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そ の 193 へ
万葉集読解・・・192(3158~3174番歌)
3158 旅にありてものをぞ思ふ白波の辺にも沖にも寄るとはなしに
(客尓有而 物乎曽念 白浪乃 邊毛奥毛 依者無尓)
「ものをぞ思ふ」は、「何を思うか」はっきりしない。が、旅の途上で漠然ともの思いに耽ることはよくあることなので。結句の「寄るとはなしに」は「白波がどちら側 に寄るか分からない」つまり「よんどころない」という意味だが、効果的な表現。
「旅にあってもの思いに揺れ動く。ちょうど白波が岸に寄ってくるのか沖に向かうのか分からぬように、よんどころない思いに揺れる」という歌である。
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万葉集読解・・・192(3158~3174番歌)
3158 旅にありてものをぞ思ふ白波の辺にも沖にも寄るとはなしに
(客尓有而 物乎曽念 白浪乃 邊毛奥毛 依者無尓)
「ものをぞ思ふ」は、「何を思うか」はっきりしない。が、旅の途上で漠然ともの思いに耽ることはよくあることなので。結句の「寄るとはなしに」は「白波がどちら側 に寄るか分からない」つまり「よんどころない」という意味だが、効果的な表現。
「旅にあってもの思いに揺れ動く。ちょうど白波が岸に寄ってくるのか沖に向かうのか分からぬように、よんどころない思いに揺れる」という歌である。
3159 港廻に満ち来る潮のいや増しに恋はまされど忘らえぬかも
(<湖>轉尓 満来塩能 弥益二 戀者雖剰 不所忘鴨)
「港廻(みなとみ)に」は「湾曲した港のあたりに」という意味である。「~いや増しに」までは「恋はまされど」を導く序歌。
「港辺りにひたひたと潮が満ちてくるように、恋心がつのってきてあの子が忘れられない」という歌である。
(<湖>轉尓 満来塩能 弥益二 戀者雖剰 不所忘鴨)
「港廻(みなとみ)に」は「湾曲した港のあたりに」という意味である。「~いや増しに」までは「恋はまされど」を導く序歌。
「港辺りにひたひたと潮が満ちてくるように、恋心がつのってきてあの子が忘れられない」という歌である。
3160 沖つ波辺波の来寄る佐太の浦のこのさだ過ぎて後恋ひむかも
(奥浪 邊浪之来依 貞浦乃 此左太過而 後将戀鴨)
「佐太の浦の」は各地に「佐太」とつく地名があってどこか不明。ここまでは「このさだ」を導く序歌。「このさだ」は「こんな好い時」という意味である。
「沖の波も岸の波もこぞって打ち寄せて来る佐太の浦のように、こんな好い時が過ぎてしまえば、後で恋しくなるだろうな」という歌である。
(奥浪 邊浪之来依 貞浦乃 此左太過而 後将戀鴨)
「佐太の浦の」は各地に「佐太」とつく地名があってどこか不明。ここまでは「このさだ」を導く序歌。「このさだ」は「こんな好い時」という意味である。
「沖の波も岸の波もこぞって打ち寄せて来る佐太の浦のように、こんな好い時が過ぎてしまえば、後で恋しくなるだろうな」という歌である。
3161 在千潟あり慰めて行かめども家なる妹いおほほしからむ
(在千方 在名草目而 行目友 家有妹伊 将欝悒)
在千潟(ありちがた)は不詳。枕詞説もあるが枕詞(?)。「あり慰めて」と「おほほしからむ」がはっきりしない句。
先ず「あり慰めて」だが「岩波大系本」以下各書は次のように解している。
「ひきつづいて心を慰めて」(「岩波大系本」)。
「このままあなた相手にあり続けて気を晴らした上で」(「伊藤本」)。
「ありつつ心を慰めて」(「中西本」)。
「おほほしからむ」は原文「将欝悒」であるが、各書は次のように解している。
「おほほしみせむ」(「佐々木本」)。
「おぼぼしみせむ」(「岩波大系本」)。
