~有間菅(ありますげ)」までは「ありつつ」を導く序歌。有間菅は兵庫県有馬地方に産する菅。「事なき我妹」は「欠点のない彼女」。「大君の御笠を縫うのに使われる有馬産の菅。その名のようにずっと続けて見ているが、本当に申し分のない彼女だよな」という歌である。
2758 菅の根のねもころ妹に恋ふるにしますらを心思ほえぬかも
(菅根之 懃妹尓 戀西 益卜男心 不所念鳧)
菅の根はしっかりからまる。「恋ふるにし」の「し」は強意。「ますらを心思ほえぬかも」は「男子たる心構えも忘れてしまいそう」という意味である。「菅の根のようにしっかりからまって彼女に恋してしまった、ああ、男子たる心構えも忘れてしまいそう」という歌である。
(菅根之 懃妹尓 戀西 益卜男心 不所念鳧)
菅の根はしっかりからまる。「恋ふるにし」の「し」は強意。「ますらを心思ほえぬかも」は「男子たる心構えも忘れてしまいそう」という意味である。「菅の根のようにしっかりからまって彼女に恋してしまった、ああ、男子たる心構えも忘れてしまいそう」という歌である。
2759 我が宿の穂蓼古幹摘み生し実になるまでに君をし待たむ
(吾屋戸之 穂蓼古幹 採生之 實成左右二 君乎志将待)
「我が宿の」は「我が家の庭の」という意味。「穂蓼(ほたで)古幹(ふるから)」は「穂になった蓼の古い茎」のこと。「蓼食う虫も好きずき」の蓼だが辛いので虫がつかない。「我が家の庭の穂になった蓼の古い茎を摘んで大きく生やし、それが来年実になるまで私はあの人を待っています」という歌である。
(吾屋戸之 穂蓼古幹 採生之 實成左右二 君乎志将待)
「我が宿の」は「我が家の庭の」という意味。「穂蓼(ほたで)古幹(ふるから)」は「穂になった蓼の古い茎」のこと。「蓼食う虫も好きずき」の蓼だが辛いので虫がつかない。「我が家の庭の穂になった蓼の古い茎を摘んで大きく生やし、それが来年実になるまで私はあの人を待っています」という歌である。
2760 あしひきの山沢ゑぐを摘みに行かむ日だにも逢はせ母は責むとも
(足桧之 山澤徊具乎 採将去 日谷毛相為 母者責十方)
「あしひきの」はお馴染みの枕詞。ゑぐは黒クワイ。「摘みに行かむ日だにも」は「摘みに行くその日だけでも」という意味。「山沢に黒クワイを摘みに行くその日だけでも逢って下さい。母は責めるでしょうけれど」という歌である。
(足桧之 山澤徊具乎 採将去 日谷毛相為 母者責十方)
「あしひきの」はお馴染みの枕詞。ゑぐは黒クワイ。「摘みに行かむ日だにも」は「摘みに行くその日だけでも」という意味。「山沢に黒クワイを摘みに行くその日だけでも逢って下さい。母は責めるでしょうけれど」という歌である。
2761 奥山の岩本菅の根深くも思ほゆるかも我が思ひ妻は
(奥山之 石本菅乃 根深毛 所思鴨 吾念妻者)
「岩本菅の」は「岩の根本に生える山菅は」ということ。「奥山の岩の根本に生える山菅はしっかり根深く根を絡ませているが、そのようにも絡みついている我が思う妻は」という歌である。
(奥山之 石本菅乃 根深毛 所思鴨 吾念妻者)
「岩本菅の」は「岩の根本に生える山菅は」ということ。「奥山の岩の根本に生える山菅はしっかり根深く根を絡ませているが、そのようにも絡みついている我が思う妻は」という歌である。
2762 葦垣の中の似兒草にこやかに我れと笑まして人に知らゆな
(蘆垣之 中之似兒草 尓故余漢 我共咲為而 人尓所知名)
葦垣(あしがき)は葦で作った垣根。似兒草(にこぐさ)はどんな草か不明だが、次句の「にこやかに」を導く序歌。「人に知らゆな」は「人に知られないように」ということ。「葦垣の中の似兒草のように、私と笑みを交わしても人には知られないようにして下さいね」という歌である。
