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古寺慈眼寺

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 前回慈眼寺を訪れた際、丁寧に場所探しをしていただいたご夫婦に出合って感激したことを述べた。肝心の慈眼寺だが、別途機会を設けて記事化するつもりでいたが、なかなか出来そうにないので、ここで感想だけでも記しておきたい。
 同寺は名古屋市内の名刹中でも屈指の名刹である。私がいう名刹とは創建年が古いというのを第一条件にしているので、やや片寄っているかもしれない。伝承によれば、創建は大同4年(809年)というから滅法古い。延喜式式内社が発表された頃よりも百年ほども古い。遠州秋葉山の三尺坊尊が創建し、永禄三年(1560年)織田信長が桶狭間の戦いの折、中興したと伝えられる由緒深い寺である。
 創建が大同4年以前に遡る寺は、守山区の竜泉寺、中区の長福寺、中川区の荒子観音と宝珠院、中村区の願成寺、南区の笠寺観音、北区の成願寺くらいしか記憶にない。有名な昭和区の興正寺は1686年、千種区の日泰寺は1904年が創建年だから慈眼寺の創建が際だって古いことが分かる。
 さて、正門をくぐるとすぐ本堂かと思ったが、参道がかなり急坂になっていて、結構距離がある。気管支炎気味の私には結構きつかった、が、きつい思いをして境内にたどり着くと、本堂はさらに石段を登らないといけない。寺といいながら神社のような雰囲気を醸し出していた。木立に包まれ、森閑としたたたづまいの本堂だった。村社針名神社を擁しているので、あるいはそのせいかもしれない。
 いずれにしろ、具体的にはっきりしたものはないが、古い名刹に相応しい寺であった。こうしたちょっとした背景を頭に入れていたためか、本当に気分が落ち着き、合掌するときは、そこはかとなく神妙な気分に包まれた。京都ほどではないにしろ、ここ名古屋にもこうした寺があって、有り難い気分になった。
           (2015年10月8日)
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賽銭投げ挙げ

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 この月曜日、久々にお千代保稲荷(岐阜県海津市)に出かけた。お稲荷さんは大方ご承知のように商売繁盛の神様である。寺巡り等単独行の多い私だが、この日は相棒と出かけた。相棒も私も人混みが好きなので、ときとして人の集まる場所に出かける。人混みにもまれていると、不思議に気が休まり、活力を注入される気分になる。
 さて、商売とは縁のない私などはとりたててお願いすることもないわけだが、相棒とわが健康とを祈願して本殿に合掌した。祈願を終えて本殿を半周し、左側面に出たとき、珍しい光景に出くわした。側面の屋根に向かって勢いよく賽銭を投げ挙げる光景である。一人だけの奇行でないことは、先ず一人が投げ挙げ、合掌中に、次の参拝客が勢いよく投げ挙げる姿勢に移っていたからである。
 たんに気づかなかっただけかもしれないが、これまで幾度もお稲荷さんを訪れているが、賽銭を投げ挙げる光景に出くわしたことがない。何か不思議な光景を見るような思いで思わず足を止めてしまった。本殿の正面はつい目と鼻の先だ。賽銭箱が置いてあるように思われるので、側面からも参拝できるようになっているのだろうか。参拝客がごったがえしていて、その頭越しに投げる光景は熱田神宮などでみたことがある。が、参拝客もほとんどいないのに投げ挙げるのは何だろう。
 いずれにしろ、賽銭を屋根に向かって勢いよく投げ挙げる光景は尋常ではない。とりわけ私のように、一円たりとお金を投げ挙げるなど、天に向かってツバするような思いで育った者が出来る行為ではない。はっきりいうと、その私などには奇行にしか見えない。時代が変わったとみるべきなのか、そういう行為でもお参りすればご利益があるということなのか、どう考えたらいいのか理解に苦しむ光景だった。最近のテレビ番組でやたらグルメ番組が多いのと一脈通じているように思われた。
           (2015年10月9日)
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古木楠

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 名古屋市中村区岩塚町に七所社という神社がある。私の居住地から車で七、八分の至近距離だ。昭和7年に「御田天神」と刻印された神鏡が発見され、延喜式神名帳に「愛智郡御田社」と登載される、いわゆる式内社のひとつである。神鏡の発見により、同時代史料を持つ、式内社中でも稀有な神社として注目されている。これを記事化し、本ブログにも掲載してある。
 昨日、その七所社の近くを通りかかったので、ふっと立ち寄る気になった。ここんところ寺巡りに夢中になっていて、神社の持つ荘厳な雰囲気を求めていたのかも知れない。境内に入ると、5年前に夢中になって見て回った頃を思い出してなつかしかった。本殿まで進んで合掌し、拝礼して左側に身を向けると、私の目に楠(クスノキ)が目にとまった。大変な巨木で、離れてみると、本殿の2倍余の高さを持つ。幹の大きさから推して、おそらく数百年以上にもなる巨木だ。境内の中で、本殿はもとよりどの境内社よりも長い年月を生き続けてきた古木に相違ない。
 当時の記事を読み返してみてもこの古木のことは触れられていない。撮ってきた写真を探しても見あたらない。気がつかなかったのだろうか。あの巨木が目に入らない筈はなく、きっと木に関心がいっていなかったのだろう。巨木楠の存在。それを私は今回確認し、ちょっと恥ずかしい気分に襲われた。私にとってそれは新たな発見であった。同じ場所、同じ光景、それを漫然とみていたのかもしれない。このことから、人間、同じものを見てもきっと見落としがあり、新たな発見があるに相違ないと思った。
 それにしても、それにしてもである。境内中もっとも古くから世の中をみてきた生き証人の楠を見落としていたなんて・・・。とてもじゃないがとうてい自慢できる話じゃありませんね。
           (2015年10月11日)
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万葉集読解・・・180(2923~2944番歌)

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     万葉集読解・・・180(2923~2944番歌)
2923  ただ今日も君には逢はめど人言を繁み逢はずて恋ひわたるかも
      (直今日毛 君尓波相目跡 人言乎 繁不相而 戀度鴨)
 「ただ今日も」は原文「直今日毛」で分かるように「今日すぐにでも」という意味である。「逢はめど」は「逢いたいのですが」という意味。「人言を繁み」は「~ので」の「み」
 「今日すぐにでもあなたにお逢いしたいのですが、ひとの口がうるさいのでお逢いしないまま恋続けていました」という歌である。

2924  世の中に恋繁けむと思はねば君が手本をまかぬ夜もありき
      (世間尓 戀将繁跡 不念者 君之手本乎 不枕夜毛有寸)
 「恋繁けむと」は「恋というものがこんなに激しいものだとは」である。「手本をまかぬ」は「共寝をしない」こと。「世の中に恋というものがこんなに激しいものだとは思わなかったので、あなたと共寝をしない夜もあった」という歌である。

2925  みどり子のためこそ乳母は求むと言へ乳飲めや君が乳母求むらむ
      (緑兒之 為社乳母者 求云 乳飲哉君之 於毛求覧)
 「みどり子」は「赤子」のこと。「赤ちゃんのためにこそおっぱいを求めるというのでしょ。乳でも飲むんですか。あなたがおっぱいを求めるのは」という歌である。本歌はあっけらかんとした万葉歌の特徴が出ている。

2926  悔しくも老いにけるかも我が背子が求むる乳母に行かましものを
      (悔毛 老尓来鴨 我背子之 求流乳母尓 行益物乎)
 文字通り「乳母(めのと)として参上する」と読めないことはない。が、「我が背子が」とあるので相手は成人男性。前歌と関連づけて解すれば、恋の拒絶歌。「悔しいけれど老いてしまいましたわ。若ければ、あなたが求めるおっぱいをあげに行きたいのですが」という歌である。

2927  うらぶれて離れにし袖をまたまかば過ぎにし恋い乱れ来むかも
      (浦觸而 可例西袖(口+リ) 又巻者 過西戀以 乱今可聞)
 「うらぶれて」は「心がしぼんで」、「またまかば」は「また共寝したら」という意味。「過ぎにし恋い」の「い」は強調。「心がしぼんで離れてしまったあの子の袖それをまた巻いて共寝をしたならば、過ぎ去ってしまった恋、その恋が再び乱れ来るかも」という歌である。

2928  おのがじし人死にすらし妹に恋ひ日に異に痩せぬ人に知らえず
      (各寺師 人死為良思 妹尓戀 日異羸沼 人丹不所知)
 「おのがじし」は「それぞれに」、「日(ひ)に異(け)に」は「日増しに」という意味。「人に知らえず」は「彼女に知られないまま」という意味である。「人はそれぞれのあり方で死ぬもののようだ。(私の場合は)彼女に恋い焦がれ日増しにやせ衰えて(死ぬかも知れない。)彼女に知られることもなく」という歌である。

2929  宵々に我が立ち待つにけだしくも君来まさずは苦しかるべし
      (夕々 吾立待尓 若雲 君不来益者 應辛苦)
 「けだしくも」は「もしかして」。他は読解不要の平明歌。「毎夜毎夜戸口に立っておいでになるのをお待ちしています。が、ひょっとしてあなたがおいでにならなければさぞかし苦しいでしょうね」という歌である。

2930  生ける世に恋といふものを相見ねば恋のうちにも我れぞ苦しき
      (生代尓 戀云物乎 相不見者 戀中尓毛 吾曽苦寸)
 「生ける世に」は「生まれてこの方」、「相見ねば」は「出合ったことがない」という意味。「生まれてこの方恋というものに出合ったことがない。が、実際に恋の最中にいると、とても苦しくてたまらない」という歌である。

2931  思ひつつ居れば苦しもぬばたまの夜に至らば我れこそ行かめ
      (念管 座者苦毛 夜干玉之 夜尓至者 吾社湯龜)
 「思ひつつ居れば」は「あなたを思ってじっと待っていると」という意味である。「ぬばたまの」はおなじみの枕詞。「あなたを思ってじっと待っていると苦しくてなりません。夜になったらこちらからうかがおうかしら」という歌である。万葉の時代であっても、この歌のように女性の方から訪ねるという例があったことをうかがわせる。

