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万葉集読解・・・143(2177~2193番歌)

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     万葉集読解・・・143(2177~2193番歌)
 頭注に「山を詠む」とある。
2177  春は萌え夏は緑に紅のまだらに見ゆる秋の山かも
      (春者毛要 夏者緑丹 紅之 綵色尓所見 秋山可聞)
 「春は萌(も)え」は「春には草木が芽を出し」という意味。この句さえ把握すれば、後は平明。
 「春には草木が芽を出し、夏は緑葉が繁り、そして紅葉がまだらに彩られる秋の山」という歌である。

 頭注に「黄葉を詠む」とある。2178~2218番歌41首
2178  妻ごもる矢野の神山露霜ににほひそめたり散らまく惜しも
      (妻隠 矢野神山 露霜尓 々寶比始 散巻惜)
 「妻ごもる」は本例のほかに135番長歌の一例のみ。枕詞(?)。「矢野の神山」は所在不詳。「にほひそめたり」は「色づき始めた」という意味。
 「散らまく惜しも」の「~く」はこれまでたびたび出てきた用法だが、この辺でちょっと解説しておこう。「~ということ」の意味で添えられる接尾語。つまり動詞の名詞化。「散っていくのが惜しい」という意味になる。参考までに3例ほど挙げておこう。526番歌「~やむ時もなし我が恋ふらくは」、949番歌「梅柳過ぐらく惜しみ~」、2447番歌「~忘れじと思ひけらくは~」という例。いずれも「~ということ」の意味で使用されている。
 「神様にも妻がいらっしゃるという、矢野の神山が露霜に当たってすっかり色づき初めた。やがて木々の葉が散り出すだろうが惜しいことだ」という歌である。

2179  朝露ににほひそめたる秋山にしぐれな降りそありわたるがね
      (朝露尓 染始 秋山尓 <鍾>礼莫零 在渡金)
 「にほひそめたる」は前歌参照。「な降りそ」は「な~そ」の禁止形。「ありわたるがね」は「このまま続いてほしいから」という意味である。結句に「~るがね」と結ばれる歌は本歌も含めて7例ある。たとえば1906番歌の「梅の花我れは散らさじあをによし奈良なる人も来つつ見るがね」。願望や理由をあらわす。
 「朝に露が見られるようになって秋山が色づきはじめた。この美しい山にしぐれよ降るなよ、このままずっと続いてほしいから」という歌である。
 左注に「右二首は柿本朝臣人麻呂の歌集に出ている」とある。

2180  九月のしぐれの雨に濡れ通り春日の山は色づきにけり
      (九月乃 <鍾>礼乃雨丹 沾通 春日之山者 色付丹来)
 春日の山は「春の日の山」のことか「春日大社の東側にそびえる花山ないしは西側の御蓋山(みかさやま)(三笠山)」のことか出てくるたびに頭を悩ませる。ここでは「濡れ通り」とあるのでおそらく花山のことだろう。九月にしぐれは早いだろうと思う人もいるだろうが、万葉時代は当然旧暦の九月(ながつき)。現在なら十月から十一月にかけての時期。「濡れ通り」は現在ではあまり見かけない表現だが、一面に濡れること。
 「長月のしぐれ雨に春日山は一面に濡れ、すっかり色づいてきた」という歌である。

2181  雁が音の寒き朝明の露ならし春日の山をもみたすものは
      (鴈鳴之 寒朝開之 露有之 春日山乎 令黄物者)
 「露ならし」は「露が降りたらしい」という意味である。見かけないのが結句の「もみたすものは」。「紅葉に色づく」は通常「もみたむ」と使用され、4例ある。一例挙げておくと、1551番歌に「時待ちて降れるしぐれの雨やみぬ明けむ朝か山のもみたむ」とある。「もみたす」はその使役例で「紅葉に色づかせる」という意味である。本歌一例しかない。 「鳴く雁の声が寒々と聞こえる朝明けだ。露が降りていることだろう。春日山を色づかせる露が」という歌である。

2182  このころの暁露に我がやどの萩の下葉は色づきにけり
      (比日之 暁露丹 吾屋前之 芽子乃下葉者 色付尓家里)
 読解不要の平明歌。
 「ここんところの明け方の露のせいで、我が家の庭の萩の下葉が色づいてきた」という歌である。

2183  雁がねは今は来鳴きぬ我が待ちし黄葉早継げ待たば苦しも
      (鴈音者 今者来鳴沼 吾待之 黄葉早継 待者辛苦母)
 「雁がねは」(原文「鴈音者」)は「雁の鳴き声」のこと。「今は来鳴きぬ」は「近頃雁の鳴き声がしている」という意味。「黄葉早継げ」は「紅葉よ雁に遅れるな」という意味である。
 「近頃雁の鳴き声がしていたが、今ではここまでやってきて鳴いている。紅葉よ雁に遅れることなく、雁に続いて早く色づいておくれ。待ち遠しくてならない」という歌である。

2184  秋山をゆめ人懸くな忘れにしその黄葉の思ほゆらくに
      (秋山乎 謹人懸勿 忘西 其黄葉乃 所思君)
 「ゆめ人懸くな」は「決して口にするな」という意味である。「懸くな」が「口にするな」という意味になるのかというと、懸は懸念の懸。もう秋は過ぎたのだから「もう気に懸けるな」という所から来ているのだろう。
 「もう過ぎ去った秋山のことは決して話題にしないでおくれ。あの美しかった黄葉のことが思い出されてならないから」という歌である。

2185  大坂を我が越え来れば二上に黄葉流るしぐれ降りつつ
      (大坂乎 吾越来者 二上尓 黄葉流 志具礼零乍)
 大坂は二上山(ふたかみやま)を越えていく坂。大きい坂だったのだろう。北方の雄岳と南方の雌岳の二つの山から成るので二上山と呼ばれた。奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町に跨がる山。いわば両府県の境界近辺の山。
 「大坂を越えて来たら二上山ではしぐれを受けて黄葉が散っていた」という歌である。

2186   秋されば置く白露に我が門の浅茅が末葉色づきにけり
      (秋去者 置白露尓 吾門乃 淺茅何浦葉 色付尓家里)
 「秋されば」は「秋がやってきて」という意味。浅茅(あさぢ)は丈の低い茅(かや)。末葉(うらば)はいうまでもなく葉の先端部分。
 「秋がやって来て、白露が降りるようになったこのごろ、我が家の門に生えている浅茅の先端部分が色づいてきた」という歌である。

2187  妹が袖巻来の山の朝露ににほふ黄葉の散らまく惜しも
      (妹之袖 巻来乃山之 朝露尓 仁寶布黄葉之 散巻惜裳)
 「妹が袖」は枕詞(?)。「岩波大系本」は「巻きにかかる」としている。「妹が袖」は全万葉集歌中5例あるが、「~、巻き」とくるのは本歌一例のみ。他は「~、わかれ」、「~、さやにも」等様々な用語にかかっている。「巻来(まきき)の山」は所在不明。「巻向山」の誤りとする説もある。「にほふ」は「色づく」という意味。「散らまく」は2178番歌にあったように「散っていくのが惜しい」という意味。
 「妹が袖に由来するという巻来の山に朝露が降り、色づいた黄葉が散っていくのが惜しい」という歌である。

2188  黄葉のにほひは繁ししかれども妻梨の木を手折りかざさむ
      (黄葉之 丹穂日者繁 然鞆 妻梨木乎 手折可佐寒)
 「にほひ」は「色づいた」という意味。「妻梨の木」という木はない由。「梨の木」に「妻の無い私」をかけたのだろう。「かざさむ」は「髪にかざる」という意味。
 「色づいた黄葉の木はいっぱいあるけれど妻無しの私は梨の木を手折って頭に飾ろう」という歌である。

2189  露霜の寒き夕の秋風にもみちにけらし妻梨の木は
      (露霜乃 寒夕之 秋風丹 黄葉尓来毛 妻梨之木者)
 結句の「妻梨の木は」は前歌参照。「もみちにけらし」は「紅葉に色づく」こと。
 「露霜が降りる寒い夕方の秋風を受けたためなのか妻無しの梨の木も美しく色づいたよ」という歌である。

2190  我が門の浅茅色づく吉隠の浪柴の野の黄葉散るらし
      (吾門之 淺茅色就 吉魚張能 浪柴乃野之 黄葉散良新)
 「我が門の浅茅色づく」は2186番歌を参照。吉隠(よなばり)は奈良県桜井市の国道165号線沿いにある地名。浪柴(なみしば)の野は吉隠内の野だろうが、具体的には不明。
 「我が家の門の浅茅は色づいてきた。このぶんだと吉隠の浪柴の野の黄葉は散っていることだろうな」という歌である。

2191  雁が音を聞きつるなへに高松の野の上の草ぞ色づきにける
      (鴈之鳴乎 聞鶴奈倍尓 高松之 野上乃草曽 色付尓家留)
 「聞きつるなへに」は「~とともに」という意味。「高松の野」は奈良市東部の高円山(たかまどのやま)のことと言う説もあるが、不詳。
 「雁の鳴き声を聞いていると、きっと高松の野の草々も色づいたことと思われる」という歌である。

2192  我が背子が白栲衣行き触ればにほひぬべくももみつ山かも
      (吾背兒我 白細衣 徃觸者 應染毛 黄變山可聞)
 白栲衣(しろたへころも)は真っ白な着物のこと。「にほひぬべくも」は「染まってしまうに相違なく思われる」という意味である。
 「あの人が真っ白な着物姿で歩いていって、黄葉に触れるとたちまち黄葉色に染まるに相違ないと思われるほど山は見事に色づいている」という歌である。

2193  秋風の日に異に吹けば水茎の岡の木の葉も色づきにけり
      (秋風之 日異吹者 水莫能 岡之木葉毛 色付尓家里)
 2121番歌にあったように、「日に異(け)に吹きぬ」は「日増しに強く吹く」という意味である。「水茎の」は枕詞(?)。「水茎の」は5例あるが、すべて「みずみずしい草の生える」という意味で十分に意味がとおる。
 「秋風が日増しに強く吹くようになってきてみずみずしい草の生える岡の木々も色づいてきた」という歌である。
           (2015年2月23日記、2018年10月2日)
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希林さんの言葉

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 樹木希林さんが9月15日にお亡くなりになった。そしてその法要がたしか9月30日に行われた。娘の也哉子さんが、夫の内田裕也さんに代わって弔辞を読み上げた。その中に希林さんが書きとどめていた次のような言葉があった。
 「おごらず、人と比べず、面白がって平気に生きればいい」
 この言葉を最初にテレビ画面でみたとき、「そうそう」とうなづくものがあった。が、数日経つ内にぐっと心に突き刺さるものを感じ、果ては涙じみたものがこみあげてくるのを覚えた。深い愛情から紡ぎ出された言葉と気付いたからである。
 一片の詩のような言葉だが、第一級の詩にも相当するものを備えている。
 初見したとき心に届くのは前半部の「おごらず、人と比べず、」である。思わず、「そうそう」と首を縦に振りたくなるような言葉である。が、時が経つ内に後半部の「面白がって平気に生きればいい」が重要だと思えてきた。特に「平気に生きればいい」が重要で、これによって前半部の意味は「人がおごろうと、人が(あなたを)人と比べようと」が真の意味だと分かる。だからこそ、結句の「平気に生きればいい」が燦然と光を放つのである。少なくとも私にはそう思われる。「面白がって」とはなんという深い愛情だろう。「人が何と言おうと、あなたはあなたの好きなように面白がって生きなさい。私はあなたを応援してるからね」という気持に相違なく、かくて全体は詩の一片のように結びつくのである。
 「おごらず、人と比べず、面白がって平気に生きればいい」
 私は希林さんの娘に対する深い愛情を読み取った思いに駆られ、涙じみたものがこみあげてきたのである。
 個人的には何のゆかりも関係もない希林さん。ご冥福をお祈りしたい。
            (2018年10月4日)
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万葉集読解・・・144(2194~2213番歌)

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     万葉集読解・・・144(2194~2213番歌)
 2178番歌から続く黄葉歌の続き(2218番歌まで)。
2194  雁がねの来鳴きしなへに韓衣龍田の山はもみちそめたり
      (鴈鳴乃 来鳴之共 韓衣 裁田之山者 黄始南)
 龍田山は奈良県生駒郡の山の一つ。「韓衣(からころも)龍田の山は」は952番歌の際に触れたが、「きらびやかな美しい韓衣のような龍田の山は」という意味に相違ない。「なへに」は2191番歌に出てきたばかりだが、「~とともに」という意味である。
 「雁がやってきて鳴くようになった。それとともに、きらびやかな美しい韓衣のような龍田の山は色づき始めた」という歌である。

2195  雁がねの声聞くなへに明日よりは春日の山はもみちそめなむ
      (鴈之鳴 聲聞苗荷 明日従者 借香能山者 黄始南)
 「なへに」は「~とともに」。春日山は奈良の春日大社が鎮座する山、御笠山ともいう。
 「雁の鳴き声が聞こえるようになったが、明日からは春日山が色づき始めることだろう」という歌である

2196   しぐれの雨間なくし降れば真木の葉も争ひかねて色づきにけり
      (四具礼能雨 無間之零者 真木葉毛 争不勝而 色付尓家里)
 「真木」は立派な木という美称の「真」。
 「しぐれ雨が間断なく降るので木々の葉も抗しきれずに色づいてきた」という歌である。

2197  いちしろくしぐれの雨は降らなくに大城の山は色づきにけり
      (灼然 四具礼乃雨者 零勿國 大城山者 色付尓家里)
 「いちしろく」は「目に見えて」ないしは「著しく」という意味。「降らなくに」は「降るわけではないが」という意味である。
 「目に見えてしぐれの雨が多く降るわけではないが、大城山は色づいてきた」という歌である。
 本歌には細注が付いていて、「大城の山は筑前國御笠郡(つくしのみちのくにみかさのこほり)の大野山の頂(いただき)にあり、名付けて大城(おほき)といえるものなり」とある。

2198  風吹けば黄葉散りつつすくなくも吾の松原清くあらなくに
      (風吹者 黄葉散乍 小雲 吾松原 清在莫國)
 「すくなくも~あらなくに」は「少々の~ではない」という意味である。「吾(あが)の松原」は1030番歌に詠われているが、具体的にはどこの地のことかはっきりしていない。
 「風に吹かれて黄葉が散り敷くと、ただでさえ美しい吾の松原がさらに美しさを増す」という歌である。

2199  物思ふと隠らひ居りて今日見れば春日の山は色づきにけり
      (物念 隠座而 今日見者 春日山者 色就尓家里)
 「隠(こも)らひ居りて」は「家に引きこもっていて」という意味である。春日の山は2180番歌に出てきたばかりだが、奈良市春日大社の東側の山。
 「家に引きこもっていて物思いに耽っていたが、ふと外の春日山を眺めてみたら、すっかり色づいていた」という歌である。

2200  九月の白露負ひてあしひきの山のもみたむ見まくしもよし
      (九月 白露負而 足日木乃 山之将黄變 見幕下吉)
 「あしひきの」はお馴染みの枕詞。「もみたむ」も前歌の「春日の山」同様、2181番歌に出てきたばかり。「紅葉に色づく」という意味である。「見まくしもよし」は「見るのはいいものだ」という意味。
 「九月(ながつき)の白露を浴びて、山一帯が色づくのを見るのはいいものだ」という歌である。

2201  妹がりと馬に鞍置きて生駒山うち越え来れば黄葉散りつつ
      (妹許跡 馬鞍置而 射駒山 撃越来者 紅葉散筒)
 「妹がり」は「暗がり」と同様「彼女のいる所」という意味。
 「馬に鞍置いて彼女の許へと生駒山を越えてきたところ、もう黄葉は散り始めていた」という歌である。

2202  黄葉する時になるらし月人の楓の枝の色づく見れば
      (黄葉為 時尓成良之 月人 楓枝乃 色付見者)
 本歌のポイントは「楓(かへで)の枝」。原文に「楓枝」とあるように楓の枝。ところが、これを「桂(かつら)」と読ませ、「楓の枝の」を「桂の枝の」とする書がある。が、楓と桂は全く別の木であり、同一視は不可。では、原文を変えてまでなぜ桂にするのだろう。思うに、中国の伝説に月の中に桂の木があるということから、それに合わせたものに相違ない。が、歌の作者が楓と桂を同一視するとは思えない。文字自体が全く異なっている。「月人」は「お月様」のことで、別に月世界のことではない。月世界としてしまうと「黄葉する時になるらし」が無意味になるばかりでなく、結句の「色づく見れば」もぴんとこない。楓であればこそ、その美しさは月光に映えるのである。
 「いよいよ黄葉の季節がやってきたようだ。お月様に映える楓が美しく色づいているのを見ると」という歌である。

2203  里ゆ異に霜は置くらし高松の野山つかさの色づく見れば
      (里異 霜者置良之 高松 野山司之 色付見者)
 「里ゆ異(け)に」は「里とは異なって」という意味である。「岩波大系本」のように異を「こと」と読んで「里ごとに」とする説もある。が、それでは歌意が妙である。どの人里にも霜が降りているのなら「高松の野山」を引き合いに出すのは妙だ。霜は野山が先で里に及ぶのが普通。「高松の野」は2191番歌に出てきたばかり。奈良市東部の高円山(たかまどのやま)のことと言う説もあるが、不詳。「野山つかさ」(原文:野山司)だが、「つかさ」は通常官庁や官吏のことをいうが、「高いところ」という意味で使われることがある。たとえば529番歌に「佐保川の岸のつかさの柴な刈りそね~」とある。
 「里とは異なって、あそこ高松の野山には霜が降りているようだ。野山の高みが色づいているのを見ると」という歌である。

2204  秋風の日に異に吹けば露重み萩の下葉は色づきにけり
      (秋風之 日異吹者 露重 芽子之下葉者 色付来)
 「秋風の日に異(け)に吹けば」は2193番歌にそのまま使われている。「秋風が日増しに強く吹くようになってきて」という意味である。「露重み」は「~ので」の「み」。「露が降りるようになったので」という意味である。
 「秋風が日増しに強く吹くようになってきて、露が降りるようになったので、萩の下の方の葉が色づいてきた」という歌である。

