万葉集読解・・・78(1116~1128番歌)
詠露
1116 ぬばたまの我が黒髪に降りなづむ天の露霜取れば消につつ
(烏玉之 吾黒髪尓 落名積 天之露霜 取者消乍)
「ぬばたまの」は枕詞。「降りなづむ」は「日が暮れなづむ」という用例から分かるように「とどこおる」という意味である。「取れば消につつ」は「とってもとっても消えてゆく」という反復を示している。
「空から露霜が降ってきて黒髪にとどこおる。手に取っても取っても消えてしまう」という歌である。
詠露
1116 ぬばたまの我が黒髪に降りなづむ天の露霜取れば消につつ
(烏玉之 吾黒髪尓 落名積 天之露霜 取者消乍)
「ぬばたまの」は枕詞。「降りなづむ」は「日が暮れなづむ」という用例から分かるように「とどこおる」という意味である。「取れば消につつ」は「とってもとっても消えてゆく」という反復を示している。
「空から露霜が降ってきて黒髪にとどこおる。手に取っても取っても消えてしまう」という歌である。
詠花
1117 島廻すと磯に見し花風吹きて波は寄すとも採らずはやまじ
(嶋廻為等 礒尓見之花 風吹而 波者雖縁 不取不止)
「島廻(しまみ)すと」は「島をめぐっていたら」という意味。「採らずはやまじ」は「採らずにおくものか」ということ。
「島をめぐっていたら磯辺にきれいな花が咲いていた。風が吹き、波が寄せてこようと、あの花を手に入れずにおくものか」という歌である。
1117 島廻すと磯に見し花風吹きて波は寄すとも採らずはやまじ
(嶋廻為等 礒尓見之花 風吹而 波者雖縁 不取不止)
「島廻(しまみ)すと」は「島をめぐっていたら」という意味。「採らずはやまじ」は「採らずにおくものか」ということ。
「島をめぐっていたら磯辺にきれいな花が咲いていた。風が吹き、波が寄せてこようと、あの花を手に入れずにおくものか」という歌である。
詠葉
1118 いにしへにありけむ人も我がごとか三輪の檜原にかざし折りけむ
(古尓 有險人母 如吾等架 弥和乃檜原尓 挿頭折兼)
「いにしへにありけむ人も」は単純に「昔の人も」という意味。
「昔の人もこの私のように三輪山の檜(ひのき)の森で見事な葉をつけた檜の小枝を折って髪にさしたのだろうか」という歌である。
1118 いにしへにありけむ人も我がごとか三輪の檜原にかざし折りけむ
(古尓 有險人母 如吾等架 弥和乃檜原尓 挿頭折兼)
「いにしへにありけむ人も」は単純に「昔の人も」という意味。
「昔の人もこの私のように三輪山の檜(ひのき)の森で見事な葉をつけた檜の小枝を折って髪にさしたのだろうか」という歌である。
1119 行く川の過ぎにし人の手折らねばうらぶれ立てり三輪の檜原は
(徃川之 過去人之 手不折者 裏觸立 三和之檜原者)
本歌を「岩波大系本」以下各書とも「人々が手折らないので、檜(ひのき)はしょんぼり立っている」と解している。なぜこんな解がなされるのか理解に苦しむ。左注から考えて、前歌も本歌も同一作者の歌と見てよい。前歌はすでに見たように、「昔の人も見事な葉をつけた檜の小枝を折って~」と詠っている。その同じ作者が今度は「手折らなかったので」などと詠うであろうか。さらに、「しょんぼり立っている」に焦点を当てた歌なら「うらぶれ立てり三輪の檜原(ひばら)は」などとしない。「三輪の檜原はうらぶれ立てり」と表現するのが作歌の常道である。
そうではなく、本歌は見事な三輪の檜原の賛歌に相違なく、典型的な反語表現の歌である。前歌も本歌も葉を詠んだ歌である。三輪の檜原は評判の檜原であったに相違なく、その見事な小枝を手折らずにいられなかったのであって、大木の檜の小枝を折ったとか折らなかったからといって影響があるわけではない。つまり、三輪の檜の森は小枝を手折って髪にささずにはいられないほど見事な森だったのである。なので、「うらぶれ立てり」は「見向きもされなかっただろう」という意味なのである。
