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万葉集読解・・・191(3138~3157番歌)

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     万葉集読解・・・191(3138~3157番歌)
3138  年も経ず帰り来なむと朝影に待つらむ妹し面影に見ゆ
      (年毛不歴 反来甞跡 朝影尓 将待妹之 面影所見)
 「年も経ず」は「年が変わらないうちに」である。「朝影に」は「朝の影法師のように」、つまり朝日を受けて地上に細長く伸びた人影、「やせ細って見える」という意味である。「妹(いも)し」のしは強調の「し」。「年が変わらないうちに帰ってきてくれないかと、朝の影法師のように(首を長くして)待っているに相違ない妻の姿が面影になって目に浮かぶ」という歌である。

3139  玉桙の道に出で立ち別れ来し日より思ふに忘る時なし
      (玉桙之 道尓出立 別来之 日従于念 忘時無)
 「玉桙(たまほこ)の」はおなじみの枕詞。「道に出で立ち」は「旅立つ」という意味と「道に出て見送った」と二様にとれる。が、次句の「別れ来し」(別れて来た)によって「旅立つ」という意味であることが分かる。「道に出て旅だちの別れをしてやってきた日よりこのかた思うに片時も彼女のことを忘れたことがない」という歌である。

3140  はしきやししかある恋にもありしかも君に後れて恋しき思へば
      (波之寸八師 志賀在戀尓毛 有之鴨 君所遺而 戀敷念者)
 「はしきやし」は「ああ悔しい」とか「ああいとしい」というように、感嘆符として使われる。たとえば2429番歌に「はしきやし逢はぬ子ゆゑにいたづらに宇治川の瀬に裳裾濡らしつ」とある。「しかある恋にもありしかも」は「こうなる筈の恋だったのね」という意味。「あーあ、こうなる筈の恋だったのね。後になってあの方が恋しく思われるのは」という歌である。

3141  草枕旅の悲しくあるなへに妹を相見て後恋ひむかも
      (草枕 客之悲 有苗尓 妹乎相見而 後将戀可聞)
 「草枕」はおなじみの枕詞。「なへに」は「~とともに」という意味。「妹を相見て後」は「あの子に逢って後に」ということ。「旅にある身空が悲しいうえに、せっかくあの子に出合ったというのに(別れねばならず)、後になって恋い焦がれるだろうな」という歌である。

3142  国遠み直には逢はず夢にだに我れに見えこそ逢はむ日までに
      (國遠 直不相 夢谷 吾尓所見社 相日左右二)
 「国遠み」のみは「~ので」の「み」。「直(ただ)には」は「直接には」。「国(故郷)が遠いので直接逢うことはできないけれど、せめて夢に現れてほしい。直接逢える日が来るまでの間は」という歌である。

3143  かく恋ひむものと知りせば我妹子に言問はましを今し悔しも
      (如是将戀 物跡知者 吾妹兒尓 言問麻思乎 今之悔毛)
 「言(こと)問はましを」は「言葉を交わせばよかったのに」という意味である。他は読解を要さない平明歌。「こんなにも恋しくなると分かっていたなら、あの子ともっと言葉を交わせばよかったのに、今頃になって悔やまれる」という歌である。

3144  旅の夜の久しくなればさ丹つらふ紐解き放けず恋ふるこのころ
      (客夜之 久成者 左丹頬合 紐開不離 戀流比日)
 「さ丹つらふ」は「赤みを帯びた」という意味だが、9例全部について検討すると、より積極的に「輝かしい」と解した方がより適切かも知れない。たとえば「さ丹つらふ 我が大君は」(420番長歌)、「さ丹つらふ君によりてぞ」(3813番歌)等。「紐解き放(さ)けず」は「着物の紐を解くこと」だが、「忘れて」の含意がある。「旅の夜が随分続き、妻の着物の紐の解き方も(忘れて)彼女を恋い焦がれるばかり」という歌である。