2205  秋萩の下葉もみちぬあらたまの月の経ぬれば風をいたみかも
      (秋芽子乃 下葉赤 荒玉乃 月之歴去者 風疾鴨)
 「もみちぬ」は「紅葉に色づいてきた」という意味。「風をいたみかも」は「風が強くなったせいでか」という意味である。
 「萩の下の方の葉が色づいてきた。月が変わって時が経ち、風が強くなったせいでか」という歌である。

2206  まそ鏡南淵山は今日もかも白露置きて黄葉散るらむ
      (真十鏡 見名淵山者 今日鴨 白露置而 黄葉将散)
 「まそ鏡」は枕詞。南淵山(みなぶちやま)は奈良県明日香村の稲淵の山。
 「南淵山には今日もまた白露が降りていて黄葉が散っているだろうか」という歌である。

2207  我がやどの浅茅色づく吉隠の夏身の上にしぐれ降るらし
      (吾屋戸之 淺茅色付 吉魚張之 夏身之上尓 四具礼零疑)
 「我がやどの」は「我が家の庭の」という意味。浅茅(あさぢ)は丈の低い茅(かや)のこと。吉隠(よなばり)は奈良県桜井市の国道165号線沿いにある地名。2190番歌には「吉隠の浪柴(なみしば)」とあった。が、本歌には「吉隠の夏身(なつみ)」とある。浪柴も夏身もどのあたりのことか不明。
 「我が家の庭では浅茅が色づいている。きっと吉隠の夏身のあたりにはしぐれが降り注いでいることだろう」という歌である。

2208  雁がねの寒く鳴きしゆ水茎の岡の葛葉は色づきにけり
      (鴈鳴之 寒鳴従 水茎之 岡乃葛葉者 色付尓来)
 「寒く鳴きしゆ」の「ゆ」は「~より」ないし「~以降」という意味。「水茎の」は2193番歌に出てきたばかりだが、「みずみずしい草の生える」という意味である。
 「雁が寒々と鳴いてからというもの、みずみずしい草の生える岡の葛の葉はすっかり色づいてきた」という歌である。

2209  秋萩の下葉の黄葉花に継ぎ時過ぎゆかば後恋ひむかも
      (秋芽子之 下葉乃黄葉 於花継 時過去者 後将戀鴨)
 「花に継ぎ」は「花の時と同様」という意味である。
 「萩の下葉が美しく色づいている。が、花の時と同様、その季節が過ぎ去ったら、後で恋しくなるだろうね」という歌である。

2210  明日香川黄葉流る葛城の山の木の葉は今し散るらし
      (明日香河 黄葉流 葛木 山之木葉者 今之<落>疑)
  明日香川は現在飛鳥川と表記されている。奈良県明日香村、橿原市、田原本町などを流れる川。「葛城(かつらぎ)の山」は奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町に跨がる二上山から金剛山にかけての山。「今し」は強意の「し」。
 「明日香川に黄葉が流れている。葛城山ではいまごろ木の葉が盛んに散っていることだろうなあ」という歌である。

2211  妹が紐解くと結びて龍田山今こそもみちそめてありけれ
      (妹之紐 解登結而 立田山 今許曽黄葉 始而有家礼)
 「妹が紐解くと結びて」は解いた妻の着物の紐を結んで出発する(発つ)を龍田山につなげる序歌。龍田山は奈良県生駒郡の山の一つ。
 「妻の着物の紐を結んで出発する(発つ)という、その龍田山はちょうどいまごろ色づき始めたことだろうな」という歌である。

2212  雁がねの寒く鳴きしゆ春日なる御笠の山は色づきにけり
      (鴈鳴之 寒喧之従 春日有 三笠山者 色付丹家里)
 「雁がねの寒く鳴きしゆ」は2008番歌にそのまま使われている。「雁が寒々と鳴いてからというもの」という意味である。「御笠の山」は奈良公園に鎮座する春日大社の東側の山。春日山ともいい、山頂に本宮が鎮座している。
 「雁が寒々と鳴いてからというもの、御笠の山はすっかり色づいてきた」という歌である。

2213  このころの暁露に我が宿の秋の萩原色づきにけり
      (比者之 五更露尓 吾屋戸乃 秋之芽子原 色付尓家里)
 「我が宿」は「我が家の庭」という意味。
 「このごろ明け方に露が降りている。我が家の庭の萩の原はすっかり色づいてきた」という歌である。
           (2015年2月25日記、2018年10月4日)
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万葉集読解・・・145(2214~2232番歌)

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     万葉集読解・・・145(2214~2232番歌)
 2178番歌から続く黄葉歌の続き(2218番歌まで)。
2214  夕されば雁の越え行く龍田山しぐれに競ひ色づきにけり
      (夕去者 鴈之越徃 龍田山 四具礼尓競 色付尓家里)
 「夕されば」は「夕方になると」という意味。龍田山は奈良県生駒郡の山の一つ。本歌は2196番歌「しぐれの雨~争ひかねて色づきにけり」と歌趣に相通じる所がある。
 「夕方になると雁が越えていく龍田山。しぐれに見舞われて競うように色づいてきた」という歌である。

2215  さ夜更けてしぐれな降りそ秋萩の本葉の黄葉散らまく惜しも
      (左夜深而 四具礼勿零 秋芽子之 本葉之黄葉 落巻惜裳)
 「な降りそ」は「な~そ」の禁止形。本葉(もとば)は末葉(うらば)に対する言い方。根元の葉。 「夜が更けてからしぐれよ降らないでおくれ。いまだ残っている本葉の黄葉が散るのが惜しいから」という歌である。

2216  故郷の初黄葉を手折り持ち今日ぞ我が来し見ぬ人のため
      (古郷之 始黄葉乎 手折以 今日曽吾来 不見人之為)
 結句の「見ぬ人のため」は原文に「不見人之為」とあるように、「まだ見ていない人のため」という意味。
 「故郷を訪ねたら、今年の初黄葉を見つけたので手折ってきて、まだ黄葉にお目にかかっていない人のために今日持ってきました」という歌である。

2217  君が家の黄葉は早く散りにけりしぐれの雨に濡れにけらしも
      (君之家<乃> 黄葉早者 落 四具礼乃雨尓 所沾良之母)
 読解不要の平明歌。
 「あなたの家の黄葉は早々と散ってしまいましたね。しぐれに降られて濡れてしまったのでしょうか」という歌である。

2218  一年にふたたび行かぬ秋山を心に飽かず過ぐしつるかも
      (一年 二遍不行 秋山乎 情尓不飽 過之鶴鴨)
 本歌は「~秋山を」でいったん区切って読む。「~秋山なのに」という心情である。第四句の「心に飽かず」は「十分堪能しないまま」という意味である。
 「一年に再び訪れることのない秋の山なのに、十分堪能しないままやり過ごしてしまった」という歌である。
 2178番歌以降続いた黄葉を詠んだ歌は本歌で終了である。

 頭注に「水田を詠む」とある。2219~2221番歌。
2219  あしひきの山田作る子秀でずとも縄だに延へよ守ると知るがね
      (足曳之 山田佃子 不秀友 縄谷延与 守登知金)
 「あしひきの」はお馴染みの枕詞。「山田作る子」は「山田を耕す子」で、通常若い女性を指す。「秀でずとも縄だに延へよ」は1353番歌の「~秀でずとも縄だに延へよ~」と全く同一の表現である。「穂はまだ出てきてないけれど、ちゃんと縄を張りめぐらせておきなさいよ」という意味である。結句の「~るがね」は1958番歌等多くの実例があり、「~のだから」という意味である。
 「山田を耕している娘さんよ、穂はまだ出てきてないけれど、ちゃんと縄を張りめぐらせておきなさいよ。ここはあなたの田だと知らせるために。」という歌である。

2220  さを鹿の妻呼ぶ山の岡辺なる早稲田は刈らじ霜は降るとも
      (左小牡鹿之 妻喚山之 岳邊在 早田者不苅 霜者雖零)
 「さを鹿の」の「さ」は強意等に使用される接頭語。「さ霧」、「さ百合」等々。「鹿のために稲を刈らずにおく」という歌なのか、あるいは「鹿がやってくる邪魔にならないように」という歌なのかはっきりしない点がある。
 「牡鹿が妻を求めてやってくる山の麓の早稲田は刈らずにおこう。霜が降りるようになっても」という歌である。

2221  我が門に守る田を見れば佐保の内の秋萩すすき思ほゆるかも
      (我門尓 禁田乎見者 沙穂内之 秋芽子為酢寸 所念鴨)
 佐保は大伴氏の根拠地のひとつで、大伴坂上郎女(おおとものさかのうへのいらつめ)が居を構えていた所。「見れば」は「見張っていると」という意味である。
 「我が家の門のあたりの田を見張っていると、佐保の里の秋萩やすすきが思い起こされる」という歌である。

 頭注に「河を詠む」とある。
2222  夕去らずかはづ鳴くなる三輪川の清き瀬の音を聞かくしよしも
      (暮不去 河蝦鳴成 三和河之 清瀬音乎 聞師吉毛)
 「夕されば」は29例に及ぶ。が、本歌の「夕去らず」は本歌のほかに二例しかない。「毎夕」という意味である。三輪川は奈良県桜井市に鎮座する大神神社(おおみわじんじゃ)の近くを流れる川。大神神社は私も訪れたことがあるが、日本最古の神社のひとつ。本殿をもたない珍しい神社。三輪山そのものをご神体として仰ぐ。荘厳にして清冽な気が漲る。それを念頭に置いて鑑賞すると味わい深い。「聞かくし」は「聞いているのは」という意味である。
 「毎夕蛙の鳴く声が聞こえる三輪川、その清冽な瀬の音を聞くのは本当にいいものだ」という歌である。

 頭注に「月を詠む」とある。2223~2229番歌。
2223  天の海に月の舟浮け桂楫懸けて漕ぐ見ゆ月人壮士
      (天海 月船浮 桂梶 懸而滂所見 月人牡子)
 桂楫(かつらかぢ)は桂の木で作った舟楫。2202番歌の「~月人の楓の枝の~」について、「楓と桂は文字も違う全く別の木で、それを同一視して、月の中に桂の木があるという中国伝説を持ち出すのはおかしい」という意味のことを述べた。本歌の場合は原文に「桂」とあるので、中国伝説に結びつけられなくもない。が、「月の舟浮け」とあるように、これは月世界のことではなく、月そのもの(三日月)を舟に見立てての歌なので伝説を持ち出すのはお門違いであろう。
 「広大な夜空の天海に月の舟を浮かべ、桂で作った楫を操って海を渡っていく月男が見える」という歌である。

2224  この夜らはさ夜更けぬらし雁が音の聞こゆる空ゆ月立ち渡る
      (此夜等者 沙夜深去良之 鴈鳴乃 所聞空従 月立度)
 「この夜らは」の「ら」は複数を表したり、謙譲の意をこめたりと色々に使用される接尾語だが、ここでは語調を整えるための「ら」。「さ夜」の「さ」はお馴染みの接頭語。
 「今宵はすっかり夜が更けたらしい。雁の鳴き声が聞こえる夜空を月が渡って行く」という歌である。

2225  我が背子がかざしの萩に置く露をさやかに見よと月は照るらし
      (吾背子之 挿頭之芽子尓 置露乎 清見世跡 月者照良思)
 月光の美しさを詩的に表現した歌。「かざし」は頭髪に刺す髪飾り。「さやかに」は「はっきりと」ないしは「よくよくみなさい」という意味である。
 「あの人がかざしにしている萩には露が光っている。よくよくご覧よと月は照らし出しているらしい」という歌である。

2226  心なき秋の月夜の物思ふと寐の寝らえぬに照りつつもとな
      (無心 秋月夜之 物念跡 寐不所宿 照乍本名)
 「もとな」は618番歌等にあるように、「心もとない」ないしは「しきりに」という意味。
 「物思いに耽っているその私の胸の内を無情にもはっきり照らし出す秋の月、寝ようにもなかなか眠られない私をこれでもかとしきりに照らし出す」という歌である。

2227  思はぬにしぐれの雨は降りたれど天雲晴れて月夜さやけし
      (不念尓 四具礼乃雨者 零有跡 天雲霽而 月夜清焉)
 結句の「月夜さやけし」は「くっきりして清らかな月夜」という意味である。
 「思いがけずしぐれが降ったけれど、空は晴れ渡ってきて今夜の月夜はくっきりして清らかだ」という歌である。

2228  萩の花咲きのををりを見よとかも月夜の清き恋まさらくに
      (芽子之花 開乃乎再入緒 見代跡可聞 月夜之清 戀益良國)
 「ををり」は1421番歌等にあるように満開状態のこと。たわわに花が咲いた状態。結句の「恋まさらくに」は人に対する恋心ではない。萩の美しさへの賛歌だ。
 「萩の花が今を盛りと枝もたわわに咲き誇っている。その萩を見よとばかり、月はくっきりと照らし出す。が、照らせば照らすほどますます萩に惹かれる」という歌である。

2229  白露を玉になしたる九月の有明の月夜見れど飽かぬかも
      (白露乎 玉作有 九月 在明之月夜 雖見不飽可聞)
 本歌にいう「玉」はたんに「丸い玉」という意味ではない。1598番歌「さを鹿の朝立つ野辺の秋萩に玉と見るまで置ける白露」で述べたように「真珠」のことに相違ない。「有明の月夜」は「明け方の月夜」のこと。
 「白露を真珠とみまごうばかりに照らし出す九月(むろん旧暦)の明け方の月は美しく、見ても見ても見飽きることがない」という歌である。

 頭注に「風を詠む」とある。2230~2232番歌。
2230  恋ひつつも稲葉かき別け家居れば乏しくもあらず秋の夕風
      (戀乍裳 稲葉掻別 家居者 乏不有 秋之暮風)
 「稲葉かき別け家居れば」の「家」は、仮廬(かりほ)のこと。すなわち、秋の田を刈り入れるため寝泊まりする仮小屋のことである。したがって「恋ひつつも」は「本宅が恋しい」という意味である。「乏しくもあらず」は1820番歌にそのまま使われているが、「少なくない」すなわち「けっこう多い」という意味である。
 「本宅が恋しい。稲の葉をかきわけるように作られた仮小屋にいると、しきりに吹く秋の夕風(秋の到来)が身にこたえる」という歌である。

2231  萩の花咲きたる野辺にひぐらしの鳴くなるなへに秋の風吹く
      (芽子花 咲有野邊 日晩之乃 鳴奈流共 秋風吹)
 「~なへに」は「~とともに」という意味。「ひぐらし」は蝉の一種で、夏から秋にかけて「かなかな」と鳴く。
 「萩の花が咲き誇る野辺にひぐらしが鳴いているが、同時に秋の風も吹き渡っている」という歌である。

2232  秋山の木の葉もいまだもみたねば今朝吹く風は霜も置きぬべく
      (秋山之 木葉文未赤者 今旦吹風者 霜毛置應久)
 「もみたねば」は「もみたむ」(紅葉化する)の否定形。
 「秋山の木の葉はまだ色づいていないのに、今朝吹いている風は霜が降りそうに思われるほど冷たい」という歌である。
           (2015年3月2日記、、2018年10月6日))
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助かった自業自得

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 一昨日、私は夕食に久々に牛丼のすき家に出かけた。ものの三十分もいただろうか。勘定を済ませて、駐車場に戻ったら、車のヘッドライトが点いたままだった。消し忘れたのだろうか。車に乗り込んで、キーを回したが、エンジンがかからない。二度、三度キーを回したが、エンジンがかからない。私はパニくった。このままでは帰宅できない。
 店内に戻って40代前後の話しやすそうな男性客に声をかけた。事情を話すと、即座に同行してくれて、車のキーを回した。やはり、エンジンがかからない。聞けば、偶然にも全く同じディーラーの、かつ、同じ支店から車を買った人だった。その支店は、すき家から500メートルと離れていない近くの店だった。
 彼は私のスマホを借りて、JAFに電話し、かつ、ディーラーにも電話してくれた。「私は通りすがりのものですが」と言ったあと、次のように言った。
 「ここで待っていたら、すぐディーラーが駆けつけてくれ、対処してくれるそうです」
 そうしてそそくさと自分の車に乗り込み、去っていった。お礼をいう暇もないくらいだった。むろん、名前も連絡先も言わず去っていった。
 結局、バッテリーがあがったためだったのだが、エンジンがかかった後、その支店に行き、十分にお礼を述べた。むろん、JAFに断りの連絡をしたのはいうまでもない。
 それにしても、世の中には随分親切な人がいるものだ。たまたま声をかけただけの人。かつ、全く同一の支店で車を購入した人だった。その御仁はほとんど会話をしないのに、手早く動き、ディーラーに対処を依頼してくれた。そしてあっという間に去っていった。偶然とはいえ、私にはスマート過ぎる御仁に思われた。
   見も知らぬ人の一声手早くも動きし御仁神かとまごふ  (桐山芳夫)
 一人でもこんな御仁がいると思うだけで、世の中捨てたもんじゃないって思いますね
            (2018年10月7日)
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万葉集読解・・・146(2233~2251番歌)

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     万葉集読解・・・146(2233~2251番歌)
 頭注に「芳香を詠む」とある。
2233  高松のこの峰も狭に笠立てて満ち盛りたる秋の香のよさ
      (高松之 此峯迫尓 笠立而 盈盛有 秋香乃吉者)
 「高松」は場所不詳。「狭(せ)に」は「所せまし」という意味。「笠立てて」は、結句に「秋の香のよさ」とあるので、松茸のことと思われる。
 「高松のこの峰に所狭しと笠をひらいて生えた松茸。辺り一面に満ちあふれた香りのよさ」という歌である。

 頭注に「雨を詠む」とある。2234~2236番歌。
2234  一日には千重しくしくに我が恋ふる妹があたりにしぐれ降れ見む
      (一日 千重敷布 我戀 妹當 為暮零礼見)
 「千重しくしくに」は1440番歌に「春雨のしくしく降るに高円の~」とあるように「しきりに」という意味である。「一日(ひとひ)には千重(ちへ)しくしくに」は「一日に幾度も幾度もしきりに」という意味。「恋ふる」と「しぐれ」の両方にかけている。
 「一日に幾度も幾度もしきりに彼女のことが恋しくてたまらないが、そのようにもしぐれよ、彼女の家のあたりにしきりに降ってくれないか、じっと眺めていたいから」という歌である。
 左注に「右の一首、柿本朝臣人麻呂の歌集に出ている」とある。

