巻9~12メニュー へ
そ の 157 へ
万葉集読解・・・156(2421~2439番歌)
2421 来る道は岩踏む山はなくもがも我が待つ君が馬つまづくに
(縿路者 石踏山 無鴨 吾待公 馬爪盡)
「なくもがも」は「ないといいのに」という意味。男を待つ女性の歌。
「やって来られる山道にごつごつした岩などがなければいいのに。お待ちするあの方の馬がつまづくといけないから」という歌である。
そ の 157 へ
万葉集読解・・・156(2421~2439番歌)
2421 来る道は岩踏む山はなくもがも我が待つ君が馬つまづくに
(縿路者 石踏山 無鴨 吾待公 馬爪盡)
「なくもがも」は「ないといいのに」という意味。男を待つ女性の歌。
「やって来られる山道にごつごつした岩などがなければいいのに。お待ちするあの方の馬がつまづくといけないから」という歌である。
2422 岩根踏みへなれる山はあらねども逢はぬ日まねみ恋ひわたるかも
(石根踏 重成山 雖不有 不相日數 戀度鴨)
「へなれる」は2420番歌に「~山へなり~」と出てきたばかりだが、「隔てる」という意味である。「逢はぬ日まねみ」は「逢えない日が続くので」という意味。「~ので」の「み」。
「岩山で隔てられているわけではないが、逢えない日が続くのでずっと恋しくてなりません」という歌である。
(石根踏 重成山 雖不有 不相日數 戀度鴨)
「へなれる」は2420番歌に「~山へなり~」と出てきたばかりだが、「隔てる」という意味である。「逢はぬ日まねみ」は「逢えない日が続くので」という意味。「~ので」の「み」。
「岩山で隔てられているわけではないが、逢えない日が続くのでずっと恋しくてなりません」という歌である。
2423 道の後深津島山しましくも君が目見ねば苦しかりけり
(路後 深津嶋山 蹔 君目不見 苦有)
「道の後(しり)」は備後の国(広島県東部)のこと。「深津島山」は備後にあった山(福山市)だが、ここまでは「しましくも」を導く序歌。「しましく」は「しばらくの間」という意味である。
「備後の国の深津島山ではありませんが、しばらくの間でもあなたに逢えないと苦しくてたまりません」という歌である。
(路後 深津嶋山 蹔 君目不見 苦有)
「道の後(しり)」は備後の国(広島県東部)のこと。「深津島山」は備後にあった山(福山市)だが、ここまでは「しましくも」を導く序歌。「しましく」は「しばらくの間」という意味である。
「備後の国の深津島山ではありませんが、しばらくの間でもあなたに逢えないと苦しくてたまりません」という歌である。
2424 紐鏡能登香の山も誰がゆゑか君来ませるに紐解かず寝む
(紐鏡 能登香山 誰故 君来座在 紐不開寐)
「紐鏡(ひもかがみ)」は本歌以外に一例もない。こういう場合、「岩波大系本」や「伊藤本」は枕詞としていることが多い。が、一例だけでは枕詞(?)である。「能登香(のとか)の山」とあるが、非常に珍しい名称の山だ。岡山県美作市に能登香温泉という温泉がある。前歌に出てくる深津島山と遠くなく、能登香温泉とみてよかろう。各書とも上二句は序歌とみなし、実質は下三句の歌と解している。「ほかならぬあなたがいらっしゃったのですもの、共寝しないなんてことがあるでしょうか」といった歌意だとしている。結句が反語表現である点は私も異論はない。が、「君来ませるに紐解かず寝む」はあまりに単刀直入で、ぴんと来ない。第一、「紐鏡能登香の山も」を序歌とした場合、何を導こうとしているか分からない。これは序歌ではなく、紐鏡は飾り紐の付いた大鏡(姿見)、「能登香の山」は「能登香の湯」のことだと私は解す。
「紐で飾った姿見を据え付けてお待ちしている能登香の湯。ほかならぬあなた様ですもの。そのままお帰しするなんてことがありましょうか」という歌である。
(紐鏡 能登香山 誰故 君来座在 紐不開寐)
「紐鏡(ひもかがみ)」は本歌以外に一例もない。こういう場合、「岩波大系本」や「伊藤本」は枕詞としていることが多い。が、一例だけでは枕詞(?)である。「能登香(のとか)の山」とあるが、非常に珍しい名称の山だ。岡山県美作市に能登香温泉という温泉がある。前歌に出てくる深津島山と遠くなく、能登香温泉とみてよかろう。各書とも上二句は序歌とみなし、実質は下三句の歌と解している。「ほかならぬあなたがいらっしゃったのですもの、共寝しないなんてことがあるでしょうか」といった歌意だとしている。結句が反語表現である点は私も異論はない。が、「君来ませるに紐解かず寝む」はあまりに単刀直入で、ぴんと来ない。第一、「紐鏡能登香の山も」を序歌とした場合、何を導こうとしているか分からない。これは序歌ではなく、紐鏡は飾り紐の付いた大鏡(姿見)、「能登香の山」は「能登香の湯」のことだと私は解す。