2932  心には燃えて思へどうつせみの人目を繁み妹に逢はぬかも
      (情庭 燎而念杼 虚蝉之 人目乎繁 妹尓不相鴨)
 「うつせみの」は「現実には」。「人目を繁み」は「~ので」の「み」。「心の中では彼女に燃えたぎっているけれど、現実には人の目がうるさいので彼女になかなか逢えない」という歌である。

2933  相思はず君はいませど片恋に我れはぞ恋ふる君が姿に
      (不相念 公者雖座 肩戀丹 吾者衣戀 君之光儀)
 「相思はず」は「互いに思わない」すなわち「私のことなど思わない」という意味。「いませど」は「いらっしゃらない」という敬語。「私のことなど思って下さらないでしょうが、私の方はあなたのお姿に恋い焦がれています」という歌である。

2934  あぢさはふ目は飽かざらねたづさはり言とはなくも苦しくありけり
      (味澤相 目者非不飽 携 不問事毛 苦勞有来)
 「あぢさはふ」は5例あるが、短歌は本歌のほかに2555番歌一例。枕詞(?)。難解な用語。本歌も歌意難解。「目は飽かざらね」は「目にはしばしば見かけるが」という意味か。「たづさはり」は「相携わり」と「相」を補って解される。私は難解歌と断って次のように解しておきたい。「いつもお見かけしていますが、近くに寄ってお話できないのは苦しゅうございます」という歌である。

2935  あらたまの年の緒長くいつまでか我が恋ひ居らむ命知らずて
      (璞之 年緒永 何時左右鹿 我戀将居 壽不知而)
 「あらたまの」は枕詞。「命知らずて」は「いつまで生きているかわかりもしないのに」という意味である。「長い年月、いつまで恋い焦がれているというのか、いつまで生きているかわかりもしないのに」という歌である。

2936  今は我は死なむよ我が背恋すれば一夜一日も安けくもなし
      (今者吾者 指南与我兄 戀為者 一夜一日毛 安毛無)
 とりたてて解説を要する用語もあるまい。平明歌。「もう今私は死にそうです。私のあなた、あなたに恋い焦がれていると、一晩も一日も気が休まる時がありません」という歌である。

2937  白栲の袖折り返し恋ふればか妹が姿の夢にし見ゆる
      (白細布之 袖折反 戀者香 妹之容儀乃 夢二四三湯流)
 「白栲(しろたへ)の」は「白い布の」ないし袖の美称。「袖折り返し」は折り返して寝ると恋人が夢に出てくると信じられていた。2812番歌に「~白栲の袖返ししは夢に見えきや」と詠われている。「白栲の袖を折り返して恋い焦がれ寝たせいか彼女の姿が夢に出てきた」という歌である。

2938  人言を繁み言痛み我が背子を目には見れども逢ふよしもなし
      (人言乎 繁三毛人髪三 我兄子乎 目者雖見 相因毛無)
 「人言(ひとこと)を繁(しげ)み」は「人の口が激しいので」、「言痛(こちた)み」は「うるさいので」。「み」は「~ので」。両方合わせて「人の口が激しくうるさいので」という意味である。「逢ふよしもなし}は「逢うてだてがない」。「人の口が激しくうるさいので、あの方を見かけることは出来ても直接逢うてだてがない」という歌である。

2939  恋と言へば薄きことなりしかれども我れは忘れじ恋ひは死ぬとも
      (戀云者 薄事有 雖然 我者不忘 戀者死十万)
 「薄きことなり」は、むろん「薄っぺら」としてもいいし「通り一遍」ないし「なんでもない」としてもよかろう。「恋といえばなんでもないことのように思える。けれども、私は忘れはしない。恋い焦がれて死ぬことになっても」という歌である。

2940  なかなかに死なば安けむ出づる日の入る別知らぬ我れし苦しも
      (中々二 死者安六 出日之 入別不知 吾四九流四毛)
 「なかなかに」は「いっそのこと」、「出づる日の入る別」は「太陽がいつ出てきていつ沈むのか分からない」という意味である。「いっそのこと死んでしまえば安らかになるだろう。太陽がいつ出てきていつ沈むのか分からない私、苦しくてたまらない」という歌である。

2941  思ひ遣るたどきも我れは今はなし妹に逢はずて年の経ぬれば
      (念八流 跡状毛我者 今者無 妹二不相而 年之經行者)
 「思ひ遣る」は「この思いを放つ」すなわち「思いを晴らす」という意味。「たどき」は「方法」ないし「手段」。「この思いを晴らす手だては今の私にはない。彼女に逢えないまま年月が経ってしまったので」という歌である。

2942  我が背子に恋ふとにしあらしみどり子の夜泣きをしつつ寐ねかてなくは
      (吾兄子尓 戀跡二四有四 小兒之 夜哭乎為乍 宿不勝苦者)
 上二句と下三句は倒置表現。「恋ふとにしあらし」は「恋い焦がれているらしい」という意味である。「寐(い)ねかてなくは」は「寝られないのは」。「あの人に私は恋い焦がれているらしい。まるで赤子のように夜泣きして寝られないのは」という歌である。

2943  我が命の長く欲しけく偽りをよくする人を捕ふばかりを
      (我命之 長欲家口 偽乎 好為人乎 執許乎)
 「長く欲しけく」は「長くあって欲しい」という意味。「偽りをよくする人を」だが、これを「たびたび嘘をつく人を」と解すると、全体の歌意と矛盾する。「たびたび嘘をつく人」なら「いつだってとらえてとっちめればよさそう」だからである。ここは体よく遊ばれてしまった女の執念を感じる。「私の命は長くあって欲しい。巧みに嘘をついてだましたあの男をいつかとっつかまえてとっちめるために」という歌である。

2944  人言を繁みと妹に逢はずして心のうちに恋ふるこのころ
      (人言 繁跡妹 不相 情裏 戀比日)
 「人言を繁み」は2938番歌に出てきたばかり。「人の口が激しいので」という意味。「人の口が激しいので彼女には逢わないようにし、心の中で恋い焦がれているばかりのこのごろです」という歌である。
           (2015年10月14日記)
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恋の普遍性

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 右眼の手術が一ヶ月ほど延びたので、その間に少しでも万葉集の読解を進めておこうと暇をみては進めている。現在巻12にとりかかっているが、恋の歌がえんえんと続いている。これに接していて思ったのは人間の思うことは今も昔もあまり変わらないな、ということである。このことは多くの人が抱く思いだろうが、とりわけ恋の歌に接していると、強く意識させられる。
 たとえば万葉集2944番歌に「人言を繁みと妹に逢はずして心のうちに恋ふるこのころ」という歌がある。「人の口が激しいので彼女には逢わないようにし、心の中で恋い焦がれているばかりのこのごろです」という歌である。
他方、五木ひろしの「いつでも夢を」という歌の一節に「言っているいる お待ちなさいな いつでも夢を いつでも夢を」とある。「ひそかに思いを寄せる心情」を歌にしている。
 むろんこんな恋の心情を披露したものは今も昔も枚挙に暇がない。万葉集では多様な恋の心情はこれでもかこれでもかと詠われていて、もう出尽くしている、と思われるほどだ。ところが、以降えんえんと現代に至るまで、手を変え品を変えて恋の歌は途切れることなく詠われ続けている。
 しかもどの一つとして同じものはなく、老若男女多くの人々の多くの時間を費やし続けている。こういうことを考えると、古代に生きた万葉の人々の日常の悩みも苦しみも喜びも「ほれたはれた」の世界であったらしいことがうかがえる。全く現代と何ら変わることのない日常だったのである。万葉集、それは現代と変わらぬ日常の喜怒哀楽を表現しているのだ。古代の人々にも「ほれたはれた」の世界があったことを証拠立てる世界的遺産、それが万葉集だと思われてならないのである。 
           (2015年10月15日)
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老成

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 昨日、今日の二日間、作家や詩歌に携わった人々の生没年と特記事項を調べていた。一例だけ掲げると次の通りである。
 ★三島由紀夫(ミシマユキオ)、1925年01月14日~1970年11月25日、45歳没(1970年陸上自衛隊市谷駐屯地に籠城。割腹自殺。金閣寺、潮騒、豊饒の海、サド侯爵夫人他)。
 これを松尾芭蕉以下82人にわたって調べ整理した。選定の方法は何のことはない。私が20代の頃夢中になって愛読した作家、詩人たちである。さすがに疲れた。
 目的はふっと老成について一文を弄しようと思ったからである。老成とは人生経験を積んで老熟になることである。最近は小説や詩歌から遠ざかっているが、20代の頃は老成が分からなかった。当たり前じゃないかって。ただ私自身は何となく分かったつもりであった。が、具体的には何のことか分からなかった。夏目漱石のように、年を重ねるごとに作品に進化がみられるということはあるが、例外だ。一般に、総じて終生変わらない作品を残している。
 作品は各作家の心情の反映である。個性が大きく変わることはある筈はないのだ。平均没年齢は62歳。しかも作品は集中の中で生み出される。老成は言葉ほど感じられない。私は62歳を遙かにオーバーしている。とっくの昔に老成していておかしくない。否、老成していなければおかしいのだ。
 ところがわが精神生活は少しも老成していない。好奇心にあふれており、進歩する筈もないのに、まだ進歩するつもりでいる。いわば「やんちゃ坊主」がまだ残っている。
 こんなことを考えると、人はそれぞれ、石川啄木や金子みすずのように20代で早くも夭折した芸術家もいれば、高浜虚子や志賀直哉のように80代に入っても活躍した人もいる。これは活力の問題なのではないか。下手に老成を意識すれば退歩につながってしまうのではないか、これが現在の私の老成感である。
           (2015年10月17日)
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老成2

