巻9~12メニュー へ そ の 190 へ 万葉集読解・・・189(3098~3118番歌)
3098 おのれゆゑ罵らえて居れば青馬の面高夫駄に乗りて来べしや
(於能礼故 所詈而居者 '492;馬之 面高夫駄尓 乗而應来哉)
「おのれ」は「お前」。「罵(の)らえて」は「叱られて」。「青馬」は原文「'492;馬」からして葦毛馬かと思う。次句の「面高夫駄に」は意味不明だが、顔の上がった駄馬と解されている。とするとこの歌の歌意が分からない。
本歌には左注が付いているので先にそれを見てみよう。
「右一首は、平群文屋朝臣益人(へぐりのふむやのあそみますひと)が伝える所によると、『むかし、多紀皇女(たきのひめみこ)が密かに高安王(たかやすのおほきみ)と関係を持たれた時に作られた歌』だという。その後、高安王は、伊与國守に左遷された」とある。多紀皇女は紀皇女(きのひめみこ)という説もあるが、生没年等が合わない。
この左注を読んで本歌を理解しようとすると不思議な歌ということになる。左注に従えば歌の作者は多紀皇女。やってきた相手は高安王。その高安王に向かって「お前さんのおかげで叱られているところよ。なんで葦毛の駄馬に載ってやってくるのさ」という歌である。
皇女を叱りつけるほどの高位の人間は誰か。どうもすっきりしない。「面高夫駄に」の解がおかしいのだろうか。
3099 紫草を草と別く別く伏す鹿の野は異にして心は同じ
(紫草乎 草跡別々 伏鹿之 野者殊異為而 心者同)
紫草(むらさき)は根を紫色の染料に使う草で、当時あちこちで栽培されていたようだ。「草と別く別く」は「雑草と分け分けて」という意味である。「~鹿の」は「野は異にして」を導く序歌。「鹿はどこの野にいても他の草と区別して紫草に伏せるというけれど、私もあなたも遠く離れて床を異にしても心は同じだね」という歌である。
3100 思はぬを思ふと言はば真鳥住む雲梯の杜の神し知らさむ
(不想乎 想常云者 真鳥住 卯名手乃<社>之 神<思>将御知)
真鳥は真の鳥だが、鷲のことともいう。「雲梯(うなて)の杜(もり)」は奈良県橿原市(かしはらし)雲梯町の神社。「思ってもいないのに思っていると言えば、その偽りを鷲の住む雲梯の杜の神様がお見通していらっしゃる。私は嘘偽りは申しません」という歌である。
3101 紫は灰さすものぞ海石榴市の八十の街に逢へる子や誰れ
(紫者 灰指物曽 海石榴市之 八十街尓 相兒哉誰)
ここからしばらく問答歌が続く。
紫草を染料にするとき、その汁に椿の灰をまぜる。したがって「紫は灰さすものぞ」は「海石榴市」を導く序歌。「海石榴市(つばきち)の」は椿市の開かれた所。「八十(やそ)の衢(ちまた)に」は四方八方から道が寄り集まって来る所。「椿市のあの広場で出逢った子はどこのどなただろう」という歌である。
3102 たらちねの母が呼ぶ名を申さめど道行く人を誰れと知りてか
(足千根乃 母之召名乎 雖白 路行人乎 孰跡知而可)
「たらちねの」は枕詞。「申さめど」は「申し上げたいのですが」という意味。「母さんが呼ぶ名を申し上げてもいいのですが、ゆきずりの誰とも分からぬ人なので」という歌である。
右二首問答歌一組。
3103 逢はなくはしかもありなむ玉梓の使をだにも待ちやかねてむ
(不相 然将有 玉梓之 使乎谷毛 待八金<手>六)
「しかもありなむ」は「そういうこともありましょう。」。「玉梓(たまづさ)の使」は、梓(あずさ)の小枝に文(ふみ)を結びつけて使いに届けさせること。「逢えないということもありましょう。ただ、玉梓の使さへ寄越さないので待ちかねています」という歌である。
3104 逢はむとは千度思へどあり通ふ人目を多み恋つつぞ居る
(将相者 千遍雖念 蟻通 人眼乎多 戀乍衣居)
「あり通ふ」は「いつも往き来する道」のこと。「人目を多み」は「~なので」の「み」。「逢いたいと千度(ちたび」思っていますが、いつも往き来する道は人目が多いので恋いつついます」という歌である。
右二首問答歌
3105 人目多み直に逢はずてけだしくも我が恋ひ死なば誰が名ならむも
(人目太 直不相而 盖雲 吾戀死者 誰名将有裳)
「人目多み」は前歌参照。「直(ただ)に」は「直接」、「けだしくも」は「もしも」という意味。「人目が多いからというので直接逢うこともしないけれど、もしもこの私が恋い焦がれて死ねば、どちらの浮き名がたつでしょうね、どちらもでしょうに」という歌である。
3106 相見まく欲しきがためは君よりも我れぞまさりていふかしみする
(相見 欲為者 従君毛 吾曽益而 伊布可思美為也)