「いふかしみせむ」(「伊藤本」)。
「おほほしくあらむ」(「中西本」)。
つまり各書とも一定していない。これを私は「おほほしからむ」と訓じたい。
歌は全体の歌意が通るかあるいは不自然でないかを見極めて解する必要がある。
先ず、在千潟(ありちがた)は地名。「あり慰めて」は「このまま立ち止まってしばし心を慰めて」という意味である。「おほほしからむ」としたのは、「おほほしく」は2449番歌に「香具山に雲居たなびきおほほしく相見し子らを後恋ひむかも」とあり、ほかに多くの例があり、「ぼんやりと」ないし「心が晴れやらぬ様」を表現している。
「この美しい在千潟(ありちがた)。このまま立ち止まってしばし心を慰めて行きたいけれど、家では妻が心が晴れやらぬまま私を待っている。道を急がねばならない」という歌である。
(在千方 在名草目而 行目友 家有妹伊 将欝悒)
在千潟(ありちがた)は不詳。枕詞説もあるが枕詞(?)。「あり慰めて」と「おほほしからむ」がはっきりしない句。
先ず「あり慰めて」だが「岩波大系本」以下各書は次のように解している。
「ひきつづいて心を慰めて」(「岩波大系本」)。
「このままあなた相手にあり続けて気を晴らした上で」(「伊藤本」)。
「ありつつ心を慰めて」(「中西本」)。
「おほほしからむ」は原文「将欝悒」であるが、各書は次のように解している。
「おほほしみせむ」(「佐々木本」)。
「おぼぼしみせむ」(「岩波大系本」)。
「いふかしみせむ」(「伊藤本」)。
「おほほしくあらむ」(「中西本」)。
つまり各書とも一定していない。これを私は「おほほしからむ」と訓じたい。
歌は全体の歌意が通るかあるいは不自然でないかを見極めて解する必要がある。
先ず、在千潟(ありちがた)は地名。「あり慰めて」は「このまま立ち止まってしばし心を慰めて」という意味である。「おほほしからむ」としたのは、「おほほしく」は2449番歌に「香具山に雲居たなびきおほほしく相見し子らを後恋ひむかも」とあり、ほかに多くの例があり、「ぼんやりと」ないし「心が晴れやらぬ様」を表現している。
「この美しい在千潟(ありちがた)。このまま立ち止まってしばし心を慰めて行きたいけれど、家では妻が心が晴れやらぬまま私を待っている。道を急がねばならない」という歌である。
3162 みをつくし心尽して思へかもここにももとな夢にし見ゆる
(水咫衝石 心盡而 念鴨 此間毛本名 夢西所見)
「みをつくし」は澪標と書き、広辞苑に「通行する船に、通りやすい深い水脈を知らせるために立てた杭」とある。「心尽して」を導く序歌。「思へかも」は「思うからか」という意味で、「妻が思うからか」と読解されている。ただし歌作の常道からすると、主語が省略されるのは作者本人。なのでここもそう解して読解してみたい。「もとな」は「しきりに」という意味。
「旅の空にあって、心から妻のことを思っているせいか、ここにやってきてもしきりに妻の姿が夢に現れる」という歌である。
(水咫衝石 心盡而 念鴨 此間毛本名 夢西所見)
「みをつくし」は澪標と書き、広辞苑に「通行する船に、通りやすい深い水脈を知らせるために立てた杭」とある。「心尽して」を導く序歌。「思へかも」は「思うからか」という意味で、「妻が思うからか」と読解されている。ただし歌作の常道からすると、主語が省略されるのは作者本人。なのでここもそう解して読解してみたい。「もとな」は「しきりに」という意味。
「旅の空にあって、心から妻のことを思っているせいか、ここにやってきてもしきりに妻の姿が夢に現れる」という歌である。
3163 我妹子に触るとはなしに荒礒廻に我が衣手は濡れにけるかも
(吾妹兒尓 觸者無二 荒礒廻尓 吾衣手者 所<沾>可母)