2235  秋田刈る旅の廬りにしぐれ降り我が袖濡れぬ干す人なしに
      (秋田苅 客乃廬入尓 四具礼零 我袖沾 干人無二)
 「廬(いほ)り」とは仮小屋のこと。「旅の廬りに」は「家から離れた仮小屋に」という意味。
 「稲の刈り入れを行う為に仮小屋に宿っていたら、しぐれが降ってきて、着物の袖が濡れてしまった。干してくれる人もいないのに」という歌である。

2236  玉たすき懸けぬ時なし我が恋はしぐれし降らば濡れつつも行かむ
      (玉手次 不懸時無 吾戀 此具礼志零者 沾乍毛将行)
 「玉たすき」は「かける」にかかる枕詞というが、単純にそう割り切れない例がある。たとえば1335番歌。「思ひあまりいたもすべなみ玉たすき畝傍の山に我れ標結ひつ」という歌で、「玉たすき」は「畝傍の山」にかかっている。玉は美称で、「たすき」は意図的に使用している可能性がある。つまり、単なる枕詞と言い切れない。枕詞(?)としておこう。「たすき」は「さあ」という意気込みを示す言葉という気がする。
 「私の恋はなんとか成就しようという、たすき掛けの状態にある。しぐれが降っても、濡れながらでもそのまま進もう」という歌である。

2237  黄葉を散らすしぐれの降るなへに夜さへぞ寒きひとりし寝れば
      (黄葉乎 令落四具礼能 零苗尓 夜副衣寒 一之宿者)
 「~なへに」は「~とともに」という意味。
 「寒さで黄葉を散らすしぐれが降っている。が、夜もまた寒さが身に染みる。たった一人で寝ると」という歌である。

 頭注に「霜を詠む」とある。
2238  天飛ぶや雁の翼の覆ひ羽のいづく漏りてか霜の降りけむ
      (天飛也 鴈之翅乃 覆羽之 何處漏香 霜之零異牟)
 分かり難い歌である。第三句に「覆(おほ)ひ羽(ば)の」とある。初句に「天飛ぶや」とあるので、「大空を覆う羽根」という意味である。本歌は雁の大群をモチーフにしているに相違ない。一羽や二羽では「大空を覆う羽根」などとは詠わないだろう。が、空を覆い尽くさんばかりの雁の大群と解すると、「霜を詠んだ歌」ではなく「雁を詠んだ歌」とした方がよくなる。題詞が邪魔をして歌を分かり難くしている。それとも、作者の真意は「空を覆い尽くさんばかりの雁の大群でさえとめられない一面に降りた霜」と詠いたかったのであろうか。
 「大空を飛ぶ雁の大群。空を覆う羽根のどこから漏れて霜が降りてきたのだろう」という歌である。

 本歌から秋相聞歌。2239~2311番歌の73首。
2239  秋山のしたひが下に鳴く鳥の声だに聞かば何か嘆かむ
      (金山 舌日下 鳴鳥 音谷聞 何嘆)
 相聞歌なので「鳴く鳥の声」は彼女の寓意だと見当がつく。「したひ(原文:舌日)」は本歌以外に例がない。「岩波大系本」は「赤く色づくこと」とし、217番長歌の「秋山のしたへる妹~」の例を挙げている。が、「したひ」と「したへる」が同じ動詞からきているとするのは疑問。217番長歌の原文は「下部留妹」で「舌部」ではない。私は「舌日下」は「舌のように長く伸びた日差しの下」のことではないかと思う。
 「舌のように長く伸びた秋の山の日差しのかげで鳥が鳴いている。せめてあの子の声だけでも聞くことが出来たら、どうしてこんなに嘆くことがあろう」という歌である。

2240  誰ぞかれと我れをな問ひそ九月の露に濡れつつ君待つ我れを
      (誰彼 我莫問 九月 露沾乍 君待吾)
 「我れをな問ひそ」は「私を問いつめないで下さいな」という意味である。「あの人は誰なのなどと私を問いつめないで下さいな。九月(現在の十月から十一月)の冷たい露に濡れながらあの方を待っている私ですのに」という歌である。

2241  秋の夜の霧立ちわたりおほほしく夢にぞ見つる妹が姿を
      (秋夜 霧發渡 <凡>々 夢見 妹形矣)
 「おほほしく」は「ぼうっとした様子」。
 「秋の夜に一面に立ちこめた霧のように、ぼうっとした彼女の姿を夢に見た」という歌である。

2242  秋の野の尾花が末の生ひ靡き心は妹に寄りにけるかも
      (秋野 尾花末 生靡 心妹 依鴨)
 「尾花が末(うれ)」はススキの穂先のこと。「靡く」は「寄りにけらしも」を導く序歌。 「秋の野に伸びたススキの穂先が風に靡くように、私の心はあの子の方に寄ってしまった」という歌である。

2243  秋山に霜降り覆ひ木の葉散り年は行くとも我れ忘れめや
      (秋山 霜零覆 木葉落 歳雖行 我忘八)
 「年は行くとも」は「年がすぎてゆくけれど」という意味。
 「秋の山も霜が降り、一面を覆い、木の葉も散って年がすぎてゆくけれど、あなたのことは忘れようにも忘れられません」という歌である。
 左注に「右、柿本朝臣人麻呂の歌集に出ている」とある。

 頭注に「水田に寄せて」とある。2244~2251番歌。
2244  住吉の岸を田に墾り蒔きし稲のさて刈るまでに逢はぬ君かも
      (住吉之 岸乎田尓墾 蒔稲 乃而及苅 不相公鴨)
 住吉は大阪市住吉区のこと。その沿岸部は市街化や埋め立てなどによって変貌を遂げており、岸だけでは特定不可。「田に墾(は)り」は「水田として開拓し」という意味。
 「(あの人は)住吉の岸を水田として開拓し、稲を蒔いた。次は稲を刈り取る番だが、それまであの人は逢ってくれないつもりでしょうか」という歌である。

2245  大刀の後玉纒田井にいつまでか妹を相見ず家恋ひ居らむ
      (剱後 玉纒田井尓 及何時可 妹乎不相見 家戀将居)
 「大刀の後(たちのしり)」は本歌のほかに1272番旋頭歌の「大刀の後鞘に入野に~」の一例しかない。「玉纒田井(たままきたゐ)に」は地名その他諸説あるというが、私は、これは「大刀の後鞘に入野に~」と同様、刀の縁語に結びつけた言い方で、刀の柄(つか)に「巻く玉」と稲の「種を蒔く」をかけたものと見る。むろん「田井」は「田」のこと。すなわち「種蒔く田井に」という意味に相違ない。
 「刀の柄に巻き付ける玉ではないが、種を蒔くのにいつまでかかるのだろう。その間、彼女と顔を合わせないまま家が恋しい」という歌である。

2246  秋の田の穂の上に置ける白露の消ぬべくも我は思ほゆるかも
      (秋田之 穂<上>置 白露之 可消吾者 所念鴨)
 「消ぬべくも」は「消えてしまいそうに」という意味。
 「秋の田の稲穂の上に付いている白露が消えてしまいそうなほどあの人のことが思われて切ない」という歌である。

2247  秋の田の穂向きの寄れる片寄りに我れは物思ふつれなきものを
      (秋田之 穂向之所依 片縁 吾者物念 都礼無物乎)
 「片寄りに」は「いっせいに片方に寄る」という意味。結句の「つれなきものを」は「(あの人は)つれないけれど」という意味である。
 「秋の田の稲穂が風にいっせいに片方に靡くように、私は一心にお慕いしております。あの人はつれないけれど」という歌である。

2248  秋田刈る刈廬を作り廬りしてあるらむ君を見むよしもがも
      (秋田苅 借廬作 五目入為而 有藍君(口+リ) 将見依毛欲得)
 刈廬(かりほ)は稲刈り用の仮小屋。「廬(いほ)りして」は「寝泊まりする」という意味。「見むよしもがも」は「逢える術があればなあ」という意味である。
 「稲刈りのための仮小屋を作ってそこにあなたは寝泊まりしていらっしゃるでしょうか。そのあなたに逢える術があればなあ」という歌である。

2249  鶴が音の聞こゆる田居に廬りして我れ旅なりと妹に告げこそ
      (鶴鳴之 所聞田井尓 五百入為而 吾客有跡 於妹告社)
 「田居」は田んぼのこと。「廬(いほ)りして」は「寝泊まりする」という意味。「旅なりと」は「家から離れて暮らしている」という意味。結句の「告げこそ」は「告げておくれ」ということなので、鶴に呼びかけた歌。
 「おい鶴よ。お前の声が聞こえる田んぼで仮小屋にいて一人暮らしていると彼女に告げておくれ」という歌である。

2250  春霞たなびく田居に廬つきて秋田刈るまで思はしむらく
      (春霞 多奈引田居尓 廬付而 秋田苅左右 令思良久)
 「田居」は田んぼのこと。「廬(いほ)つきて」は「仮小屋を作って」という意味である。「思はしむらく」は作者自身の心情と妻をおもんばかる心情と二様にとれる。「岩波大系本」等は後者に解している。が、作者自身の心情を吐露するのが歌だと考えている私の目には前者にしか解することができない。
 「春霞がたなびく頃から仮小屋を作り、秋の刈り入れの時期まで、長い間の仮住まい中、妻を思い続けて暮らさねばならない」という歌である。

2251  橘を守部の里の門田早稲刈る時過ぎぬ来じとすらしも
      (橘乎 守部乃五十戸之 門田年稲 苅時過去 不来跡為等霜)
 橘はむろん樹木。ただ、1009番歌「橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木」と詠われている。その歌の頭注に「聖武天皇が左大辨葛城王(かつらきのおほきみ)等に姓に橘氏(たちばなのうぢ)を賜った」とある。このように栄えある氏の名でもある。守部の里はどこのことか不詳だが、「栄えある里」という意味に相違ない。
 「橘の守部の里の門前の早稲を刈りとる時も過ぎてしまった。あの人はやって来ないおつもりなのでしょうか」という歌である。
           (2015年3月6日記、2018年10月8日)
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万葉集読解・・・147(2252~2270番歌)

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     万葉集読解・・・147(2252~2270番歌)
 2239番歌から続く秋相聞歌の続き(2311番歌まで)。
 頭注に「露に寄せて」とある。2259番歌まで。
2252  秋萩の咲き散る野辺の夕露に濡れつつ来ませ夜は更けぬとも
      (秋芽子之 開散野邊之 暮露尓 沾乍来益 夜者深去鞆)
 読解を要さない平明歌。
 夜更けに男を誘う歌は希有。宴会の場で戯れに詠われた歌なのだろうか。古今和歌集224番歌に「萩が花散るらむ小野の露霜に濡れてをゆかむ小夜はふくとも」(読人知らず)とある。が、こちらは男の歌で、かつ、万葉歌を意識して作歌したと見られる。
 「萩の花が咲きこぼれる野辺の道を夕露に濡れながらいらして下さい。夜は更けていても」という歌である。

2253  色づかふ秋の露霜な降りそね妹が手本をまかぬ今夜は
      (色付相 秋之露霜 莫零<根> 妹之手本乎 不纒今夜者)
 「色づかふ」は「色づかせる」という意味。「な降りそね」は「な~そ」の禁止形。また、「まかぬ今夜は」は「彼女の手枕で寝るわけではない今夜は」という意味である。
 「木々を色づかせる秋の露霜よ、今宵は降り注がないでおくれ。彼女の手枕で共寝するわけじゃなく、たった独りで寝なくちゃならないのだから」という歌である。

2254  秋萩の上に置きたる白露の消かもしなまし恋ひつつあらずは
      (秋芽子之 上尓置有 白露之 消鴨死猿 戀乍不有者)
 本歌は1608番歌と全く同一の重複歌。
 「秋萩の上に付いた白露のように露と消えて死んでしまいたい。こうしてもんもんと恋いこがれているくらいなら」という歌である

2255  我が宿の秋萩の上に置く露のいちしろくしも我れ恋ひめやも
      (吾屋前 秋芽子上 置露 市白霜 吾戀目八面)
 「我が宿の」は「我が家の庭の」という、「いちしろくしも」は「はっきりと」という意味。下二句だけの歌で上三句は比喩。
 「我が家の庭の萩にはぴっしりと露が降りている。その露のようにはっきりと人目につくような恋などできようか」という歌である。

2256  秋の穂をしのに押しなべ置く露の消かもしなまし恋ひつつあらずは
      (秋穂乎 之努尓<押>靡 置露 消鴨死益 戀乍不有者)
 1608番歌の際にも述べたが、本歌の下二句は2254番歌及び2258番歌と同じである。どうして一首置きに下二句同じ歌が並んでいるのか理由は分からない。写本の際の書写ミスであろうか。
 「秋の稲穂にぴっしり付いた白露のように露と消えて死んでしまいたい。こうしてもんもんと恋いこがれているくらいなら」という歌である。

2257  露霜に衣手濡れて今だにも妹がり行かな夜は更けぬとも
      (露霜尓 衣袖所沾而 今谷毛 妹許行名 夜者雖深)
 「今だにも」は「今すぐにでも」という、「行かな」は「行こう」という意味である。また、「妹がり」は現在でも「暗がり」と使われるように「~の所」という意味。
 「露や霜で懐手が濡れてしまうだろうが、でも、今すぐにでも彼女のもとへ行こう。夜は更けても」という歌である。

2258  秋萩の枝もとををに置く露の消かもしなまし恋ひつつあらずは
      (秋芽子之 枝毛十尾尓 置霧之 消毳死猿 戀乍不有者)
 すでに2256番歌の際に記したように、最後の類歌。
 「枝がたわむばかりに秋萩に付いた白露のように露と消えて死んでしまいたい。こうしてもんもんと恋いこがれているくらいなら」という歌である。

2259  秋萩の上に白露置くごとに見つつぞ偲ふ君が姿を
      (秋芽子之 上尓白霧 毎置 見管曽思怒布 君之光儀呼)
 萩に降りた白露はきらきら光り輝いて美しい。その白露を、自分が慕う男の姿に見立てた歌と思われる。
 「萩に降りた白露を見るたびに思い浮かべる我が君の姿を」という歌である。

 頭注に「風に寄せて」とある。
2260  我妹子は衣にあらなむ秋風の寒きこのころ下に着ましを
      (吾妹子者 衣丹有南 秋風之 寒比来 下著益乎)
 「衣(ころも)にあらなむ」は「着物であったなら」という意味である。
 「彼女が着物であったなら、寒い秋風が吹くこの頃、ずっと肌身につけて着ていたい」という歌である。

2261  泊瀬風かく吹く宵はいつまでか衣片敷き我がひとり寝む
      (泊瀬風 如是吹三更者 及何時 衣片敷 吾一将宿)
 泊瀬(はつせ)は奈良県桜井市の初瀬のことである。「泊瀬風」というのは、伊吹山から吹き下ろす風を伊吹下ろしというが、そのような強風のことだろう。「衣(ころも)片敷き」は「着物をふとんがわりに敷いて」という意味である。
 「泊瀬風が吹き付ける宵はいつまで続くのだろう。私は着物をふとんがわりに敷いて独り寝をしなければならないのに」という歌である。

 頭注に「雨に寄せて」とある。
2262  秋萩を散らす長雨の降るころはひとり起き居て恋ふる夜ぞ多き
      (秋芽子乎 令落長雨之 零比者 一起居而 戀夜曽大寸)
 長雨(ながめ)は幾日も降り続く雨。
 「萩の花を散らす雨が幾日も降り続く頃になると、(外出が厄介なので)独り家に居てあの子が恋しくなる夜が多くなる。」という歌である。

2263  九月のしぐれの雨の山霧のいぶせき我が胸誰を見ばやまむ [一云 十月しぐれの雨降り]
      (九月 四具礼乃雨之 山霧 烟寸<吾>胸 誰乎見者将息 [一云 十月 四具礼乃雨降])
 「九月(ながつき)のしぐれの雨の」(異伝歌では「十月(かみなづき)しぐれの雨降り」)は「~のしぐれの雨で」という意味である。「いぶせき」は「心が晴れやらない」という意味。
 「九月のしぐれの雨で山霧がかかったように、心が晴れやらぬ日々だが、いったい誰に逢えたら心晴れるのだろう」という歌である。

 頭注に「蟋(コオロギ)に寄せて」とある。 蟋は秋鳴く虫の総称。・
2264  こほろぎの待ち喜ぶる秋の夜を寝る験なし枕と我れは
      (蟋蟀之 待歡 秋夜乎 寐驗無 枕与吾者)
 「こほろぎの待ち喜ぶる」は新鮮な表現。「しきりにコオロギが鳴いている」をこう表現したもので、歌才の確かさを感じさせる歌。「験(しるし)なし」は「甲斐がない」という意味。結句の「枕と我れは」も新鮮な表現。「枕を抱えて独り寝する」という意味である。
 「しきりにコオロギが鳴きたてるせっかくの秋の夜長なのに、枕を抱えて独り寝するしかどうしようもない私」という歌である。