「紐で飾った姿見を据え付けてお待ちしている能登香の湯。ほかならぬあなた様ですもの。そのままお帰しするなんてことがありましょうか」という歌である。
2425 山科の木幡の山を馬はあれど徒歩より我が来し汝を思ひかねて
(山科 強田山 馬雖在 歩吾来 汝念不得)
山科は京都市山科区。そこの木幡の山を越えるのに馬ではなく徒歩で越えてきたことを示している。
「山科の木幡の山を、馬を用意する間ももどかしく、徒歩でやってきた。そなたに一刻も早く逢いたくて」という歌である。
(山科 強田山 馬雖在 歩吾来 汝念不得)
山科は京都市山科区。そこの木幡の山を越えるのに馬ではなく徒歩で越えてきたことを示している。
「山科の木幡の山を、馬を用意する間ももどかしく、徒歩でやってきた。そなたに一刻も早く逢いたくて」という歌である。
2426 遠山に霞たなびきいや遠に妹が目見ねば我れ恋ひにけり
(遠山 霞被 益遐 妹目不見 吾戀)
「いや遠(とほ)に」は「ますます遠く思われて」という意味。「妹が目見ねば」は「彼女に逢っていないので」という意味である。
「霞がたなびき、山が遠く見えるように、彼女がますます遠く思われ、彼女に逢っていないので恋しさが募るばかり」という歌である。
(遠山 霞被 益遐 妹目不見 吾戀)
「いや遠(とほ)に」は「ますます遠く思われて」という意味。「妹が目見ねば」は「彼女に逢っていないので」という意味である。
「霞がたなびき、山が遠く見えるように、彼女がますます遠く思われ、彼女に逢っていないので恋しさが募るばかり」という歌である。
2427 宇治川の瀬々のしき波しくしくに妹は心に乗りにけるかも
(是川 瀬々敷浪 布々 妹心 乗在鴨)
宇治川は京都府宇治市を流れる川。「しき波」は短歌としては本歌だけだが、3339番長歌に「~畏きや神の渡りのしき波の寄する浜辺に~」の例がある。「繰り返し寄せてくる波」。「しくしくに」は2234番歌に「一日には千重しくしくに我が恋ふる妹が~」とあったように、「しきりに」という意味である。
「宇治川の瀬々に繰り返し寄せてくる波のように、しきりに彼女のことが心に押し寄せてくる」という歌である。
(是川 瀬々敷浪 布々 妹心 乗在鴨)
宇治川は京都府宇治市を流れる川。「しき波」は短歌としては本歌だけだが、3339番長歌に「~畏きや神の渡りのしき波の寄する浜辺に~」の例がある。「繰り返し寄せてくる波」。「しくしくに」は2234番歌に「一日には千重しくしくに我が恋ふる妹が~」とあったように、「しきりに」という意味である。
「宇治川の瀬々に繰り返し寄せてくる波のように、しきりに彼女のことが心に押し寄せてくる」という歌である。
2428 ちはや人宇治の渡りの瀬を早み逢はずこそあれ後も我が妻
(千早人 宇治度 速瀬 不相有 後我孋)
「ちはや人」はもう一例1139番歌にある。本歌と併せて二例とも「急ぐ人々」と解してよさそうだ。枕詞(?)である。「早み」は「~ので」の「み」。
「急ぐ人々のように宇治川の渡場の流れが早いので、逢えないでいるが、この先々きっと私の妻になる人と思っている」という歌である。
(千早人 宇治度 速瀬 不相有 後我孋)
「ちはや人」はもう一例1139番歌にある。本歌と併せて二例とも「急ぐ人々」と解してよさそうだ。枕詞(?)である。「早み」は「~ので」の「み」。
「急ぐ人々のように宇治川の渡場の流れが早いので、逢えないでいるが、この先々きっと私の妻になる人と思っている」という歌である。
2429 はしきやし逢はぬ子ゆゑにいたづらに宇治川の瀬に裳裾濡らしつ
(早敷哉 不相子故 徒 是川瀬 裳襴潤)
「はしきやし」は「愛(いと)しい」という意味。「いたづらに」は「甲斐もなく」という意味である。
「愛しいあの子に逢おうと宇治川の瀬に降りてみるが、甲斐もなく、裳裾を濡らすばかり」という歌である。
(早敷哉 不相子故 徒 是川瀬 裳襴潤)
「はしきやし」は「愛(いと)しい」という意味。「いたづらに」は「甲斐もなく」という意味である。