3145  我妹子し我を偲ふらし草枕旅のまろ寝に下紐解けぬ
      (吾妹兒之 阿<乎>偲良志 草枕 旅之丸寐尓 下紐解)
 「我妹子(わぎもこ)し」は強調の「し」。「まろ寝」は「ごろ寝」。「草枕」は旅の枕詞。「いとしいあの子も私のことを偲んでいるらしい。旅にあって草を枕にごろ寝したら下着の紐が解けてしまった」という歌である。

3146  草枕旅の衣の紐解けて思ほゆるかもこの年ころは
      (草枕 旅之衣 紐解 所念鴨 此年比者)
 「草枕」は旅の枕詞。「思ほゆるかも」は「妻のことが思い出されてならない」という意味である。「野宿に明け暮れる旅が長くなり、着物の紐がほどける。ああ、妻のことが思い出されてならない。きょうこのごろ」という歌である。

3147  草枕旅の紐解く家の妹し我を待ちかねて嘆かふらしも
      (草枕 客之紐解 家之妹志 吾乎待不得而 歎良霜)
 「草枕」は旅の枕詞。歌は「草枕旅の紐解く」でいったん切れる。「家の妹し」は強調の「し」。「旅にあって(暑いので)着物の紐をほどく。家にいる妻も私を待ちかねて嘆いていることだろうな」という歌である。

3148  玉釧まき寝し妹を月も経ず置きてや越えむこの山の崎
      (玉釼 巻寝志妹乎 月毛不經 置而八将越 此山岫)
 「玉釧」について私は2865番歌の際に次のように記した。
 「玉釧(たまくしろ)は腕に巻く腕輪のことで、枕詞とも取れる。が、「まき」にかかる例は本歌のほかに3148番歌一例しかなく、たとえととっても歌意はとおる。枕詞(?)としてよいだろう。」
 その3148番歌が本歌というわけである。「月も経ず」は「ひと月も経たないのに」である。「玉釧を腕に巻くように、新妻を抱いて寝て、ひと月も経たないのにその新妻を置いてこの山の崎を越えて行かねばならぬのか」という歌である。

3149  梓弓末は知らねど愛しみ君にたぐひて山道越え来ぬ
      (梓弓 末者不知杼 愛美 君尓副而 山道越来奴)
  梓弓(あづさゆみ)は末を導く枕詞。「たぐひて」は「寄り添って」という意味である。「どこまでついていくことになるのか末は分かりませんが、いとしいあなたに寄り添って、山道を越えてここまでやってきてしまいました」という歌である。

3150  霞立つ春の長日を奥処なく知らぬ山道を恋ひつつか来む
      (霞立 春長日乎 奥香無 不知山道乎 戀乍可将来)
 「奥処(おくか)なく」は「果てのわからない」。「恋ひつつか来む」は本歌を男性歌とみて、「あの子が恋しくて歩き続けるだろう」という意味。「来む」は「来るだろう」と「行くだろう」と両様に使われる。「霞立つ春の長い一日を、果てが分からず勝手も分からぬ山道をあの子が恋しくて歩き続けるだろう」という歌である。

3151  外のみに君を相見て木綿畳手向けの山を明日か越え去なむ
      (外耳 君乎相見而 木綿牒 手向乃山乎 明日香越将去)
 「外(よそ)のみに」は「他人事のように」という意味である。「木綿畳(ゆふたたみ)」は木綿の布を重ね合わせ、手に持って神に供えるもの。ここでは「手向けの山」を導く導句。「越え去(い)なむ」は「去っていく」を意味している。「ひとごとのようにあなたを見ていましたが、ゆふだたみ手向けの山を明日にでも越えて行ってしまわれるのね」という歌である。「ひとごとのように」と詠いだして実は恋心を抱いていたことを間接的に述べた秀歌のひとつだろう。