「流れ行く川のように、通り過ぎていく人々が小枝を手折らなかったなら、この見事な三輪の檜原も見向きもされなかっただろう。誰もが手折らずにいられない檜原だ」という歌である。
左注に「右二首は柿本朝臣人麻呂の歌集に出ている」とある。
(徃川之 過去人之 手不折者 裏觸立 三和之檜原者)
本歌を「岩波大系本」以下各書とも「人々が手折らないので、檜(ひのき)はしょんぼり立っている」と解している。なぜこんな解がなされるのか理解に苦しむ。左注から考えて、前歌も本歌も同一作者の歌と見てよい。前歌はすでに見たように、「昔の人も見事な葉をつけた檜の小枝を折って~」と詠っている。その同じ作者が今度は「手折らなかったので」などと詠うであろうか。さらに、「しょんぼり立っている」に焦点を当てた歌なら「うらぶれ立てり三輪の檜原(ひばら)は」などとしない。「三輪の檜原はうらぶれ立てり」と表現するのが作歌の常道である。
そうではなく、本歌は見事な三輪の檜原の賛歌に相違なく、典型的な反語表現の歌である。前歌も本歌も葉を詠んだ歌である。三輪の檜原は評判の檜原であったに相違なく、その見事な小枝を手折らずにいられなかったのであって、大木の檜の小枝を折ったとか折らなかったからといって影響があるわけではない。つまり、三輪の檜の森は小枝を手折って髪にささずにはいられないほど見事な森だったのである。なので、「うらぶれ立てり」は「見向きもされなかっただろう」という意味なのである。
「流れ行く川のように、通り過ぎていく人々が小枝を手折らなかったなら、この見事な三輪の檜原も見向きもされなかっただろう。誰もが手折らずにいられない檜原だ」という歌である。
左注に「右二首は柿本朝臣人麻呂の歌集に出ている」とある。
蘿(こけ)を詠んだ歌。
1120 み吉野の青根が岳の蘿むしろ誰れか織りけむ経緯なしに
(三芳野之 青根我峯之 蘿席 誰将織 經緯無二)
吉野の宮滝からの眺望を詠んだ歌とされている。新緑の山肌が真っ青なコケのように鮮やかで、その光景を一枚の筵(むしろ)に見立てた歌である。「経緯(たてぬき)なしに」は織物には縦糸と横糸が必要だが「その糸もなしに」という意味である。有名歌ではないかもしれないが、すばらしい歌のひとつといっていいだろう。
自然の光景を織物に見立てた歌は他にもあって、まだ読解に至っていないが、1512番歌の「経もなく緯も定めず娘子らが織る黄葉に霜な降りそね」がそれである。多彩な黄葉の眺望を織物に見立てている。
「吉野の青根が岳の眺めは蘿(こけ)のむしろのように美しい。縦糸と横糸もなしに誰が織り上げたというのであろう」という歌である。
1120 み吉野の青根が岳の蘿むしろ誰れか織りけむ経緯なしに
(三芳野之 青根我峯之 蘿席 誰将織 經緯無二)
吉野の宮滝からの眺望を詠んだ歌とされている。新緑の山肌が真っ青なコケのように鮮やかで、その光景を一枚の筵(むしろ)に見立てた歌である。「経緯(たてぬき)なしに」は織物には縦糸と横糸が必要だが「その糸もなしに」という意味である。有名歌ではないかもしれないが、すばらしい歌のひとつといっていいだろう。
自然の光景を織物に見立てた歌は他にもあって、まだ読解に至っていないが、1512番歌の「経もなく緯も定めず娘子らが織る黄葉に霜な降りそね」がそれである。多彩な黄葉の眺望を織物に見立てている。
「吉野の青根が岳の眺めは蘿(こけ)のむしろのように美しい。縦糸と横糸もなしに誰が織り上げたというのであろう」という歌である。
詠草
1121 妹らがり我が通ひ路の細竹すすき我れし通はば靡け細竹原
(妹等所 我通路 細竹為酢寸 我通 靡細竹原)
「妹らがり」の原文は「妹等所」で「彼女らの所」。すなわち彼女の家族を含めた言い方で、「彼女の家」というほどの意味に相違ない。なので「妹らがり」は彼女の家のありどころを示している。この「がり」について「岩波大系本」は詳細な注を施し、居場所ではなく、本来は方向を示す語だったのではないか、としている。現在でも「暗がり」という言葉があるように、「がり」は居場所ではなく、動かないもの(家、庭、池等々)の場所を指している。「方向」の場合は単に方角を指しているのでやや意味が異なる。彼女自身は動いてしまうので居場所は変わってしまう。細竹(しの)は文字通り細い竹、すなわち笹状の竹。「我れし」は強意の「し」。