「愛しいあの子に逢おうと宇治川の瀬に降りてみるが、甲斐もなく、裳裾を濡らすばかり」という歌である。
2430 宇治川の水泡さかまき行く水の事かへらずぞ思ひ染めてし
(是川 水阿和逆纒 行水 事不反 思始為)
「事(こと)かへらずぞ」は「元に戻しようがなく」という意味である。
「宇治川が水泡を立て、さかまきながら流れ下っていくように、彼女への思いは戻しようがなくとどめようがない」という歌である。
(是川 水阿和逆纒 行水 事不反 思始為)
「事(こと)かへらずぞ」は「元に戻しようがなく」という意味である。
「宇治川が水泡を立て、さかまきながら流れ下っていくように、彼女への思いは戻しようがなくとどめようがない」という歌である。
2431 鴨川の後瀬静けく後も逢はむ妹には我れは今ならずとも
(鴨川 後瀬静 後相 妹者我 雖不今)
「後瀬(のちせ)静けく」は「急流の瀬を越えたあとはゆったりとした流れになる」という意味である。
「鴨川は急流の瀬を越えたあとはゆったりとした流れになる。そんな風に穏やかな気持になって彼女に逢おう。今、急いで逢おうとしなくとも」という歌である。
(鴨川 後瀬静 後相 妹者我 雖不今)
「後瀬(のちせ)静けく」は「急流の瀬を越えたあとはゆったりとした流れになる」という意味である。
「鴨川は急流の瀬を越えたあとはゆったりとした流れになる。そんな風に穏やかな気持になって彼女に逢おう。今、急いで逢おうとしなくとも」という歌である。
2432 言に出でて言はばゆゆしみ山川のたぎつ心を塞きとめにけり
(言出 云忌々 山川之 當都心 塞耐在)
「言(こと)に出でて」は「口に出して」という、「ゆゆしみ」は「はばかられるので」という意味である。「み」は「~ので」の「み」。「塞きとめにけり」は「塞(せ)かへたりけり」という訓もあるが、不自然と思うので、こうした。
「口に出して言うのははばかられるので、山を下る川の激流のような激しい思いをぐっとこらえた」という歌である。
(言出 云忌々 山川之 當都心 塞耐在)
「言(こと)に出でて」は「口に出して」という、「ゆゆしみ」は「はばかられるので」という意味である。「み」は「~ので」の「み」。「塞きとめにけり」は「塞(せ)かへたりけり」という訓もあるが、不自然と思うので、こうした。
「口に出して言うのははばかられるので、山を下る川の激流のような激しい思いをぐっとこらえた」という歌である。
2433 水の上に数書くごとき我が命妹に逢はむと誓ひつるかも
(水上 如數書 吾命 妹相 受日鶴鴨)
上三句を各書とも「水面に数を書くような私の命」すなわち「はかない命」と解している。こう解すると、下二句につながりにくい。「はかない命」だから「誓う(神に祈る)」ではぴんと来ない。「はかない命」ではなく、「取るに足りない身」と解すれば歌意が通る。私はこう解しておきたい。
「水面に数を書くような、取るに足りない私だが、なんとか彼女に逢えないかと誓いを立てている(神に祈っている)」という歌である。
(水上 如數書 吾命 妹相 受日鶴鴨)
上三句を各書とも「水面に数を書くような私の命」すなわち「はかない命」と解している。こう解すると、下二句につながりにくい。「はかない命」だから「誓う(神に祈る)」ではぴんと来ない。「はかない命」ではなく、「取るに足りない身」と解すれば歌意が通る。私はこう解しておきたい。
「水面に数を書くような、取るに足りない私だが、なんとか彼女に逢えないかと誓いを立てている(神に祈っている)」という歌である。
2434 荒礒越し外行く波の外心我れは思はじ恋ひて死ぬとも
(荒礒越 外徃波乃 外心 吾者不思 戀而死鞆)
「荒礒越し外(ほか)行く波の」までは移り気の比喩。「あなた一筋」という歌である。
「砕け散り荒礒を越えてよそに向かう波のように私は心を移したりしない。たとえ恋に焦がれ死ぬようなことがあっても」という歌である。
(荒礒越 外徃波乃 外心 吾者不思 戀而死鞆)
「荒礒越し外(ほか)行く波の」までは移り気の比喩。「あなた一筋」という歌である。
「砕け散り荒礒を越えてよそに向かう波のように私は心を移したりしない。たとえ恋に焦がれ死ぬようなことがあっても」という歌である。
2435 近江の海沖つ白波知らずとも妹がりといはば七日越え来む
(淡海々 奥白浪 雖不知 妹所云 七日越来)
「妹がり」は「彼女のもと」という意味。「七日越え来む」は「何日かかっても」という意味である。
