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万葉集読解・・・209(3344~3347番歌)
3344番長歌
この月は 君来まさむと 大船の 思ひ頼みて いつしかと 我が待ち居れば 黄葉の 過ぎてい行くと 玉梓の 使の言へば 蛍なす ほのかに聞きて 大地を 炎と踏みて 立ちて居て ゆくへも知らず 朝霧の 思ひ迷ひて 杖足らず 八尺の嘆き 嘆けども 験をなみと いづくにか 君がまさむと 天雲の 行きのまにまに 射ゆ鹿猪の 行きも死なむと 思へども 道の知らねば ひとり居て 君に恋ふるに 哭のみし泣かゆ
(此月者 君将来跡 大舟之 思憑而 何時可登 吾待居者 黄葉之 過行跡 玉梓之 使之云者 螢成 髣髴聞而 大土乎 火穂跡而 立居而 去方毛不知 朝霧乃 思<或>而 杖不足 八尺乃嘆 々友 記乎無見跡 何所鹿 君之将座跡 天雲乃 行之随尓 所射完乃 行文将死跡 思友 道之不知者 獨居而 君尓戀尓 哭耳思所泣)
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万葉集読解・・・209(3344~3347番歌)
3344番長歌
この月は 君来まさむと 大船の 思ひ頼みて いつしかと 我が待ち居れば 黄葉の 過ぎてい行くと 玉梓の 使の言へば 蛍なす ほのかに聞きて 大地を 炎と踏みて 立ちて居て ゆくへも知らず 朝霧の 思ひ迷ひて 杖足らず 八尺の嘆き 嘆けども 験をなみと いづくにか 君がまさむと 天雲の 行きのまにまに 射ゆ鹿猪の 行きも死なむと 思へども 道の知らねば ひとり居て 君に恋ふるに 哭のみし泣かゆ
(此月者 君将来跡 大舟之 思憑而 何時可登 吾待居者 黄葉之 過行跡 玉梓之 使之云者 螢成 髣髴聞而 大土乎 火穂跡而 立居而 去方毛不知 朝霧乃 思<或>而 杖不足 八尺乃嘆 々友 記乎無見跡 何所鹿 君之将座跡 天雲乃 行之随尓 所射完乃 行文将死跡 思友 道之不知者 獨居而 君尓戀尓 哭耳思所泣)
「岩波大系本」は、「大船の」、「黄葉(もみぢば)の」、「玉梓の」、「蛍なす」、「朝霧の」及び「杖足らず」を共に枕詞としている。これらはおおむね形容詞として説明がつくように思われ、枕詞(?)。とくに「蛍なす」及び「杖足らず」は本歌一例しかな。「黄葉の過ぎてい行くと」は強意の「い」。「黄葉が散っていく季節が過ぎ去ってゆく」は死を暗示している。「玉梓(たまづさ)の使の言へば」は「たまづさの枝にはさんだあなたの手紙をもった使いが言うには」という意味である。「験(しるし)をなみと」は「甲斐がない」という意味。
(口語訳)
「この月が来ればあの人がやってくるだろうと、大船のようにゆったり構え、いつ来るか、いつ来るかと私は待っていた。が、(この月も)黄葉が散っていく季節のように過ぎていき、たまづさの枝にはさんだあなたの手紙をもった使いが言うには、「お亡くなりになられたようです。」それを聞いて炎でも踏むような思いで大地を踏んで居ても立ってもいられません。あの人の行方も分からず、朝霧のように呆然となり、長く長く嘆けども、何の甲斐もありません。いづこかにあの人はおいでかと思い、天雲の流れるまま、あるいは手負いの鹿猪(しし)のように行き倒れになろうとも出かけようかと思った。けれど、全くあなたの行く先が見当もつかず、あなたを思って声をあげて泣くばかりです」という歌である。
「この月が来ればあの人がやってくるだろうと、大船のようにゆったり構え、いつ来るか、いつ来るかと私は待っていた。が、(この月も)黄葉が散っていく季節のように過ぎていき、たまづさの枝にはさんだあなたの手紙をもった使いが言うには、「お亡くなりになられたようです。」それを聞いて炎でも踏むような思いで大地を踏んで居ても立ってもいられません。あの人の行方も分からず、朝霧のように呆然となり、長く長く嘆けども、何の甲斐もありません。いづこかにあの人はおいでかと思い、天雲の流れるまま、あるいは手負いの鹿猪(しし)のように行き倒れになろうとも出かけようかと思った。けれど、全くあなたの行く先が見当もつかず、あなたを思って声をあげて泣くばかりです」という歌である。
