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万葉集読解・・・154(2381~2400番歌)

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     万葉集読解・・・154(2381~2400番歌)
2381  君が目を見まく欲りしてこの二夜千年のごとも我は恋ふるかも
      (公目 見欲 是二夜 千歳如 吾戀哉)
 「君が目を見まく欲りして」は「あなたの目を見たくて」という意味ではなく、「あなたに逢いたくて」という意味である。
 「あなたに逢いたくてこの二夜、長く長く千年もたつほど待ち遠しかったわ」という歌である。

2382  うち日さす宮道を人は満ち行けど我が思ふ君はただひとりのみ
      (打日刺 宮道人 雖満行 吾念公 正一人)
 「うち日さす」は枕詞。
 「宮に通う道を往来する人々は溢れかえらんばかりだが、私が思いを寄せるお方はたったお一人のみ」という歌である。

2383  世の中は常かくのみと思へどもはたた忘れずなほ恋ひにけり
      (世中 常如 雖念 半手不忘 猶戀在)
 「はたた」は「他方」という副詞として使われている。全万葉集歌中この一例のみ。ただ、762番歌に「神さぶといなにはあらずはたやはたかくして後に寂しけむかも」と「はたやはた」のかたちで使われている。
 「世の中は思うようにいかないのが常だと分かっているけれど、やはり、あの子のことが忘れられず、恋しくて仕方がない」という歌である。

2384  我が背子は幸くいますと帰り来と我れに告げ来む人も来ぬかも
      (我勢古波 幸座 遍来 我告来 人来鴨)
 結句の「人も来ぬかも」は二様に取れる。一つはそのまま願望を表す句とするもの、もう一つは反語表現句とするもの。意味的に大差はないが、作者の心情には差が出る。前者だと「告げに来てくれないかなあ」という意味になり、後者だと「告げに来る人があるだろうか」という意味になる。「告げに来る人がいない」という意味では同じなのだが、後者の方が不安感が色濃く出る。私は後者にとっておきたい。
 「旦那様はご無事でいらっしゃいます、まもなくお帰りになりますよ、と告げてくれる人さえやってこない。」という歌である。

2385   あらたまの五年経れど我が恋の跡なき恋のやまなくあやし
      (<麁>玉 五年雖經 吾戀 跡無戀 不止恠)
 「あらたまの」はお馴染みの枕詞。「跡なき恋の」は「恋をしたという形跡もないのに」、つまり「実っていないのに」という意味。また「やまなくあやし」は「いまだ未練がましく恋し続けているのは不思議なことだ」という意味である。
 「あの子を恋うようになってから五年も経つのに実る気配もない。なのに、いまだ未練がましく恋し続けているのは不思議なことだ」という歌である。

2386  巌すら行き通るべきますらをも恋といふことは後悔いにけり
      (石尚 行應通 建男 戀云事 後悔在)
 万葉歌にしては珍しくやや理屈っぽい歌である。原文に「戀云事」とあるので「恋といふことは」と訓をふるのは当たり前なのだが、どこか違和感がある。奈良時代に本当に現代文のように「恋といふことは」という言い方をしたのだろうか。私には「恋といへること」すなわち「恋なること」と読める。訓を訂正するまでの勇気はないが、こう解しておきたい。
 「岩をも貫くますらをの身であるのに恋のこととなると後で悔いるばかり」という歌である。

2387  日並べば人知りぬべし今日の日は千年のごともありこせぬかも
      (日位 人可知 今日 如千歳 有与鴨)
 「日(け)並べば」は「日数が重なると」という意味である。「~ぬべし」は「~であろう」ないし「~に相違ない」という、「ありこせぬかも」は「~であってくれないだろうか」という意味である。「ありこせぬかも」は816番歌、1616番歌等に例があるが、すべて末句に使用されている。
 「こうして逢う日が度重なれば人の知るところとなりましょう。今日というこの日が千年のように長くあってほしい」という歌である。

2388  立ちて居てたづきも知らず思へども妹に告げねば間使も来ず
      (立座 態不知 雖念 妹不告 間使不来)
 「たづき」は「手段」ないし「手がかり」のこと。
 「居ても立ってもいられない、どうしていいか分からないほど恋い焦がれているが、この思いを彼女に告げていないので、使いの者もやって来ない」という歌である。

2389  ぬばたまのこの夜な明けそ赤らひく朝行く君を待たば苦しも
      (烏玉 是夜莫明 朱引 朝行公 待苦)
 「ぬばたまの」はお馴染みの枕詞。「な明けそ」は「な~そ」の禁止形。「赤らひく」は1999番歌の際に述べたように、枕詞ではなく、「赤みを帯びた」という普通形容詞。
 「今宵はこのまま明けないで欲しい。朝赤みを帯びてくると、帰ってしまうお方、またいらっしゃる日までお待ちするのは辛い」という歌である。