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 前回、老成について記した。具体的な例を有名作品から見つけようかと思ったが、それらしいものはなかなか見いだせない。それもその筈、そうした代表作品群は、各作家や詩歌人がもっとも集中力の高い、ある意味では老成とは反対の最活躍期に生み出されているからである。石川啄木 金子みすず、樋口一葉、小林多喜二、新美南吉といった20代で夭折した人々を除くと大部分が30代、40代の現代的な感覚で見れば、壮年期に発表している。たとえば高名な芭蕉の「奥の細道」、若いころにはとてつもない年長の人に見えたが、46歳頃の発表だ。斎藤茂吉の{あらたま」は39歳頃だ。井原西鶴の「好色一代男」や「好色一代女」は40代前半だ。そもそも、大変な年長者に見えた夏目漱石の絶筆「明暗」は49歳だ。川端康成の「雪国」も38歳ごろという今の私から見れば信じがたい若さで作品を完成させている。つまり、老境だの老成だのと語られる年代ではない。
 60代になってからの代表作はほとんどない。志賀直哉の「暗夜行路」は16年ほどの歳月をかけて完成させているが、それでもその完成は50代前半だ。
 こうしたことを考えると、そもそも名作の中から老成を見つけ出そうとすること自体が無理な試みなのである。老成していたら、精神の集中が難しく、作品としてこの世に登場してこなかったと思われる。
 逆にいうと、老成とは何かは直感的に分かる概念だけれども、具体的に例示して、かくかくしかじかと示すことは極めて困難ということになる。
 結論、老成とはつかみどころがなく、断定しがたい。誰しも年はとりたくないが、月日とともに老いていくことは避けられない。大事なことは老成など意識しない方がいいのではないか。かりに生きるとは活力の持続ととらえれば、この世にいる限り活力の持続に努めたいものである。
           (2015年10月19日)
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原点復帰

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 最近私はしきりに原点復帰を求めている。原点復帰とはふるさとのことなのだが、私は名古屋で生まれ、岐阜県笠原町で幼少期を過ごした。名古屋のことはほとんど記憶にないので、実質的には笠原町ということになる。が、私の言う原点復帰は精神上のふるさとである。小林一茶は「われと来て遊べや親のない雀」と後年になって作句している。自分の子供の頃を思い出しての句とされている。原点復帰の一種である。私の場合は具体的には香川県小豆島である。
 小豆島との縁は香川県庁に勤めさせていただいたことに始まる。仕事柄小豆島の役場と関係をもち、しばしば訪れることになった。最初に訪島したのはそれを遡る数年前、20代の前半。感受性の高かった私は、小豆島全体の雰囲気に衝撃を受けた。オリーブ、寒霞渓、ことごとくが私を引きつけてやまなかった。小豆島で宿をとり、遠い沖に目をやりながら、短歌の道に進もうかなどと考えた。むろん、貧乏で才能もない私には進める道ではなかった。ところが、最近になってしきりに原点復帰を求め出したのだ。当時の風景や心情を思い起こして疼いている。
   遠ざかる沖船眺め行く末を思い描きしオリーブの宿
   柿の実や船がゆくゆく定めなくいずこを指して飛ぶ白かもめ
   行く末を不安に思い福田港眼前の島も遠くに見ゆる
 当時を思い出して今作歌した歌である。ほんのいっときだけの懐旧(原点復帰)なのか、あるいは本格的に時間を割いて次々と作歌に至る前触れなのか判然としない。もしも本格的な原点復帰なら史上最高齢の歌人となるかも知れない。まさか、そんなことある筈もない。ただ、青年時代の夢を思い出すことは私に限らず誰にも出来ることに相違ない。それもまたこの世に自分が生きている証拠に相違ない。
           (2015年10月21日)
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万葉集読解・・・181(2945~2963番歌)

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     万葉集読解・・・181(2945~2963番歌)
2945  玉梓の君が使を待ちし夜のなごりぞ今も寐ねぬ夜の多き
      (玉<梓>之 君之使乎 待之夜乃 名凝其今毛 不宿夜乃大寸)
 「玉梓(たまづさ)の」は枕詞説もある。確かに枕詞的な使われ方をしている。が、梓(あずさ)の小枝に文(ふみ)を結びつけて使いの者を通して意志のやりとりをしたことを意味している。「あなたからの手紙をもってやってくる使いを今か今かと待っていて寝られなかった。そんななごりなのか今でもなお寝られない夜が多い」という歌である。

2946  玉桙の道に行き逢ひて外目にも見ればよき子をいつとか待たむ
      (玉桙之 道尓行相而 外目耳毛 見者吉子乎 何時鹿将待)
 「玉桙(たまほこ)の」は枕詞。「外目(よそめ)にも」は「傍目(はため)に見ても」という意味。「いつとか待たむ」は現代風な言い方をすれば「いつの日か彼女を待つ身になりたい」という意味である。「道ですれちがって、いわば傍目(はため)に見てもきれいな子。いつの日かその子を(彼女にして)待つ身になりたい」という歌である。

2947  思ひにしあまりにしかばすべをなみ我れは言ひてき忌むべきものを
      (念西 餘西鹿齒 為便乎無美 吾者五十日手寸 應忌鬼尾)
 現代的感覚ではややもたもたした表現に見える。が、結句の「忌むべきものを」でぴしっと決まっている。「思ひにしあまりにしかば」は「思いあまって」。「すべをなみ」は「~ので」の「み」。「言ひてき」は「口に出してしまった」という意味。「恋心に思いあまってどうしようもなくなったので、ついその思いを口に出してしまった。滅多なことでは口に出してはならないのに」という歌である。
 この歌には異伝歌が示されていて、次のように記されている。
 或本歌曰(門に出でて我が恋ふすを人見けむかも)。一云(すべをなみい出てぞ行きし家の辺り見に)。柿本朝臣人麻呂歌集云(にほどりのなずさひこしを人見けむかも) 
 或本歌曰 (門出而 吾反側乎 人見監可毛) 一云(無乏 出行 家當見 )柿本朝臣人麻呂歌集云(尓保鳥之 奈津柴比来乎 人見鴨)
 つまり、或本には「門に出て恋しさにうずくまってしまったのを人に見られ~」とある。また或る本には「どうしようもなく、外出して恋人の家の辺りを見に~」とある。さらに柿本人麿歌集には「水中に出入りするにほどり(かいつぶり)になってやっとやって来たのを、人に見られて~」とある。
 以上、この異伝歌は内容的に2947番歌ではなく、次歌(2948番歌)の前置きかも知れない。

2948  明日の日は其の門行かむ出でて見よ恋ひたる姿あまたしるけむ
      (明日者 其門将去 出而見与 戀有容儀 數知兼)
 「明日の日は」は「明日」、「あまたしるけむ」は「十分に分かるでしょう」という意味。
 「明日私はあなたの家の門の前を通ります。門を出てみてごらん。恋にやつれた私の姿が十分に分かるでしょう」という歌である。

2949  うたて異に心いぶせし事計りよくせ我が背子逢へる時だに
      (得田價異 心欝悒 事計 吉為吾兄子 相有時谷)
 「うたて」は「しきりに」、「異(け)に」は「いつもと異なって」で、要するに「うたて異に」は「いつになくしきりに」という意味である。「いぶせし」は「気分がすぐれない」、「事計りよくせ」は「何か心が晴れるようなこと」という意味。
「いつになくしきりに心がどんよりしているの。あなた、何か心が晴れるようなことないかしら。こうして逢っているときくらい」という歌である。

2950  我妹子が夜戸出の姿見てしより心空なり地は踏めども
      (吾妹子之 夜戸出乃光儀 見而之従 情空有 地者雖踐)
 このままで分かるだろう平明歌。「私の思うあの子が夜、戸口に出てきた立ち姿を見てからというもの、心は上の空、土は踏んでいるけれども」という歌である。

2951  海石榴市の八十の衢に立ち平し結びし紐を解かまく惜しも
      (海石榴市之 八十衢尓 立平之 結紐乎 解巻惜毛)
 「海石榴市(つばきち)の」は椿市の開かれた所。「八十(やそ)の衢(ちまた)に」は四方八方から道が寄り集まって来る所。大きな広場になっていたようだ。「立ち平(なら)し」は「地面を踏みならし」という意味。ここまで何のことか分からない。が、若い男女が寄り集まってきて歌ったり踊ったりする、いわば歌垣が開かれた場所のようで、そう理解すればよく分かる。「椿市の開かれた海石榴市(つばきち)の広場でみんなで地面を踏みならし踊ったとき、その際結び合った着物の紐を解くのが惜しい」という歌である。

2952  我が命の衰へぬれば白栲の袖のなれにし君をしぞ思ふ
      (吾<齡>之 衰去者 白細布之 袖乃<狎>尓思 君乎母准其念)
 「白栲(しろたへ)の」は「白い布の」ないし袖の美称。「なれにし」は袖にも君にもかかる「慣れ親しんだ」という意味である。「私の命が衰えてきて真っ白な袖やあなたに慣れ親しんだことばかりを思っています」という歌である。

2953  君に恋ひ我が泣く涙白栲の袖さへ濡れてせむすべもなし
      (戀君 吾哭<涕> 白妙 袖兼所漬 為便母奈之)
 「白栲(しろたへ)の」は前歌参照。「せむすべもなし」は「どうしようもありません」という意味。「あなたに恋い焦がれ、泣きこぼれる私の涙は袖さえ濡らし、どうしようもございません」という歌である。

2954  今よりは逢はじとすれや白栲の我が衣手の干る時もなき
      (従今者 不相跡為也 白妙之 我衣袖之 干時毛奈吉)
 「白栲(しろたへ)の」は前々歌参照。「今よりは逢はじと」は作者の心情ではない。「~すれや」とあるので相手の言葉である。「もうこれからは逢わないとおっしゃるのですか。白栲の着物の袖が乾く時がありません」という歌である。

2955  夢かと心惑ひぬ月まねく離れにし君が言の通へば
      (夢可登 情班 月數多 干西君之 事之通者)
 「月まねく」は原文に「月數多」とあるように、「何ヶ月も」という意味。「夢ではないかと心が騒ぎました。何ヶ月も離れ途絶えていたあなたから便りが届いたのですもの」という歌である。

2956  あらたまの年月かねてぬばたまの夢に見えけり君が姿は
      (未玉之 年月兼而 烏玉乃 夢尓所見 君之容儀者)
 「あらたまの」も「ぬばたまの」も枕詞。ただし「ぬばたまの」の方は夜が省略されている。「年月かねて」は「長い年月にわたって」という意味である。「長い年月にわたってお逢いしてませんね。でもあなたの姿はその間も夜の夢に出てきてお逢いしてますわ」という歌である。