 頭注に「蝦(かはづ)に寄せて」とある。
2265  朝霞鹿火屋が下に鳴くかはづ声だに聞かば我れ恋ひめやも
      (朝霞 鹿火屋之下尓 鳴蝦 聲谷聞者 吾将戀八方)
 「鹿火屋(かひや)が下に」の鹿火屋について「岩波大系本」は補注を設け、「古来難訓の語」とした上、3818番歌と2649番歌を引き合いに出し、「鹿火屋であるか、蚊火屋であるか決定的なことはいまだ言えない」としている。早速両歌を紹介すると次の通りである。
  朝霞鹿火屋が下の鳴くかはづ偲ひつつありと告げむ子もがも(3818番歌)
あしひきの山田守る翁が置く蚊火の下焦れのみ我が恋ひ居らむ(2649番歌)
 三歌とも「鹿火」は「かひ」と訓じられている。が、原文を見ると、「鹿火屋之」とあるのは本歌のみであり、3818番歌は「鹿」の代わりに「香」の字をあて、「香火屋之」となっている。2649番歌の原文は「置蚊火之」となっている。
 さて、2649番歌は「置く蚊火の」であって、「鹿(香)火屋の」のように「屋」はない。そもそも、「鹿火屋(建物)を置く」などとは言わない。「屋」は建物ないし建物の一部であって、「置く蚊火の」は「蚊火を屋に置く」という意味なのである。
 これですっきり整理出来る。「蚊火(かひ)」は、蚊取り線香を炊く容器のようなものに相違ない。「屋に置く」とか「屋の下」の「屋」は縁側のことなのだろう。
 「朝霞にけむる朝、蚊火の置かれた縁側の下で鳴く小さな蛙の声だけでも聞くことが出来るなら、あなたのことをこんなにも恋い焦がれるでしょうか」という歌である。

 頭注に「雁に寄せて」とある。
2266  出でて去なば天飛ぶ雁の泣きぬべみ今日今日と言ふに年ぞ経にける
      (出去者 天飛鴈之 可泣美 且今日々々々云二 年曽經去家類)
 「泣きぬべみ」は「~なので」の「み」。
 「出立してしまったら、妻(ないし彼女)が空飛ぶ雁が鳴くように泣くだろうと思って、出立を一日延ばしにしている内に年を越してしまった」という歌である。

 頭注に「鹿に寄せて」とある。
2267  さを鹿の朝伏す小野の草若み隠らひかねて人に知らゆな
      (左小牡鹿之 朝伏小野之 草若美 隠不得而 於人所知名)
 「草若み」は「~なので」の「み」。「まだ草が若いので丈が低く隠れ場がなく」という意味である。
 「牡鹿が朝伏せっていた小野の草はまだ若いので丈が低く隠れ場がない。そんなことで人に知られるようになさらないで下さいな」という歌である。

2268  さを鹿の小野の草伏いちしろく我がとはなくに人の知れらく
      (左小牡鹿之 小野之草伏 灼然 吾不問尓 人乃知良久)
 「小野の草伏」は「小野の草に伏せっていたかのように」という意味である。「いちしろく」は「はっきりと」という意味。「とはなくに」は「妻問いしたわけではないのに」という意味である。
 「牡鹿が伏せっていた小野の草にははっきりとその跡が残っている。そんな風にはっきり彼女に迫ったことはないのに、いつのまにか人が知るところになってしまった」という歌である。

 頭注に「鶴に寄せて」とある。
2269  今夜の暁降ち鳴く鶴の思ひは過ぎず恋こそまされ
      (今夜乃 暁降 鳴鶴之 念不過 戀許増益也)
 「暁(あかとき)降(くた)ち」は「明け方が過ぎて」という意味である。「鳴く鶴(たづ)の」は「早朝に鳴く鶴の声の切なさ」を示している。
 「夜の明け方過ぎの早朝、鶴の切ない鳴き声がする。そんな鳴き声のように私の切なさは募り、恋心が増すばかり」という歌である。

 頭注に「草に寄せて」とある。
2270  道の辺の尾花が下の思ひ草今さらさらに何をか思はむ
      (道邊之 乎花我下之 思草 今更尓 何物可将念)
 「思ひ草」は尾花(ススキ)の根に寄生するナンバンギセルのことと言われる。思い草のようにいつも思い続けているという心情を詠っている。
 「路傍に生えるススキの根元の思い草、(これ以上)今更何を思えというのか」という歌である。
           (2015年3月10日記、2018年10月10日)
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一区切り

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 私は今年の6月に母校の西陵高等学校を訪れた。用事もなかったし、東京勤務が長かったせいもあって、卒業後、母校を訪れたことはなかった。母校が続いていたことも、場所もはっきり覚えていない中での訪問だった。たまたまそばを通りかかって知り、機会をみて訪問した。実に60年ぶりに校門をくぐった。一言、二言話しただけなのに、ラグビー部の部員とおぼしき生徒たちがいっせいに並んで、通り過ぎる私を見送ってくれた。
 あまりのことに感激した私は次のような歌を披露して一文をしめくくった。
   居並びていっせいに頭下ぐ生徒らのあまりの行為にしみ出る涙 (桐山芳夫)
   さようならわが学舎の西陵よ心に刻み離れてゆけり      (桐山芳夫)
 それから三ヶ月半後、一通の封書が舞い込んだ。同窓会の案内だった。卒業した組みが3年9組だったので、「三九会」と名付けられたこの同窓会は、十年前にスタートした。16名の同窓生が集まった。以来毎年開催され、今回で12回目を迎える。私は第8回目を欠席したほかはすべて参加している。出席者は漸減傾向をたどり、昨年は9人を数えるのみになった。
 さて、今回は出席か否かと随分迷った。ほぼ毎回参加している私は十分に参加の意思はあった。が、よちよち歩きの歩行ではおぼつかない。去年「大丈夫か」と幾度も声をかけられた身。なにかあって一同に迷惑がかかっては同窓会が台無しになる。数日迷いに迷って、結局は欠席欄にレ点を打って返事を出した。
 これで、来年以降も参加しないことになろう。同時に西陵高校とも精神的にはお別れになった。三ヶ月半前に母校を訪ねておいてよかった。が、不思議なことに寂しいという感情は湧かなかった。敢えて言えば、「一つの区切りがついた」という思いだろうか。人生、やはり区切りがあってこそ、前に進めるのかも知れない。
            (2018年10月11日)
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万葉集読解・・・148(2271~2290番歌)

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     万葉集読解・・・148(2271~2290番歌)
 2239番歌から続く秋相聞歌の続き(2311番歌まで)。
 頭注に「花に寄せて」とある。2271~2293番歌まで23首。
2271  草深みこほろぎさはに鳴くやどの萩見に君はいつか来まさむ
      (草深三 蟋多 鳴屋前 芽子見公者 何時来益牟)
 「草深み」は「~ので」の「み」。「こほろぎさはに」は「コオロギがいっぱい」という意味。
「やどの」は「我が家の庭の」という意味。「いつか来まさむ」は「いつになったらいらっしゃるのでしょう」という意味である。
 「我が家の庭は草深く、コオロギがいっぱい鳴きます。あなたはいつになったら我が家の萩を見にいらっしゃるのでしょう」という歌である。

2272  秋づけば水草の花のあえぬがに思へど知らじ直に逢はざれば
      (秋就者 水草花乃 阿要奴蟹 思跡不知 直尓不相在者)
 「水草(みくさ)の花の」は「水辺の草花の」という意味。「あえぬがに」は「こぼれ落ちるように」という意味である。「直(ただ)に」は「直接」という意味。
 「秋がやってくると、水辺の草花がこぼれ落ちるように、私の思いも切なく途切れそうになる。この気持ちあなたは知らないでしょうね。直接逢うこともないので」という歌である。

2273  何すとか君を厭はむ秋萩のその初花の嬉しきものを
      (何為等加 君乎将猒 秋芽子乃 其始花之 歡寸物乎)
 「何すとか」は「どうして」という意味である。前歌に応えた歌なのだろうか。作者が作者自身を初花にたとえた歌と受け取りたい。
 「どうしてあなた様を嫌がりましょう。初めて萩が花開くときは嬉しいものですのに」という歌である。

2274  臥いまろび恋ひは死ぬともいちしろく色には出でじ朝顔の花
      (展轉 戀者死友 灼然 色庭不出 朝容皃之花)
 「臥(こ)いまろび」は寝転がること。各書とも、結句の「朝顔の花」を「朝顔の花のごと」と「ごとく」を補って解釈している。が、名詞止めは鮮烈な詠い方。「朝顔の花」と止めたことによって鮮烈な朝顔の花が印象づけられる。それを「~ごとく」としたのでは歌がふにゃけてしまう。「朝顔の花」は恋から立ち直らんとする作者自身の筈である。「臥いまろび恋ひは死ぬとも」も、鮮烈な詠い出し方である。が、このフレーズもまた各書の解は疑問。「恋ひは死ぬとも」は「恋に死ぬ」ではない。原文にちゃんと「戀者死友」とある。「者」は「は」であって、限定の主格助詞。決して「恋に死ぬ」とは記されていない。整理すると「恋に破れても」あるいは「恋が終わりを告げても」ということである。「いちしろく」は「はっきりと」という意味。
 凛として気品あふれる女性像が浮かんでくる。凛として鮮烈な気概は朝顔の花にうってつけ。私の独断に過ぎないかも知れないが、結句の「朝顔の花」は強烈な印象を与え、万葉集きっての名歌ではなかろうか。名歌中の名歌として名高い、数々の名歌に負けない名歌と私には映ずる。
 「もだえ苦しみ抜いた恋が終わりを告げても、はっきりと表に出すものですか。私は私、朝顔の花」という歌である。

2275  言に出でて云はばゆゆしみ朝顔の穂には咲き出ぬ恋もするかも
      (言出而 云者忌染 朝皃乃 穂庭開不出 戀為鴨)
 「言(こと)に出でて云はば」は「口に出していうのは」という、「ゆゆしみ」は「憚られる」という意味。「朝顔の穂」は「朝顔が突きだした部分」すなわち「花」のこと。
 「口に出していうのははばかられるので朝顔の花が咲き出さないままの密かな恋をしています」という歌である。

2276  雁がねの初声聞きて咲き出たる宿の秋萩見に来我が背子
      (鴈鳴之 始音聞而 開出有 屋前之秋芽子 見来吾世古)
 「宿の秋萩」は「我が家の庭の萩」をいう。
 「雁が初めて鳴くのを待っていたかのように咲き出した秋の萩、ねえ、あなた、見にいらっしゃいな」という歌である。

2277  さを鹿の入野のすすき初尾花いづれの時か妹が手まかむ
      (左小牡鹿之 入野乃為酢寸 初尾花 何時<加> 妹之手将枕)
 「さを鹿の」を「入りにかかる枕詞」とする書があるが、えっと驚く。「さを鹿の」は22例にも及んでいるのに「入野」にかかる例は本歌以外皆無。「入野」は地名説もあるが、ススキが生える所はいくらでもあり、湾内の野ととって歌意は十分に成立する。
 「牡鹿が入り込む入野にススキが初めて尾花を付ける季節がやってきた。いったいいつになったら彼女の手枕で共寝できるのだろう」という歌である。

2278  恋ふる日の日長くしあれば我が園の韓藍の花の色に出でにけり
      (戀日之 氣長有者 三苑圃能 辛藍花之 色出尓来)
 「日(け)長くしあれば」は「幾日も重なれば」という意味。「韓藍(からあゐ)の花」は秋にニワトリのトサカのような真っ赤な花をつけるケイトウの花のことである。結句の「色に出でにけり」はちょっと悩ましい。「目立って顔に出てしまった」という意味なのか「人に知られるようになってしまった」という意味なのかはっきりしない。第二句に「日長くしあれば」とあることから私は後者に解しておきたい。
 「あの子に恋するようになって日が経つので、庭の鮮やかなケイトウの花の色のように、はっきりと人に知られるようになってしまった」という歌である。

2279  我が里に今咲く花の女郎花堪へぬ心になほ恋ひにけり
      (吾郷尓 今咲花乃 娘部四 不堪情 尚戀二家里)
 「女郎花(オミナエシ)」は実景というより、秋相聞という区分中の歌なので彼女の寓意と取って解した方が分かりやすい。「堪(あ)へぬ心」は「耐え難い」という意味。
 「我が里に今を盛りと咲く女郎花。その美しい彼女に恋い焦がれるのは耐え難いけれどそれでも恋い焦がれる」という歌である。

2280  萩の花咲けるを見れば君に逢はずまことも久になりにけるかも
      (芽子花 咲有乎見者 君不相 真毛久二 成来鴨)
 「まことも久(ひさ)に」は「まことに久しく」という意味。
 「萩の花が咲く季節になって花を見るにつけ、あの方にお逢いしないまま随分長く時が流れてしまったと思わずにいられません」という歌である。

2281  朝露に咲きすさびたる月草の日くるるなへに消ぬべく思ほゆ
      (朝露尓 咲酢左乾垂 鴨頭草之 日斜共 可消所念)
 「すさび」は「風吹きすさぶ」と同義で、「勢いよく」という意味である。月草は露草のこと。「~なへに」は「~とともに」という意味。
 「朝露を浴びて勢いよく朝咲きする露草だが日が暮れるにつれてしおれていく。私の恋心も次第にしおれ、消え入りそうに思われる」という歌である。

2282  長き夜を君に恋ひつつ生けらずは咲きて散りにし花ならましを
      (長夜乎 於君戀乍 不生者 開而落西 花有益乎)
 「生(い)けらずは」は苦心の訓。原文「不生者」で明快なように「生きることなく」という意味。なので「生けらずは」などという耳慣れない言葉を案出するよりも「生くよりも」と訓じた方がいいように思われる。
 「この長い秋の夜をあの人に恋い焦がれながら生きるくらいならいっそ咲いて散る花になりたい」という歌である。

2283  我妹子に逢坂山のはだすすき穂には咲き出ず恋ひわたるかも
      (吾妹兒尓 相坂山之 皮為酢寸 穂庭開不出 戀度鴨)
 「彼女に逢う」を「逢坂山」にかけた表現。「はだすすき」は「ススキの穂すなわち尾花」のことに相違ない。
 「愛しい子に逢うという逢坂山のススキ。尾花になって咲き出すこともなく、ひっそりと恋つづけています」という歌である。

2284  いささめに今も見が欲し秋萩のしなひにあるらむ妹が姿を
      (率尓 今毛欲見 秋芽子之 四搓二将有 妹之光儀乎)
 「いささめに」は1355番歌にも出てきたが、「かりそめに」という意味。「秋萩のしなひにあるらむ」は「萩がしなうようにたおやかな」という意味である。
 「かりそめにでもいいから、今逢いたいものだ。萩がしなうようにたおやかな彼女の美しい姿に」という歌である。

2285  秋萩の花野のすすき穂には出でず我が恋ひわたる隠り妻はも
      (秋芽子之 花野乃為酢寸 穂庭不出 吾戀度 隠嬬波母)
 「穂(ほ)には出でず」は「尾花のように目に立つことはなく」という意味である。「隠(こも)り妻はも」は「人目につかないようにしてくれている愛人」という意味なのであろう。 「萩の花が咲く野、その花に隠れているススキ。そのススキのように人目につかないようにしてくれている、恋しい恋しい私の彼女よ」という歌である。

2286  我が宿に咲きし秋萩散り過ぎて実になるまでに君に逢はぬかも
      (吾屋戸尓 開秋芽子 散過而 實成及丹 於君不相鴨)
 「我が宿に咲」は「我が家の庭に」という意味。「実になるまでに」は単純な叙述句ではあるまい。「実になる頃になるというのに」という心情がこめられている。
 「庭に咲いていた萩の花も散ってしまい、もう実になる頃になるというのに、あなた様にはお逢いできぬままですのね」という歌である。

2287  我が宿の萩咲きにけり散らぬ間に早来て見べし奈良の里人
      (吾屋前之 芽子開二家里 不落間尓 早来可見 平城里人)
 「早来て見べし」は直訳すると「早く来て見て頂戴」。「庭の萩が咲きましたよ。花散る前に、早くいらしてご覧下さい。奈良の里にお住まいのあなた」という歌である。

2288  石橋の間々に生ひたるかほ花の花にしありけりありつつ見れば
      (石走 間々生有 皃花乃 花西有来 在筒見者)
 「石橋の間々に」は「飛び石のあいだ、あいだに」という意味。「かほ花」は1630番歌にも詠われているが、朝顔、かきつばた、むくげ等諸説あってはっきりしない。1630番歌の際に「歌の内容から考えると、「かほ花」は具体的な花の名ではなく、「どの花を見てもあなたに見える」という意味だ」と記した。本歌も同様の意味だろう。「岩波大系本」等が説くように決して相手の女性に失望した歌ではあるまい。「あの子にはがっかりした」などという歌を相聞歌に掲載するとは思われない。意味は全く逆。
 「飛び石のあいだ、あいだに咲く美しいどの花にも彼女は似ている。見れば見るほどいい子だ」という歌である。

2289  藤原の古りにし里の秋萩は咲きて散りにき君待ちかねて
      (藤原 古郷之 秋芽子者 開而落去寸 君待不得而)
 「藤原の古りにし里」は奈良県橿原市にあった藤原京のこと。都が奈良の平城京に遷される直前の都。
 「古京藤原の里の秋萩は咲いて散ってしまいました。あなた様がいらっしゃるのを待ちかねて」という歌である。

2290  秋萩を散り過ぎぬべみ手折り持ち見れども寂し君にしあらねば
      (秋芽子乎 落過沼蛇 手折持 雖見不怜 君西不有者)
 「散り過ぎぬべみ」は「~ので」の「み」。
 「萩の花が散ってしまいそうなので、手折って眺めたけれど、あなたではないので寂しい」という歌である。
           (2015年3月13日記、2018年10月11日)
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万葉集読解・・・149(2291~2309番歌)

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     万葉集読解・・・149(2291~2309番歌)
 2239番歌から続く秋相聞歌の続き(2311番歌まで)。
2291  朝咲き夕は消ぬる月草の消ぬべき恋も我れはするかも
      (朝開 夕者消流 鴨頭草乃 可消戀毛 吾者為鴨)
 「朝(あした)咲き夕(ゆふべ)は消(け)ぬる」は、思わず「論語」の孔子の言葉「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」を連想してしまいそうな二句である。月草は露草のことである。結句の「~かも」はいうまでもなく仮定の「かも」ではなく詠嘆の「かも」。
 「朝咲いて夕方にはしぼんでしまう露草のようにはかない恋をしています」という歌である。

2292  秋津野の尾花刈り添へ秋萩の花を葺かさね君が仮廬に
      (蜒野之 尾花苅副 秋芽子之 花乎葺核 君之借廬)
 秋津野は奈良県吉野町ないし和歌山県牟婁町(現田辺市内)の野と言われるが不詳。「尾花」は「ススキの穂」のこと。「花を葺(ふ)かさね」は「屋根を花で覆って下さい」という意味である。仮廬(かりいほ)は仮小屋のこと。
 「秋津野の尾花(ススキの穂)を刈り取って、仮小屋の屋根をこしらへるとき、萩の花で覆って下さいましな」という歌である。

