巻5~8メニュー へ
そ の 63 へ
万葉集読解・・・62(868~882番歌)
山上憶良から大伴旅人に宛てた書簡(返書)である。その内容は次の通り。
「憶良、畏まり、謹んで申し上げます。聞くところによりますと、中国では、方岳諸侯(ほうがくしょこう=四方に配された臣下)及び都督刺史(ととくしし=地方の長官)は法典に従って管内を巡行し、その風俗を視察するといいます。私の胸中思う所がありますが、口外し難く思います。そこで拙い歌を三首披露し、その思いに代えたいと存じます。」
大伴旅人一行は松浦川(佐賀県松浦郡内を流れる玉島川)に出かけ、数々の歌を詠んでいる。旅人は、奈良の都の吉田連宣(よろし)に松浦遊行時の歌を含め多数の歌を送っている。が、同時に筑前守憶良にも松浦遊行時の歌を送っている。現在と異なって当時は、墨書で丁寧に書簡を書き、一首一首丁寧に墨書しなければならない。そういう手間暇をかけながら旅人は複数の人々に歌を送ったのだろうか?
以下は憶良が旅人に贈った三首。
0868 松浦県佐用姫の子が領巾振りし山の名のみや聞きつつ居らむ
(麻都良我多 佐欲比賣能故何 比列布利斯 夜麻能名乃美夜 伎々都々遠良武)
本歌以下を理解するには数点の知識が要る。
先ず領巾(ひれ)。当時の女性が首や肩にかけて用いたという、長い布。
次に佐用姫(さよひめ)伝説。871番歌の前文にその次第が述べられている。
次に足姫命(たらしひめのみこと)伝説。足姫命(たらしひめのみこと)は神功皇后あるが、その皇后が鮎釣りをされた際、乗った石があるという伝説。皇后は朝鮮半島に渡って新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり)、百済(くだら)三国を征伐したという、いわゆる三韓征伐を行ったことで有名な人物である。
さて、本題に入ろう。松浦県の県(あがた)は国より下の地方行政組織。「佐用姫が領巾を振ったというあの有名な山」という意味である。下二句の「山の名のみや聞きつつ居らむ」は「その故事を耳にしているだけでしょうか」という意味。つまり「私も視察にお加え下さればよかったのにということが言いたいのである。
「松浦県の佐用姫という子が領巾(ひれ)を振ったというあの有名な山の名だけ聞かされているだけでしょうか」という歌である。
そ の 63 へ
万葉集読解・・・62(868~882番歌)
山上憶良から大伴旅人に宛てた書簡(返書)である。その内容は次の通り。
「憶良、畏まり、謹んで申し上げます。聞くところによりますと、中国では、方岳諸侯(ほうがくしょこう=四方に配された臣下)及び都督刺史(ととくしし=地方の長官)は法典に従って管内を巡行し、その風俗を視察するといいます。私の胸中思う所がありますが、口外し難く思います。そこで拙い歌を三首披露し、その思いに代えたいと存じます。」
大伴旅人一行は松浦川(佐賀県松浦郡内を流れる玉島川)に出かけ、数々の歌を詠んでいる。旅人は、奈良の都の吉田連宣(よろし)に松浦遊行時の歌を含め多数の歌を送っている。が、同時に筑前守憶良にも松浦遊行時の歌を送っている。現在と異なって当時は、墨書で丁寧に書簡を書き、一首一首丁寧に墨書しなければならない。そういう手間暇をかけながら旅人は複数の人々に歌を送ったのだろうか?