「触(ふ)るとはなしに」は「共寝しているわけではないのに」という意味である。「荒礒廻(ありそみ)に」は「荒礒の辺りを通ると」という意味。飛沫の激しさを詠うのに、共寝を例示するなどいかにも万葉歌らしい。
「いとしい子と共寝しているわけではないのに、荒礒の辺りを通ると着物の袖が濡れてしまう」という歌である。
(吾妹兒尓 觸者無二 荒礒廻尓 吾衣手者 所<沾>可母)
「触(ふ)るとはなしに」は「共寝しているわけではないのに」という意味である。「荒礒廻(ありそみ)に」は「荒礒の辺りを通ると」という意味。飛沫の激しさを詠うのに、共寝を例示するなどいかにも万葉歌らしい。
「いとしい子と共寝しているわけではないのに、荒礒の辺りを通ると着物の袖が濡れてしまう」という歌である。
3164 室の浦の瀬戸の崎なる鳴島の磯越す波に濡れにけるかも
(室之浦之 湍戸之埼有 鳴嶋之 礒越浪尓 所<沾>可聞)
「室(むろ)の浦の瀬戸の崎なる鳴島(なきしま)」兵庫県たつの市に金ヶ崎という岬がある。その南方に君島という島がある。その君島を昔鳴島と呼んでいたという。鳴島を「泣き島」にかけ、波はその涙に仮託している。
「室の浦の瀬戸の崎に浮かぶ鳴島(泣き島)の磯を越してくる波はその涙だというのかすっかり私は濡れてしまった」という歌である。
(室之浦之 湍戸之埼有 鳴嶋之 礒越浪尓 所<沾>可聞)
「室(むろ)の浦の瀬戸の崎なる鳴島(なきしま)」兵庫県たつの市に金ヶ崎という岬がある。その南方に君島という島がある。その君島を昔鳴島と呼んでいたという。鳴島を「泣き島」にかけ、波はその涙に仮託している。
「室の浦の瀬戸の崎に浮かぶ鳴島(泣き島)の磯を越してくる波はその涙だというのかすっかり私は濡れてしまった」という歌である。
3165 霍公鳥飛幡の浦にしく波のしくしく君を見むよしもがも
(霍公鳥 飛幡之浦尓 敷浪乃 屡君乎 将見因毛鴨)
「霍公鳥(ほととぎす)」は飛びを導く序歌。「飛幡(とばた)の浦」は「戸畑の浦」のことで、福岡県北九州市戸畑区。「しく波のしくしく」は2735番歌に「~しく波のしくしく妹を~」とある。「繰り返しやって来る波」のことで、「しきりに」という意味である。
「霍公鳥が飛ぶ飛幡(とばた)の浦ではないが、その浦に繰り返しやって来る波のようにしばしばあの方とお逢いできたらなあ」という歌である。
(霍公鳥 飛幡之浦尓 敷浪乃 屡君乎 将見因毛鴨)
「霍公鳥(ほととぎす)」は飛びを導く序歌。「飛幡(とばた)の浦」は「戸畑の浦」のことで、福岡県北九州市戸畑区。「しく波のしくしく」は2735番歌に「~しく波のしくしく妹を~」とある。「繰り返しやって来る波」のことで、「しきりに」という意味である。
「霍公鳥が飛ぶ飛幡(とばた)の浦ではないが、その浦に繰り返しやって来る波のようにしばしばあの方とお逢いできたらなあ」という歌である。
3166 我妹子を外のみや見む越の海の子難の海の島ならなくに
(吾妹兒乎 外耳哉将見 越懈乃 子難<懈>乃 嶋楢名君)
「外(よそ)のみや見む」は「傍目にのみ眺める」。「子難(こがた)の海の島」はどこの海の島か未詳。あるいは作者の造語?。
「あの愛しい子を傍目にだけ眺めていろというのか。越の海の子難(近づきがたい子)の海に浮かぶ島ではあるまいに」という歌である。
(吾妹兒乎 外耳哉将見 越懈乃 子難<懈>乃 嶋楢名君)
「外(よそ)のみや見む」は「傍目にのみ眺める」。「子難(こがた)の海の島」はどこの海の島か未詳。あるいは作者の造語?。
「あの愛しい子を傍目にだけ眺めていろというのか。越の海の子難(近づきがたい子)の海に浮かぶ島ではあるまいに」という歌である。
3167 波の間ゆ雲居に見ゆる粟島の逢はぬものゆゑ我に寄そる子ら
(浪間従 雲位尓所見 粟嶋之 不相物故 吾尓所依兒等)
