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万葉集読解・・・155(2401~2420番歌)

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     万葉集読解・・・155(2401~2420番歌)
2401  恋ひ死なば恋ひも死ねとか我妹子が我家の門を過ぎて行くらむ
      (戀死 戀死哉 我妹 吾家門 過行)
 上二句「恋ひ死なば恋ひも死ねとか」は2370番歌の上二句と同じ。「恋煩いで死ぬのなら死になさいとでもおっしゃるのですか」という意味である。
 「彼女は、恋煩いで死ぬなら死になさいとでもいうつもりなのか、我家の門前を素知らぬ顔で通り過ぎていく」という歌である。

2402  妹があたり遠く見ゆれば怪しくも我れは恋ふるか逢ふよしなしに
      (妹當 遠見者 恠 吾戀 相依無)
 「怪しくも」は「どうしようもなく」という、「逢ふよしなしに」は「逢う手だてがないまま」という意味である。
 「彼女の家の辺りが遠く見える。私はどうしようもなく恋心が募る。逢う手だてがないのでいっそう」という歌である。

2403  玉久世の清き川原にみそぎして斎ふ命は妹がためこそ
      (玉久世 清川原 身秡為 齊命 妹為)
 玉久世(たまくせ)ははっきりしない。玉を美称と解したり、久世を河原の古名としたり地名と解したり様々の説がある。「~の清き川原」という言い方からすると、「玉久世」は川の名称のように私には思われる。「みそぎして斎(いは)ふ命は」は「川の水で身(命)を清めるのは」という意味である。
 「玉久世川の清らかな川原で身を清めるのは彼女のためだからこそだよ」という歌である。

2404  思ひ寄り見ては寄りにしものにあれば一日の間も忘れて思へや
      (思依 見依 物有 一日間 忘念)
 「思ひ寄り」は「心中ひそかに思いを寄せ」という意味である。「見ては寄りにし」は「逢っていっそう寄ったのだもの」という意味である。
 「心中ひそかに思いを寄せ、かつ、こうして逢うようになったのだもの、一日としてそなたを忘れたりするものか」という歌である。

2405  垣ほなす人は言へども高麗錦紐解き開けし君ならなくに
      (垣廬鳴 人雖云 狛錦 紐解開 公無)
 「垣ほなす人は言へども」は「垣根のように噂がたちこめているけれども」という意味である。「高麗錦(こまにしき)の紐」は、2090番歌に出てきたが、朝鮮半島から伝わってきた華麗な紐のことである。「君」は「あなた」と解するより「お人」とした方がぴったり。
 「垣根のように噂がたちこめている。高麗錦の紐を解いて共寝したお人ではないのに」という歌である。

2406  高麗錦紐解き開けて夕だに知らずある命恋ひつつかあらむ
      (狛錦 紐解開 夕谷 不知有命 戀有)
 高麗錦紐は前歌参照。「夕(ゆふべ)だに知らずある命」とは「夕まで生きられるか分からぬ命」という意味だろうか。
 「高麗錦の紐を解いて、この夕まで生きられるか分からぬ命ですが、命ある限り恋い焦がれています」という歌である。

2407  百積の船隠り入る八占(八浦=筆者)さし母は問ふともその名は告らじ
      (百積 船潜納 八占刺 母雖問 其名不謂)
 「百積の」は「百石(ももさか)の」や「百尺(ももさか)の」と訓じられていて、「大きな」という意味である。問題は「八占(やうら)さし」。各書とも「色々な占いをして」と解釈している。がその解釈だと上二句が無意味になるため、上二句は「浦をみちびく序歌」としている。が、「八浦」なら分かるが「八占」が序歌によってみちびかれた浦」とするのは苦しい。上二句は序歌ではなく実景であって、八占は八浦という地名ではないかと思う。恋人の名を訊ねるのに「色々な占いをして聞きだそう」とするなんてことがあるだろうか。不自然としか思えない。ここは浜に母娘が並び立って出迎えに出た情景歌と見る。
 「大きな船が八浦の湾内を見え隠れしながら入ってきた。その船に乗っている人は誰かと母は訊ねたけれど私は答えなかった」という歌である。

2408  眉根掻き鼻ひ紐解け待つらむかいつかも見むと思へる我れを
      (眉根削 鼻鳴紐解 待哉 何時見 念吾)
 「眉根掻き鼻ひ紐解け」は「眉をかく、くしゃみをする、紐が解ける」ということである。が、本歌だけでは何のことか分からない。類似表現歌に2808番歌があり、「眉根掻き鼻ひ紐解け待てりやもいつかも見むと恋ひ来し我れを」とある。さらに2809番歌にも「今日なれば鼻ひ鼻ひし眉かゆみ思ひしことは君にしありけり」とある。現代でも「人が自分の噂をしていると、くしゃみが出る」という言い方をする。なので、「眉をかく、くしゃみをする、紐が解ける」は何かの前兆を示していると考えていいようだ。
 「眉をかき、くしゃみをし、紐が解けるところからすると、(彼女の方も)私と逢うのを待ってくれている兆しだろうか」という歌である。

2409  君に恋ひうらぶれ居れば悔しくも我が下紐の結ふ手いたづらに
      (君戀 浦經居 悔 我裏紐 結手徒)
 「うらぶれ居れば」は「悄然としていると」ないし「気が沈んでいると」といった意味である。「悔しくも」は「腹立たしくも」という、「いたづらに」は「所在なく」という意味。
 「あなたが恋しくてしょんぼりしていると、腹立たしいことに、着物の下紐がなかなか結べず手が所在なげに動くばかりです」という歌である。