3345 葦辺行く雁の翼を見るごとに君が帯ばしし投矢し思ほゆ
(葦邊徃 鴈之翅乎 見別 公之佩具之 投箭之所思)
「葦辺(あしへ)行く」は葦の生えている辺りのこと。雁の翼と、彼が身につけていた投げ矢とどんな寓意ないし連想があるのか不明。狩りが好きだった夫を偲ぶ意味?。
「葦辺を飛んでいく雁の翼を見るたびにあなたが身につけていた投げ矢を思い出します」という歌である。
以上長反歌二首。
(葦邊徃 鴈之翅乎 見別 公之佩具之 投箭之所思)
「葦辺(あしへ)行く」は葦の生えている辺りのこと。雁の翼と、彼が身につけていた投げ矢とどんな寓意ないし連想があるのか不明。狩りが好きだった夫を偲ぶ意味?。
「葦辺を飛んでいく雁の翼を見るたびにあなたが身につけていた投げ矢を思い出します」という歌である。
以上長反歌二首。
3346番長歌
見欲しきは 雲居に見ゆる うるはしき 鳥羽の松原 童ども いざわ出で見む こと放けば 国に放けなむ こと放けば 家に放けなむ 天地の 神し恨めし 草枕 この旅の日に 妻放くべしや
(欲見者 雲居所見 愛 十羽能松原 小子等 率和出将見 琴酒者 國丹放甞 別避者 宅仁離南 乾坤之 神志恨之 草枕 此羈之氣尓 妻應離哉)
見欲しきは 雲居に見ゆる うるはしき 鳥羽の松原 童ども いざわ出で見む こと放けば 国に放けなむ こと放けば 家に放けなむ 天地の 神し恨めし 草枕 この旅の日に 妻放くべしや
(欲見者 雲居所見 愛 十羽能松原 小子等 率和出将見 琴酒者 國丹放甞 別避者 宅仁離南 乾坤之 神志恨之 草枕 此羈之氣尓 妻應離哉)
悩ましいのは「童ども(原文:小子等)」。通常「子等」は一族の年少者等をさして使われる。「岩波大系本」以下各書とも「皆の者、若者たちよ」と解している。この意味で使われる呼びかけにはすべて「子等」であって、「小子等」は本歌以外は皆無である。そして、肝心の歌意も「皆の者」では奇異である。ここは「我が子たち」でないと歌意が通らない。「皆の者」と解したのは次句が「いざわ出で見む」の呼びかけになっているからに相違ない。「いざわ」は「さあ」という呼びかけの言葉だから。が、「こと放(さ)けば」以下は個人の悲しみ。とうてい「皆の者」と呼びかけるような歌ではない。以上を整理して歌意を通せば次のようになる。
(口語訳)
「逢いたいのは、彼方の雲のあたりに見える 愛しいふるさと、鳥羽の松原と我が子たち。さあ、外に出てきておくれ子供たち。どうせ別れる(引き裂かれる)なら国元で、どうせ別れる(引き裂かれる)なら家元で別れたかった。天地の神様が恨めしい。よりによって草枕、この旅の身にあって、妻を引き裂くなんて」という歌である。
「逢いたいのは、彼方の雲のあたりに見える 愛しいふるさと、鳥羽の松原と我が子たち。さあ、外に出てきておくれ子供たち。どうせ別れる(引き裂かれる)なら国元で、どうせ別れる(引き裂かれる)なら家元で別れたかった。天地の神様が恨めしい。よりによって草枕、この旅の身にあって、妻を引き裂くなんて」という歌である。
3347 草枕この旅の日に妻放り家道思ふに生けるすべなし [或本歌曰 旅の気にして]
(草枕 此羈之氣尓 妻<放> 家道思 生為便無 [或本歌曰 羈乃氣二為而])
「草枕」は枕詞。「妻放(さか)り」は「妻が亡くなった」ことを言っている。
「草枕この旅の身にあって妻が亡くなったという知らせを受けた。家路を急ぎながら思うに生きた心地がしない」という歌である。
以上長反歌二首。
(草枕 此羈之氣尓 妻<放> 家道思 生為便無 [或本歌曰 羈乃氣二為而])
「草枕」は枕詞。「妻放(さか)り」は「妻が亡くなった」ことを言っている。
「草枕この旅の身にあって妻が亡くなったという知らせを受けた。家路を急ぎながら思うに生きた心地がしない」という歌である。
以上長反歌二首。
巻13はこれで完了である。
(2016年3月9日記、2019年3月24日)
(2016年3月9日記、2019年3月24日)