2957  今よりは恋ふとも妹に逢はめやも床の辺去らず夢に見えこそ
      (従今者 雖戀妹尓 将相<哉>母 床邊不離 夢<尓>所見乞)
 「今よりは」は「これからは」、「見えこそ」は「見えてほしい」という意味。「これからは恋い焦がれようと、彼女に逢えないだろうな。が、床の辺から去らず、せめて夢に出てきて欲しい」という歌である。

2958  人の見て言とがめせぬ夢にだにやまず見えこそ我が恋やまむ
      (人見而 言害目不為 夢谷 不止見与 我戀将息)
 「言(こと)とがめせぬ」は「噂になる」という意味である。「我が恋やまむ」はむろん「恋が終わる」という意味ではなく「恋に苦しむ心も安まる」という意味である。「人が見とがめて噂にならない夢の中、そんな夢の中だけでも逢うことができれば、私の恋の苦しみも休まるだろうに」という歌である。異伝歌として以下のようにある。
 或本歌頭云(人目多み直には逢はず)、或本歌頭云(人目多 直者不相)
 或本の出だしの句に「人の目が多いので直接逢えないが」とある。

2959  うつつには言も絶えたり夢にだに継ぎて見えこそ直に逢ふまでに
      (現者 言絶有 夢谷 嗣而所見与 直相左右二)
 「うつつには」は「現実には」。他は読解不要だろう。「現実には音信不通になろうとも、せめて夢の中に出てきて続けて逢ってほしい。直接逢える時が来るまで」という歌である。

2960  うつせみの現し心も我れはなし妹を相見ずて年の経ぬれば
      (虚蝉之 宇都思情毛 吾者無 妹乎不相見而 年之經去者)
 「うつせみの」は「現実には」とか「この世のこと」等々の意味。「現(うつ)し心」は「生きている心」である。「この世に生きている人の心ももう私にはない(甲斐がない)、彼女に逢えないまま何年も経ってしまったので」という歌である。

2961  うつせみの常のことばと思へども継ぎてし聞けば心惑ひぬ
      (虚蝉之 常辞登 雖念 継而之聞者 心遮焉)
 「うつせみの」は前歌参照。「うつせみの常のことば」は「世間一般の通り一遍の言葉(外交辞令)」という意味である。「世間一般の通り一遍の言葉(外交辞令)とは思うけれど、続いて聞かされるとひょっとしてと心が乱れます」という歌である。

2962  白栲の袖離れて寝るぬばたまの今夜は早も明けば明けなむ
      (白細之 袖不數而<宿> 烏玉之 今夜者<早毛> 明<者>将開)
 「白栲(しろたへ)の」は「白い布の」ないし袖の美称。「ぬばたまの」はおなじみの枕詞。「今宵はあの子の袖から離れ、一人寝なければならない。こんな夜など明けるなら早く明けてしまえばよいのに」という歌である。

2963  白栲の手本寛けく人の寝る味寐は寝ずや恋ひわたりなむ
      (白細之 手本寛久 人之宿 味宿者不寐哉 戀将渡)
 「白栲(しろたへ)の」は前歌参照。「手本寛(たもとゆた)けく」は「袖をゆったり広げ」という意味である。「人々は」が略されている。「味寐(うまい)」は安眠のこと。「恋ひわたりなむ」は「恋続けることだろう」という意味。「人々は袖をゆったり広げ、安眠につく夜なんだろうが、この私は寝られずずっと恋続けることだろう」という歌である。
           (2015年10月23日記)
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セイタカアワダチソウ

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 昨日、国道302号線(環状道路)を走行していたらセイタカアワダチソウに出合った。国道302号線は名古屋を一周する環状線だが、とりあえずそのことはさておいて、私は飛島村から北上していた。国道1号線を渡ってしばらく走っていたら、分離帯にススキの穂とともに黄色が目立つ大きな草が生えていた。思わず私は叫んだ。「セイタカアワダチソウだ」と・・・。同乗していた相棒(GF)が「よく知ってるわね」。
 ずっと以前、書いた記憶があるが、レッドロビンの時も同様に言われたことがある。キクやコスモスに比べれば確かに一般的な草花ではない。レッドロビンについてはたまたま庭師の方に教えてもらっていたので、口を突いて出たのだが、セイタカアワダチソウは知っている筈はない。どこかでこの個性的な名を耳にしていたのだろう。しかし、実物は見た記憶はなく、写真に写っているのはあるいは違う草かな?。どちらにしろ、植物に特別な関心の持ち合わせがなく、図鑑も一冊も所持していない。が、セイタカアワダチソウなる名が咄嗟に口を突いて出たのは自分でも驚いている。
 話はこの先である。「よく知ってるわね」に続いて私は応じた。
「嫌いじゃないけど、どちらかというと、野鳥がいいね」。
「カモとかウグイスとか」
「そうそう。ハクセキレイやムクドリは公園に行くと簡単に見られる。川ではユリカモメも簡単に見られる」
 等々セイタカアワダチソウが口火になって次々と話題が広がった。話題はないより広がった方がいい。つまり、セイタカアワダチソウが口を突いて出たおかげで、私たちの話題はとんでもない方向に発展し、とどまるところを知らなかった。色々話題が尽きなかったため倍余楽しいひとときとなった。セイタカアワダチソウに感謝である。
           (2015年10月24日)
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身近な存在

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 私にとって一番身近な存在は相棒とチビ君である。
 相棒とはもう15年ほどになる女性フレンドである。彼女は私より30歳余も若い、いわば娘のような存在だ。15年ほどのつきあいということからお分かりのように全くの友達づきあいだ。が、この関係がいつまでも続くという保証はない。早い話彼女が結婚でもすればそれまでということになる。私の求めているのは私の関心事(古代史や短歌)に多少なりとも理解のある相棒である。望むらくは協力し合えないかという相手である。今の相棒に不満があるわけではない。むしろ娘のような彼女がこの老体によくぞ話し相手になってくれるもんだと感謝に耐えない。他方、年齢のことより無関心なので踏み込めない。結婚して妻という一番身近な存在になったとしてもいつ破綻するか分からないご時世だ。 なので、私の望みは全くのないものねだり、いる筈もない相手を求めているわけで笑止千万だ。それを百も承知で、広い世間、協力し合える相手がいないものかなあ、とこれはある意味わがままで得手勝手な空想物語である。
 もう一方のチビ君の方だが、飼い猫君である。こちらはいくらか文章にも書いたのであらためて詳細を披露することはあるまい。もう10年余の同棲者だ。が、こちらもいつまでも続くという保証はない。早い話、死去したら一巻の終わりである。
 なぜ、こんなことを綴ったかというに、一番身近な存在さえいつ別れがやって来るか分からないと、告げたかったからだ。人生は悲哀だ。今の現状がどれだけ有り難くどれだけかけがえのない瞬間だったとしても、次の瞬間にはどうなるか分からない。悲哀が口をあけて待っている。さりとて何をしても意味がないとはいいたくない。自分の出来る範囲で人の役に立つことはないか。今の私には万葉集の読解だ。各自様々だろうが、それこそが、各人にとって最も身近な存在なのではあるまいか。
           (2015年10月27日)
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万葉集読解・・・182(2964~2982番歌)

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     万葉集読解・・・182(2964~2982番歌)
2964  かくのみにありける君を衣にあらば下にも着むと我が思へりける
      (如是耳 在家流君乎 衣尓有者 下毛将著跡 <吾>念有家留)
  寄物陳思(物に寄せて思いを述べる歌)。2964~3100番歌の137首。
 「かくのみにありける君を」は「こんな人だと知っていたら」つまり「こんなつれないお方と知っていたら」という意味である。「こんなつれないお方と知っていたら、あの人が着物であって下にしっかりと着込んでおくんだったのにという思いです」という歌である。

2965  橡の袷の衣裏にせば我れ強ひめやも君が来まさぬ
      (橡之 袷衣 裏尓為者 吾将強八方 君之不来座)
 「橡(つるはみ)の袷(あわせ)の衣」は着物にうとい私にはよく分からない。「橡(つるばみ)の衣(ころも)」は、ドングリの実を煮た汁で染めた着物。黒い色の布だという。召使いなど身分の卑しい人間が着る物とされていた。今風に言えば庶民の着物。袷(あわせ)だが、裏も表も着られるように2枚重ねて作った着物のこと。その着物のように裏に返す「態度の急変」を意味している。「強ひめやも」は「強いて逢って下さいとは言いません」。
 「橡(つるばみ)の袷の着物を裏返しに着たかのように、態度が急変したあなた。私は「強いて逢って下さいとは申しません。それにしても長らく逢いに来て下さいませんね」という歌である。
 本歌は、相手の態度の急変に怒りつつ逢いに来て欲しい、という女性の微妙な心情を巧みに表現している。秀歌といってよかろう。なお、橡の着物は次次句2968番歌にも詠われている。

2966  紅の薄染め衣浅らかに相見し人に恋ふるころかも
      (紅 薄染衣 淺尓 相見之人尓 戀比日可聞)
 「紅(くれなゐ)の薄染め衣」は「薄く紅に染めた着物」でここまでは比喩。「薄く紅に染めたうす桃色の着物のように浅い気持で逢っただけの人だったのに、しきりに恋しいこのごろです」という歌である。

2967  年の経ば見つつ偲へと妹が言ひし衣の縫目見れば悲しも
      (年之經者 見管偲登 妹之言思 衣乃<縫>目 見者哀裳)
 状況がいまいち分からない歌である。「年の経ば見つつ偲へと」とあの子が言ったというのだが、「何年か経ったら、見て私を偲んで下さい」というのは作者が長い旅立ちをするに当たっての言葉か、あるいはあの子が何らかの事情(たとえば病に伏して死別)に見舞われて逢えなくなった時の歌か。判然としない。結句に「見れば悲しも」とあるので私は後者に解したい。「何年か経ったら、縫目を見て私を偲んで下さい、と言ったっけ。もうあの子はいないが、着物の縫目を見ると悲しくてたまらない」という歌である。