2293  咲けりとも知らずしあらば黙もあらむこの秋萩を見せつつもとな
      (咲友 不知師有者 黙然将有 此秋芽子乎 令視管本名)
 「黙(もだ)もあらむ」は「是非もない」つまり「何とも思わない」という意味。「もとな」は「心もとない」ないしは「しきりに」という意味。百人一首にある権中納言敦忠の「逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」にどこか相通ずるような歌である。
 「咲いたことも知らずにいたら何とも思いませんのに、咲いた萩の花をお見せになるものだから心安らかではいられませんわ」という歌である。

 頭注に「山に寄せて」とある。
2294  秋されば雁飛び越ゆる龍田山立ちても居ても君をしぞ思ふ
      (秋去者 鴈飛越 龍田山 立而毛居而毛 君乎思曽念)
 龍田山は奈良県生駒郡の山の一つ。上三句は「立ちても」を導く序歌。
 「秋がやってくると、雁が飛び越えてゆくという龍田山。立っていても座っていてもあなたのことが思われてなりません」という歌である。

 頭注に「黄葉に寄せて」とある。
2295  我が宿の葛葉日に異に色づきぬ来まさぬ君は何心ぞも
      (我屋戸之 田葛葉日殊 色付奴 不<来>座君者 何情曽毛)
 「我が宿の」は「我が家の庭」という、「日に異(け)に」は「日ごとに」という意味。
 「我が家の庭の葛(くず)の葉が日ごとに色づいてきました。なのにあなたはいらっしゃいません。どういうおつもりですか」という歌である。

2296  あしひきの山さな葛もみつまで妹に逢はずや我が恋ひ居らむ
      (足引乃 山佐奈葛 黄變及 妹尓不相哉 吾戀将居)
 「あしひきの」はお馴染みの枕詞。「山さな葛(かづら)」は通説ではサネカズラ(ビナンカズラ)のことされる。もしそうなら、常緑樹で淡黄色の花をつける。実は赤い小球の集合で美しい。「もみつまで」は「色づくまで」すなわち「秋深くなるまで」という意味。
 「山サネカズラが色づく秋深くなるまで彼女に逢わずじまいになるのかなと思って恋焦がれて暮らしています」という歌である。

2297  黄葉の過ぎかてぬ子を人妻と見つつやあらむ恋しきものを
      (黄葉之 過不勝兒乎 人妻跡 見乍哉将有 戀敷物乎)
 「過ぎかてぬ子を」の「過ぎかてぬ」は1190番歌に「舟泊ててかし振り立てて廬りせむ名児江の浜辺過ぎかてぬかも」とある。「見過ごしがたい」という意味である。
 「もみじ葉が散ってゆくのを見るようには見過ごしがたいあの子なのに、ただ人妻だからと見ていなければならないのだろうか。こんなに恋い焦がれているのに」という歌である。

 頭注に「月に寄せて」とある。
2298  君に恋ひしなえうらぶれ我が居れば秋風吹きて月かたぶきぬ
      (於君戀 之奈要浦觸 吾居者 秋風吹而 月斜焉)
 「しなえうらぶれ」は「打ちしおれてしょんぼりと」という意味である。「あなたに恋い焦がれて打ちしおれてしょんぼりと時を過ごしていたら、秋風が吹き、いつの間にか月が西に傾いてしまいました」という歌である。

2299  秋の夜の月かも君は雲隠りしましく見ねばここだ恋しき
      (秋夜之 月疑意君者 雲隠 須臾不見者 幾許戀敷)
 「月かも」は「月であろうか」、「しましく」は「しばらく」、「ここだ」は「非常に」ないし「しきりに」という意味。
 「あなたは秋の夜のあの美しいお月様でしょうか。しばらくの間雲に隠れて見えなくなっただけでも恋しくてたまりません」という歌である。

2300  九月の有明の月夜ありつつも君が来まさば我れ恋ひめやも
      (九月之 在明能月夜 有乍毛 君之来座者 吾将戀八方)
 「九月(ながつき)の有明の月夜」は「ありつつも」を導き出す序歌。その「ありつつも」は「ずっとこのまま」という意味である。
 「有明の月夜ではありませんが、このままずっといらっしゃって下されば、どうして私が恋焦がれたりするでしょうか」という歌である。

 頭注に「夜に寄せて」とある。
2301  よしゑやし恋ひじとすれど秋風の寒く吹く夜は君をしぞ思ふ
  「よしゑやし」は2030番歌にも「よしゑやし直ならずとも~」とあったように、「たとえ~とも」という意味。「恋ひじとすれど」は「恋心など抱くまい」という意味である。
 「たとえ思い切って恋心など抱くまいと決意したところで、寒い秋風が吹く夜はあなたのことが恋しくてたまらなくなる」という歌である。

2302  ある人しあな心なと思ふらむ秋の長夜を寝覚め臥すのみ
      (或者之 痛情無跡 将念 秋之長夜乎 寐臥耳)
 初句の「或者之」(原文)は注意深く取って訓じないと、意味不明ないし漠然とした歌になってしまう。たとえば、「岩波大系本」はこれを「けだしくも」と訓じ、「もしや」という意味だとしている。「もしや」と取ると必然的に「思ふらむ」の主体は「あなた」ということになる。が、それでは歌意は通らない。「岩波大系本」は「おそらく、あなたは何と心無ことかと思っているでしょう。秋の夜長を臥せって寝ているばかりで」としている。
 が、これでは「あなたは私がのんべんだらりと寝ていると思っている」という妙な歌意になる。作者の心情を述べるのが歌だとすれば、歌意は「寝覚め臥すのみ」で、作者の心情の吐露にあると見なければならない。なので、「或者之」は文字通り「ある人の」と訓じなければ意味が通らない。そしてそう訓じている書もある。ただし、「之」は強めの「し」ととるのがいいと思うので、「ある人し」が私の訓である。これによって、「思ふらむ」の主体は「ある人し」すなわち第三者ということになる。すなわち、「臥すのみ」は作者の恋煩いを示していることと分かる。「あな心なと」は「ああ心ないと」という意味。すなわち「なんと無粋な」という意味である。こう解して本歌は典型的な相聞歌のひとつと分かる。。
 「人様が見るとなんと無粋なことよと思うかもしれない。秋の夜長をただ寝ているだけじゃないかと・・・。あの人に恋煩って臥せっているというのに」という歌である。

2303  秋の夜を長しと言へど積もりにし恋を尽せば短くありけり
      (秋夜乎 長跡雖言 積西 戀盡者 短有家里)
 「恋を尽せば」がキーワード。が、含意が難解。私は、「恋煩いに陥るまで苦しみ抜いたので」という意味に取った。
 「秋の夜は長いと言うけれど、積もりに積もった心が恋煩いに陥るまで苦しみ抜いたので、過ぎてしまえば短く感じられる」という歌である。

 頭注に「衣に寄せて」とある。
2304  秋つ葉ににほへる衣我れは着じ君に奉らば夜も着るがね
      (秋都葉尓 々寶敝流衣 吾者不服 於君奉者 夜毛著金)
 「にほへる」は「染まる」という意味。結句の「夜も着るがね」は、364番歌の結句「語り継ぐがね」の「がね」と同意である。「かもしれないのだから」という意味である。
 「秋の木の葉の色に染まったようなこの着物、私は着ないであなた様に差し上げようと存じます。夜も着て下さると思うので」という歌である。

 頭注に「問答」とある。
2305  旅にすら紐解くものを言繁みまろ寝ぞ我がする長きこの夜を
      (旅尚 襟解物乎 事繁三 丸宿吾為 長此夜)
 「言(こと)繁み」は「~なので」の「み」。「噂がうるさいので」という意味である。「まろ寝」は、二句目の「紐解く」に対応させた表現で、(紐を解かず)着物を着たまま寝ること。「紐解く」は通常共寝の意味に使われるが、本歌の場合は「旅にすら」とあるように「家にいるのに」を強調するために使われている。
 「旅先にあっても着物の紐を解いて楽な格好で寝るのに、噂がうるさいので、家に居ながら長い夜を帯を締めたまま寝なければならない。あなたを思って」という歌である。

2306  しぐれ降る暁月夜紐解かず恋ふらむ君と居らましものを
      (四具礼零 暁月夜 紐不解 戀君跡 居益物)
 前歌に応えた女性の歌。「紐解かず」は前歌と異なってここでは「共寝」すなわち「共寝する人もいらっしゃらない」という意味である。「恋ふらむ君と」は「(私のことを)思って下さるお方と一緒に」という意味である。
 「しぐれ降る暁の寒い月夜、共寝する方もいらっしゃらなくて、ひとり(私のことを)思って下さるというお方と一緒に居られたらうれしい」という歌である。

2307  黄葉に置く白露の色端にも出でじと思へば言の繁けく
      (於黄葉 置白露之 色葉二毛 不出跡念者 事之繁家口)
 「黄葉(もみぢば)に置く白露の」だが、葉にぴっしりついた白露はキラキラ光ってよく目立つ。「色端」は「顔色」のこと。「その白露のように目立たないようにしている」という意味。「思へば」は「思っているのに」という意味。
 「黄葉にぴっしりついてキラキラ光る白露のように目立たないよう顔色には出すまいと思っているのに、人の噂のうるさいことよ」という歌である。

2308  雨降ればたぎつ山川岩に触れ君が砕かむ心は持たじ
      (雨零者 瀧都山川 於石觸 君之摧 情者不持)
 「たぎつ山川」は「ほとばしり流れる山川」のことである。
 「雨が降るとほとばしり流れる山川が岩に当たって砕けるように、あなたの心を砕くような気持は持っていませんからご安心を」という歌である。
 左注に「右の一首は秋の歌とは言えないが、前歌に応えた歌なのでここに掲載する」とある。
           (2015年3月20日記、2018年10月12日)
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潮時

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 私は前回母校の西陵高等学校を訪れたことと、その同窓会の案内状が舞い込んだことを記した。出席か否かで随分迷ったが、最終的には欠席をすることにした。よちよち歩きの歩行状態の自分では出席はおぼつかない、と決断したのである。
 むろん、「よちよち歩き」は言葉の綾であって、文字通りなら出席出来る筈もない。歩行に難があることは事実だが、健康診査を受けた結果、異常はなく、杖を使っているわけでのない今なら、出席しようとして出来ないことはない。ただ、体力に自信のある人間だけが集まって来る同窓会。二次会にカラオケ店に行ったりして楽しむ面々。そこまでの体力はない自分なので、もしもつき合って転倒することがあったら、面々に大迷惑をかけることになる。という次第で、私は私なりの配慮から欠席を選んだわけである。要するに面々と対等につきあい、対等に楽しむには体力上、何の問題もないことが自分の責任なのである。私はここで「一区切り」をつけなければならないと判断したのである。
 以上は体力的な面での難点なのだが、むろん、判断力や向学心等々精神面ではまだまだ衰えを感じる段階に至っていない。これが私の判断なのだが、その正否は人様の判断にかかっているわけで、私自身が判定すべきものではない。
 とかく人間は歳をとっても「若い者にはまだまだ任せられない」と思って居座る仁が少なくない。が、やっぱり潮時が大切。後進に道を譲って自らはきっぱりと身を引く。これが要点。ここまで考えてきて、そうか、今回の欠席は「一区切り」ではなく、「潮時」なのだと思った。潮時にもかかわらず、いつまでも若いつもりで、くだくだと続けようとすると、醜態を招きかねない。
    水仙は花盛りなり瑞々し潮時過ぎてしぼむ直前    (桐山芳夫)
    潮時に可憐な白花つける今いよよ生き生き輝く水仙  (桐山芳夫)
            (2018年10月13日)
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万葉集読解・・・150(2309~2330番歌)

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     万葉集読解・・・150(2309~2330番歌)
 2239番歌から続く秋相聞歌の続き(2311番歌まで)。
 頭注に「譬喩歌」とある。
2309  祝部らが斎ふ社の黄葉も標縄越えて散るといふものを
      (祝部等之 齊經社之 黄葉毛 標縄越而 落云物乎)
 「祝部(ほふり)らが斎(いは)ふ社(やしろ)の」は「神官たちが祭って大事にしている神社の」という意味である。両親を神官に、娘をモミジにたとえた歌。
 「神官たちが祭って大事にしている神社のモミジでさえ張り巡らせた標縄(しめなわ)を越えて散るというのに」という歌である。

 頭注に「旋頭歌」とある。本歌と次歌は五七七五七七からなる旋頭歌。
2310  こほろぎの我が床の辺に鳴きつつもとな起き居つつ君に恋ふるに寐ねかてなくに
      (蟋蟀之 吾床隔尓 鳴乍本名 起居管 君尓戀尓 宿不勝尓)
 「コオロギ」はコオロギ科の総称、エンマコオロギ、スズムシ等。「もとな」は「心もとなく」ないしは「しきりに」という意味。結句の「寐(い)ねかてなくに」は「寝ようにも寝られない」という意味である。
 「コオロギが寝床のあたりでしきりに鳴いている。やむなく起きているが、あなたのことが恋しくて寝ようにも寝られません」という歌である。

2311  はだすすき穂には咲き出ぬ恋をぞ我がする玉かぎるただ一目のみ見し人ゆゑに
     (皮為酢寸 穂庭開不出 戀乎吾為 玉蜻 直一目耳 視之人故尓)
 「はだすすき」は穂がないススキ。「玉かぎる」は枕詞(?)。「玉」は美称。「かぎる」は陽炎。 「はだすすきのように、穂になって咲き出ない(尾花にならない)恋に陥っています。ただ一目おみかけしただけの陽炎のような人なのですもの」という歌である。
 以上で「秋相聞歌」の終了。

 本歌から冬雑歌。2312~2332番歌の21首。
2312  我が袖に霰た走る巻き隠し消たずてあらむ妹が見むため
      (我袖尓 雹手走 巻隠 不消有 妹為見)
 「霰(あられ)た走る」は「あられが袖をころころ走る」という意味である。「巻き隠し」は「袖を巻いて包み込む」という意味。結句の「妹為見(原文)」は直訳すれば「彼女が見るので」となるが、歌意は「彼女に見せたいから」という意味である。
 「あられが袖に降りかかってきて、ころころ走り回る。それを袖を巻いて包み隠し、なくならないようにしよう。彼女に見せたいから」という歌である。

2313  あしひきの山かも高き巻向の崖の小松にみ雪降りくる
      (足曳之 山鴨高 巻向之 木志乃子松二 三雪落来)
 「あしひきの」はお馴染みの枕詞。奈良県天理駅と桜井駅の途中に巻向駅と三輪駅がある。両駅の東方に三輪山、その東方に巻向山がそびえる。「山かも高き」はちょっとした倒置表現。「高き山かも」と倒置して読むとすっと頭に入ってくる。小松は小さな松という意味ではない。一種の美称語。
 「巻向山は高い山よな。そのせいでその崖に生える松に雪が降りかかる」という歌である。

2314  巻向の檜原もいまだ雲居ねば小松が末ゆ沫雪流る
      (巻向之 檜原毛未 雲居者 子松之末由 沫雪流)
 前歌に関連した歌か?。檜原(ひばら)は檜(ヒノキ)の生えている原。その向こうに崖があって松が生えている。前歌も本歌もその松に雪が降りかかっている状況を詠んだのだろう。「小松が末(うれ)ゆ」は「松の梢から」という意味。小松は一種の美称語。
 「巻向山の檜(ヒノキ)の原の辺りにはまだ雪雲がかかっていないのに、あの松の梢には雪が降りかかり淡雪が流れてくる」という歌である。

2315  あしひきの山道も知らず白橿の枝もとををに雪の降れれば [或云 枝もたわたわ]
      (足引 山道不知 白牫牱 枝母等乎々尓 雪落者 [或云 枝毛多和々々])
  「あしひきの」はお馴染みの枕詞。「山道(やまぢ)も知らず」は「道が分からないほどに」という意味。「枝もとををに」は1595番歌等に詠われているように、「枝がたわむほど」という意味である。
 「道が分からないほどに、また、堅い白橿(シラカシ)の枝がたわむほど雪が降り積もった」という歌である。
 異伝歌は第四句の「枝もとををに」が「枝もたわたわ」となっている。
 左注に「右は柿本朝臣人麻呂の歌集に登載されている。ただし、或本に本歌は三方沙弥(みかたのさみ)の作と記されている」とある。この左注によれば2312~2315番歌の四首の出典は「柿本人麿歌集」である。

 頭注に「雪を詠む」とある。2316~2324番歌。
2316  奈良山の嶺なほ霧らふうべしこそ籬が下の雪は消ずけれ
      (奈良山乃 峯尚霧合 宇倍志社 前垣之下乃 雪者不消家礼)
 奈良山は平城京の北方、京都府井手町にある丘陵地。「うべしこそ」は「なるほどもっともなことだ」という意味。籬(まがき)は柴や竹で作った垣根。「消(け)ずけれ」は「消えないのだな」という意味。
 「奈良山の嶺は雪ぐもにけむっている。なるほど、我が家の垣根に雪が消え残っているのももっともだ」という歌である。

2317  こと降らば袖さへ濡れて通るべく降りなむ雪の空に消につつ
      (殊落者 袖副沾而 可通 将落雪之 空尓消二管)
 「こと降らば」は「同じ降るなら」という意味。平明歌。
 「同じ降るなら袖に舞い降りてきてしみ通るほどに降ればいいのに。雪は降ってくるまでに途中で消えてしまう」という歌である。

2318  夜を寒み朝門を開き出で見れば庭もはだらにみ雪降りたり [一云 庭もほどろに 雪ぞ降りたる]
      (夜乎寒三 朝戸乎開 出見者 庭毛薄太良尓 三雪落有 [一云 庭裳保杼呂尓 雪曽零而有])
 「夜を寒み」は「~なので」の「み」。「はだらに」は「まばらに」で、「うっすらと」という意味。
 「夜中が寒かったので朝戸を開いて庭に出てみたら、うっすらと雪が降っていた」という歌である。異伝歌は「はだら」が「ほどろに」となっているが、両者はほぼ同意。