2410  あらたまの年は果つれど敷栲の袖交へし子を忘れて思へや
      (璞之 年者竟杼 敷白之 袖易子少 忘而念哉)
 「あらたまの」はお馴染みの枕詞。「敷栲(しきたへ)の袖交へし」は「寝床で交わした袖」という意味。
 「今年は暮れていくけれど、寝床で袖を交わし共寝したあの子のことだもの、忘れられるものか」という歌である。

2411  白栲の袖をはつはつ見しからにかかる恋をも我れはするかも
      (白細布 袖小端 見柄 如是有戀 吾為鴨)
 「白栲(しろたへ)の」は「真っ白な」という意味。「はつはつ」は701番歌や1306番歌に詠われていたように、「ちらりと見かける」ことである。「真っ白な袖をちらりと見かけただけなのに、こんなにも激しい恋に私は落ちてしまった」という歌である。

2412  我妹子に恋ひてすべなみ夢に見むと我れは思へど寐ねらえなくに
      (我妹 戀無乏 夢見 吾雖念 不所寐)
 「すべなみ」は「~ので」の「み」。読解不要の平明歌。
 「彼女に恋い焦がれているが、どうしていいか分からず、せめて夢の中で逢いたいと思うが、なかなか寝つかれない」という歌である。

2413  故もなく我が下紐を解けしめて人にな知らせ直に逢ふまでに
      (故無 吾裏紐 令解 人莫知 及正逢)
 下紐が解けるのは2408番歌にあった「眉をかく、くしゃみをする、紐が解ける」の一連で恋に発展する前兆を示す。「解けしめて」は原文に「令解」とあるように使役動詞。「~せしむる」という用例。「な知らせ」は「な~そ」の禁止形。
 「何のわけもなく、ひとりでに下紐がほどけるのはあなたがそうし向けていらっしゃるからでしょうね。まだ人に知られないようになさって下さいね。直接お逢いする時が来るまで」という歌である。

2414  恋ふること慰めかねて出でて行けば山を川をも知らず来にけり
      (戀事 意追不得 出行者 山川 不知来)
 「慰めかねて」が悩ましい。単純に「慰めかねて」という心情ではないのだが、さりとてどんな心情なのか。「気を静める」とも「気を晴らす」とも取れる。ここは、あっさり「じっとしていられなくて」という表現が近そうだ。
 「あの子のことを思い焦がれていると、じっとしていられなくて、家から飛び出してきたが、どこの山とも川とも分からないまま見慣れない所までやってきてしまった」という歌である。

 頭注区分に「物に託して思いを述べる」とある。
2415  娘子らを袖振る山の瑞垣の久しき時ゆ思ひけり我れは
      (處女等乎 袖振山 水垣乃 久時由 念来吾等者)
 501番歌に「娘子らが袖布留山の瑞垣の久しき時ゆ思ひき我れは」とある。ほぼ同一歌。袖布留山(そでふるやま)は奈良県天理市に鎮座する石上神宮(いそのかみじんぐう)。瑞垣(みづがき)は神宮の境界(垣)で、常緑樹で作られている。
 「乙女たちが袖を振ったという神宮は久しく以前から鎮座し給うているが、私も長らくずっとあなたのことを思っている」という歌である。

2416  ちはやぶる神の持たせる命をば誰がためにかも長く欲りせむ
      (千早振 神持在 命 誰為 長欲為)
 「ちはやぶる」は枕詞。「神の持たせる命」とはやや持って回った言い方。原文に「神持在命」とあり、「神がお持ちの故にある命」、すなわち「生かされている命」という意味である。
 「神様によって生かされているに過ぎない命ですもの。どなたのために長く生きたいというのでしょう」という歌である。

2417  石上布留の神杉神さぶる恋をも我れはさらにするかも
      (石上 振神杉 神成 戀我 更為鴨)
 「石上布留」は前々歌の「袖振る山」を参照。「神さぶる」は「古びた」という意味である。
 「石上神宮の古い古い神杉のようにすっかり年老いてしまったこの私でも、恋の道におちたようだ」という歌である。

2418  いかならむ名負ふ神に手向けせば我が思ふ妹を夢にだに見む
      (何 名負神 幣嚮奉者 吾念妹 夢谷見)
 「いかならむ名負ふ神に」は「どんな名の神様に」という意味である。「手向け」はお供えをすること。
 「どんな名の神様にお供えをしてお願いすれば、夢の中でもいいが、恋しい彼女に逢えるのだろう」という歌である。

2419  天地といふ名の絶えてあらばこそ汝と我れと逢ふことやまめ
      (天地 言名絶 有 汝吾 相事止)
 結句の「逢ふことやまめ」は反語表現。「逢うこともなくなるだろうけれど」という意味である。
 「天や地というものがなくなってしまえばあなたと私の二人が逢うこともなくなるだろうけれど」という歌である。

2420  月見れば国は同じぞ山へなり愛し妹はへなりたるかも
      (月見 國同 山隔 愛妹 隔有鴨)
 「へなり」は「隔てられている」という意味。
 「同じ月が見えるのだから同じ国にいる。なのに山に隔てられ、愛しい彼女は遠く隔てられている」という歌である。
           (2015年4月15日記、2018年10月26日)
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