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万葉集4332番歌に次のような歌がある。
畳薦牟良自が磯の離磯の母を離れて行くが悲しさ
「畳薦(たたみこも)」は「畳にする薦」のことで、「牟良自(むらじ)が磯」は所在不詳。「畳薦の目のような牟良自の磯から離れていく磯のように、母の許を離れて行くのが悲しい」という歌である。歌の主は東国から九州に防人(さきもり)として九州に赴くことになった若者。
私はこの歌に出会ったとき、斬新な表現に胸を打たれた。母子のつながりをしっかりとした磯にたとえるのは極めて珍しい。通常母子のつながりはたとえるとしたら、紐にたとえることが多い。でなければ「恋しい」とか「目に入れても痛くない」といった心情表現が多い。それを磯にたとえ、離れていく磯に自分をたとえる!。あまりに斬新で驚くしかなく、それでいて、少しも技巧が感じられない。
この母子は、おそらく海岸の磯の近くに住んでいたに相違ない。年がら年中磯を見て育ち、成人したに相違ない。つまり、「磯の離磯の母を離れて」は作者の口から自然に出てきた言葉なのである。
宮廷短歌になじんでいない、作者の心情がほとばしり出たような歌である。なんの衒いも作為も感じられない、歌とは本来こうあるべきではないのか、と思われるような歌なのである。選者について学ぶのも一つの行き方だろうが、それでは歌がどこか虎刈りされて個性をそぐ危険がある。
繰り返そう。「磯の離磯の母を離れて」とは、なんと斬新だろう。うまく作ろう、などと思ったら、母子の関係をこんな風に表現できなかったに相違ない。ためしに「母と子の関係はごつごつした磯のようなもんだ」と選者に言ったらどう言われることだろう。感動を呼ぶ歌、それは選者とは違う所から生まれるものかも知れない、と思った。
(2017年2月22日)
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万葉集4332番歌に次のような歌がある。
畳薦牟良自が磯の離磯の母を離れて行くが悲しさ
「畳薦(たたみこも)」は「畳にする薦」のことで、「牟良自(むらじ)が磯」は所在不詳。「畳薦の目のような牟良自の磯から離れていく磯のように、母の許を離れて行くのが悲しい」という歌である。歌の主は東国から九州に防人(さきもり)として九州に赴くことになった若者。
私はこの歌に出会ったとき、斬新な表現に胸を打たれた。母子のつながりをしっかりとした磯にたとえるのは極めて珍しい。通常母子のつながりはたとえるとしたら、紐にたとえることが多い。でなければ「恋しい」とか「目に入れても痛くない」といった心情表現が多い。それを磯にたとえ、離れていく磯に自分をたとえる!。あまりに斬新で驚くしかなく、それでいて、少しも技巧が感じられない。
この母子は、おそらく海岸の磯の近くに住んでいたに相違ない。年がら年中磯を見て育ち、成人したに相違ない。つまり、「磯の離磯の母を離れて」は作者の口から自然に出てきた言葉なのである。
宮廷短歌になじんでいない、作者の心情がほとばしり出たような歌である。なんの衒いも作為も感じられない、歌とは本来こうあるべきではないのか、と思われるような歌なのである。選者について学ぶのも一つの行き方だろうが、それでは歌がどこか虎刈りされて個性をそぐ危険がある。
繰り返そう。「磯の離磯の母を離れて」とは、なんと斬新だろう。うまく作ろう、などと思ったら、母子の関係をこんな風に表現できなかったに相違ない。ためしに「母と子の関係はごつごつした磯のようなもんだ」と選者に言ったらどう言われることだろう。感動を呼ぶ歌、それは選者とは違う所から生まれるものかも知れない、と思った。
(2017年2月22日)