万葉集読解・・・140(2114~2135番歌)
2114 我が宿に植ゑ生ほしたる秋萩を誰れか標刺す我れに知らえず
(吾屋外尓 殖生有 秋芽子乎 誰標刺 吾尓不所知)
「我がやど」は「我が家の庭」のこと。「植ゑ生(お)ほしたる」は「植えて育てた」という意味である。「誰れか標(しめ)刺す」は縄を張ることだが、「標刺す」とあるので、何らかの目印を刺したのだろう。
「我が家の庭に植えて育てた秋萩に誰が目印をつけたのだろう。私の知らないうちに」という歌である。
2115 手に取れば袖さへにほふをみなへしこの白露に散らまく惜しも
(手取者 袖并丹覆 美人部師 此白露尓 散巻惜)
「袖さへにほふ」は「着物の袖さへ染まる」という意味である。
「手に取れば着物の袖さへ染めてしまう美しい女郎花、この白露で散ると思うと惜しい」という歌である。
2116 白露に争ひかねて咲ける萩散らば惜しけむ雨な降りそね
(白露尓 荒争金手 咲芽子 散惜兼 雨莫零根)
「白露に争ひかねて咲ける萩」とは巧みな表現である。「秋の到来と共に萩も咲く」をこう表現した。「雨な降りそね」は「な~そ」の禁止形。末尾の「ね」は強調の「ね」。
「白露が降りる秋がやってきて、それに抗し切れず、萩が花を咲かせた。その萩が散るのは惜しい。雨よ、降らないでおくれ、頼むから」という歌である。
2117 娘女らに行き逢ひの早稲を刈る時になりにけらしも萩の花咲く
((女+感)嬬等尓 行相乃速稲乎 苅時 成来下 芽子花咲)
「行き逢ひ」(原文「行相)は本歌のほかに1752番歌の「い行き逢ひの坂のふもとに~」と2946番歌の「~道に行き逢ひて外目にも見ればよき子を~」の二例がある。いずれも人と人とが行き逢う意味である。が、「行き逢ひの早稲(わせ)」と速読すると、意味不明の解釈が出てくる。「岩波大系本」や「中西本」によると、季節の変わり目説、地名説、枕詞説等があるようだ。本歌はいったん「娘女(をとめ)らに行き逢ひの」と区切って読まなければならない。つまり「~の季節」という意味である。
「田に出入りする乙女たちに出会う季節、すなわち早稲(わせ)の刈り入れの時節がやってきたようだ。萩の花も咲いている」という歌である。
2118 朝霧のたなびく小野の萩の花今か散るらむいまだ飽かなくに
(朝霧之 棚引小野之 芽子花 今哉散濫 未猒尓)
「今か」は「今頃」。他は読解不要だろう。
「朝霧がたなびく小野に萩の花が咲いている。この季節になると萩は散っていくのだろうか。まだ十分に見飽きたわけではないのに」という歌である。
2119 恋しくは形見にせよと我が背子が植ゑし秋萩花咲きにけり
(戀之久者 形見尓為与登 吾背子我 殖之秋芽子 花咲尓家里)
形見(かたみ)は死んだ人の遺品の意味に使われることもあるが、ここでは「身代わり」といった意味。
「恋しくなったら私の身代わりにせよと言って、あの人が植えた秋萩が咲きました」という歌である。
2120 秋萩に恋尽さじと思へどもしゑやあたらしまたも逢はめやも
(秋芽子 戀不盡跡 雖念 思恵也安多良思 又将相八方)
「しゑや」は、「ええままよ」、「ああしゃくだ」、「まあ」といった感嘆詞。秋萩は恋人の寓意。
「この秋萩にどっぷりつかるものかと思ったが、ああしゃくだけど、こんな美しい萩に二度と出会えようか」という歌である。
2121 秋風は日に異に吹きぬ高円の野辺の秋萩散らまく惜しも
(秋風者 日異吹奴 高圓之 野邊之秋芽子 散巻惜裳)
「日に異(け)に吹きぬ」は「日増しに強く吹く」という意味である。「高円(たかまど)の野辺」は奈良市春日山の南方の野。
「秋風は日増しに強く吹くようになってきた。高円の野辺に咲く秋萩が散るのが惜しまれる」という歌である。
2122 大夫の心はなしに秋萩の恋のみにやもなづみてありなむ
(大夫之 心者無而 秋芽子之 戀耳八方 奈積而有南)
「なづみ」は700番歌や1913番歌にあったように「難渋」。「大夫(ますらを)の心はなしに」は「男子たるものがその心をなくし」という意味である。
「男子たるものがその心をなくし、秋萩に心を奪われ、恋に難渋していてよいものか」という歌である。
2123 我が待ちし秋は来たりぬしかれども萩の花ぞもいまだ咲かずける
(吾待之 秋者来奴 雖然 芽子之花曽毛 未開家類)
読解不要の平明歌。
「待ちに待っていた秋はやってきた。けれども、萩の花はいまだに咲いてくれない」という歌である。
2124 見まく欲り我が待ち恋ひし秋萩は枝もしみみに花咲きにけり
(欲見 吾待戀之 秋芽子者 枝毛思美三荷 花開二家里)
「しみみに」は「びっしり」という意味である。
「見たい見たいと思って待ち焦がれていた秋萩が枝にびっしり花咲かせたよ」という歌である。
2125 春日野の萩し散りなば朝東風の風にたぐひてここに散り来ね