以下は憶良が旅人に贈った三首。
0868 松浦県佐用姫の子が領巾振りし山の名のみや聞きつつ居らむ
(麻都良我多 佐欲比賣能故何 比列布利斯 夜麻能名乃美夜 伎々都々遠良武)
本歌以下を理解するには数点の知識が要る。
先ず領巾(ひれ)。当時の女性が首や肩にかけて用いたという、長い布。
次に佐用姫(さよひめ)伝説。871番歌の前文にその次第が述べられている。
次に足姫命(たらしひめのみこと)伝説。足姫命(たらしひめのみこと)は神功皇后あるが、その皇后が鮎釣りをされた際、乗った石があるという伝説。皇后は朝鮮半島に渡って新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり)、百済(くだら)三国を征伐したという、いわゆる三韓征伐を行ったことで有名な人物である。
さて、本題に入ろう。松浦県の県(あがた)は国より下の地方行政組織。「佐用姫が領巾を振ったというあの有名な山」という意味である。下二句の「山の名のみや聞きつつ居らむ」は「その故事を耳にしているだけでしょうか」という意味。つまり「私も視察にお加え下さればよかったのにということが言いたいのである。
「松浦県の佐用姫という子が領巾(ひれ)を振ったというあの有名な山の名だけ聞かされているだけでしょうか」という歌である。
0869 足姫神の命の魚釣らすとみ立たしせりし石を誰れ見き [一云 鮎釣ると]
(多良志比賣 可尾能美許等能 奈都良須等 美多々志世利斯 伊志遠多礼美吉 )
「足姫(たらしひめ)神の命」は神功皇后。十四代仲哀天皇の皇后。三句目の「魚釣らすと」が異伝では「鮎釣ると」となっているが、歌意は同じ。結句の「石を誰れ見き」であるが、これを字義通り「その石を誰が見たのだろう」と解したのでは全体の歌意がぶちこわしになる。これも前歌同様、実見した旅人をうらやむ歌である。「私も視察にお加え下さればよかったのに」という気持がこもっている。
「神功皇后が鮎を釣ろうとお立ちになった石を実見したのはどこのどなたでございましょう」という歌である。
(多良志比賣 可尾能美許等能 奈都良須等 美多々志世利斯 伊志遠多礼美吉 )
「足姫(たらしひめ)神の命」は神功皇后。十四代仲哀天皇の皇后。三句目の「魚釣らすと」が異伝では「鮎釣ると」となっているが、歌意は同じ。結句の「石を誰れ見き」であるが、これを字義通り「その石を誰が見たのだろう」と解したのでは全体の歌意がぶちこわしになる。これも前歌同様、実見した旅人をうらやむ歌である。「私も視察にお加え下さればよかったのに」という気持がこもっている。
「神功皇后が鮎を釣ろうとお立ちになった石を実見したのはどこのどなたでございましょう」という歌である。
0870 百日しも行かぬ松浦道今日行きて明日は来なむを何か障れる
(毛々可斯母 由加奴麻都良遅 家布由伎弖 阿須波吉奈武遠 奈尓可佐夜礼留)
「百日(ももか)しも行かぬ松浦道(まつらぢ)」は「筑前(福岡県西部)から松浦まで百日もかかるというわけじゃなく」という意味である。「障(さや)れる」は「差し障りがある」という意味。やはり、「視察にお加え下さればよかったのに」という気持がこもっている
「筑前(福岡県西部)から松浦まで百日もかかるというわけじゃなく、今日行けば明日にでも帰ってこられる近場なのにどこか差し障りがあるのであようか」という歌である。
(毛々可斯母 由加奴麻都良遅 家布由伎弖 阿須波吉奈武遠 奈尓可佐夜礼留)
「百日(ももか)しも行かぬ松浦道(まつらぢ)」は「筑前(福岡県西部)から松浦まで百日もかかるというわけじゃなく」という意味である。「障(さや)れる」は「差し障りがある」という意味。やはり、「視察にお加え下さればよかったのに」という気持がこもっている
「筑前(福岡県西部)から松浦まで百日もかかるというわけじゃなく、今日行けば明日にでも帰ってこられる近場なのにどこか差し障りがあるのであようか」という歌である。