「波の間ゆ」は「~より」の「ゆ」。「粟島(あわしま)」は不詳だが、「逢はじ」にかけているのであるいは「淡路島」?。ここまで「逢はぬ」を導く序歌。「逢はぬものゆゑ」は「逢わないでいるのに」という意味である。「我に寄そる子ら」は親愛の「ら」。「私に寄り添うあの子」という意味である。
「波の間からかかった雲ごしに見える粟島。その名のごとく逢わないでいるのに、私に寄り添うあの子と噂を立てられている」という歌である。
(浪間従 雲位尓所見 粟嶋之 不相物故 吾尓所依兒等)
「波の間ゆ」は「~より」の「ゆ」。「粟島(あわしま)」は不詳だが、「逢はじ」にかけているのであるいは「淡路島」?。ここまで「逢はぬ」を導く序歌。「逢はぬものゆゑ」は「逢わないでいるのに」という意味である。「我に寄そる子ら」は親愛の「ら」。「私に寄り添うあの子」という意味である。
「波の間からかかった雲ごしに見える粟島。その名のごとく逢わないでいるのに、私に寄り添うあの子と噂を立てられている」という歌である。
3168 衣手の真若の浦の真砂地間なく時なし我が恋ふらくは
(衣袖之 真若之浦之 愛子地 間無時無 吾戀钁)
衣手(ころもで)は着物の袖を意味している。本歌は枕詞的に使われている。真若(まだ新しい)という意味か?。「真若の浦」は不詳だが、和歌山県和歌山市和歌浦という説がある。「真砂地(まなごち)」は砂浜(まなごち)。ここまで「間なく」を導く序歌。
「真若の浦の真砂地ではないが、我が恋い焦がれる心は間なく時なしである」という歌である。
(衣袖之 真若之浦之 愛子地 間無時無 吾戀钁)
衣手(ころもで)は着物の袖を意味している。本歌は枕詞的に使われている。真若(まだ新しい)という意味か?。「真若の浦」は不詳だが、和歌山県和歌山市和歌浦という説がある。「真砂地(まなごち)」は砂浜(まなごち)。ここまで「間なく」を導く序歌。
「真若の浦の真砂地ではないが、我が恋い焦がれる心は間なく時なしである」という歌である。
3169 能登の海に釣する海人の漁り火の光りにいませ月待ちがてり
(能登海尓 釣為海部之 射去火之 光尓伊徃 月待香光)
「光りにいませ」は「光をたよりにいらっしゃい」という意味。「月待ちがてり」は現在でも「~がてら」と使うように、「~しつつ」という意味である。
「能登の海で夜釣をする漁り火をたよりにお行きなさい。月の出を待ちながら」という歌である。
(能登海尓 釣為海部之 射去火之 光尓伊徃 月待香光)
「光りにいませ」は「光をたよりにいらっしゃい」という意味。「月待ちがてり」は現在でも「~がてら」と使うように、「~しつつ」という意味である。
「能登の海で夜釣をする漁り火をたよりにお行きなさい。月の出を待ちながら」という歌である。
3170 志賀の海人の釣りし燭せる漁り火のほのかに妹を見むよしもがも
(思香乃白水郎乃 <釣>為燭有 射去火之 髣髴妹乎 将見因毛欲得)
志賀は福岡県志賀島のことか。結句の「見むよしもがも」は「見たいものだ」という願望を表す。 「志賀島の海人(あま)が夜釣りの際、燭(とも)す漁り火のちらちら照らすほのかな明かりにでも、あの子が見たいものだ」という歌である。
(思香乃白水郎乃 <釣>為燭有 射去火之 髣髴妹乎 将見因毛欲得)
志賀は福岡県志賀島のことか。結句の「見むよしもがも」は「見たいものだ」という願望を表す。 「志賀島の海人(あま)が夜釣りの際、燭(とも)す漁り火のちらちら照らすほのかな明かりにでも、あの子が見たいものだ」という歌である。
3171 難波潟漕ぎ出る舟のはろはろに別れ来ぬれど忘れかねつも
(難波方 水手出船之 遥々 別来礼杼 忘金津毛)
平明歌。難波潟は大阪市浪速区か。
「難波潟を漕ぎ出してあの子と別れ、舟ははるばるやってきたが、あの子が忘れられない」という歌である。
(難波方 水手出船之 遥々 別来礼杼 忘金津毛)