(春日野之 芽子落者 朝東 風尓副而 此間尓落来根)
「春日野」は奈良市春日山の西の麓。「朝東風(あさこち)の」は朝の東風。「たぐひて」は「~とともに」という意味である。
「春日野の萩が散り時になったなら、朝方の東風に乗ってここに散ってきてくれ」という歌である。
2126 秋萩は雁に逢はじと言へればか [一云 言へれかも] 声を聞きては花に散りぬる
(秋芽子者 於鴈不相常 言有者香 [一云 言有可聞] 音乎聞而者 花尓散去流)
萩と牡鹿は似合いの風物としてよく詠われている。が、雁の飛来は冬の到来を意味するので、季節がすれ違いになる。それを詠ったもの。「花に散りぬる」とは大変な省略表現。「花のままで散る」という意味である。
「萩の花は冬の雁には逢わないと言うからか(異伝は「言うからなのか」)、雁の鳴き声をきいただけで花のまま散ってしまった」という歌である。
2127 秋さらば妹に見せむと植ゑし萩露霜負ひて散りにけるかも
(秋去者 妹令視跡 殖之芽子 露霜負而 散来毳)
「秋さらば」は「~になれば」という意味。
「秋になったら彼女に見せようと植えた萩だが、露や霜に見舞われて散ってしまったよ」という歌である。
頭注に「雁を詠む」とある。2128~2140番歌の13首。
2128 秋風に大和へ越ゆる雁がねはいや遠ざかる雲隠りつつ
(秋風尓 山跡部越 鴈鳴者 射矢遠放 雲隠筒)
「雁がね」は雁そのもののこと。
「秋風に乗って大和へ向かってゆく雁がいやますます遠ざかって行く。雲に見え隠れしながら」という歌である。
2129 明け暮れの朝霧隠り鳴きて行く雁は我が恋妹に告げこそ
(明闇之 朝霧隠 鳴而去 鴈者言戀 於妹告社)
「明け暮れの」は「夜明けのまだ薄暗い頃」のこと。雁を使者に見立てた歌。
「夜明けのまだ薄暗い頃、朝の霧に見え隠れしながら鳴いて飛んで行く雁よ。私のこの切ない恋心を彼女に告げてほしい」という歌である。
2130 我が宿に鳴きし雁がね雲の上に今夜鳴くなり国へかも行く
(吾屋戸尓 鳴之鴈哭 雲上尓 今夜喧成 國方可聞遊群)
「我が宿」は「我が家の庭」、「雁がね」は雁のこと。
「我が家の庭で鳴いていた雁。今宵は雲の上で鳴いている。我が故国へ向かおうというのだろうか」という歌である。
2131 さを鹿の妻どふ時に月をよみ雁が音聞こゆ今し来らしも
(左小<壮>鹿之 妻問時尓 月乎吉三 切木四之泣所聞 今時来等霜)
「さを鹿」の「さ」は「さ霧」などと同様、接頭語。「月をよみ」は「月を吉み」で「~なので」の「み」、つまり「月が冴えわたり」という意味である。
「牡鹿が妻を求めて鳴く今宵、月が冴えわたり、雁の鳴き声もよく聞こえる。今にもこちらへ飛んで来るかのようだ」という歌である。
2132 天雲の外に雁が音聞きしよりはだれ霜降り寒しこの夜は [一云 いやますますに恋こそまされ]
(天雲之 外鴈鳴 従聞之 薄垂霜零 寒此夜者 [一云 弥益々尓 戀許曽増焉])
「はだれ」は、1420番歌に「沫雪かはだれに降ると見るまでに~」とあり、「はらはらと」ないし「うっすらと」という意味である。
「雲の遙か上で鳴く雁の声を聞いて以降、うっすらと霜が降りるようになり寒い。とりわけ今夜は」という歌である。
異伝歌は下二句が「~、いやますます恋心が募る」となっている。
2133 秋の田の我が刈りばかの過ぎぬれば雁が音聞こゆ冬かたまけて
(秋田 吾苅婆可能 過去者 鴈之喧所聞 冬方設而)
「刈りばか」は「岩波大系本」に「刈り量(はか)の意か」とある。「自分の分担量」ということになる。結句の「冬かたまけて」は「近づいた」という意味。
「秋の田の我が刈るべき部分を終えてみると、雁の鳴き声が聞こえる。冬が近いのかなあ」という歌である。
2134 葦辺なる荻の葉さやぎ秋風の吹き来るなへに雁鳴き渡る [一云 秋風に雁が音聞こゆ今し来らしも]
(葦邊在 荻之葉左夜藝 秋風之 吹来苗丹 鴈鳴渡 [一云 秋風尓 鴈音所聞 今四来霜])
荻(をぎ)はススキに似た水辺の多年草。葦(あし)も水辺の多年草。「~なへに」は1700番歌等にあるように「~とともに」という意味。
「葦辺に生える荻の葉がざわつき、秋風が吹き寄せてきた。折しも雁が鳴きながら空を渡っていった」という歌である。
異伝歌は下三句が「秋風に吹かれて雁の鳴く声が聞こえてきた。どうやら今、雁たちがやって来たらしい」となっている。
2135 おしてる難波堀江の葦辺には雁寝たるかも霜の降らくに
(押照 難波穿江之 葦邊者 鴈宿有疑 霜乃零尓)
「おしてる」は枕詞。堀江は1143番歌に「さ夜更けて堀江漕ぐなる~」と詠われている。下二句は倒置表現。
「難波の堀江の葦辺では、こんなに霜が降っているというのに雁たちは寝ているのだろうか」という歌である。
(2015年2月10日記、2018年9月27日記)