「彼女の家に通う道に細竹やススキが生えている。私が通うので、どうかなびいて(伏して)おくれよ。細竹(しの)の原よ」という歌である。
1121 妹らがり我が通ひ路の細竹すすき我れし通はば靡け細竹原
(妹等所 我通路 細竹為酢寸 我通 靡細竹原)
「妹らがり」の原文は「妹等所」で「彼女らの所」。すなわち彼女の家族を含めた言い方で、「彼女の家」というほどの意味に相違ない。なので「妹らがり」は彼女の家のありどころを示している。この「がり」について「岩波大系本」は詳細な注を施し、居場所ではなく、本来は方向を示す語だったのではないか、としている。現在でも「暗がり」という言葉があるように、「がり」は居場所ではなく、動かないもの(家、庭、池等々)の場所を指している。「方向」の場合は単に方角を指しているのでやや意味が異なる。彼女自身は動いてしまうので居場所は変わってしまう。細竹(しの)は文字通り細い竹、すなわち笹状の竹。「我れし」は強意の「し」。
「彼女の家に通う道に細竹やススキが生えている。私が通うので、どうかなびいて(伏して)おくれよ。細竹(しの)の原よ」という歌である。
詠鳥
1122 山の際に渡るあきさの行きて居むその川の瀬に波立つなゆめ
(山際尓 渡秋沙乃 行将居 其河瀬尓 浪立勿湯目)
「山の際(ま)に」は「山あいに」。「あきさ」はアイサで鴨の仲間の渡り鳥。
「山あいの川に飛んでいってそこに鴨のアイサがいることだろう。川瀬よゆめゆめ荒波を立てないでおくれ」という歌である。
1122 山の際に渡るあきさの行きて居むその川の瀬に波立つなゆめ
(山際尓 渡秋沙乃 行将居 其河瀬尓 浪立勿湯目)
「山の際(ま)に」は「山あいに」。「あきさ」はアイサで鴨の仲間の渡り鳥。
「山あいの川に飛んでいってそこに鴨のアイサがいることだろう。川瀬よゆめゆめ荒波を立てないでおくれ」という歌である。
1123 佐保川の清き川原に鳴く千鳥かはづと二つ忘れかねつも
(佐保河之 清河原尓 鳴知鳥 河津跡二 忘金都毛)
佐保川は、大伴氏宗家の大伴坂上郎女(おほとものさかのうえのいらつめ)が住んでいた居宅の近くを流れる川(奈良市)。本歌に詠われている千鳥だが、具体的にはどの鳥のことを指しているのか判然としない。万葉集には22例もあり、表記は「千鳥」が多いが、「乳鳥」、「智騰利」、「知鳥」、「智鳥」、「知等理」、「知登里」、「智杼利」と様々に表記されている。チドリ目に属する鳥は大変種類が多いが、川原に多く集まってきて人目に付きやすいなじみの鳥はユリカモメである。真っ白な鳥で「乳鳥」と表記されるに相応しい。なので私は万葉時代のちどりはユリカモメのことだと思っているが、「千鳥」という表記が多いことからすると、「多くの鳥たち」を意味している場合もあると考えている。
それはさておき、佐保川には千鳥が多かったようで、本歌のほかにも、371番歌、526番歌等にうたいこまれている。その中から一例挙げると715番歌に「千鳥鳴く佐保の川門の清き瀬を馬うち渡しいつか通はむ」とある。佐保川の千鳥に手間取ってしまったが、その鳴き声とかはず(河鹿)の鳴き声が強く印象に残ったようである。河鹿(かじか)は蛙の一種で、谷川に棲む。夏に美声を発して鳴く。
「佐保川の清い川原に鳴く千鳥と河鹿の声は忘れられない」という歌である。
(佐保河之 清河原尓 鳴知鳥 河津跡二 忘金都毛)