2319  夕されば衣手寒し高松の山の木ごとに雪ぞ降りたる
      (暮去者 衣袖寒之 高松之 山木毎 雪曽零有)
 「高松の」は地名ととってもいいが、本歌の場合は「高い松が生い茂る」と解してもいいように思われる。
 「夕方になると着物の袖口が寒い。見ると、山に茂る高い松のどの木にも雪が降っている」という歌である。

2320  我が袖に降りつる雪も流れ行きて妹が手本にい行き触れぬか
      (吾袖尓 零鶴雪毛 流去而 妹之手本 伊行觸<粳>)
 「い行き」は強意の「い」。
 「私の着物の袖に雪がふりかかってきたが、この雪が流れていってあの子の手首に降りかからぬものだろうか」という歌である。

2321  淡雪は今日はな降りそ白栲の袖まき干さむ人もあらなくに
      (沫雪者 今日者莫零 白妙之 袖纒将干 人毛不有君)
 「な降りそ」は「な~そ」の禁止形。「白栲(しろたへ)の」は「真っ白な」という意味。
 「淡雪よ今日は降らないでおくれ。この真っ白な袖を枕にして乾かしてくれる人はいないのだから」という歌である。

2322  はなはだも降らぬ雪ゆゑこちたくも天つみ空は雲らひにつつ
      (甚多毛 不零雪故 言多毛 天三空者 陰相管)
 「こちたくも」は「仰々しく」という、「雲らひにつつ」は「曇ってきた」という意味。
「たいして降りもしない雪なのに仰々しくも空は曇ってきた」という歌である。

2323  我が背子を今か今かと出で見れば淡雪降れり庭もほどろに
      (吾背子乎 且今々々 出見者 沫雪零有 庭毛保杼呂尓)
 「ほどろに」は「はだらに」と同意で、「うっすらと」という意味。。
 「あの人を今か今かと待ちかねて戸口に出てみたら、庭にうっすらと雪が降り積もっていた」という歌である。

2324  あしひきの山に白きは我が宿に昨日の夕降りし雪かも
      (足引 山尓白者 我屋戸尓 昨日暮 零之雪疑意)
 「あしひきの」はお馴染みの枕詞。「山に白きは」は「山が白いのは」という、「我が宿に」は「我が家の庭に」という意味である。
 「山が白いのは、昨夕わが庭に降った雪と同じ雪のせいだろうか」という歌である。

 頭注に「花を詠む」とある。2329番歌まで。
2325  誰が園の梅の花ぞもひさかたの清き月夜にここだ散りくる
      (誰苑之 梅花毛 久堅之 消月夜尓 幾許散来)
 「ひさかたの」は枕詞。「ここだ」は「しきりに」という意味。
 「どこの園の梅の花だろう。この清らかな月夜にしきりに散ってくるけれど」という歌である。

2326  梅の花まづ咲く枝を手折りてばつとと名付けてよそへてむかも
      (梅花 先開枝乎 手折而者 褁常名付而 与副手六香聞)
 「つと」は1196番歌に「つともがと乞はば取らせむ~」と詠われて以来久々の用語。手みやげのことである。「よそへてむかも」は1641番歌に「淡雪に降らえて咲ける梅の花君がり遣らばよそへてむかも」とある。「なぞらえるだろうか」という意味である。
 「初咲きの梅を手折っておみやげと名付けて差し上げたら私のことと思って下さるでしょうか」という歌である。

2327  誰が園の梅にかありけむここだくも咲きてあるかも見が欲しまでに
      (誰苑之 梅尓可有家武 幾許毛 開有可毛 見我欲左右手二)
 「ここだくも」は「こんなにも」という意味。キーワード゙は結句の「見が欲しまでに」。これを「岩波大系本」は「見たいと思うほどに」、「伊藤本」は「もとの木が見たくなるほどに」、「中西本」は「木を見たいと思うまでに」としている。「盛んに咲いている梅」を眼前に見ているのにどこから「木をみたい」などという解が出てくるののだろう。「見が欲しまでに」の主語は梅の木。「見が欲し」すなわち「見てほしい」という意味に相違ない。
 「誰の園の梅なのだろう。盛んに咲き誇っている。まるでいっぱい見てほしいといわんばかりに」という歌である。

2328  来て見べき人もあらなくに我家なる梅の初花散りぬともよし
      (来可視 人毛不有尓 吾家有 梅<之>早花 落十方吉)
 読解不要の平明歌。
 「来て見てくれる人もいない我が家の梅の初花、咲いて散ってしまったって構わない」という歌である。

2329  雪寒み咲きには咲かぬ梅の花よしこのころはかくてもあるがね
      (雪寒三 咲者不開 梅花 縦比来者 然而毛有金)
 「寒み」は「~なので」の「み」。「あるがね」は「~がね」の形で「~かもしれないのだから」という意味である。
 「雪が寒いというので、なかなか咲こうとしない梅の花。が、それもよかろう。時期が時期なのだろうから」という歌である。

 頭注に「露を詠む」とある。
2330  妹がため上枝の梅を手折るとは下枝の露に濡れにけるかも
      (為妹 末枝梅乎 手折登波 下枝之露尓 沾<尓>家類可聞)
 露を詠んだ歌。上枝(ほつえ)は原文に末枝とあり、梢のこと。「手折るとは」は「手折ろうとしては」という意味である。
 「彼女のために梢の梅を手折ろうとしては下枝(しづえ)の露に濡れてしまう」という歌である。
           (2015年3月24日記、2018年10月15日)
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釣瓶落ち

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 秋が深まってきて日が早く落ちるようになってきた。イチョウの葉が黄色に染まるにはまだ少し早いが、それも時間の問題だろう。日は着実に早く短くなっており、数日前まで残暑、残暑と言っていた言辞はどこへやら、気温も下がってきて、すっかり秋めいてきた。
 ところで、「秋の日は釣瓶落とし」とは何だろう。若い頃、近在の人が「秋の日は釣瓶落としだね」としばしば言うのを耳にして、「ああ、秋の夕日はすぐに暮れる」ということを言っているのだな、と分かった。「日が落ちるのが早い」ことを「釣瓶(つるべ)落とし」というのだなと覚えたので、何の疑問も湧かなかった。
 が、ある本をぱらぱらめくっていたらこの言葉が目に飛び込んできた。このとき、ふと、「この釣瓶」は何だろうという疑問が湧いた。何の気なしに耳にしていたので、この疑問が湧いたとき虚をつかれた。当たり前だと思っていたことに疑問が湧くと、動揺する。少なくとも、この私は虚をつかれた。ひとたび気になるとじっとしておられないのが私の性分。広辞苑を引くと「縄や竿の先につけて井戸の水を汲み上げる桶(おけ)、また、その装置」とある。
 こう言われても、今の若い世代の人はぴんと来ないだろう。否、ぴんと来ない人が少なくなかろう。私の若い頃は井戸が主流だった。特に岐阜県笠原町という田舎町にいたので、近在の人が「秋の日は釣瓶落としだね」と自然に会話していた。小学生の私もそうだと思い、釣瓶が井戸の桶から来ているとは思いも及ばなかった。が、俳句の季語にもなっているという。
     山あいの町に釣瓶の落ちて行く     (桐山芳夫)
     早くも灯高層ビルに釣瓶落ち      (桐山芳夫)
 なるほど秋の日は私も先人も同じように急速に暮れるようである。
            (2018年10月15日)
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万葉集読解・・・151(2331~2350番歌)

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     万葉集読解・・・151(2331~2350番歌)
 2312番歌から続く冬雑歌の続き(2332番歌まで)。
 頭注に「黄葉を詠む」とある。
2331  八田の野の浅茅色づく有乳山嶺の淡雪寒く散るらし
      (八田乃野之 淺茅色付 有乳山 峯之沫雪 <寒>零良之)
 「八田(やた)の野」は奈良県大和郡山市矢田の野。有乳山(あらちやま)は福井県敦賀市旧愛発村(あらちむら)の山のことという説がある。大和郡山市矢田と福井県敦賀市ではあまりに遠い。地図を広げてごらんになればお分かりのように三日や四日で行ける場所ではない。「やた」、「あらち」という読みから導き出した説かと思料される。が、歌には何の断り書きもなく、裸で「八田の野」、「有乳山」とあるので、馴染みの野と山に相違ない。両所とも不詳としておくのが無難。浅茅(あさぢ)は丈の低い茅(かや)のこと。
 「八田の野の浅茅が色づいてきた。このぶんだと有乳山の嶺では淡雪が寒々と舞っていることだろうな」という歌である。

 頭注に「月を詠む」とある。
2332  さ夜更けば出で来む月を高山の嶺の白雲隠すらむかも
      (左夜深者 出来牟月乎 高山之 峯白雲 将隠鴨)
 読解不要の平明歌。
 「夜が更けて上って来るだろう月も高山の峰にかかっているあの白雲に隠れて見えないだろうな」という歌である。
 以上で「冬雑歌」の終了。

 頭注に「冬相聞歌」とある。2333~2350番歌の18首。
2333  降る雪の空に消ぬべく恋ふれども逢ふよしなしに月ぞ経にける
      (零雪 虚空可消 雖戀 相依無 月經在)
 「空に消(け)ぬべく」はこころもとない恋心の比喩。「消え入るように」という、「逢ふよし」は「逢う理由も術も」という意味である。
 「降る雪もやがて空に消えてゆく、そんな雪のように消え入りそうになりながら恋い焦がれているが、逢う術もないまま月日が経ってしまった」という歌である。

2334  沫雪は千重に降りしけ恋ひしくの日長き我れは見つつ偲はむ
      (阿和雪 千重零敷 戀為来 食永我 見偲)
 淡雪に呼びかけた歌。「千重(ちへ)に」は「幾重にも」という意味。「日(け)長き我れは」でいったん切って読むのがいい。
 「淡雪よ、幾重にも降りかかっておくれ。恋い焦がれるようになってからもう長くなる私なのです。お前が降りかかるのを見ながら心を安らげよう」という歌である。
 左注に「右は柿本朝臣人麻呂歌集に登載されている」とある。

 頭注に「露に寄せて」とある。
2335  咲き出照る梅の下枝に置く露の消ぬべく妹に恋ふるこのころ
      (咲出照 梅之下枝尓 置露之 可消於妹 戀頃者)
 「咲き出照る」は「咲き出して照り輝く」という意味。「消ぬべく」は「消え入るように」という意味。
 「咲き出して照り輝く梅の下枝(しづえ)に降った露が消え入るように、切なく彼女に恋い焦がれているきょうこのごろ」という歌である。

 頭注に「霜に寄せて」とある。
2336  はなはだも夜更けてな行き道の辺の斎小竹の上に霜の降る夜を
      (甚毛 夜深勿行 道邊之 湯小竹之於尓 霜降夜焉)
 「はなはだも」は「こんなにも」という意味。「な行き」は「な~そ」の禁止形。「斎小竹(ゆささ)」は「神聖な笹葉」という意味。
 「こんなにも夜が更けているのですから、お帰りなさるな。路傍の神聖な笹葉に霜が降りてくるこんな夜更けに」という歌である。

 頭注に「雪に寄せて」とある。
2337  笹の葉にはだれ降り覆ひ消なばかも忘れむと言へばまして思ほゆ
      (小竹葉尓 薄太礼零覆 消名羽鴨 将忘云者 益所念)
 「はだれ降り」は「うっすら振って」という意味。第四句に「忘れむと言へば」とあるので、ここまでは作者の相手の言葉。
 「笹の葉にうっすらと降り注いだ雪が消えるように、私も消えられたらあなたのことを忘れられるのに、と彼女に言われると、ますます彼女がいとしくなる」という歌である。

2338  霰降りいたく風吹き寒き夜や旗野に今夜我が独り寝む
      (霰落 板敢風吹 寒夜也 旗野尓今夜 吾獨寐牟)
 「旗野」は地名だが、どこのことか不明。
 「あられが降ってひどく風が吹く寒々とした今宵、はた野で私は独りで寝なければならないのか」という歌である。

2339  吉隠の野木に降り覆ふ白雪のいちしろくしも恋ひむ我れかも
      (吉名張乃 野木尓零覆 白雪乃 市白霜 将戀吾鴨)
 吉隠(よなばり)は奈良県桜井市の国道165号線沿いにある地名。「いちしろくしも」は「はっきりと」という意味。結句の「恋ひむ我れかも」が少々悩ましい。詠嘆と反語の二様にとれるからである。相手のことを思っているという意味で、反語ととっておきたい。
 「吉隠(よなばり)の野に立つ木々に降り積もった真っ白な雪、その白雪のように恋心をはっきりと表に出す私でしょうか」という歌である。

2340  一目見し人に恋ふらく天霧らし降りくる雪の消ぬべく思ほゆ
      (一眼見之 人尓戀良久 天霧之 零来雪之 可消所念)
 「恋ふらく」は「恋するのは」という意味。「消ぬべく」は「消え入るように」という意味。
 「一目見ただけの人に恋するのは、一面霧がかかったように降ってくる雪のように消え入りそうで切ない」という歌である。

2341  思ひ出づる時はすべなみ豊国の由布山雪の消ぬべく思ほゆ
      (思出 時者為便無 豊國之 木綿山雪之 可消<所>念)
 「豊国の由布山」は大分県の山。「消ぬべく」は前歌参照。
 「彼女のことを思い始めるとどうしようもなく、由布山の雪のように消え入りそうで切ない」という歌である。

2342  夢のごと君を相見て天霧らし降りくる雪の消ぬべく思ほゆ
      (如夢 君乎相見而 天霧之 落来雪之 可消所念)
 前々歌及び前歌同様、結句が「消ぬべく思ほゆ」となっている。平明歌。」
 「夢の中の出来事のようにあの方をお見かけしただけで、一面霧がかかったように空から降ってくる雪のように消え入りそうで切ない」という歌である。

2343  我が背子が言うるはしみ出でて行かば裳引きしるけむ雪な降りそね
      (吾背子之 言愛美 出去者 裳引将知 雪勿零)
 「うるはしみ」は「~なので」の「み」。「言(こと)うるはしみ」は「言葉が素敵なので」という意味。「な降りそね」は「な~そ」の禁止形。
 「あの人の言い方が素敵なので、戸口から追って出ていきたいが、そうすると引きずる裳の跡がはっきりついてしまいます。だから雪さんよ。降らないでね」という歌である。

2344  梅の花それとも見えず降る雪のいちしろけむな間使遣らば [一云 降る雪に間使遣らばそれと知らなむ]
      (梅花 其跡毛不所見 零雪之 市白兼名 間使遣者 [一云 零雪尓 間使遣者 其将知<奈>])
 「それとも見えず」は「見分けがつかないほど」という、「いちしろけむな」は「はっきりと」という意味である。
 「白梅と見分けがつかないほど降る真っ白な雪のように、これみよがしに使いを出せば二人の仲がはっきり知れてしまうだろうな」という歌である。
 異伝歌は「はっきりと知れてしまう」が「それと知られてしまう」となっている。

2345  天霧らひ降りくる雪の消えるとも君に逢はむとながらへわたる
      (天霧相 零来雪之 消友 於君合常 流經度)
 結句の「ながらへわたる」は「生きながらえる」という意味だが、「雪が流れる」を意識した洒落た表現。
 「一面霧がかかったように降ってくる雪のように消え入りそうに(死にたく)なりますが、あなた様にお逢いするまではと生きながらえております」という歌である。

2346  うかねらふ跡見山雪のいちしろく恋ひば妹が名人知らむかも
      (窺良布 跡見山雪之 灼然 戀者妹名 人将知可聞)
 「うかねらふ」は本歌以外に例が無く、枕詞(?)。跡見(とみ)は1549番旋頭歌に「射目立てて跡見の岡辺のなでしこの~」がある。その頭注に「典鑄正(てんちうのかみ)紀朝臣鹿人(きのかひと)らが跡見に到着したとき作った歌」とある。跡見は地名と見られ、奈良県桜井市内の地名というが、不詳。
 「跡見山の雪のようにはっきりと彼女への恋を態度に示したら、彼女の名が人に知られることになるかも」という歌である。

2347  海人小舟泊瀬の山に降る雪の日長く恋ひし君が音ぞする
      (海小船 泊瀬乃山尓 落雪之 消長戀師 君之音曽為流)
 「海人小舟」は3例あるが、枕詞的使用は本歌のみ。他の2例(1182番歌及び4360番長歌)はそのまま普通名詞として使われている。つまり枕詞(?)。「泊瀬(はせ)の山」は奈良県桜井市内にある山。「日(け)長く」は「幾日も」という意味。
 「幾日も降り続く泊瀬の山の雪のように長らく恋い焦がれていたわが君が(とうとう)やってくる音がする」という歌である。

2348  和射見の嶺行き過ぎて降る雪のいとひもなしと申せその子に
      (和射美能 嶺徃過而 零雪乃 猒毛無跡 白其兒尓)
 「和射見(わざみ)の嶺」は岐阜県関ヶ原付近のことという。「いとひもなしと」は「厭なものはないと」という意味である。
 「和射見の嶺を過ぎて降る雪は厭なものだとその子に告げてほしい」という歌である。

 頭注に「花に寄せて」とある。
2349  我が宿に咲きたる梅を月夜よみ宵々見せむ君をこそ待て
      (吾屋戸尓 開有梅乎 月夜好美 夕々令見 君乎祚待也)
 「我が宿に」は「我が家の庭に」という意味。「月夜よみ」は「~ので」の「み」。「素晴らしい月夜なので」という意味である。
 「素晴らしい月夜なので美しく咲いている梅の花を毎晩お見せしたいとお待ちしているのにいらっしゃいませんね」という歌である。

 頭注に「夜に寄せて」とある。
2350  あしひきの山のあらしは吹かねども君なき宵はかねて寒しも
      (足桧木乃 山下風波 雖不吹 君無夕者 豫寒毛)
 「あしひきの」はお馴染みの枕詞。「かねて寒しも」はやや悩ましい表現。「あらかじめ寒い」と口語訳するのはどこか妙である。「嵐が吹いてでもいるように」とするのがよいであろう。
 「山おろしの風が吹いてるわけじゃありませんが、あなた様がいらっしゃらない今宵は嵐が吹いてでもいるように寒々します」という歌である。