2968  橡の一重の衣うらもなくあるらむ子ゆゑ恋ひわたるかも
      (橡之 一重衣 裏毛無 将有兒故 戀渡可聞)
 「橡(つるはみ)の」は前々歌参照。各書とも「あの子は私のことは何とも思っていない」と解釈しているが、妙である。原文「裏毛無」は{うら(心)もなく」ではなく文字通り「裏もなく」だ。そして原文「将有兒故」は「まさにそんな子ゆえ」だ。「橡の裏のない一重の着物のように裏表のない子だからこそ、私は恋続けているのかも」という歌である。

2969  解き衣の思ひ乱れて恋ふれども何のゆゑぞと問ふ人もなし
      (解衣之 念乱而 雖戀 何之故其跡 問人毛無)
 「解(と)き衣(きぬ)の」は「脱ぎ捨てた着物の」という意味。「脱ぎ捨てた着物のように思い乱れて恋しているが、なぜ思い乱れてと問いかける人もいない」という歌である。

2970  桃染めの浅らの衣浅らかに思ひて妹に逢はむものかも
      (桃花褐 淺等乃衣 淺尓 念而妹尓 将相物香裳)
 「桃染めの浅らの衣(ころも)」までは「浅らかに」を導く序歌。「逢はむものかも」は「逢うことなどあろうか」という反語表現。「桃色に染めた薄色の着物。その浅い気持で私が彼女に逢うことなどあろうか」という歌である。

2971  大君の塩焼く海人の藤衣なれはすれどもいやめづらしも
      (大王之 塩焼海部乃 藤衣 穢者雖為 弥希将見毛)
 「大君(おほきみ)の」は原文に「大王之」とあるように天皇のこと。「藤衣(ふじごろも)」は藤の繊維で作った着物で、粗末なものであったらしい。ここまでは「なれ」を導く序歌。「いやめづらしも」は「ますます可愛い」という意味である。「大君(おほきみ)のお召しになる塩を焼く海女が着ている藤衣のようによれよれになってすっかりなじんだ彼女だけど、それでもますます可愛い」という歌である。

2972  赤絹の純裏の衣長く欲り我が思ふ君が見えぬころかも
      (赤帛之 純裏衣 長欲 我念君之 不所見比者鴨)
 「純裏(ひつら)の衣」の「純裏」は「すべて一続きの」でここまで長くを導く序歌。「見えぬころかも」は原文に「不所見~」とあるように、「逢いに来てくれない」という意味である。「赤い絹のすべて一続きの布のように、末長くありたいと思っているあの方がなかなか来て下さらない」という歌である。

2973  真玉つくをちこち兼ねて結びつる我が下紐の解くる日あらめや
      (真玉就 越乞兼而 結鶴 言下紐之 所解日有米也)
 「真玉(またま)つく」は枕詞。全万葉集歌中4例ある。「をちこち兼ねて結びつる」は「紐に通した玉のように遠くの玉も近くの玉も結びあった」という意味で、紐を導く序歌。「解くる日あらめや」は反語表現。「紐に通した玉のように遠くの玉も近くの玉も結びあった、その下紐が解ける日があるだろうか」という歌である。

2974  紫の帯の結びも解きもみずもとなや妹に恋ひわたりなむ
      (紫 帶之結毛 解毛不見 本名也妹尓 戀度南)
 「紫の帯」は「紫染めの帯」のことだが、紫は高貴な色とされていた。「もとなや」は「心もとなく」ないしは「しきりに」という意味。「彼女が結んでいる紫染めの帯を解く機会もなく、しきりに彼女に恋続けている」という歌である。

2975  高麗錦紐の結びも解き放けず斎ひて待てど験なきかも
      (高麗錦 紐之結毛 解不放 齊而待杼 驗無可聞)
 「高麗錦(こまにしき)の紐」は朝鮮半島から伝わってきた華麗な紐のことである。「斎(いは)ひて」は「身を慎んで祈る」という意味である。「験(しるし)なきかも」は「霊験なし」すなわち「効果がない」という意味。「高麗錦(こまにしき)の紐の結びも固く結んで解かず、身を慎んでおいでになるのを待っている。けれどもその甲斐がありませんね」という歌である。

2976  紫の我が下紐の色に出でず恋ひかも痩せむ逢ふよしをなみ
      (紫 我下紐乃 色尓不出 戀可毛将痩 相因乎無見)
 「紫~下紐」は前々歌の「紫の帯」を参照。「色に出でず」は「表面に出さず」、下紐は隠れていて、表面に見えない。「逢ふよしをなみ」の末尾の「み」は「~ので」の「み」、すなわち「逢う機会もないので」という意味である。「紫染めの隠れた下紐のように、決して表には出しませんが、恋する苦しさにやせ細るばかりです。お逢いする機会もないままに」という歌である。

2977  何ゆゑか思はずあらむ紐の緒の心に入りて恋しきものを
      (何故可 不思将有 紐緒之 心尓入而 戀布物乎)
 「何ゆゑか思はずあらむ」は「どうして思わずにいられよう」である。「紐の緒の」は「紐の緒が」と主格用法。「どうして思わずにいられよう。紐の緒がしっかり心に食い込むように、あの人が恋しくてたまらないのに」という歌である。

2978  まそ鏡見ませ我が背子我が形見持たらむ時に逢はざらめやも
      (真十鏡 見座吾背子 吾形見 将持辰尓 将不相哉)
 「まそ鏡」は白銅製の鏡。しばしば枕詞として使用されている。「逢はざらめやも」は反語表現。「もう逢えないなんてことがありましょうか」と「鏡を私だと思っていて下されば逢っていないなんてことがありましょうか」と二様に取れる。ここでは鏡をお守りとみて前者に解しておきたい。「この鏡をごらん下さい、あなた。これを私の形見だと思って持っていらっしゃればもう逢えないなんてことがありましょうか、きっと逢えますもの」という歌である。

2979  まそ鏡直目に君を見てばこそ命に向ふ我が恋やまめ
      (真十鏡 直目尓君乎 見者許増 命對 吾戀止目)
 「まそ鏡」前歌参照。似た歌に678番歌がある。「直に逢ひて見てばのみこそたまきはる命に向ふ我が恋やまめ」という歌である。この例から「命に向ふ」は「命がけの」という意味と分かる。「鏡に向かうように、直接あなたにお逢いしてこそ命がけの私の恋も静まるでしょう」という歌である。

2980  まそ鏡見飽かぬ妹に逢はずして月の経ゆけば生けりともなし
      (犬馬鏡 見不飽妹尓 不相而 月之經去者 生友名師)
 「まそ鏡」2978番歌参照。ここでは枕詞用法。特に読解を要する用語もないが、結句の「生けりともなし」はもちろん相手の妹(彼女)のことではなく、作者自身の心情。「見ても見ても飽きない彼女に逢わないまま月が経ってゆくので生きた心地がしない」という歌である。

2981  祝部らが斎ふみもろのまそ鏡懸けて偲ひつ逢ふ人ごとに
      (祝部等之 齊三諸乃 犬馬鏡 懸而偲 相人毎)
 「まそ鏡」2978番歌参照。「祝部(はふり)ら」は「神官たち」、「斎(いは)ふ」は「あがめまつる」という意味である。「みもろ」は「神社」のこと。「~まそ鏡」までは「懸けて」を導く序歌。「神官たちは鏡をあがめまつり、神木に懸ける、そのように私は道行く人に声をかけては彼女を偲んでいます」という歌である。

2982  針はあれど妹しなければ付けめやと我れを悩まし絶ゆる紐の緒
      (針者有杼 妹之無者 将著哉跡 吾乎令煩 絶紐之緒)
 そのまま分かる平明歌。「針と糸はあるのだが、彼女がいないので縫いつけられるものかとばかりに、ちぎれては私を悩ます紐の緒」という歌である。
          (2015年10月29日記)
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巡り歩き

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 最近時として思うことがある。どこかへ出かけた時はその場所を出来るだけ回ることである。つまり、二度とここを訪れることはあるまい、と意識して回るのである。沖縄本島、石垣島、竹富島を訪れたときは、レンタカーを借り、あるいは自転車を借りて島中を駆けめぐった。むろん、日程や費用の関係もあってすべてを見尽くすということは出来ない。が、主要なポイントは回ったつもりである。
 島ばかりではない。たとえば八事山興正寺。広さでは名古屋で一、二位を争う寺だ。ここを私はほぼ一日かけて巡り歩いた。最初に本堂に行って参拝し、その周辺を見てから喫茶八琴庵に寄って昼食を取った。そして能満堂、大日堂、開山堂、奥の院を巡り歩いた。むろん、広大な墓地も巡り歩いた。遅い足なので楽ではなかったが、主要地点は巡り歩いたことと思う。
 その時点、時点では無我夢中で、後に何らかの役に立つなどとは思いも及ばなかった。が、最近なんらかの拍子に興正寺に話が及ぶと鮮明に巡り歩いたことを思い起こすのである。つまり話題についていけるのである。こういうことが「役に立つ」という範疇に入るか否か判然としないが、胸の中に豊かな引き出しとなって残っていることは確かだろう。
 むろん、二度とここを訪れることはあるまい、と意識して回るのは団体行動や同行者がいては不可能だろうし、まして仕事上訪れた時は制約がある。
 でも、と私は若い人に云いたい。しまい込んだ引き出しの中身はきっと記憶から消えない。少なくとも、人生の豊かな模様のひとこまにはなる。サマセット・モームのいう「豊かなペルシャ絨毯」の模様になる。
 積極的な気持で巡る。二度とここを訪れることはあるまい、と意識して回る。この精神で巡ったら、少なくとも後で後悔することはないだろうと思う。
           (2015年10月30日)
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万葉集読解・・・183(2983~2999)