(蘆垣之 中之似兒草 尓故余漢 我共咲為而 人尓所知名)
葦垣(あしがき)は葦で作った垣根。似兒草(にこぐさ)はどんな草か不明だが、次句の「にこやかに」を導く序歌。「人に知らゆな」は「人に知られないように」ということ。「葦垣の中の似兒草のように、私と笑みを交わしても人には知られないようにして下さいね」という歌である。
2763 紅の浅葉の野らに刈る草の束の間も我を忘らすな
(紅之 淺葉乃野良尓 苅草乃 束之間毛 吾忘渚菜)
「紅の」は「岩波大系本」や「伊藤本」のように枕詞説もあるが、全23例中大部分は1314番歌や2828番歌等に見られるように紅色をさしている。枕詞(?)である。ここも「紅色の」と解して差し支えない。浅葉はどんな草か分からないが、紅色をした草だったに相違ない。「~束の間」までは「束の間も」を導く序歌。「紅色の浅葉が茂る野で刈る草の、その束の間も私を忘れないで下さいね」という歌である。
(紅之 淺葉乃野良尓 苅草乃 束之間毛 吾忘渚菜)
「紅の」は「岩波大系本」や「伊藤本」のように枕詞説もあるが、全23例中大部分は1314番歌や2828番歌等に見られるように紅色をさしている。枕詞(?)である。ここも「紅色の」と解して差し支えない。浅葉はどんな草か分からないが、紅色をした草だったに相違ない。「~束の間」までは「束の間も」を導く序歌。「紅色の浅葉が茂る野で刈る草の、その束の間も私を忘れないで下さいね」という歌である。
2764 妹がため命残せり刈り薦の思ひ乱れて死ぬべきものを
(為妹 壽遺在 苅薦之 思乱而 應死物乎)
「刈り薦(こも)の」は「刈り取った薦のように」、枕詞説もある。「彼女のために命を保っている。刈り取った薦のように思いは乱れ、死ぬべきところを」という歌である。
(為妹 壽遺在 苅薦之 思乱而 應死物乎)
「刈り薦(こも)の」は「刈り取った薦のように」、枕詞説もある。「彼女のために命を保っている。刈り取った薦のように思いは乱れ、死ぬべきところを」という歌である。
2765 我妹子に恋つつあらずは刈り薦の思ひ乱れて死ぬべきものを
(吾妹子尓 戀乍不有者 苅薦之 思乱而 可死鬼乎)
「刈り薦の」は前歌参照。「彼女に恋い焦がれて苦しむくらいなら刈り取った薦のように思い乱れたまま死んだ方がいい」という歌である。
(吾妹子尓 戀乍不有者 苅薦之 思乱而 可死鬼乎)
「刈り薦の」は前歌参照。「彼女に恋い焦がれて苦しむくらいなら刈り取った薦のように思い乱れたまま死んだ方がいい」という歌である。
2766 三島江の入江の薦を刈りにこそ我れをば君は思ひたりけれ
(三嶋江之 入江之薦乎 苅尓社 吾乎婆公者 念有来)
三島江は大阪湾に注ぐ淀川下流。「~刈りにこそ」は「かりそめ」を導く序歌。「三島江の入江に生える薦を刈りとるといいますが、あなたはかりそめに私を思っていたのですね」という歌である。
(三嶋江之 入江之薦乎 苅尓社 吾乎婆公者 念有来)
三島江は大阪湾に注ぐ淀川下流。「~刈りにこそ」は「かりそめ」を導く序歌。「三島江の入江に生える薦を刈りとるといいますが、あなたはかりそめに私を思っていたのですね」という歌である。
2767 あしひきの山橘の色に出でて我は恋なむを人目難みすな
(足引乃 山橘之 色出而 吾戀南雄 人目難為名)