佐保川は、大伴氏宗家の大伴坂上郎女(おほとものさかのうえのいらつめ)が住んでいた居宅の近くを流れる川(奈良市)。本歌に詠われている千鳥だが、具体的にはどの鳥のことを指しているのか判然としない。万葉集には22例もあり、表記は「千鳥」が多いが、「乳鳥」、「智騰利」、「知鳥」、「智鳥」、「知等理」、「知登里」、「智杼利」と様々に表記されている。チドリ目に属する鳥は大変種類が多いが、川原に多く集まってきて人目に付きやすいなじみの鳥はユリカモメである。真っ白な鳥で「乳鳥」と表記されるに相応しい。なので私は万葉時代のちどりはユリカモメのことだと思っているが、「千鳥」という表記が多いことからすると、「多くの鳥たち」を意味している場合もあると考えている。
それはさておき、佐保川には千鳥が多かったようで、本歌のほかにも、371番歌、526番歌等にうたいこまれている。その中から一例挙げると715番歌に「千鳥鳴く佐保の川門の清き瀬を馬うち渡しいつか通はむ」とある。佐保川の千鳥に手間取ってしまったが、その鳴き声とかはず(河鹿)の鳴き声が強く印象に残ったようである。河鹿(かじか)は蛙の一種で、谷川に棲む。夏に美声を発して鳴く。
「佐保川の清い川原に鳴く千鳥と河鹿の声は忘れられない」という歌である。
1124 佐保川に騒ける千鳥さ夜更けて汝が声聞けば寐ねかてなくに
(佐保<川>尓 小驟千鳥 夜三更而 尓音聞者 宿不難尓)
佐保川は前歌参照。結句の「寐(い)ねかてなくに」は「寝ようにも寝られない」という意味である。
「佐保川に騒々しく鳴き交わす千鳥たちよ、夜が更けてから鳴かれると寝ようにも寝られないではないか」という歌である。
(佐保<川>尓 小驟千鳥 夜三更而 尓音聞者 宿不難尓)
佐保川は前歌参照。結句の「寐(い)ねかてなくに」は「寝ようにも寝られない」という意味である。
「佐保川に騒々しく鳴き交わす千鳥たちよ、夜が更けてから鳴かれると寝ようにも寝られないではないか」という歌である。
頭注に「故郷を思う歌」とある。
1125 清き瀬に千鳥妻呼び山の際に霞立つらむ神なびの里
(清湍尓 千鳥妻喚 山際尓 霞立良武 甘南備乃里)
「神なびの里」は「神々しい里」すなわち故郷のこと。
「清らかな瀬では千鳥たちが鳴き交わし、山あいには霞がたちこめていることだろう、ああ、わがふるさとよ」という歌である。
1125 清き瀬に千鳥妻呼び山の際に霞立つらむ神なびの里
(清湍尓 千鳥妻喚 山際尓 霞立良武 甘南備乃里)
「神なびの里」は「神々しい里」すなわち故郷のこと。
「清らかな瀬では千鳥たちが鳴き交わし、山あいには霞がたちこめていることだろう、ああ、わがふるさとよ」という歌である。
1126 年月もいまだ経なくに明日香川瀬々ゆ渡しし石橋もなし
(年月毛 末經尓 明日香川 湍瀬由渡之 石走無)
前歌には故郷名が詠われていないが、本歌の作者と同一人だとすると、本歌によって故郷は明日香の里だと知れる。「瀬々ゆ渡しし」は「瀬から瀬へと飛び石状に渡してあった石」のこと。なので、「石橋(いはばし)もなし」の石橋は石造り製の堅牢な橋のことではない。日々の生活の便のために石伝いに川を移動していた、その飛び石を示している。 「明日香の里を去ってまだ年月も間もないのに、明日香川を自在に往来したあの飛び石もなくなってしまった」という歌である。
(年月毛 末經尓 明日香川 湍瀬由渡之 石走無)
前歌には故郷名が詠われていないが、本歌の作者と同一人だとすると、本歌によって故郷は明日香の里だと知れる。「瀬々ゆ渡しし」は「瀬から瀬へと飛び石状に渡してあった石」のこと。なので、「石橋(いはばし)もなし」の石橋は石造り製の堅牢な橋のことではない。日々の生活の便のために石伝いに川を移動していた、その飛び石を示している。 「明日香の里を去ってまだ年月も間もないのに、明日香川を自在に往来したあの飛び石もなくなってしまった」という歌である。
井(ゐ)を詠んだ歌。
1127 落ちたぎつ走井水の清くあれば置きては我れは行きかてぬかも
(隕田寸津 走井水之 清有者 癈者吾者 去不勝可聞)
井(ゐ)を詠んだ歌。