以上、三首が三首とも旅人に向かって同行できなかったことを不満たらしく訴える形になっている。が、その実、上司旅人の松浦遊行を羨ましがっているかに見せているのである。ここにちょっと不思議なことがある。憶良が書簡と歌を記したのは天平二年七月十一日と記されている。他方、奈良の都に居住している宣(よろし)が旅人に書簡と歌を書き送ったのは前節で言及したように、天平二年七月十日。憶良書簡のたった一日前。偶然といってしまえばそれまでだが、奈良からの使いは筑前(福岡県西部)を経由して、つまりいったん筑前で休息し、太宰府に向かったのではないかというのが私の推察である。宣(よろし)の書簡を目にして憶良も贈歌しなければ、と思ったのではないのだろうか。
以上の三首の後に憶良書簡の文末に次のような日付が記されている。
天平二年七月十一日
天平二年七月十一日
本歌には前文が付いている。前文は概略次の通り。
「大伴佐提比古郎子(おほとものさでひこのいらつこ)は、朝命を受けて朝鮮半島の守り任那(みまな)に使いに行くことになった。船飾りをして出発し、沖に進んでいった。妻の松浦佐用姫は別れを嘆き、なかなか逢えぬと知って悲しんだ。彼女は高い山の嶺に上がって、遠ざかっていく船を見やった。胸のつぶれる思いで領巾(ひれ)を手に取り振った。傍らの人たちもみんな泣いた。人々はこの嶺を名付けて「領巾振りの嶺」と呼んだ。以下はその歌」
0871 遠つ人松浦佐用姫夫恋ひに領巾振りしより負へる山の名
(得保都必等 麻通良佐用比米 都麻胡非尓 比例布利之用利 於返流夜麻能奈)
「遠つ人」は「朝鮮半島に渡った人」ということ。つまり夫の大伴佐提比古のこと。「松」を「待つ」にかけた言い方。作者未詳。
「遠く朝鮮半島に渡った夫に松浦佐用姫が夫恋しさに領巾(ひれ)を振った時から、名付けて呼ぶようになったという、これが領巾振りの嶺」という歌である。
「大伴佐提比古郎子(おほとものさでひこのいらつこ)は、朝命を受けて朝鮮半島の守り任那(みまな)に使いに行くことになった。船飾りをして出発し、沖に進んでいった。妻の松浦佐用姫は別れを嘆き、なかなか逢えぬと知って悲しんだ。彼女は高い山の嶺に上がって、遠ざかっていく船を見やった。胸のつぶれる思いで領巾(ひれ)を手に取り振った。傍らの人たちもみんな泣いた。人々はこの嶺を名付けて「領巾振りの嶺」と呼んだ。以下はその歌」
0871 遠つ人松浦佐用姫夫恋ひに領巾振りしより負へる山の名
(得保都必等 麻通良佐用比米 都麻胡非尓 比例布利之用利 於返流夜麻能奈)
「遠つ人」は「朝鮮半島に渡った人」ということ。つまり夫の大伴佐提比古のこと。「松」を「待つ」にかけた言い方。作者未詳。
「遠く朝鮮半島に渡った夫に松浦佐用姫が夫恋しさに領巾(ひれ)を振った時から、名付けて呼ぶようになったという、これが領巾振りの嶺」という歌である。
頭注に「後人が追和した歌」とある。
0872 山の名と言ひ継げとかも佐用姫がこの山の上に領巾を振りけむ
(夜麻能奈等 伊賓都夏等可母 佐用比賣何 許能野麻能閇仁 必例遠布利家<牟>)
本歌も前歌同様、山名の由来関連歌。
「山の名として言い伝えてほしいとでも言うように、佐用姫はこの山の上に領巾を振ったのだろうか」という歌である。
0872 山の名と言ひ継げとかも佐用姫がこの山の上に領巾を振りけむ
(夜麻能奈等 伊賓都夏等可母 佐用比賣何 許能野麻能閇仁 必例遠布利家<牟>)
本歌も前歌同様、山名の由来関連歌。
「山の名として言い伝えてほしいとでも言うように、佐用姫はこの山の上に領巾を振ったのだろうか」という歌である。
頭注に「別の後人が追和した歌」とある。
0873 万世に語り継げとしこの丘に領巾振りけらし松浦佐用姫
(余呂豆余尓 可多利都夏等之 許能多氣仁 比例布利家良之 麻通羅佐用嬪面)
さらに別の人が応じた歌。平明歌。
「この丘は後々までも語り継げよとばかり領巾を振ったという松浦佐用姫」という歌である。
0873 万世に語り継げとしこの丘に領巾振りけらし松浦佐用姫