「あしひきの」はお馴染みの枕詞。山橘(やまたちばな)は藪柑子(やぶこうじ)のことという。冬に赤く熟すという。結句の「人目難みすな」は古来難解とされる。人目を「八目」と見て「止目」とする説もあるが、止目を八目と書く例はなく、無理。止目は止目で2979番歌及び3004番歌に「吾戀止目(我が恋やまめ)」とある。なので「人目」は「人目」と見るしかない。「人目難みすな」は「人目気にするな」と見る。どう訓じていいのかわからないが・・・。「藪柑子の実が赤くなるように私はあなたを恋しているのに、人目など気にしないでおくれ」という歌である。
(足引乃 山橘之 色出而 吾戀南雄 人目難為名)
「あしひきの」はお馴染みの枕詞。山橘(やまたちばな)は藪柑子(やぶこうじ)のことという。冬に赤く熟すという。結句の「人目難みすな」は古来難解とされる。人目を「八目」と見て「止目」とする説もあるが、止目を八目と書く例はなく、無理。止目は止目で2979番歌及び3004番歌に「吾戀止目(我が恋やまめ)」とある。なので「人目」は「人目」と見るしかない。「人目難みすな」は「人目気にするな」と見る。どう訓じていいのかわからないが・・・。「藪柑子の実が赤くなるように私はあなたを恋しているのに、人目など気にしないでおくれ」という歌である。
2768 葦鶴の騒く入江の白菅の知らせむためと言痛かるかも
(葦多頭乃 颯入江乃 白菅乃 知為等 乞痛鴨)
「~白菅(しらすげ)の」までは次句の「知らせむ」を導く序歌。「言痛(こちた)かるかも」は「噂が激しい」という意味。「葦辺で騒ぐ鶴のいる入り江の白菅は、鶴の鳴き声(噂)を知らせんとばかりやかましい」という歌である。
(葦多頭乃 颯入江乃 白菅乃 知為等 乞痛鴨)
「~白菅(しらすげ)の」までは次句の「知らせむ」を導く序歌。「言痛(こちた)かるかも」は「噂が激しい」という意味。「葦辺で騒ぐ鶴のいる入り江の白菅は、鶴の鳴き声(噂)を知らせんとばかりやかましい」という歌である。
2769 我が背子に我が恋ふらくは夏草の刈り除くれども生ひしくごとし
(吾背子尓 吾戀良久者 夏草之 苅除十方 生及如)
読解を要しない平明歌。「あの方に恋い焦がれる私の気持は、刈り取っても刈り取っても生えてくる夏草のごとしです」という歌である。
(吾背子尓 吾戀良久者 夏草之 苅除十方 生及如)
読解を要しない平明歌。「あの方に恋い焦がれる私の気持は、刈り取っても刈り取っても生えてくる夏草のごとしです」という歌である。
2770 道の辺のいつ柴原のいつもいつも人の許さむ言をし待たむ
(道邊乃 五柴原能 何時毛々々々 人之将縦 言乎思将待)
「いつ柴原の」は「いっぱいの柴原」のことか?。「道の辺にいっぱい茂る柴原のようにいつもあの方が「許そう」と言って下さるのを待っています」という歌である。
(道邊乃 五柴原能 何時毛々々々 人之将縦 言乎思将待)
「いつ柴原の」は「いっぱいの柴原」のことか?。「道の辺にいっぱい茂る柴原のようにいつもあの方が「許そう」と言って下さるのを待っています」という歌である。
2771 我妹子が袖を頼みて真野の浦の小菅の笠を着ずて来にけり
(吾妹子之 袖乎憑而 真野浦之 小菅乃笠乎 不著而来二来有)
「袖を頼みて」は何のことかはっきりしない。「袖を笠代わりに」の意か?。「真野の浦」は神戸市長田区東尻池町付近のことという。「彼女の袖を笠代わりにしてもらおうと思って真野の浦の小菅で作った笠をささずに来てしまった」という歌である。
(2015年7月11日記)
(吾妹子之 袖乎憑而 真野浦之 小菅乃笠乎 不著而来二来有)
「袖を頼みて」は何のことかはっきりしない。「袖を笠代わりに」の意か?。「真野の浦」は神戸市長田区東尻池町付近のことという。「彼女の袖を笠代わりにしてもらおうと思って真野の浦の小菅で作った笠をささずに来てしまった」という歌である。
(2015年7月11日記)