1113番歌の読解の際、古来難訓とされる「八信井」を「走井(はしりゐ)」とするのでは歌意が不明なので「やつしゐ」という地名だと解した方がすっきりすると指摘した。「走井」の場合は本歌の原文に、「八信井」ではなく、ちゃんと「走井」と記されている。
さて、本歌は平明に見えて意外に難解歌である。「走井(はしりゐ)」とは何であろう。井は一般的には次歌によってもうかがえるように、飲料用等に掘って地下水を利用する設備、つまり井戸である。地下水に限らず石清水や吹き上がる泉でもよかろう。要は生活用水を取り込む設備のこと。本歌には走井とある。走井は全万葉集歌を探しても本歌以外に全く見あたらない。本歌は「落ちたぎつ走井」という詠い方をしている。どうやら「激しく流れ落ちてくる井戸水」を指しているようだ。生活用水が流れ落ちるのに「落ちたぎつ」は大袈裟な表現に思える。もっと問題なのは下二句の「置きては我れは行きかてぬかも」である。「このまま去りがたい」という意味だが、絶景の地ならともかく、生活用水が流れ出てくる様子を見てこう締めくくるのはどこか似つかわしくない。私には激しく落下してくる滝のように思われてならない。一応以下のように解しておきたい。頭注に「井(ゐ)を詠んだ歌」とあるので、釈然としないけれど。
「勢いよく落下して来る滝の水があまりにもすがすがしいので立ち去りがたい」という歌である。
1127 落ちたぎつ走井水の清くあれば置きては我れは行きかてぬかも
(隕田寸津 走井水之 清有者 癈者吾者 去不勝可聞)
井(ゐ)を詠んだ歌。
1113番歌の読解の際、古来難訓とされる「八信井」を「走井(はしりゐ)」とするのでは歌意が不明なので「やつしゐ」という地名だと解した方がすっきりすると指摘した。「走井」の場合は本歌の原文に、「八信井」ではなく、ちゃんと「走井」と記されている。
さて、本歌は平明に見えて意外に難解歌である。「走井(はしりゐ)」とは何であろう。井は一般的には次歌によってもうかがえるように、飲料用等に掘って地下水を利用する設備、つまり井戸である。地下水に限らず石清水や吹き上がる泉でもよかろう。要は生活用水を取り込む設備のこと。本歌には走井とある。走井は全万葉集歌を探しても本歌以外に全く見あたらない。本歌は「落ちたぎつ走井」という詠い方をしている。どうやら「激しく流れ落ちてくる井戸水」を指しているようだ。生活用水が流れ落ちるのに「落ちたぎつ」は大袈裟な表現に思える。もっと問題なのは下二句の「置きては我れは行きかてぬかも」である。「このまま去りがたい」という意味だが、絶景の地ならともかく、生活用水が流れ出てくる様子を見てこう締めくくるのはどこか似つかわしくない。私には激しく落下してくる滝のように思われてならない。一応以下のように解しておきたい。頭注に「井(ゐ)を詠んだ歌」とあるので、釈然としないけれど。
「勢いよく落下して来る滝の水があまりにもすがすがしいので立ち去りがたい」という歌である。
1128 馬酔木なす栄えし君が掘りし井の石井の水は飲めど飽かぬかも
(安志妣成 榮之君之 穿之井之 石井之水者 雖飲不飽鴨)
166番歌で言及したように、馬酔木(あせび又はあしび)は磯などに自生する常緑灌木である。春の花。「馬酔木なす」は「馬酔木の花々のように」という意味。
「馬酔木の花々のように栄えた君が掘って作った石井戸の水はおいしくていくら飲んでも飽きることがない」という歌である。
(2014年4月29日記、2018年4月4日記)
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(安志妣成 榮之君之 穿之井之 石井之水者 雖飲不飽鴨)
166番歌で言及したように、馬酔木(あせび又はあしび)は磯などに自生する常緑灌木である。春の花。「馬酔木なす」は「馬酔木の花々のように」という意味。
「馬酔木の花々のように栄えた君が掘って作った石井戸の水はおいしくていくら飲んでも飽きることがない」という歌である。
(2014年4月29日記、2018年4月4日記)