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私は俳句より短歌に心惹かれている。それでいて、伝統文化その三として短歌を取り上げるのになかなかまとまりがつかなかった。今日の日本経済新聞夕刊にドナルドキーンによる石川啄木の評伝が取り上げられていた。キーンも啄木も実になつかしい名だ。ドナルドキーンといえば、日本文学評論家として90歳をこえた今なお健筆を振るわれている名評論家だ。啄木はもう紹介する必要もない天才歌人だ。この両名の名を目にして突如として私の考えがまとまった。
短歌の歴史は俳句に比べて格段に古い。五七五七七の31文字の形は遠く奈良時代以前から歌われている。俳句は遡っても室町時代。連歌からだ。実質的には江戸時代に入ってから松尾芭蕉が登場してからといっていい。
私がいまいち考えがまとまらなかったのは、五七五でかつ季語入りを原則とする俳句に比べ、五七五七七の31文字で、かつ、季語も不要という短歌は、遙かに自由度が高い。
にもかかわらず、1300年以上も前から受け継がれ続けている。なんてことはない。これが伝統文化の最たる形なのだ。それ以外に答えはない。石川啄木の歌を例示するとたとえば次のようなものだ。
たわむれに 母を背負いてそのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず
頬につたふ なみだのごはず一握の砂を示しし人を忘れず
友がみな われよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て 妻としたしむ
こうした例示から分かるように啄木歌はきれいな五七五七七である。かつ、一読して誰にもすんなり分かる平明さに天才性が発揮されている。理屈で短歌の伝統性を考えようとしたことがまちがい。理屈じゃない。五七五七七の韻律。その韻律に万葉時代からわが日本人は親近感を覚えてきたのである。
(2016年4月4日)
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私は俳句より短歌に心惹かれている。それでいて、伝統文化その三として短歌を取り上げるのになかなかまとまりがつかなかった。今日の日本経済新聞夕刊にドナルドキーンによる石川啄木の評伝が取り上げられていた。キーンも啄木も実になつかしい名だ。ドナルドキーンといえば、日本文学評論家として90歳をこえた今なお健筆を振るわれている名評論家だ。啄木はもう紹介する必要もない天才歌人だ。この両名の名を目にして突如として私の考えがまとまった。
短歌の歴史は俳句に比べて格段に古い。五七五七七の31文字の形は遠く奈良時代以前から歌われている。俳句は遡っても室町時代。連歌からだ。実質的には江戸時代に入ってから松尾芭蕉が登場してからといっていい。
私がいまいち考えがまとまらなかったのは、五七五でかつ季語入りを原則とする俳句に比べ、五七五七七の31文字で、かつ、季語も不要という短歌は、遙かに自由度が高い。
にもかかわらず、1300年以上も前から受け継がれ続けている。なんてことはない。これが伝統文化の最たる形なのだ。それ以外に答えはない。石川啄木の歌を例示するとたとえば次のようなものだ。
たわむれに 母を背負いてそのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず
頬につたふ なみだのごはず一握の砂を示しし人を忘れず
友がみな われよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て 妻としたしむ
こうした例示から分かるように啄木歌はきれいな五七五七七である。かつ、一読して誰にもすんなり分かる平明さに天才性が発揮されている。理屈で短歌の伝統性を考えようとしたことがまちがい。理屈じゃない。五七五七七の韻律。その韻律に万葉時代からわが日本人は親近感を覚えてきたのである。
(2016年4月4日)