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Channel: 古代史の道
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難渋がち

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 私は単にある説の受け売りは避けて、出来る限り、自分の感覚と考えに依拠して万葉集の読解を進めている。一首、一首丁寧に。そのためにしばしば難渋し、滞りがちになっている。
 とりわけ、巻14に入ってから難渋しがちである。大きな原因は二つある。一つは地方訛りの存在である。「子ろ」、「峰ろ」、「伊香保ろ」等々数多く登場する「~ろ」は親愛の呼びかけ訛りだと見当がつく。やっかいなのは「あにくやしづし」(3411番歌)のように語義未詳とされているものである。その他あまり例のない「なむか」、「たよら」等々訛りと見られるものがいくつも頻出する。もう例を挙げるのはやめておくが、これらのいくつかは何とか古語の中から引っ張り出してきて、意味づけようとする説があって頭を悩ます。
 だが、最大の問題は歌意だ。歌である以上、全体を通しての歌意。部分的にはいくら理屈がついても全体から見て歌意が妙な例がある。詳しくは読解の本文に寄られたいが、ほんの一例だけ示すと、3440番歌に「この川に朝菜洗ふ子汝れも我れもよちをぞ持てるいで子たばりに」とある。この歌は学説によれば、宴会歌だの、戯れ歌だの、子持ち同士の誘い歌だのと、私にいわせればとんちんかんな読解を行っている。朝に菜を洗いに来る女性に、その種の声をかけるなんてあるだろうか。私の感覚がとらえた歌意は「この川に朝菜を洗いに来る子、あんたも私も同じ年頃を生きてきたんだよね。さあ、結婚して子供を授かりたいね」という歌である。
 こうした普通の歌意にたどりつくまでに、ああでもない、こうでもないと考えさせられざるを得なかった。
 かくて、東国訛りと歌意の問題で難渋することが多く、古文法だの語義だの朝鮮語語源説だのと、したり顔で説く万葉学者って何だろうって、その業績に敬意を表しつつ、つい思ってしまうこのごろである。
            (2016年4月30日)
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