2390  恋するに死するものにあらませば我が身は千たび死にかへらまし
      (戀為 死為物 有者 我身千遍 死反)
 激しい恋情が伝わってくる歌。「あらませば」は「というものなら」という意味。
 「恋焦がれると死ぬと決まっているなら、私は死んでも死んでも生き返ってきてまたあなたを恋します」という歌である。

2391  玉かぎる昨日の夕見しものを今日の朝に恋ふべきものか
      (玉響 昨夕 見物 今朝 可戀物)
 玉かぎる」は枕詞(?)。「玉」は美称。「かぎる」は陽炎。「見しものを」は「逢う」という意味と「見かける」という意味の二通りの意味があるが、本歌の場合は後者。
 「昨夕、陽炎のようにちらりとお見かけしたばかりのことで、今朝になって恋しくなるなんてことがありましょうか」という歌である。

2392  なかなかに見ずあらましを相見てゆ恋ほしき心まして思ほゆ
      (中々 不見有 従相見 戀心 益念)
  「なかなかに」は「なまじっか」という意味。たとえば342番歌に「なかなかに人とあらずは酒壷になりにてしかも酒に染みなむ」とある。「見ずあらましを」は「逢わなければよかった」という意味である。「相見てゆ」は「~からというもの」という起点を示す「ゆ」。
 「なまじっか逢わなければよかった。逢ってからというものますます恋しさが募ってならない」という歌である。

2393  玉桙の道行かずあらばねもころのかかる恋には逢はざらましを
      (玉桙 道不行為有者 惻隠 此有戀 不相)
 「玉桙(たまほこ)の」は枕詞。 「ねもころの」は「こんなに深く」という意味。
 「恋の道に進まなかったら、こんなにも深く苦しい恋に会うことはなかったのに」という歌である。

2394  朝影に我が身はなりぬ玉かきるほのかに見えて去にし子ゆゑに
      (朝影 吾身成 玉垣入 風所見 去子故)
 朝影は朝日にあたって長く伸びた影。「玉かきる」は2391番歌参照。
 「朝影のように私はやせ細ってしまった。陽炎のようにほのかに逢っただけで立ち去ってしまったあの子が忘れられないゆえに」という歌である。

2395  行き行きて逢はぬ妹ゆゑひさかたの天露霜に濡れにけるかも
      (行々 不相妹故 久方 天露霜 沾在哉)
 「行き行きて」は一回限りのことか幾度もという意味か明確ではない。ここでは「幾度も」と解しておきたい。「ひさかたの」はお馴染みの枕詞。
 「訪ねても訪ねても逢ってくれない彼女ゆえ、私は露霜に濡れてしまいます」という歌である。

2396  たまさかに我が見し人をいかならむよしをもちてかまた一目見む
      (玉坂 吾見人 何有 依以 亦一目見)
 「たまさかに」は653番歌に「心には忘れぬものをたまさかに見ぬ日さまねく月ぞ経にける」とある。「たまたま」という意味。「よしをもちてか」は「どんな機縁で」という意味である。
 「たまたま見かけたあの彼女、どんな機縁でまた出逢えないだろうか」という歌である。

2397  しましくも見ぬば恋ほしき我妹子を日に日に来れば言の繁けく
      (蹔 不見戀 吾妹 日々来 事繁)
 「しましく」は17例に及ぶ使用例があり、「しばらくの間」を意味する。「日(ひ)に日(け)に」は毎日。
 「しばらく逢わないと恋しくてたまらないので彼女の許へ毎日のようにやってくると、人の噂が激しいことよ」という歌である。

2398  たまきはる命の限り頼みたる君によりてし言の繁けく
      (年切 及世定 恃 公依 事繁)
 「たまきはる」はお馴染みの枕詞。結句の後に「構わない」が省略されている。
 「生涯のお人と頼みにしているあなたですもの、噂がうるさくても構いませんわ」という歌である。

2399  赤らひく肌も触れずて寐ぬれども心を異には我が思はなくに
      (朱引 秦不經 雖寐 心異 我不念)
 「赤らひく」は「赤みを帯びた」。2389番歌参照。「心を異(け)には」は「心を別にする」という意味である。
 「ほんのり赤い肌にも触れずに寝ているけれど、決して心が離れているなどとは思っていませんよ」という歌である。

2400  いで何かここだはなはだ利心の失せなむまでに思ふ恋ゆゑ
      (伊田何 極太甚 利心 及失念 戀故)
 「ここだはなはだ」は、原文「極太甚」から分かるように、「こんなにも激しく」という意味である。利心(とごころ)は初出語だが、この先2894番歌及び4479番歌にも出てくる。正気という意味。 「なぜこんなにも激しく、正気が失せるほどまでに思い詰めるのだろう。恋ごころのせいだろうか」という歌である。
           (2015年4月11日記、2018年10月24日)
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