「いふかしみする」は「いぶかしい」すなわち「不思議ですわ」という意味である。「お逢いしたいのはあなたよりも私の方がまさっているのに、そういうことをおっしゃるのは不思議ですわ」という歌である。
右二首問答歌
3107 うつせみの人目を繁み逢はずして年の経ぬれば生けりともなし
(空蝉之 人目乎繁 不相而 年之經者 生跡毛奈思)
「うつせみの」は「現実の」という意味だがここでは「世間の」という意味。「生けりともなし」は「生きた心地もしません」。「世間の人目が激しいのでお逢いしないまま年が過ぎてしまい、生きた心地もしません」という歌である。
3108 うつせみの人目繁くはぬばたまの夜の夢にを継ぎて見えこそ
(空蝉之 人目繁者 夜干玉之 夜夢乎 次而所見欲)
「うつせみの」は前歌参照。「ぬばたまの」はおなじみの枕詞。「継ぎて見えこそ」は「毎夜出てきてほしい」という意味である。「世間の人目が激しいのならせめて毎夜の夢に出てきてほしい」という歌である。
右二首問答歌
3109 ねもころに思ふ我妹を人言の繁きによりて淀むころかも
(慇懃 憶吾妹乎 人言之 繁尓因而 不通比日可聞)
「ねもころに」は「ねんごろに」で「心からねんごろに」という意味。「心からねんごろに思う君なのに人の口が激しくて逢いに行くのを躊躇しています」という歌である。
3110 人言の繁くしあらば君も我れも絶えむと言ひて逢ひしものかも
(人言之 繁思有者 君毛吾毛 将絶常云而 相之物鴨)
「絶えむと言ひて」は「これっきりにしようと言って」という意味。「逢ひしものかも」は「逢っていたのかしら」という意味である。「世間の口がうるさいようならあなたと私の仲はこれっきりにしようと言って逢っていたのかしら」という歌である。
右二首問答歌
3111 すべもなき片恋をすとこの頃に我が死ぬべきは夢に見えきや
(為便毛無 片戀乎為登 比日尓 吾可死者 夢所見哉)
「この頃に」は「近いうちに」という意味。「どうしようもない片思いをしている私は近いうちに死んでしまうように思いますが、あなたの夢に見えたでしょうか」という歌である。
3112 夢に見て衣を取り着装ふ間に妹が使ぞ先立ちにける
(夢見而 衣乎取服 装束間尓 妹之使曽 先尓来)
読解不要の平明歌といってよかろう。「夢に見えたので着物を手にして装い、逢いに出かけようとする間に、君の使いが到着したよ」という歌である。
右二首問答歌
3113 ありありて後も逢はむと言のみを堅く言ひつつ逢ふとはなしに
(在有而 後毛将相登 言耳乎 堅要管 相者無尓)
「ありありて」は3070番歌に「~ありさりて」とある語と同意。「このままのまま」という意味である。「このままのままでいて、後に逢おうと口では固く約束しながら、一向に逢ってくれませんね」という歌である。
3114 極りて我れも逢はむと思へども人の言こそ繁き君にあれ
(極而 吾毛相登 思友 人之言社 繁君尓有)
「極(きはま)りて」は前歌を受けて「何とかして」という意味。「私の方は何とかしてお逢いしたいと思いますが、浮き名が激しいあなたですから」という歌である。
右二首問答歌
3115 息の緒に我が息づきし妹すらを人妻なりと聞けば悲しも
(氣緒尓 言氣築之 妹尚乎 人妻有跡 聞者悲毛)
「息の緒に」は「息も絶え絶えに」、「妹すらを」は「彼女なのに」という意味。「息も絶え絶えになるほど恋い焦がれている彼女なのに、その彼女が人妻だと聞けば悲しい」という歌である。
3116 我がゆゑにいたくなわびそ後つひに逢はじと言ひしこともあらなくに
(我故尓 痛勿和備曽 後遂 不相登要之 言毛不有尓)
「いたく」は「ひどく」という意味。「なわびそ」は「な~そ」の禁止形。「わびしがらないで」という意味である。「私のことでそんなにひどく落ち込まないで下さい。後々もついに(絶対に)逢わないと言ったわけじゃありませんのに」という歌である。
右二首問答歌
3117 門立てて戸も閉したるをいづくゆか妹が入り来て夢に見えつる
(門立而 戸毛閇而有乎 何處従鹿 妹之入来而 夢所見鶴)
「門立てて」は「門を閉じて」。「いづくゆか」の「ゆ」は「~から」で「どこからか」ということ。「門を閉じて戸も閉めておいたのに、どこから彼女は入ってきて夢に現れたのだろう」という歌である。
3118 門立てて戸は閉したれど盗人の穿れる穴より入りて見えけむ
(門立而 戸者雖闔 盗人之 穿穴従 入而所見牟)
「門立てて」は「門を閉じて」。「穿れる穴」は「ほれるあな」と読む。「門を閉じて戸も閉めておいたけれど、盗人があけた穴から入って見えたのでしょうよ」という歌である。
右二首問答歌
(2015年11月29日記)