 以上で、巻10は完了である。
           (2015年3月29日記、2018年10月17日)
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生きた心地

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 私は毎朝20分ほど体操を行っている。20分といえば短くない時間だが、それを半袖の下着一枚で行っている。真冬の真っ最中でもほぼ欠かさず行っている。すると、今朝、玄関のブザーが鳴った。朝から訪ねてくる人は滅多にいない。「どなたですか」と訊ねると「TKのISです」という。名前まで告げるのは容易じゃない。私は「こんな恰好で失礼します」と言って半ドアを開けた。すると相手は中学時代の同窓生だった。
 こんな経験は過去にもある。小学時代の近所の遊び仲間。真夜中の2時頃。「こんな遅い時間どうしたんだ」というと、「何だか君の顔が見たくて」という。その時は母もいて、「家の人が心配してるよ」と言い聞かせて家に戻らせた。その子は一週間後死んだ。
 二番目は中学の同窓生。「一度遊びに来いよ」というので、甚目寺町の彼の家に訪ねた。二、三時間話して別れた。が、翌朝学校を休み、そのまま五日後に死んだ。
 さらに、十年ほど前、インターネットで知り合った仲間から連絡があって、家を訪ねた。「気に入った本があればあげるよ」と言われ、遠慮がちに三冊だけいただいて帰宅した。半月ほど後、彼の奥さんから連絡が入り、夫は十日ほど前に他界したと告げられた。
 死ぬほぼ直前に会いにくるなんて、偶然に一度くらいはあり得るだろうが、以上、三度もとなると。
 今回のIS君。五年前の2013年の同窓会に出席している。が、それを除けば、卒業以来、なんと60年余も顔を合わせていない。IS君は「君に会えないと思って、コーヒーでも飲もうと思って歩いてきた」という。「この恰好だから小一時間待ってもらえれば」というと「電話してからの方がいいね」と言って帰っていった。
 訪ねられたことは大変嬉しいが、過去に三度も経験しているので、そんなことにならねばいいがと、生きた心地がしなかった。
           (2018年10月19日)
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万葉集読解・・・152(2351~2364番歌)

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     万葉集読解・・・152(2351~2364番歌)
2351  新室の壁草刈りにいましたまはね草のごと寄り合ふ娘子は君がまにまに
      (新室 壁草苅邇 御座給根 草如 依逢未通女者 公随)
 旋頭歌17首(2351~2367番歌。内2362番歌までの12首は柿本人麿歌集より)。旋頭歌は五七七五七七形式。
 新室(にひむろ)は新築の家のこと。「壁草刈りに」は「壁に生えている草を刈りに」という意味。家壁は必ずしも立派な板や茅で造られたわけではなく、雑草が生えていたことも珍しく無かったのだろう。「いましたまはね」は「おいで下さい」という意味である。本歌を私は次歌ともども、家主に対する落成報告の歌と考えている。「岩波大系本」以下諸書のように、娘子を少女と見る見方もあり得る。が、新築を売春宿ともとられかねないような、解釈は私には不自然に映ずる。
 「新築した家の壁草を刈りにいらっしゃいませんか。寄り集まった乙女たちのような草々を、家主様のおぼし召しのまま刈り取って下さい」という歌である。

2352  新室を踏み鎮む子が手玉鳴らすも玉のごと照らせる君を内にと申せ
      (新室 踏静子之 手玉鳴裳 玉如 所照公乎 内等白世)
 旋頭歌。家を新築した際の鎮魂歌のようだ。巫女さんが手に玉を付けて踊ったらしいことがしのばれる。前歌ともども新築の家主に捧げる歌なのだろう。
 「新築した家の鎮魂の踊りに手玉を鳴らすが、その玉のように光り輝く家主を家の内に呼び入れなさい」という歌である。

2353  長谷なる斎槻が下に我が隠せる妻あかねさし照れる月夜に人見てむかも [一云 人見つらむか]
      (長谷 弓槻下 吾隠在妻 赤根刺 所光月夜邇 人見點鴨 [一云 人見豆良牟可])
 旋頭歌。初句の「長谷」(原文)は「泊瀬(初瀬)」のこととされている。すなわち奈良県桜井市内の地名である。そこまではよい。これを「はせ」としたのでは初句は二音だけの句になってしまう。そこで「はつせ」とする訓が登場し、「はつせの」とし、「泊瀬の」とする。が、これでも四音で異例の字足らずの初句。私は「はつせなる」と五音よみにするのが自然と思う。「古」一字(原文)のみで、「いにしへの」と訓む例(32番歌等)があり、「長谷なる」と訓ずるのがいいと思う。「斎槻(ゆつき)」は「神聖なケヤキ」のこと。槻(つき)は欅(けやき)の古名とされている。結句の「人見てむかも」は「人が見つけてしまうだろうか」という意味である。
 「泊瀬の荘厳なケヤキの下に私は妻を隠していますが、皓々と照る月光に人に見つけられてしまうだろうか」という歌である。
 異伝歌は「人見つらむか」すなわち「人が見つけてしまっているだろうか」となっている

2354  ますらをの思ひ乱れて隠せるその妻天地に通り照るともあらはれめやも [一云 ますらをの思ひたけびて]
      (健男之 念乱而 隠在其妻 天地 通雖光 所顕目八方 [一云 大夫乃 思多鶏備弖])
 旋頭歌。「ますらをの」は「男子たるものが」という意味。「通り照るとも」は月光と考えていいだろう。
 「男子たるものが思い乱れて隠した妻なのだが、なあに、月光が天地一面に照り輝こうと見つかるものか」という歌である。
 異伝歌は「思ひ乱れて」の部分が「思ひたけびて」すなわち「しっかり強固な意志で」となっている。

2355  愛しと我が思ふ妹は早も死なぬか生けりとも我れに寄るべしと人の言はなくに
      (恵得 吾念妹者 早裳死耶妻 雖生 吾邇應依 人云名國)
 旋頭歌。「愛(うるわ)しと我が思ふ妹(いも)」は、恋人ないし彼女のこと。不可解なのは結句の「人の言はなくに」。普通に「人が言わないので」ないし「噂にならないので」と解すると不可解。他方で「彼女は早く死ねばいいのに」と詠うのは奇妙だから。どこか腑に落ちない。第三句の「早も死なぬか」と結句の「人の言はなくに」のいずれかが奇妙なのだ。結句の「人云名國」(原文)は「人の言はなくに」ではなく、やや強引だが「人も言はなくに」と私は解しておきたい。
 「愛しいけれど彼女など早く死んでしまえばいいのに。生きていたところで、この私になびきなさいと言ってくれる人もいないので」という歌である。

2356  高麗錦紐の片方ぞ床に落ちにける明日の夜し来なむと言はば取り置きて待たむ
      (狛錦 紐片叙 床落邇祁留 明夜志 将来得云者 取置<待>)
 旋頭歌。高麗錦(こまにしき)の紐は2090番歌に出てきたが、朝鮮半島から伝わってきた華麗な紐のことである。「明日の夜し」の「し」は強調の「し」。
 「着物を結ぶ高麗錦の紐の片方が床に落ちていました。明日の夜行くからとおっしゃるなら取っておいてお待ちしますが・・・」という歌である。

2357  朝戸出の君が足結を濡らす露原早く起き出でつつ我れも裳裾濡らさな
      (朝戸出 公足結乎 閏露原 早起 出乍吾毛 裳下閏奈)
 旋頭歌。足結(あゆひ)は広辞苑に「動きやすいように、袴を膝頭の下で結んだ紐」とある。「裳裾(もすそ)濡らさな」は「裳裾を濡らそう」という意味。
 「朝、戸を出てお帰りになるあなたの足結を濡らす原の草露。私も早く起きて、あなたに連れ添って出て、裳裾を濡らそうかしら」という歌である。

2358 何せむに命をもとな長く欲りせむ生けりとも我が思ふ妹にやすく逢はなくに
      (何為 命本名 永欲為 雖生 吾念妹 安不相)
 旋頭歌。「何せむに」は「どうして」という、「もとな」は「心もとない」ないしは「しきりに」という意味。
 「どうして、この命、長く生きたいと願うものか。生きていたところで、思い焦がれている彼女にたやすく逢えもしないのに」という歌である。

2359  息の緒に我れは思へど人目多みこそ吹く風にあらばしばしば逢ふべきものを
      (息緒 吾雖念 人目多社 吹風 有數々 應相物)
 旋頭歌。「息の緒に」は、1360番歌に「息の緒に思へる我れを~」とある。「命がけで」という意味。
 「命がけで思い焦がれていますが人の目が多く、思うように逢えません。いっそ吹く風であったならしばしば逢えるものを」という歌である。

2360  人の親娘子児据ゑて守山辺から朝な朝な通ひし君が来ねば悲しも
      (人祖 未通女兒居 守山邊柄 朝々 通公 不来哀)
 旋頭歌。「人の親娘子児(をとめこ)据ゑて」は「守山辺」を導く序歌。
 「人の親というのは我が娘をきちんと守るというが、その守山辺ではないが、毎朝、毎朝通ってきて下さっていたあなた、そのあなたが来なくなって悲しい」という歌である。

2361  天にある一つ棚橋いかにか行かむ若草の妻がりと言はば足壮嚴せむ
      (天在 一棚橋 何将行 穉草 妻所云 足壮嚴)
 旋頭歌。棚橋は2081番歌に「天の川棚橋渡せ織女のい渡らさむに棚橋渡せ」と詠われている。材木で川に渡した仮橋。「妻がり」は「暗がり」と同様「妻の許へ」という意味。「足壮嚴(よそひ)せむ」は2357番歌に詠われていた「足結(あゆひ)」のことで、「袴を膝頭の下で結んだ紐」のことを言っているのだろう。本歌は七夕伝説の歌と気づかないととんちんかんな解釈になりかねない。すなわち、これを現実世界の歌と取ると、「天にある一つ棚橋」が邪魔になり、「岩波大系本」や「伊藤本」のように「天にある」は「一つ」にかかる枕詞として片づけることになる。さらに、妻の許へ行くのになぜわざわざ「足結せむ」と詠わねばならないのか分からない。2081番歌にあるように、「一つ棚橋」はまさに「天の川に渡されたたった一つの棚橋」なのである。牽牛は一年に一度の遠い遠い織姫の許へと足結を整えているのである。
 「天の川に渡されたたった一つの棚橋をどのようにして渡っていって若草のような妻の織姫の許へ行こうかと、牽牛は足結を整えておられるのです」という歌である。

2362  山背の久世の若子が欲しと言ふ我れあふさわに我れを欲しと言ふ山背の久世
      (開木代 来背若子 欲云余 相狭丸 吾欲云 開木代来背)
 旋頭歌。「山背(やましろ)の久背」は京都府城陽市の久世とされている。ただ、山背の原文は「開木代」となっている。山背は11例あって、481番歌等6例は「山代」、277番歌等3例は「山背」と標記されている。残る2例は1286番歌と本歌の「開木代」である。 これらの例から考えると「開木代(やましろ)」の「開木」は「やま」と読まれたらしいことが分かる。久世は当時木を切り出す名産地だったのだろうか。「久世の若子(わくご)」は地名付きの呼び方なので「久世のお坊ちゃん」という感覚。「あふさわに」は「いとも気軽に」という意味。
 昔、子供の遊びで唄われた「はないちもんめ」の「あの子が欲しい、あの子じゃわからん、この子が欲しい、この子じゃわからん、相談しましょ、そうしましょ」を想起させるような歌である。旋頭歌は本来民謡歌に由来しているのだろうか
 「山背の久世のお坊ちゃんは私が欲しいんだとさ、いともたやすく私が欲しいんだとさ、久世のお坊ちゃんは」という歌である。
 左注に「右十二首は柿本朝臣人麻呂歌集に登載されている」とある。

2363  岡の崎廻みたる道を人な通ひそありつつも君が来まさむ避き道にせむ
      (岡前 多未足道乎 人莫通 在乍毛 公之来 曲道為)
 旋頭歌。「岡の崎廻(た)みたる道を」は「岡が飛び出した崎をぐるりと迂回して通る道」、すなわち「岡の出鼻を回る道を」という意味である。「な通ひそ」は「な~そ」の禁止形。「ありつつも」は「ずっとこのまま」という意味。「避(よ)き道」は「回り道」すなわち「秘密の道」のことを言っている。。
 「岡の出鼻を回る道を、人よ、誰も通らないでそのままにしておいておくれ。あの人がやってくる秘密の道にしておきたいから」という歌である。

2364  玉垂の小簾のすけきに入り通ひ来ねたらちねの母が問はさば風と申さむ
      (玉垂 小簾之寸鶏吉仁 入通来根 足乳根之 母我問者 風跡将申)
 旋頭歌。小簾(をす)は簾(すだれ)のこと。「すけき」は「隙間」。「たらちねの」は枕詞。「玉垂のすだれの隙間から入って下さいね。母に訊かれたら風と申しましょう」という歌である。
           (2015年4月3日記、2018年10月21日)
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俳句三昧

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 今朝起きたら、今秋一番の秋晴れだった。全天に雲一つ無く、どこまでも青くくっきりしていた。かつ、風は無く、寒くも暖かくもない。絶好の秋日和とはこんな日のことを言うに相違ない。
 私は久々に布団と毛布をベランダに引っ張り出し、全面陽光に当てた。そうして思いっきり両手を広げ、大きな伸びをした。いやあ、秋の空気の美味しいこと、美味しいこと。滅多にない静穏な秋晴れだからこそ、ひときわ空気が美味しく感じられる。
 こんな日は作句したくなる。これまで、若い頃から秋の句はいっぱい作句している。が、にもかかわらず作句の虫がうごめくのである。
 秋に作句欲が湧くのはひとり私ばかりではない。多士済々の有名俳人はもとより、茶席に連なって、一句ひねりたくなる人は多いことだろう。つまり、秋は、掃いて捨てるほどの句があふれる季節である。それを承知で、不肖の輩なる身をも顧みず、私も作句の後塵に混じって連なることにしよう。
   人はみなか青と仰ぐ秋の空     (桐山芳夫)
   青を飛ぶ鳥姿美し朝の秋      (桐山芳夫)
   話しつつ過ぎゆく秋の二人連れ   (桐山芳夫)
   君も柿かじりたくなるその下で   (桐山芳夫)
   手をつなぐ人恋しさや秋来たり   (桐山芳夫)
   どこまでも青、青、青の秋の果て  (桐山芳夫)
   空気澄む羊羹食ひて秋居せり    (桐山芳夫)
 この調子で作句を続けると簡単にとまりそうにない。秋とは創作欲が湧く季節かも知れませんね。
           (2018年10月21日)
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万葉集読解・・・153(2365~2380番歌)

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     万葉集読解・・・153(2365~2380番歌)
2365  うちひさす宮道に逢ひし人妻ゆゑに玉の緒の思ひ乱れて寝る夜しぞ多き
      (内日左須 宮道尓相之 人妻姤 玉緒之 念乱而 宿夜四曽多寸)
 旋頭歌。「うちひさす」も「玉の緒の」も枕詞。「人妻姤」(原文)を「人妻ゆゑに」と訓むのがいいか否か疑問のあるところ。「姤」の文字に着目して「奥方ゆゑに」とした方がいいかも。
 「宮に通う道で高貴な奥方らしき人に出合ったが、奥方故に恋い焦がれてはいけないと、思い悩んで寝付かれない夜が多い」という歌である。

2366  まそ鏡見しかと思ふ妹も逢はぬかも玉の緒の絶えたる恋の繁きこのころ
      (真十鏡 見之賀登念 妹相可聞 玉緒之 絶有戀之 繁比者)
 旋頭歌。「まそ鏡」も「玉の緒の」も枕詞。第三句「妹も逢はぬかも」は「妹に逢わないかなあ」(「岩波大系本」ほか)と解されている。ならば「妹も」の「も」は何であろう。「妹に」と訓ずればよさそうなのに。「妹も」という訓が踏襲されてきたのには何か理由があるのだろう。第三句の原文は「妹相可聞」。「妹尓相可聞」となっていないので、「妹に」と訓みづらいのである。伝統に従って「妹も」としているのだろうか。私は「偶然に彼女に出逢う」などという歌ではないと思う。伝統どおり「妹逢はぬかも」でいいと思う。つまり原文のは妹は客体ではなく主語に相違ない。「も」は詠嘆ないし願望の「も」なのである。
 「彼女に逢いたい。ああ、彼女も逢ってくれないだろうか。絶えて久しく逢っていないのでこのごろしきりに恋しい」という歌である。

2367  海原の道に乗りてや我が恋ひ居らむ大船のゆたにあるらむ人の子ゆゑに
      (海原乃 路尓乗哉 吾戀居 大舟之 由多尓将有 人兒由恵尓)
 旋頭歌。「海原(うなはら)の道に乗りてや」は「大海原に出て波に揺られているように」という比喩表現。「ゆたにあるらむ」は「ゆったりとした気持でいることだろう」という意味である。「人の子ゆゑに」は「親のもとにいる子」とも「人妻」とも解釈される。後者に解釈しておきたい。
 「大海原に出て波に揺られているように、彼女のことを恋続けている。が、彼女の方は人妻ゆえに大船に乗った気分でゆったりと暮らしているだろう」という歌である。
 左注に「右五首は古歌集に登載されている」とある。

 頭注区分に「正述心緒」とある。「正述心緒」は「思いを直接述べた歌」のことである。「2516番歌の左注に「149首(2368~2516番歌)は柿本人麿歌集より採択されている」とある。
2368  たらちねの母が手離れかくばかりすべなきことはいまだせなくに
      (垂乳根乃 母之手放 如是許 無為便事者 未為國)
 「たらちねの」はお馴染みの枕詞。「母が手離れ」は「一人前になって」、すなわち「成人して以降」という意味。恋の切なさ、やるせなさを詠っている。
 「母の手から離れ、成人して以降、こんなに切なくやるせない思いにとらわれたことはいまだかってありません」という歌である。