「琵琶湖の沖の白波のようにどこの家かわからないけれど、何日かかっても彼女の所へやって来ますとも」という歌である。
(淡海々 奥白浪 雖不知 妹所云 七日越来)
「妹がり」は「彼女のもと」という意味。「七日越え来む」は「何日かかっても」という意味である。
「琵琶湖の沖の白波のようにどこの家かわからないけれど、何日かかっても彼女の所へやって来ますとも」という歌である。
2436 大船の香取の海にいかり下ろしいかなる人か物思はずあらむ
(大船 香取海 慍下 何有人 物不念有)
「香取の海」であるが、本歌前後に琵琶湖にかかる歌が並んでいる。本歌もそうだとすると、琵琶湖中南部のどこかの湖岸と思われる。琵琶湖中南部(ささなみ)を詠った一連の歌の一つ1172番歌に「いづくにか舟乗りしけむ高島の香取の浦ゆ漕ぎ出来る舟」とあるからである。高島は現高島市のある一帯。「~いかり下ろし」は「いかなる人か」を導く序歌。結句は反語表現。
「大船が香取の海にいかりを下ろしたというのではないが、いかなる人が恋に悩まないというのだろう」という歌である。
(大船 香取海 慍下 何有人 物不念有)
「香取の海」であるが、本歌前後に琵琶湖にかかる歌が並んでいる。本歌もそうだとすると、琵琶湖中南部のどこかの湖岸と思われる。琵琶湖中南部(ささなみ)を詠った一連の歌の一つ1172番歌に「いづくにか舟乗りしけむ高島の香取の浦ゆ漕ぎ出来る舟」とあるからである。高島は現高島市のある一帯。「~いかり下ろし」は「いかなる人か」を導く序歌。結句は反語表現。
「大船が香取の海にいかりを下ろしたというのではないが、いかなる人が恋に悩まないというのだろう」という歌である。
2437 沖つ藻を隠さふ波の五百重波千重しくしくに恋ひわたるかも
(奥藻 隠障浪 五百重浪 千重敷々 戀度鴨)
「~五百重波(いほへなみ)」は「千重しくしくに」を導く序歌。「しくしくに」は「しきりに」という意味である。
「沖の藻にかぶさる波が幾重にも押し寄せるように、しきりに恋心が続いて止みません」という歌である。
(奥藻 隠障浪 五百重浪 千重敷々 戀度鴨)
「~五百重波(いほへなみ)」は「千重しくしくに」を導く序歌。「しくしくに」は「しきりに」という意味である。
「沖の藻にかぶさる波が幾重にも押し寄せるように、しきりに恋心が続いて止みません」という歌である。
2438 人言はしましぞ我妹綱手引く海ゆまさりて深くしぞ思ふ
(人事 蹔吾妹 縄手引 従海益 深念)
人言(ひとこと)は人の噂、「しまし」は「しばらくの間」という意味。我妹(わぎも)に呼びかけている歌。「綱手引く」は「小舟を引き寄せる」という、「海ゆ」は「海より」という意味である。
「人の噂はいっときのこと、私のそなたよ。海岸では小舟を綱で引き寄せるけれど、その海の深さより私のそなたへの思いは深いのだよ」という歌である。
(人事 蹔吾妹 縄手引 従海益 深念)
人言(ひとこと)は人の噂、「しまし」は「しばらくの間」という意味。我妹(わぎも)に呼びかけている歌。「綱手引く」は「小舟を引き寄せる」という、「海ゆ」は「海より」という意味である。
「人の噂はいっときのこと、私のそなたよ。海岸では小舟を綱で引き寄せるけれど、その海の深さより私のそなたへの思いは深いのだよ」という歌である。
2439 近江の海沖つ島山奥まけて我が思ふ妹が言の繁けく
(淡海 奥嶋山 奥儲 吾念妹 事繁)
沖つ島は琵琶湖中央部東寄りに浮かぶ島。「奥まけて」の「奥」を導く序歌に使用されている。「奥まけて」は1485番歌に「夏まけて咲きたるはねず(朱色の花)~」とあり、「待ち受けて」ないし「ずっと思い定めて」という意味である。
「近江の海の沖の島のように、ずっと思い定めている彼女には何かと噂が絶えない」という歌である。
(2015年4月19日記、2018年11月1日))
![イメージ 1]()
(淡海 奥嶋山 奥儲 吾念妹 事繁)
沖つ島は琵琶湖中央部東寄りに浮かぶ島。「奥まけて」の「奥」を導く序歌に使用されている。「奥まけて」は1485番歌に「夏まけて咲きたるはねず(朱色の花)~」とあり、「待ち受けて」ないし「ずっと思い定めて」という意味である。
「近江の海の沖の島のように、ずっと思い定めている彼女には何かと噂が絶えない」という歌である。
(2015年4月19日記、2018年11月1日))