平明歌。難波潟は大阪市浪速区か。
「難波潟を漕ぎ出してあの子と別れ、舟ははるばるやってきたが、あの子が忘れられない」という歌である。
3172 浦廻漕ぐ熊野舟つきめづらしく懸けて思はぬ月も日もなし
(浦廻榜 熊野舟附 目頬志久 懸不思 月毛日毛無)
「浦廻(うらみ)漕ぐ」は浦に沿って漕ぐこと。「熊野舟つき」様子をあらわす「つき」で、熊野舟の様子のこと。熊野舟は和歌山県熊野で作られた舟で、その姿が目立っていたらしい。「めづらしく」は「岩波大系本」等が解しているように「珍しく」ではない。「舟の姿が目立つ」という意味で、「あの子がいとしい(愛づらしく)」をかけた言い方。
「浦に沿って漕ぐ熊野舟の様子が目立つと同様、愛しいあの子を心に懸けない時はなく、一日でもひと月でも思い続けている」という歌である。
(浦廻榜 熊野舟附 目頬志久 懸不思 月毛日毛無)
「浦廻(うらみ)漕ぐ」は浦に沿って漕ぐこと。「熊野舟つき」様子をあらわす「つき」で、熊野舟の様子のこと。熊野舟は和歌山県熊野で作られた舟で、その姿が目立っていたらしい。「めづらしく」は「岩波大系本」等が解しているように「珍しく」ではない。「舟の姿が目立つ」という意味で、「あの子がいとしい(愛づらしく)」をかけた言い方。
「浦に沿って漕ぐ熊野舟の様子が目立つと同様、愛しいあの子を心に懸けない時はなく、一日でもひと月でも思い続けている」という歌である。
3173 松浦舟騒く堀江の水脈早み楫取る間なく思ほゆるかも
(松浦舟 乱穿江之 水尾早 楫取間無 所念鴨)
松浦舟は1143番歌に「さ夜更けて堀江漕ぐなる松浦舟楫の音高し水脈早みかも」と詠われている。肥前国(福岡県西部)の松浦で作られた舟のことで流れが速い所でも漕ぎ進むことが出来たようだ。1143番歌にあるように梶(かじ)の音が高い舟だったようである。水脈(みを)は流路のこと。「騒(さわ)く堀江の水脈早み」は「~なので」の「み」。「波騒ぐ堀江の流れが早いので」という意味である。「~楫取る」までは「間なく」を導く序歌。
「松浦舟が波騒ぐ堀江の流れが早いので、すばやく(間なく)楫を取らなければならない。そのように間断なくあの子を思っている」という歌である。
(松浦舟 乱穿江之 水尾早 楫取間無 所念鴨)
松浦舟は1143番歌に「さ夜更けて堀江漕ぐなる松浦舟楫の音高し水脈早みかも」と詠われている。肥前国(福岡県西部)の松浦で作られた舟のことで流れが速い所でも漕ぎ進むことが出来たようだ。1143番歌にあるように梶(かじ)の音が高い舟だったようである。水脈(みを)は流路のこと。「騒(さわ)く堀江の水脈早み」は「~なので」の「み」。「波騒ぐ堀江の流れが早いので」という意味である。「~楫取る」までは「間なく」を導く序歌。
「松浦舟が波騒ぐ堀江の流れが早いので、すばやく(間なく)楫を取らなければならない。そのように間断なくあの子を思っている」という歌である。
3174 漁りする海人の楫音ゆくらかに妹は心に乗りにけるかも
(射去為 海部之楫音 湯按干 妹心 乗来鴨)
「ゆくらかに」は「ゆったりと」ないし「じわじわと」という意味である。
「漁をする海人(あま)の舟を操る梶の音はゆったりとしているが、その梶のようにあの子は私の心にじわじわと寄ってきている」という歌である。
(2016年1月3日記、2019年3月19日)
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(射去為 海部之楫音 湯按干 妹心 乗来鴨)
「ゆくらかに」は「ゆったりと」ないし「じわじわと」という意味である。
「漁をする海人(あま)の舟を操る梶の音はゆったりとしているが、その梶のようにあの子は私の心にじわじわと寄ってきている」という歌である。
(2016年1月3日記、2019年3月19日)