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     万葉集読解・・・183(2983~2999)
2983  高麗剣我が心から外のみに見つつや君を恋ひわたりなむ
      (高麗劔 己之景迹故 外耳 見乍哉君乎 戀渡奈牟)
 「高麗剣(こまつるぎ)」は「岩波大系本」によると朝鮮語で「ナ」といい、古くは一人称を「な」といった例があり、「我が心」は「なが心」だという。通常「な」は汝。君を指す。なので朝鮮語を持ち出してのこの説明自体いかにも強引。加えて「高麗剣」はもう一例あって199番長歌に「高麗剣和射見が原の」とまごうかたなく「わ」に続けている。枕詞(?)といわざるを得ない。「外(よそ)のみに」の解も歌意から見て不審。各書は全体の歌意を次のように訳出している。
 1:「私の性分で、あなたをただ、はたから見ているだけで、心から恋いつずけることでしょう」(「岩波大系本」)
 2:「われと我が心から、いとしいあの方なのに、遠目にお見かけするだけで、ずっと恋いつづけることになるであろうか」(「伊藤本」)
 3:「わが心のゆえに外からだけ見ながら、恋い続けるのだろうか」(「中西本」)
 以上、多少のニュアンスの差はあるが、要するに3書とも「遠目に見ているだけなのでしょうか」と解している。そういう相手なら歌にするだろうか。少なくとも甚だ気が弱い作者としか写らない。歌は「~外(よそ)のみに見つつや」で切れている。ここは「ただ遠目に見ているだけでいいのだろうか」という意味ではなかろうか。「心からお慕いしているあの方をただ遠目に見ているだけでいいのだろうか。ただじっと恋い続けるしかないのだろうか」という歌である。「あわよくば逢えないものだろうか」という積極的な心情を詠っていると思われるのである。

2984  剣大刀名の惜しけくも我れはなしこのころの間の恋の繁きに
      (劔大刀 名之惜毛 吾者無 比来之間 戀之繁尓)
 上3句は616番歌の「剣太刀名の惜しけくも我れはなし~」に全く同じである。「剣大刀(つるぎたち)」は枕詞と考えると実質は第2句以降。「このころの間(ま)の」の「間」は「恋心と恋心の間」すなわち「しきりに」という意味である。「私の名など惜しくない。ただしきりに君が恋しくて」という歌である。

2985  梓弓末はし知らずしかれどもまさかは君に寄りにしものを(一本歌日 あづさゆみ末のたづきは知らねども心は君によりにしものを)
      (梓弓 末者師不知 雖然 真坂者君尓 縁西物乎 (一本歌曰 梓弓 末乃多頭吉波 雖不知 心者君尓 因之物乎))
 「梓弓((あづさゆみ)」は枕詞ないし弓の縁語で末を導く。「末(すゑ)はし」の「し」は強調。「まさかは」は「今現実は」という意味。「未来のことは分かりませんが、今現実はあなたに心が寄っています」という歌である。
 異伝歌の「末のたづきは」は「弓の先端と握る手元」で、要するに「近くも遠い未来も」である。「先のことはわかりませんが、今の私の心はあなたに寄っています」という歌で、ほぼ同意。

2986   梓弓引きみ緩へみ思ひみてすでに心は寄りにしものを
      (梓弓 引見緩見 思見而 既心齒 因尓思物乎)
 梓弓は前歌参照。「引きみ緩へみ」は弓にたとえた言い方。「弓を引いたり緩めたりするように思いあぐねていますが、わが心はすでにあなたの方に寄っています」という歌である。

2987  梓弓引きて緩へぬ大夫や恋といふものを忍びかねてむ
      (梓弓 引而不緩 大夫哉 戀云物乎 忍不得牟)
 梓弓は2985番歌参照。「引きて緩へぬ」は原文に「引而不緩」とあるように「引いたまま緩めない」の意。「弓を引き絞ったまま緩めない剛毅な大夫(ますらを=男子)たるものも、恋にかかってしまうと耐えかねません」という歌である。

2988  梓弓末の中ごろ淀めりし君には逢ひぬ嘆きはやめむ
      (梓弓 末中一伏三起 不通有之 君者會奴 嗟羽将息)
 梓弓は2985番歌参照。訓だけ見て通り過ぎれば何でもない。「末中一伏三起(原文)」をなぜ「末の中ごろ」と読めるのかだが、朝鮮のサイコロ遊びで、一枚が裏、三枚が表の状態を「ころ」ということから「一伏三起」を「ころ」と読ませたようだ。弓の先端と手元の間がたわむ状態になるので、「淀めりし」といっている。読みに手間取るのは本意ではないので先を急ぐ。要は逢わなかったという意味。
 「弓の先から手元までのように淀んで(しばらく逢えませんでしたが)やっとあなたに逢えましたもの。もう嘆くのはやめます」という歌である。

2989  今さらに何をか思はむ梓弓引きみ緩へみ寄りにしものを
      (今更 何壮鹿将念 梓弓 引見縦見 縁西鬼乎)
 「梓弓引きみ緩へみ」は2986番歌に出てきたので参照。「今さら何をあれこれ思いましょう。弓を引いたり緩めたりするようにしている内に、私の心はあなたに寄ってしまいましたのに」という歌である。

2990  娘子らが績み麻のたたり打ち麻懸け績む時なしに恋ひわたるかも
      ((女+感)嬬等之 續麻之多田有 打麻懸 續時無<三> 戀度鴨)
 「績(う)み麻のたたり」は「麻を紡ぐときに糸がもつれないようにかける器具」。「打ち麻懸け」はむろん「打った麻をたたりにかけること」。ここまでうむ時を導く序歌。「娘子らが麻を紡ぐ時に使う打った麻をたたりにかける、その績(う)むように、倦むこともなく恋い続けています」という歌である。

2991  たらちねの母が飼ふ蚕の繭隠りいぶせくもあるか妹に逢はずして
      (垂乳根之 母我養蚕乃 眉隠 馬聲蜂音石花蜘ろ荒鹿 異母二不相而)
 「たらちねの」はおなじみの枕詞。「~繭隠り」までは比喩。「いぶせく」は「気が重い」、「気がふさぐ」等々。「母が飼っている繭が繭隠(まゆごも)りしたかのように、彼女に逢えないままだとなんと気がふさぐことだろう」という歌である。

2992  玉たすき懸けねば苦し懸けたれば継ぎて見まくの欲しき君かも
      (玉手次 不懸者辛苦 懸垂者 續手見巻之 欲寸君可毛)
 「玉たすき」は枕詞。2898番歌に出てきたばかりである。「懸(か)ける」は「たすきをかける」と「声をかける」にかけたもの。「継ぎて見まくの」は「続いて逢いたくなる」という意味。「声をかけねば苦しくてたまらない。声をかけたらかけたで次には逢いたくなるお人ですこと」という歌である。

2993  紫のまだらのかづら花やかに今日見し人に後恋ひむかも
      (紫 綵色之蘰 花八香尓 今日見人尓 後将戀鴨)
 「紫のまだらのかづら」は「紫染めのまだら模様のかつら」。「後恋ひむかも」は「きっと後になって恋い焦がれるだろうな」である。「紫染めのまだら模様のかつらをつけたあの華やかな、きょう見かけたあのお人、きっと後になって恋い焦がれるだろうな」という歌である。

2994  玉葛懸けぬ時なく恋ふれども何しか妹に逢ふ時もなき
      (玉蘰 不懸時無 戀友 何如妹尓 相時毛名寸)
 「玉葛(たまかづら)」は枕詞とされているが疑問点もある。「懸けぬ時なく」は2992番歌同様「声をかける時もなく」の意。「何しか」は「どういうわけか」という意味。「声をかける機会もなく恋い焦がれているけれどどういうわけか彼女に逢う機会がやってこない」という歌である。

2995  逢ふよしの出でくるまでは畳薦重ね編む数夢にし見えむ
      (相因之 出来左右者 疊薦 重編數 夢西将見)
 「逢ふよしの出でくるまでは」は「逢う機会がやって来るまでは」ということ。「畳薦(たたみこも)」は「畳用に編んだコモ(敷物)」。重ねて編む。「逢う機会がやって来るまでは畳薦を幾枚も編むようにせめて幾度も夢の中で逢えたらなあ」という歌である。


2996  白香付く木綿は花もの言こそばいつのまえだも常忘らえね
      (白香付 木綿者花物 事社者 何時之真枝毛 常不所忘)
 「白香」は、広辞苑に「麻やコウゾの類を細かく裂いて白髭のようにしたもの。神事に用いる」とある。「白く飾り立てた」の意か?。「木綿(ゆふ)」は「木綿」で作った真っ白な花。「いつのまえだも」は「いつかけて下さった言葉も」という意味である。「白香を付けた木綿花は華やかだけど飾り物。あなたのかけて下さる言葉こそいつかけて下さったものも忘れられませんわ」という歌である。

2997  石上布留の高橋高々に妹が待つらむ夜ぞ更けにける
      (石上 振之高橋 高々尓 妹之将待 夜曽深去家留)
 「石上布留(いそのかみふる)」は奈良県天理市石上神宮(いそのかみじんぐう)の北側の山地。1353番歌、1927番歌等に出てくる。高橋は判然としないが、布留川に架かる高い橋のことともいう。ここまで「高々に」を導く序歌。「石上布留の高橋のように今か今かと背伸びして彼女が待っているだろうに夜が更けてしまった」という歌である。

2998  港入りの葦別け小舟障り多み今来む我れを淀むと思ふな
(湊入之 葦別小船 障多 今来吾乎 不通跡念莫)
 或本歌曰 (港入りに葦別け小舟障り多み君に逢はずて年ぞ経にける)
 或本歌曰 (湊入尓 蘆別小船 障多 君尓不相而 年曽経来))
 「葦(あし)別け小舟」は「葦を押しわけ押し分け進む小舟」でここまで比喩。「障(さや)り多み」は「色々障害があって」。「多み」は「~ので」の「み」。「港に入る小舟が葦を押しわけ押し分け進むように、何かと障害が多いのでなかなか逢いに行けない。さりとてためらっているわけではないと思って欲しい」という歌である。
 異伝歌は第三句まではほぼ同じ。下二句が「あなたに逢えないまま年を越してしまいました」となっている。