3152  玉かつま安倍島山の夕露に旅寝えせめや長きこの夜を
      (玉勝間 安倍嶋山之 暮露尓 旅宿得為也 長此夜乎)
 「玉かつま」は本歌のほかに2例しかなく、同じ言葉にかかる歌はない。確かに枕詞的に使用されている。玉は美称というが、枕詞に美称(?)。安倍島山(あべしまやま)は未詳。「旅寝えせめや」は「旅寝できようか」である。「夕露が降りるこの安倍島山にひとりで旅寝できようか、長いこの夜を」という歌である。

3153  み雪降る越の大山行き過ぎていづれの日にか我が里を見む
      (三雪零 越乃大山 行過而 何日可 我里乎将見)
 平明歌だが、越の大山はどこか不詳。「雪の降る越の大山を行き過ぎてゆく。いったいいつの日にかわが故郷を見られるのだろう」という歌である。

3154  いで我が駒早く行きこそ真土山待つらむ妹を行きて早見む
      (乞吾駒 早去欲 亦打山 将待妹乎 去而速見牟)
 「いで我が駒」は「さあ、我が愛馬よ」である。「早く行きこそ」は「急いでおくれ」という意味である。「真土山(まつちやま)」は不詳。「待つらむ」を導く導句。「さあ、我が愛馬よ、急いでおくれ。私を待っている彼女に早く逢いたい」という歌である。

3155  悪木山木末ことごと明日よりは靡きてありこそ妹があたり見む
      (悪木山 木<末>悉 明日従者 靡有社 妹之當将見)
 「悪木山(あしきやま)」は未詳。それとも「意地悪な山」という意味か。「木末(こぬれ)ことごと」は「梢という梢」、「靡きてありこそ」は「靡いておくれ」という意味。「悪木山よ。梢という梢ことごとく明日からは風に靡いておくれよな、彼女が住んでいる辺りを見たいから」という歌である。

3156  鈴鹿川八十瀬渡りて誰がゆゑか夜越えに越えむ妻もあらなくに
      (鈴鹿河 八十瀬渡而 誰故加 夜越尓将越 妻毛不在君)
 鈴鹿川は鈴鹿山脈から三重県亀山市を通って伊勢湾に注ぐ川。本歌のキーワードは「八十瀬(やそせ)渡りて」及び結句の「妻もあらなくに」。「八十瀬渡りて」はどの書も「多くの瀬々を渡って」と解し、「妻もあらなくに」は「妻がいるわけでもないのに」と解している。つまりこれが定解となっている。が、歌意としてはどこか妙だ。第一にわざわざたくさんの瀬を、しかも夜道を、渡っていくのだろうか。川を渡れば対岸に出る。それをまた渡れば元の岸に戻ってきてしまう。それをわざわざ「八十(やそ)」と表現しなければならないほど、何回も繰り返したというのだろうか。おそらく橋もほとんどない当時に・・・。それも夜道に。考えられない。女の元へ行くのにわざわざ「妻がいるわけでもないのに」などと表現するのだろうか。独身なら黙って逢いに行くのが普通であろう。私はこれでは歌意が通らないと思う。「鈴鹿川を何度も渡ってこうして夜道を越えて通ってくるのはいったい誰ゆえなんだろう。妻でもないのに」という歌である。夜道でも来られる通いなれた道なのである。私にはこれ以外の歌意は考えられない。何度も通う男の、いわば間接的なプロポーズ歌なのである。

3157  我妹子にまたも近江の野洲の川安寐も寝ずに恋ひわたるかも
      (吾妹兒尓 又毛相海之 安河 安寐毛不宿尓 戀度鴨)
 「近江の野洲(やす)の川」は滋賀県守山市や野洲市を通って琵琶湖に注ぐ野洲川。「~野洲の川」は「安寐」を導く序歌。「いとしいあの子にまたも逢えるという近江の野洲の川、その名の」ように安らかに寝ることが出来ず恋い焦がれ」続けている」という歌である。
           (2015年12月31日記)
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