(余呂豆余尓 可多利都夏等之 許能多氣仁 比例布利家良之 麻通羅佐用嬪面)
さらに別の人が応じた歌。平明歌。
「この丘は後々までも語り継げよとばかり領巾を振ったという松浦佐用姫」という歌である。
頭注に「最後に別の後人が追和した歌二首」とある。
0874 海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用姫
(宇奈波良能 意吉由久布祢遠 可弊礼等加 比礼布良斯家武 麻都良佐欲比賣)
本歌は山名由来ではなく、情景推察歌。平明歌。
「海原を遠ざかって行く船に向かって引き返してきて頂戴よと領巾を振ったことだろう松浦佐用姫」という歌である。
0874 海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用姫
(宇奈波良能 意吉由久布祢遠 可弊礼等加 比礼布良斯家武 麻都良佐欲比賣)
本歌は山名由来ではなく、情景推察歌。平明歌。
「海原を遠ざかって行く船に向かって引き返してきて頂戴よと領巾を振ったことだろう松浦佐用姫」という歌である。
0875 行く船を振り留みかねいかばかり恋しくありけむ松浦佐用姫
(由久布祢遠 布利等騰尾加祢 伊加婆加利 故保斯<苦>阿利家武 麻都良佐欲比賣)
一読で分かる平明歌。
「領巾を振ったところで留まる筈のない船。どんなに恋しく切なかったことだろう松浦佐用姫」という歌である。
以上、868番歌からここまで松浦の佐用姫伝説をモチーフにした歌。これだけの歌が収録されているところを見ると、佐用姫伝説は当時よほど有名だったに相違ない。
(由久布祢遠 布利等騰尾加祢 伊加婆加利 故保斯<苦>阿利家武 麻都良佐欲比賣)
一読で分かる平明歌。
「領巾を振ったところで留まる筈のない船。どんなに恋しく切なかったことだろう松浦佐用姫」という歌である。
以上、868番歌からここまで松浦の佐用姫伝説をモチーフにした歌。これだけの歌が収録されているところを見ると、佐用姫伝説は当時よほど有名だったに相違ない。
頭注に「書殿(図書殿舎)で行われた送別の宴での歌四首」とある。大伴旅人は天平二年(730年)十二月に大納言に任ぜられ、奈良の都に帰京する。その旅人の送別の宴。
0876 天飛ぶや鳥にもがもや都まで送りまをして飛び帰るもの
(阿麻等夫夜 等利尓母賀母夜 美夜故<麻>提 意久利摩遠志弖 等比可弊流母能)
「天飛ぶや鳥にもがもや」は文字通り「空飛ぶ鳥であったなら」という意味。「送りまをして」は「旅人様をお送り申し上げて」という意味である。
「空飛ぶ鳥なら、都まで旅人様をお送り申し上げて飛んで帰ってくるものを」という歌である。
0876 天飛ぶや鳥にもがもや都まで送りまをして飛び帰るもの
(阿麻等夫夜 等利尓母賀母夜 美夜故<麻>提 意久利摩遠志弖 等比可弊流母能)
「天飛ぶや鳥にもがもや」は文字通り「空飛ぶ鳥であったなら」という意味。「送りまをして」は「旅人様をお送り申し上げて」という意味である。
「空飛ぶ鳥なら、都まで旅人様をお送り申し上げて飛んで帰ってくるものを」という歌である。
0877 ひともねのうらぶれ居るに龍田山御馬近づかば忘らしなむか
(比等母祢能 宇良夫禮遠留尓 多都多夜麻 美麻知可豆加婆 和周良志奈牟迦)
「ひともね」は「ひとみな」ということで、方言という説もある。が、官人の歌で方言が使われるのは極めて異例。龍田山は奈良県生駒郡の山の一つ。「忘らしなむか」は「お忘れになってしまわれよう」という意味である。
「一同皆々がっかりしているのに、旅人長官は、馬が龍田山にさしかかる頃には私たちのことをお忘れになってしまわれるのでしょうか」という歌である。
(比等母祢能 宇良夫禮遠留尓 多都多夜麻 美麻知可豆加婆 和周良志奈牟迦)
「ひともね」は「ひとみな」ということで、方言という説もある。が、官人の歌で方言が使われるのは極めて異例。龍田山は奈良県生駒郡の山の一つ。「忘らしなむか」は「お忘れになってしまわれよう」という意味である。