2999  水を多み上田に種蒔き稗を多み選らえし業ぞ我がひとり寝る
      (水乎多 上尓種蒔 比要乎多 擇擢之業曽 吾獨宿)
 二度の「多み」は「~ので」の「み」。「~選(え)らえし」までが比喩。「(下田)は水が多いので上田に稲の種を蒔いたが、稗が多いのでより分けられたように、私はよりわけられてしまってひとり寝ています」という歌である。1285番歌に、若い男女が農作業などを休んで山や野に集まり、踊ったり歌を詠みあったりして楽しんだ野遊び、すなわち歌垣のことが詠われている。あるいは本歌も歌垣でのことか?
          (2015年11月1日記)
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秋深まる

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 昨日、小牧市に所用で立ち寄った。小一時間ほど時間があったので小牧山の麓に出かけた。紅葉には少し早いかなと思ったが、もう木々は色づいていた。ちょっとコンビニに車をとめて道路をまたいで麓に近寄ってみた。手すりにつかまって眺めていたら、そこはかとなく感慨に打たれた。
   めぐりくる秋にいろづく小牧山哀しくあらずそそと寂しき
   過ぎ去りし皆で騒げり紅葉狩り遠きこだまの声絶えゆけり
   指さしてきれいと彼女に告げし夕紅葉の思いも遠くなりゆく
 秋は感傷を招き寄せるのであろうか。いつもいつも前を向いて歩んできたつもりの自分。ふと気づけば自分の周囲に人はいない。これも、認めたくはないが、ご老体のせいなのだろうか。それとも、たんに気が弱くなっているだけなのだろうか。
   万物やススキゆらめくほのあかり
   覚悟なきままに歳月色づけり
 こうした短歌や俳句をメモ用紙に書き留めながら、歳月は好むと好まざるとにかかわらず、次第に色づいていくことはやむを得ないと思わざるを得なかった。そそとした寂しさも感慨もとどめようがない。が、そう思いつつ、せめて、書き留める短歌や俳句だけは命の源泉。決して色あせることのない活力に満ちたままであってほしいと願った。
 小牧山の麓の道路を、ゆっくりゆっくりと歩行し、行ったり来たりすること三、四度、ようやく私の心は落ち着きを取り戻した。私は右側を確認し、ついで左方面も確認し、ゆっくりと道路を横切った。反対側のコンビニに戻った私は、やはりゆっくりとした足取りで店内に足を踏み入れた。おにぎりだのパンだのを購入するためである。寒くて秋は一段と深まるような気がした。
           (2015年11月3日)
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ハロウィン

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 先週土曜日(10月31日)英会話クラブの例会だったのだが、その日は折よくハロウィンの日だった。
 ハロウィンというのは名前を聞いたことがある程度。知識もなかったし、関心もなかった。そんな世間知らずの私でもテレビのニュースを通じて近年急速に定着し始めたお祭りの一種らしいと分かってきた。英会話クラブのある会員の話によると、古代ケルト人を起源とする行事で、秋の収穫を祝い、悪霊などを追い出す宗教的な行事だったようだ。後にアメリカ合衆国で盛んになり、近年日本にも拡大してきたようだ。仮装が強調され、今ではゾンビや妖怪のような不気味なメイクが盛んのようだ。
 さて、例会に顔を出したら、とたんにかぶりものの一つを手渡され、にわか仕立ての仮装と相成った。その時点ではハロウィンの起源も意味も分からず、とまどうばかりだった。
 お正月の行事は残っているが、ひなまつり、端午の節句、七夕等々日本古来の行事はいまいち元気がなく、代わって外来の、バレンタインだのクリスマスだのが盛んになり、加えて近年ハロウィンが加わり、外来行事が盛んになってきた。行事ならまだしも、どんちゃん騒ぎよろしく、ハロウィンはかってのクリスマスと同様、馬鹿騒ぎ化する様相を見せている。
 むろん、ひなまつり、端午の節句、七夕等々日本古来の行事も命脈を保っている。これをどうみるかだが、私はしたり顔で日本文化の衰退だの変容だのを嘆いてみせることはしたくない。年中行事の巾が広がり、若い世代が喜ぶなら、一種のブームと見て見守ればよいことだろう。ただ、こういうこと
だけは言える。年がら年中お祭り騒ぎが増え、「日本は平和だなあ」という感想である。
           (2015年11月6日)
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苦行の点眼

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 右眼の手術の日が決まった。左眼の手術は成功しているので、今度は気が楽に受けられそうである。ドクターによると、左眼と同様に大手術になりそうである。緑内障の予防手術ということだが、予防なのに大手術というのもよく分からない。が、左眼の経験から安心してドクターに委ねられそうである。恐怖が全くないというと嘘になるが、手術そのものよりも術後が憂鬱なのである。眼帯を半月ほどしたまま生活しなければならないのも鬱陶しいが、最大の負荷は目薬なのである。えっ、目薬?。そうその目薬が厄介なのである。
 術後、今日まで3ヶ月にわたって毎日、毎日目薬を点眼し続けている。一種類ではない、4種類もある。一度に点眼完了ならまだしも、種類ごとに5分余、間を置いて点眼しなければならない。一回で20~30分を要する。それを一日四回繰り返す。その鬱陶しさったらない。生活も思考も否応なく中断させられる。三日も続けたらうんざりの作業だ。
 加えて、普段は粗雑で大雑把に出来上がっている私だが、こと薬となると、律儀に出来上がっている。処方どおり続行しないと薬の薬たるゆえんがなくなるような気がするからである。一日4回。4種類の、かつ、5分余を置いての点眼。この苦行にも似た行為をえんえんと3ヶ月余も続けなければならない。しかもこの先いつまで続けなければならないのか分からない。
 以上、左眼のこの経験から、右眼の術後もこの点眼が待っているかと思うと、想像するだけで「頼むからやめてよ」と叫びたくなる。
 右眼の手術は12月1日である。なんとか年内に眼帯はとれそうであるが、苦行にも似た長い長い点眼期間が待っている。
 いったい4種類もの点眼薬がなぜ必要なのかは正確には知るよしもないが、手術そのものよりも私にとっては苦行に思われるのである。
           (2015年11月7日)
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苦行の点眼

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 右眼の手術の日が決まった。左眼の手術は成功しているので、今度は気が楽に受けられそうである。ドクターによると、左眼と同様に大手術になりそうである。緑内障の予防手術ということだが、予防なのに大手術というのもよく分からない。が、左眼の経験から安心してドクターに委ねられそうである。恐怖が全くないというと嘘になるが、手術そのものよりも術後が憂鬱なのである。眼帯を半月ほどしたまま生活しなければならないのも鬱陶しいが、最大の負荷は目薬なのである。えっ、目薬?。そうその目薬が厄介なのである。
 術後、今日まで3ヶ月にわたって毎日、毎日目薬を点眼し続けている。一種類ではない、4種類もある。一度に点眼完了ならまだしも、種類ごとに5分余、間を置いて点眼しなければならない。一回で20~30分を要する。それを一日四回繰り返す。その鬱陶しさったらない。生活も思考も否応なく中断させられる。三日も続けたらうんざりの作業だ。
 加えて、普段は粗雑で大雑把に出来上がっている私だが、こと薬となると、律儀に出来上がっている。処方どおり続行しないと薬の薬たるゆえんがなくなるような気がするからである。一日4回。4種類の、かつ、5分余を置いての点眼。この苦行にも似た行為をえんえんと3ヶ月余も続けなければならない。しかもこの先いつまで続けなければならないのか分からない。
 以上、左眼のこの経験から、右眼の術後もこの点眼が待っているかと思うと、想像するだけで「頼むからやめてよ」と叫びたくなる。
 右眼の手術は12月1日である。なんとか年内に眼帯はとれそうであるが、苦行にも似た長い長い点眼期間が待っている。
 いったい4種類もの点眼薬がなぜ必要なのかは正確には知るよしもないが、手術そのものよりも私にとっては苦行に思われるのである。
            (2015年11月7日)
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万葉集読解・・・184(3000~3019番歌)

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そ の 185 へ 
         
     万葉集読解・・・184(3000~3019番歌)
3000  魂合へば相寝るものを小山田の鹿猪田守るごと母し守らすも [一云 母が守らしし]
      (霊合者 相宿物乎 小山田之 鹿猪田禁如 母之守為裳 [一云 母之守之師])
 「魂(たま)合へば」は「好き同士なら」、「小山田」は地名ではなく「山の小さな大事な田」という意味である。「好き同士なら共に寝ましょうものを、鹿や猪から大切な田(私)を母が守っていて下さるので」という歌である。
 異伝歌は結句が「守っておられるので」となっていて、ほぼ同意。

3001  春日野に照れる夕日の外のみに君を相見て今ぞ悔しき
      (春日野尓 照有暮日之 外耳 君乎相見而 今曽悔寸)
 「春日野に照れる夕日の」の「春日野」は「奈良県春日山の野」と解してもいいし、一般的に「春日の射す野」と解してもよかろう。どちらがいいかは結句の「今ぞ悔しき」の解し方による。一般解だと「夕日の射し込む春の野に遠目に見かけたこと」が「今になって悔しい」となり、どこか不自然。そこで前者。「夕日の射し込む春日山の野に傍目に出くわした(相見た)こと」が「今になって悔しい」となり、歌意が通る。つまり、「普段見慣れている春日山の野に夕日が射し込み偶然に出合った。会釈するなり声をかけるなり、もう少し対処の仕方があったのに、そのまま通り過ぎたのが今になって悔やまれる」という歌である。

3002  あしひきの山より出づる月待つと人には言ひて妹待つ我れを
      (足日木乃 従山出流 月待登 人尓波言而 妹待吾乎)
 「あしひきの」はおなじみの枕詞。解説不要の平明歌。「山から出てくる月を待っているのさ、と人には告げながら、実は彼女を待っている私」という歌である。

3003  夕月夜暁闇のおほほしく見し人ゆゑに恋ひわたるかも
      (夕月夜 五更闇之 不明 見之人故 戀渡鴨)
 「暁闇(あかときやみ)の」は「夕方にくっきりしていた月が明け方になって見えなくなる」あるいは「薄くなる」という意味である。「おほほしく」は2449番歌に「香具山に雲居たなびきおほほしく相見し子らを後恋ひむかも」とあるように「ぼんやりと」である。「明け方ぼんやりと見える月のように見かけたお人、かえってそれ故に恋い続けています」という歌である。