2369  人の寝る味寐は寝ずて愛しきやし君が目すらを欲りし嘆かむ [或本歌云 君を思ふに明けにけるかも]
      (人所寐 味宿不寐 早敷八四 公目尚 欲嘆 [或本歌云 公矣思尓 暁来鴨])
 味寐(うまい)は快い眠りのことだが、男女の共寝を指すという説もある。が、必ずしも共寝ときめつける必要はあるまい。恋の悩みを詠った歌ととればすんなり歌意はとおる。「愛(は)しきやし」は「愛しい」ないし「恋しい」という意味。「君が目すらを」は「あなたのまなざしだけでも」という意味。
 「人は皆普通に熟睡に入るというのに、なかなか眠られず、恋しいあなたのまなざしだけでも欲しいと思って嘆息してしまいます」という歌である。
 異伝歌は結句が「あなたを思い続けているうちに夜が明けてしまいました」となっている。

2370  恋ひ死なば恋ひも死ねとや玉桙の道行く人の言も告げなく
      (戀死 戀死耶 玉鉾 路行人 事告無)
 「恋ひ死なば恋ひも死ねとや」は「恋煩いで死ぬのなら死になさいとでもおっしゃるのですか」という意味である。「玉桙(たまほこ)の」はお馴染みの枕詞。下二句、特に結句の「言(こと)も告げなく」が悩ましい。書によって色々な解があり得る。たとえば、手元の三書は次のように解している。
  崙擦鮃圓人が(あの方の)言伝をしてくれない」(「岩波大系本」)。
 ◆崙擦鮃圓人が、あの人に逢えそうな言葉も口にしてはくれない」(「伊藤本」)。
 「道行く人は誰もあの人の言伝をしてくれないことよ」(「中西本」)。
 ,鉢は「言も告げなく」を「言伝をしてくれない」としている。が、言伝とは誰が誰に何を伝えることをいうのだろう。全く意味不明。したがって歌意が通らない。△篭貎瓦硫髻「あの人に関する情報を与えてくれない」という意味だと思うが、これもはっきりしない。道行く路傍の人が特定の人の情報をわざわざ彼女に告げるなどあり得ない。
 上二句の「恋煩いで死ぬのなら死になさいとでもおっしゃるのですか」に対し、下二句はそれに相応しい解でなければならない。私の解は「(世間の)噂にものぼらないのに」である。判定は読者に委ねるしかないが、これで歌意は通ると思うがいかがだろう。
 「恋煩いで死ぬのなら死になさいとでもおっしゃるのですか。そんな私が死んだところで道行く人の(世間の)噂にものぼらないのに」という歌である。

2371  心には千重に思へど人に言はぬ我が恋妻を見むよしもがも
      (心 千遍雖念 人不云 吾戀? 見依鴨)
 「人に言はぬ我が恋妻を」は「人には告げないで心中ひそかに思う恋妻を」という、「見むよしもがも」は「逢う術はないのだろうか」という意味である。
 「心では幾重にも思い続けているのだが、人には告げないで心中ひそかに思う恋妻に逢う術はないのだろうか」という歌である。

2372  かくばかり恋ひむものぞと知らませば遠くも見べくあらましものを
      (是量 戀物 知者 遠可見 有物)
 三句目までは「恋の苦しさ」を補って読まないと歌意がつかめない。「遠くも見べく」は「遠くから見るものだ」という意味である。
 「こんなにも恋することが苦しいものと知っていたら、遠くから憧れているだけでよかったものを」という歌である。

2373 いつはしも恋ひぬ時とはあらねども夕かたまけて恋ひはすべなし
      (何時 不戀時 雖不有 夕方任 戀無乏)
 「いつはしも」は「いつといって」という意味。「かたまけて」は838番歌や1854番歌に使われているように「やってくると」という意味である。
 「いつといって恋しくないという時はないけれど、夕暮れがやってくると、やるせなくてたまらない」という歌である。

2374  かくのみし恋ひやわたらむたまきはる命も知らず年は経につつ
      (是耳 戀度 玉切 不知命 歳經管)
 「恋ひやわたらむ」は「恋続けるのだろう」という意味。「たまきはる」は枕詞。
 「いつまでこんなに恋続けるのだろう、この私は。いつまでも続く命ではないのに、年月ばかりが過ぎてゆく」という歌である。

2375  我れゆ後生まれむ人は我がごとく恋する道にあひこすなゆめ
      (吾以後 所生人 如我 戀為道 相与勿湯目)
 「我れゆ後」は「私より後に」という意味。「なゆめ」は「決して」という意味。
 「私より後に生まれて来る人よ。この私のように恋に落ちてこんな苦しい目にあいなさんなよ、決して」という歌である。

2376  ますらをの現し心も我れはなし夜昼といはず恋ひしわたれば
      (健男 現心 吾無 夜晝不云 戀度)
 「現(うつ)し心も」の現(うつ)は「夢かうつつか」の「うつ」で、「現実」という意味。「恋ひしわたれば」は前々歌にあったように「恋続ける」という意味。
 「男らしく雄々しい心も私はなくしてしまった。夜となく昼となく、ただただ恋しいばかりで」という歌である。

2377  何せむに命継ぎけむ我妹子に恋ひぬ前にも死なましものを
      (何為 命継 吾妹 不戀前 死物)
 「何せむに」は「なぜ」という意味である。「命継ぎけむ」は、あっさり「生きてきたんだ」と解するのがいい。
 「なぜ生きてきたんだ。彼女を知る前に死んでしまえばよかったのに」という歌である。

2378  よしゑやし来まさぬ君を何せむにいとはず我れは恋ひつつ居らむ
      (吉恵哉 不来座公 何為 不?吾 戀乍居)
 「よしゑやし」は2031番歌に「よしゑやし直ならずとも~」とあるように本来は「たとえ~とも」という意味である。が、本歌は「~とも」の部分がないので「何してんのよ」というほどの意味。
 「何してんのよ、来てもくれないあの人をどうして厭にもならず恋続けているんだろう、この私は」という歌である。

2379  見わたせば近き渡りをた廻り今か来ますと恋ひつつぞ居る
      (見度 近渡乎 廻 今哉来座 戀居)
 「見わたせば近き渡りを」は「みわたすと近くに見える渡し場だが」という意味。「た廻(もとほ)り」は「迂回して」という意味である。
 「みわたすと近くに見える渡し場だけれど、近くもない迂回路を早々と降りてきて、今か今かと恋しいあなたを待っています」という歌である。

2380  はしきやし誰が障ふれかも玉桙の道見忘れて君が来まさぬ
      (早敷哉 誰障鴨 玉桙 路見遺 公不来座)
 「はしきやし」は「ああ悔しいこと」という一種の感嘆符。「誰が障(さ)ふれかも」は「いったい誰が邪魔をしているのでしょう」という意味である。「玉桙の」は枕詞。
 「ああ悔しいこと、いったい誰が邪魔をしているのでしょう。馴染みの道もお忘れになってしまったのかわが君はいらっしゃらない」という歌である。
           (2015年4月7日記、2018年10月23日)
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女子駅伝

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 一昨日、全日本実業団対抗女子駅伝(クイーンズ駅伝)予選会「プリンセス駅伝」が福岡県の宗像市と福津市で行われた。その模様をフジテレビが報道していた。私は「プリンセス駅伝」の中継を見ていたわけではないが、2区でバトンを受けた岩谷産業の飯田怜選手が3区の中継所200Mほど手前で転倒し、はいつくばったまま中継所に進む姿が報道された。見るに堪えない痛々しい姿だった。進む白線上には血の後が残り、事後診断では全治3~4ヶ月という重傷状態だったという。膝骨折の重傷で、よくも200Mほども前進出来たものだ。
 これを巡っては「なぜ止められなかったのか」といった声を始め、様々な意見が寄せられているという。私に名案があるわけではないが、「即中止(棄権)」という判断以外考えられない。一つ言えるのは駅伝はチーム競技ということだ。チーム競技は、野球、サッカー、バレー等々数多いが、個々人の能力、事故、ミスが団体の勝敗に直結しやすい。したがって、多くの団体競技は代替選手がいて、事故等に対応しやすくなっている。
 ところが、駅伝は走破という性格上、代替が利かない。
 そこで、私は駅伝にも代替選手の起用を認める工夫ができないものだろうか、と思う。基本は最後尾の選手が通過した後、その代替選手が走り出す制度だ。こうすれば、たった一人のやむを得ない棄権のせいで、団体自身の棄権となる不合理は避けられる。団体チームの各メンバーはそれまで必死になってやってきたのに、棄権となる不合理はなくなる。
 これは名案ではなく、単に私の一案に過ぎないが、チーム全体の続行不可という、ある意味残酷な結果を招くことはなくなる。関係者の議論の一つになれば幸いである。
 これまで、箱根駅伝を始め、様々な大会に手に汗握ってきた、一駅伝フアンの偽らざる思いである。
           (2018年10月23日)
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万葉集読解・・・154(2381~2400番歌)

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     万葉集読解・・・154(2381~2400番歌)
2381  君が目を見まく欲りしてこの二夜千年のごとも我は恋ふるかも
      (公目 見欲 是二夜 千歳如 吾戀哉)
 「君が目を見まく欲りして」は「あなたの目を見たくて」という意味ではなく、「あなたに逢いたくて」という意味である。
 「あなたに逢いたくてこの二夜、長く長く千年もたつほど待ち遠しかったわ」という歌である。

2382  うち日さす宮道を人は満ち行けど我が思ふ君はただひとりのみ
      (打日刺 宮道人 雖満行 吾念公 正一人)
 「うち日さす」は枕詞。
 「宮に通う道を往来する人々は溢れかえらんばかりだが、私が思いを寄せるお方はたったお一人のみ」という歌である。

2383  世の中は常かくのみと思へどもはたた忘れずなほ恋ひにけり
      (世中 常如 雖念 半手不忘 猶戀在)
 「はたた」は「他方」という副詞として使われている。全万葉集歌中この一例のみ。ただ、762番歌に「神さぶといなにはあらずはたやはたかくして後に寂しけむかも」と「はたやはた」のかたちで使われている。
 「世の中は思うようにいかないのが常だと分かっているけれど、やはり、あの子のことが忘れられず、恋しくて仕方がない」という歌である。

2384  我が背子は幸くいますと帰り来と我れに告げ来む人も来ぬかも
      (我勢古波 幸座 遍来 我告来 人来鴨)
 結句の「人も来ぬかも」は二様に取れる。一つはそのまま願望を表す句とするもの、もう一つは反語表現句とするもの。意味的に大差はないが、作者の心情には差が出る。前者だと「告げに来てくれないかなあ」という意味になり、後者だと「告げに来る人があるだろうか」という意味になる。「告げに来る人がいない」という意味では同じなのだが、後者の方が不安感が色濃く出る。私は後者にとっておきたい。
 「旦那様はご無事でいらっしゃいます、まもなくお帰りになりますよ、と告げてくれる人さえやってこない。」という歌である。

2385   あらたまの五年経れど我が恋の跡なき恋のやまなくあやし
      (<麁>玉 五年雖經 吾戀 跡無戀 不止恠)
 「あらたまの」はお馴染みの枕詞。「跡なき恋の」は「恋をしたという形跡もないのに」、つまり「実っていないのに」という意味。また「やまなくあやし」は「いまだ未練がましく恋し続けているのは不思議なことだ」という意味である。
 「あの子を恋うようになってから五年も経つのに実る気配もない。なのに、いまだ未練がましく恋し続けているのは不思議なことだ」という歌である。

2386  巌すら行き通るべきますらをも恋といふことは後悔いにけり
      (石尚 行應通 建男 戀云事 後悔在)
 万葉歌にしては珍しくやや理屈っぽい歌である。原文に「戀云事」とあるので「恋といふことは」と訓をふるのは当たり前なのだが、どこか違和感がある。奈良時代に本当に現代文のように「恋といふことは」という言い方をしたのだろうか。私には「恋といへること」すなわち「恋なること」と読める。訓を訂正するまでの勇気はないが、こう解しておきたい。
 「岩をも貫くますらをの身であるのに恋のこととなると後で悔いるばかり」という歌である。

2387  日並べば人知りぬべし今日の日は千年のごともありこせぬかも
      (日位 人可知 今日 如千歳 有与鴨)
 「日(け)並べば」は「日数が重なると」という意味である。「~ぬべし」は「~であろう」ないし「~に相違ない」という、「ありこせぬかも」は「~であってくれないだろうか」という意味である。「ありこせぬかも」は816番歌、1616番歌等に例があるが、すべて末句に使用されている。
 「こうして逢う日が度重なれば人の知るところとなりましょう。今日というこの日が千年のように長くあってほしい」という歌である。

2388  立ちて居てたづきも知らず思へども妹に告げねば間使も来ず
      (立座 態不知 雖念 妹不告 間使不来)
 「たづき」は「手段」ないし「手がかり」のこと。
 「居ても立ってもいられない、どうしていいか分からないほど恋い焦がれているが、この思いを彼女に告げていないので、使いの者もやって来ない」という歌である。

2389  ぬばたまのこの夜な明けそ赤らひく朝行く君を待たば苦しも
      (烏玉 是夜莫明 朱引 朝行公 待苦)
 「ぬばたまの」はお馴染みの枕詞。「な明けそ」は「な~そ」の禁止形。「赤らひく」は1999番歌の際に述べたように、枕詞ではなく、「赤みを帯びた」という普通形容詞。
 「今宵はこのまま明けないで欲しい。朝赤みを帯びてくると、帰ってしまうお方、またいらっしゃる日までお待ちするのは辛い」という歌である。

2390  恋するに死するものにあらませば我が身は千たび死にかへらまし
      (戀為 死為物 有者 我身千遍 死反)
 激しい恋情が伝わってくる歌。「あらませば」は「というものなら」という意味。
 「恋焦がれると死ぬと決まっているなら、私は死んでも死んでも生き返ってきてまたあなたを恋します」という歌である。

2391  玉かぎる昨日の夕見しものを今日の朝に恋ふべきものか
      (玉響 昨夕 見物 今朝 可戀物)
 玉かぎる」は枕詞(?)。「玉」は美称。「かぎる」は陽炎。「見しものを」は「逢う」という意味と「見かける」という意味の二通りの意味があるが、本歌の場合は後者。
 「昨夕、陽炎のようにちらりとお見かけしたばかりのことで、今朝になって恋しくなるなんてことがありましょうか」という歌である。

2392  なかなかに見ずあらましを相見てゆ恋ほしき心まして思ほゆ
      (中々 不見有 従相見 戀心 益念)
  「なかなかに」は「なまじっか」という意味。たとえば342番歌に「なかなかに人とあらずは酒壷になりにてしかも酒に染みなむ」とある。「見ずあらましを」は「逢わなければよかった」という意味である。「相見てゆ」は「~からというもの」という起点を示す「ゆ」。
 「なまじっか逢わなければよかった。逢ってからというものますます恋しさが募ってならない」という歌である。

2393  玉桙の道行かずあらばねもころのかかる恋には逢はざらましを
      (玉桙 道不行為有者 惻隠 此有戀 不相)
 「玉桙(たまほこ)の」は枕詞。 「ねもころの」は「こんなに深く」という意味。
 「恋の道に進まなかったら、こんなにも深く苦しい恋に会うことはなかったのに」という歌である。

2394  朝影に我が身はなりぬ玉かきるほのかに見えて去にし子ゆゑに
      (朝影 吾身成 玉垣入 風所見 去子故)
 朝影は朝日にあたって長く伸びた影。「玉かきる」は2391番歌参照。
 「朝影のように私はやせ細ってしまった。陽炎のようにほのかに逢っただけで立ち去ってしまったあの子が忘れられないゆえに」という歌である。

2395  行き行きて逢はぬ妹ゆゑひさかたの天露霜に濡れにけるかも
      (行々 不相妹故 久方 天露霜 沾在哉)
 「行き行きて」は一回限りのことか幾度もという意味か明確ではない。ここでは「幾度も」と解しておきたい。「ひさかたの」はお馴染みの枕詞。
 「訪ねても訪ねても逢ってくれない彼女ゆえ、私は露霜に濡れてしまいます」という歌である。

2396  たまさかに我が見し人をいかならむよしをもちてかまた一目見む
      (玉坂 吾見人 何有 依以 亦一目見)
 「たまさかに」は653番歌に「心には忘れぬものをたまさかに見ぬ日さまねく月ぞ経にける」とある。「たまたま」という意味。「よしをもちてか」は「どんな機縁で」という意味である。
 「たまたま見かけたあの彼女、どんな機縁でまた出逢えないだろうか」という歌である。

2397  しましくも見ぬば恋ほしき我妹子を日に日に来れば言の繁けく
      (蹔 不見戀 吾妹 日々来 事繁)
 「しましく」は17例に及ぶ使用例があり、「しばらくの間」を意味する。「日(ひ)に日(け)に」は毎日。
 「しばらく逢わないと恋しくてたまらないので彼女の許へ毎日のようにやってくると、人の噂が激しいことよ」という歌である。

2398  たまきはる命の限り頼みたる君によりてし言の繁けく
      (年切 及世定 恃 公依 事繁)
 「たまきはる」はお馴染みの枕詞。結句の後に「構わない」が省略されている。
 「生涯のお人と頼みにしているあなたですもの、噂がうるさくても構いませんわ」という歌である。

2399  赤らひく肌も触れずて寐ぬれども心を異には我が思はなくに
      (朱引 秦不經 雖寐 心異 我不念)
 「赤らひく」は「赤みを帯びた」。2389番歌参照。「心を異(け)には」は「心を別にする」という意味である。
 「ほんのり赤い肌にも触れずに寝ているけれど、決して心が離れているなどとは思っていませんよ」という歌である。

2400  いで何かここだはなはだ利心の失せなむまでに思ふ恋ゆゑ
      (伊田何 極太甚 利心 及失念 戀故)
 「ここだはなはだ」は、原文「極太甚」から分かるように、「こんなにも激しく」という意味である。利心(とごころ)は初出語だが、この先2894番歌及び4479番歌にも出てくる。正気という意味。 「なぜこんなにも激しく、正気が失せるほどまでに思い詰めるのだろう。恋ごころのせいだろうか」という歌である。
           (2015年4月11日記、2018年10月24日)
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