「一同皆々がっかりしているのに、旅人長官は、馬が龍田山にさしかかる頃には私たちのことをお忘れになってしまわれるのでしょうか」という歌である。
0878 言ひつつも後こそ知らめとのしくも寂しけめやも君いまさずして
(伊比都々母 能知許曽斯良米 等乃斯久母 佐夫志計米夜母 吉美伊麻佐受斯弖)
第三句の「とのしくも」。「岩波大系本」はこれに補注を施して詳細に解を試みている。結果、「との」は「たな」のことで「すっかり」とか「全く」の意ではないかとしている。それ以上の詳細は私には分かりかねるが、ここでは「岩波大系本」の解に従いたい。
「寂しゅうございますと今は口先で申していますが、長官が去られてからが本当にすっかり寂しくなることでしょう」という歌である。
(伊比都々母 能知許曽斯良米 等乃斯久母 佐夫志計米夜母 吉美伊麻佐受斯弖)
第三句の「とのしくも」。「岩波大系本」はこれに補注を施して詳細に解を試みている。結果、「との」は「たな」のことで「すっかり」とか「全く」の意ではないかとしている。それ以上の詳細は私には分かりかねるが、ここでは「岩波大系本」の解に従いたい。
「寂しゅうございますと今は口先で申していますが、長官が去られてからが本当にすっかり寂しくなることでしょう」という歌である。
0879 万世にいましたまひて天の下奏したまはね朝廷去らずて
(余呂豆余尓 伊麻志多麻比提 阿米能志多 麻乎志多麻波祢 美加<度>佐良受弖)
「奏(まを)したまはね」は「政治をお取りなさいませ」という意味である。
「ずっとご健勝で朝廷におられ、天の下の政治をお取りなさいませ」という歌である。
(余呂豆余尓 伊麻志多麻比提 阿米能志多 麻乎志多麻波祢 美加<度>佐良受弖)
「奏(まを)したまはね」は「政治をお取りなさいませ」という意味である。
「ずっとご健勝で朝廷におられ、天の下の政治をお取りなさいませ」という歌である。
頭注に「敢えて私の思いを述べる歌三首」とある。筑前守山上憶良が旅人に贈った歌。
0880 天離る鄙に五年住まひつつ都のてぶり忘らえにけり
(阿麻社迦留 比奈尓伊都等世 周麻比都々 美夜故能提夫利 和周良延尓家利)
「都のてぶり」は「都の風俗」。
(加久能<未>夜 伊吉豆伎遠良牟 阿良多麻能 吉倍由久等志乃 可伎利斯良受提)
「かくのみや息づき居らむ」は「こうしてため息をつくばかりでしょうか」ということ。
「こうしてため息をつくばかりでしょうか。年が改まり去っていくのも知らぬまま」という歌である。
0880 天離る鄙に五年住まひつつ都のてぶり忘らえにけり
(阿麻社迦留 比奈尓伊都等世 周麻比都々 美夜故能提夫利 和周良延尓家利)
「都のてぶり」は「都の風俗」。
「遠い田舎で五年も住み続け、都の風俗もすっかり忘れてしまいました」という歌である。
0881 かくのみや息づき居らむあらたまの来経行く年の限り知らずて(加久能<未>夜 伊吉豆伎遠良牟 阿良多麻能 吉倍由久等志乃 可伎利斯良受提)
「かくのみや息づき居らむ」は「こうしてため息をつくばかりでしょうか」ということ。
「こうしてため息をつくばかりでしょうか。年が改まり去っていくのも知らぬまま」という歌である。
0882 我が主の御霊賜ひて春さらば奈良の都に召上げたまはね
(阿我農斯能 美多麻々々比弖 波流佐良婆 奈良能美夜故尓 n佐宜多麻波祢)
「我が主」は旅人を指す。「春さらば」は「春になったら」という意味。
「旅人様の思し召しを得て春になったら私を都にお召上げ下さいませ」という歌である。
(2013年12月1日記、2018年1月15日記)
![イメージ 1]()
(阿我農斯能 美多麻々々比弖 波流佐良婆 奈良能美夜故尓 n佐宜多麻波祢)
「我が主」は旅人を指す。「春さらば」は「春になったら」という意味。
「旅人様の思し召しを得て春になったら私を都にお召上げ下さいませ」という歌である。
(2013年12月1日記、2018年1月15日記)