3004  久方の天つみ空に照る月の失せなむ日こそ我が恋止まめ
      (久堅之 天水虚尓 照月之 将失日社 吾戀止目)
 「久方の」はおなじみの枕詞。「失せなむ日こそ」は「消えてなくなる日があれば」だが、そんなことはないので洒落た表現。「あの空に照り輝いている月が消えてなくなる日があれば私の恋心もおさまるだろうに」という歌である。

3005  十五日に出でにし月の高々に君をいませて何をか思はむ
      (十五日 出之月乃 高々尓 君乎座而 何物乎加将念)
 「十五日に出でにし月の」は「望月の夜の月」すなわち満月のこと。ここまでは「高々に」を導く序歌。「いませて」は「いらっしゃって」という意味である。「十五夜の満月のように高々と待っていたあなたがいらっしゃって、もう何も思うことはありません」という歌である。

3006  月夜よみ門に出で立ち足占して行く時さへや妹に逢はざらむ
      (月夜好 門尓出立 足占為而 徃時禁八 妹二不相有)
 「月夜よみ」の「み」は「~なので」。「足占(あうら)して」はどんな占いか不明。「岩波大系本」には「歩いて行って、右足、左足のどちらで目標につくかにより吉凶を定める占らしい。」とある。が、歌意からすると不審。「足占して吉と出ても」という意味だろうからその場で結果が分かる占でないとすっきりしない。足踏みして吉凶をうかがったのだろうか。「月が美しい月夜なので門に出て立ち、足占が吉と出て向かう時さえ彼女に逢えない時もある」という歌である。

3007  ぬばたまの夜渡る月のさやけくはよく見てましを君が姿を
      (野干玉 夜渡月之 清者 吉見而申尾 君之光儀乎)
 「ぬばたまの」はおなじみの枕詞。「さやけくは」は「美しく澄み渡っていれば」、「よく見てましを」は前句と呼応して「よくお見かけできただろうに」という意味である。「夜、天空をわたっていく月が美しく澄み渡っていればよく見られただろうに、あなた様のお姿が」という歌である。

3008  あしひきの山を木高み夕月をいつかと君を待つが苦しさ
      (足引之 山呼木高三 暮月乎 何時君乎 待之苦沙)
 「あしひきの」はおなじみの枕詞。「木高み」は「木々が高いので」の意。夕月を君に喩えている。「山の木々が高いので夕月がいつになったら顔を出すかと、あなたをと待つのが苦しい」という歌である。

3009  橡の衣解き洗ひ真土山本つ人にはなほしかずけり
      (橡之 衣解洗 又打山 古人尓者 猶不如家利)
 「橡(つるばみ)の衣(ころも)」は、ドングリの実を煮た汁で染めた着物。2965番歌に出てきたように庶民の黒い着物。「真土山(まつちやま)」は「和歌山県橋本市にある山」という説があるようだが、ここは固有名詞よりも「また打つ」という語呂合わせに使われている。すなわち、橡の衣はほどいて洗うとき叩いて打って使ったので「また打つ」を「真土山(まつちやま)」で代用させた次第である。「本つ人には」は原文に「古人尓者」とあり、古女房のことである。「橡の衣を解いて洗うとき又打つように、本つ人(古女房)の良さにはかないません」という歌である。

3010  佐保川の川波立たず静けくも君にたぐひて明日さへもがも
      (佐保川之 川浪不立 静雲 君二副而 明日兼欲得)
 「佐保川」は奈良市を流れる川。「佐保川の川波立たず」は「静けくも」を導く序歌。
「たぐひて」は「寄り添って」という意味である。「佐保川が川波を立てずに静かに流れるように、私も心静かにあなたに寄り添って明日までもこのままでいたい」という歌である。

3011  我妹子に衣春日の宜寸川よしもあらぬか妹が目を見む
      (吾妹兒尓 衣借香之 宜寸川 因毛有額 妹之目乎将見)
 「宜寸川(よしきがわ)」は奈良県春日山に発する川で、佐保川に注ぐ川。春日(かすが)を着物を貸すにかけた語呂合わせ。「~宜寸川」まではよし(縁)を導く序歌。「妹が目を見む」は「彼女に逢いたい」という意味。「愛しい子に着物を貸すという春日の宜寸川、その名のように、彼女となにかきっかけでもないものか何とかして彼女に逢いたい」という歌である。

3012  との曇り雨降る川のさざれ波間なくも君は思ほゆるかも
      (登能雲入 雨零川之 左射礼浪 間無毛君者 所念鴨)
 「との曇り」は「一面かき曇って」という意味。次句の「雨降る川の」を「降る川」を次歌に合わせて「布留川」とする訓があるが疑問。問答歌でもないし原文も「雨零川之」となっていて次歌の「袖振川之」と異なる。ここはすなおに「雨降る川の」でいいと思う。「~さざれ波」までは「間(ま)」を導く序歌。「一面かき曇って雨が降っている川にさざ波が立っている、そのさざ波のように絶え間なくあなたのことを思っています」という歌である。

3013  我妹子や我を忘らすな石上袖布留川の絶えむと思へや
      (吾妹兒哉 安乎忘為莫 石上 袖振川之 将絶跡念倍也)
 本歌の「布留川」は「石上(いそのかみ)」とあるように奈良県天理市の石上神宮の北側を流れる布留川を指している。「忘らすな」は妙な訓だが「忘れないでおくれ」ということ。「袖ふる」は求愛行為。この「ふる」を「布留川」に続けた。「思へや」は反語表現。「私のいとしい彼女よ。私を忘れないでおくれ。あの石上を流れる布留川ではないが、袖振る川が絶えることなどあろうか」という歌である。

3014  三輪山の山下響み行く水の水脈し絶えずは後も我が妻
      (神山之 山下響 逝水之 水尾不絶者 後毛吾妻)
 「三輪山」は奈良県桜井市の山。「響(とよ)み」は「轟かせ」、「水脈(みを)し絶えずは」は「水の流れが絶えない限り」という意味である。「三輪山の麓をなり轟かせて行く水の水の流れが絶えない限り、これからもずっと私の妻だよ、お前」という歌である。

3015  神のごと聞こゆる瀧の白波の面知る君が見えぬこのころ
      (如神 所聞瀧之 白浪乃 面知君之 不所見比日)
 「神のごと」は「雷のように」。なので「雷(かみ)のごと」とする訓もある。「雷音のように聞こえる滝、その滝壺の白波のように、白い顔をしたあなたがこのごろ見かけませんね」という歌である。

3016  山川の瀧にまされる恋すとぞ人知りにける間なくし思へば
      (山川之 瀧尓益流 戀為登曽 人知尓来 無間念者)
 結句の「間なくし思へば」が作者の告白。「山川を流れ下る滝にもまさる恋をしていたら世間の知るところとなってしまった。絶えず物思いをしているので」という歌である。

3017  あしひきの山川水の音に出でず人の子ゆゑに恋ひわたるかも
      (足桧木之 山川水之 音不出 人之子め 戀渡青頭鶏)
 「あしひきの」はおなじみの枕詞。「人の子ゆゑに」は「人妻ゆえに」という意味。「山を流れ下る川でありながら音も立てず、人妻ゆえにひっそりと恋い続けるしかありません」という歌である。

3018  高湍なる能登瀬の川の後も逢はむ妹には我れは今にあらずとも
      (高湍尓有 能登瀬乃川之 後将合 妹者吾者 今尓不有十万)
 「高湍(たかせ)」も「能登瀬(のとせ)の川」も所在不詳。「能登瀬」の「のと」は後(のち)を導く。「高湍を流れる能登瀬川のように後にはあの子に逢いたいよ私は。たとえ今すぐにでなくとも」という歌である。

3019  洗ひ衣取替川の川淀の淀まむ心思ひかねつも
      (浣衣 取替河之 <河>余杼能 不通牟心 思兼都母)
 「取替(とりかひ)川」は今の淀川かという。その川の淀んだ所を川淀と表現している。「~川淀」は「淀まむ」を導く序歌。「淀まむ心思ひかねつも」は「淀んだ心のままじっとしていることはできません」という意味である。「洗う着物を取り替える取り替え川の川淀のように、淀んだ心のままじっとしていることはできません」という歌である。
          (2015年11月8日記)
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前田家本貫

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 本日、名刹巡りの一環として、中川区の前田速念寺と西生寺の二つを巡った。この内の前田速念寺だが、ほとほとわが無知にあきれ返った。
 歴史といっても、私の場合は古代史に多少明るい程度。戦国時代以降となると、高校時代の教科書の記憶。それもあまりにも前のことで記憶自体が怪しい。
 さて、前田速念寺に赴いて初めて知ったが、その地は前田家の本貫(ほんがん)であるようだ。前田城のあった所で、前田利家の出身地という。前田利家に関する知識といえば、信長や秀吉に仕えた戦国武将。様々な手柄を立て、重臣として重きをなし、ついには加賀百万石の城主となる、あの有名な武将だ。このくらいのことならぼんやりとした記憶はある。が、その係累になるともう知識の埒外だ。
 が、かの高名な前田利家が生まれた地がお膝元といってよい中川区だったなんて・・・。前田速念寺は前田の地にちなんでつけられたことと推察されるが、利家をちょっとかじった人なら、彼の本貫の地が、ここ名古屋は中川区の前田の地だったくらいはまさに初歩の知識に相違ない。
 私は右眼の手術を控えているので、行ける時に行っておこうと単純かつ素朴に訪れたのだが、前田利家の本貫の地を訪れて思った。
 人はいくつになっても知らないことだらけだ。自分が物知りだなどと思える人はすごいよなと思わざるを得なかった。
     速念寺前田の本貫知りてなお塩になめくじ心地するなり
 むろん、知らなくていいことは知らない方がいい。けれども、教科書に載っていることくらいは常識として知っておかないと。まして自分は古代史とはいえ、多少は歴史に興味を抱いている一人なのだから。中川区の前田、前田家の本貫、よし、一つ覚えたぞ。
           (2015年11月10日)
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