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「日々つれづれ」も本稿から「その11」に入る。各節にほぼ80文づつ綴っているから、大変な数である。我れながらよく続けてきたものである。一冊300文とすれば、この「日々つれづれ」だけで3冊分は綴ってきたに相違ない。もとよりこれで閉筆するつもりはない。一定の読者の存在を感じているため、閉筆するわけにはいかないのである。
さて、元旦からここ名古屋では雪が舞った。が、雪にもめげず私は弟を連れて近在の神社に初詣に出かけた。旧村社神明社である。ここ数年同じパターンで、正月三が日の間に出かけるのが恒例になりつつある。それまでは初詣といえば、熱田神宮ないし伊勢神宮が私にとっての恒例行事だった。正月(1月)中にでかければ、いくつ神社を回ろうと、初詣と決めているので、熱田神宮や伊勢神宮にも初詣に足を向けるかも知れない。が、先ず真っ先に神明社を済ませば、後が楽になる。熱田神宮に足を運ぶにしろ、混雑の続く七日間ははずしてそれ以降にすればよい。神明社を済ませたことにより、初詣は一応済ませたと思えばいいからである。
私たち大衆は、そこに鎮座する神様がどんな神様なのかあまり関心がない。たとえば、神明社といっても、はて、祭神は?となると、即答出来る人は少ない。私も若い頃は不知だった。神明社の祭神は天照大神である。ところがその天照大神自身も「えっ、何それ」となる人も少なくない。が、それでいいのである。神社を訪れると荘厳な気分になり、「さあ、出発」という気になる。神社は宗教であって宗教ではない。それでいて、初詣を済ませないとどこか落ち着かない。
天照大神は洞窟の中にいて、外が騒がしいとそっと戸を開けて外の様子をのぞき見ようとする、いわば極めて人間的な神様なのである。皆さんの中で初詣を済ませていない方がおられたら出かけてみたらいかがだろう。「さあ、出発」という気になりますから。
(2015年1月2日)
「日々つれづれ」も本稿から「その11」に入る。各節にほぼ80文づつ綴っているから、大変な数である。我れながらよく続けてきたものである。一冊300文とすれば、この「日々つれづれ」だけで3冊分は綴ってきたに相違ない。もとよりこれで閉筆するつもりはない。一定の読者の存在を感じているため、閉筆するわけにはいかないのである。
さて、元旦からここ名古屋では雪が舞った。が、雪にもめげず私は弟を連れて近在の神社に初詣に出かけた。旧村社神明社である。ここ数年同じパターンで、正月三が日の間に出かけるのが恒例になりつつある。それまでは初詣といえば、熱田神宮ないし伊勢神宮が私にとっての恒例行事だった。正月(1月)中にでかければ、いくつ神社を回ろうと、初詣と決めているので、熱田神宮や伊勢神宮にも初詣に足を向けるかも知れない。が、先ず真っ先に神明社を済ませば、後が楽になる。熱田神宮に足を運ぶにしろ、混雑の続く七日間ははずしてそれ以降にすればよい。神明社を済ませたことにより、初詣は一応済ませたと思えばいいからである。
私たち大衆は、そこに鎮座する神様がどんな神様なのかあまり関心がない。たとえば、神明社といっても、はて、祭神は?となると、即答出来る人は少ない。私も若い頃は不知だった。神明社の祭神は天照大神である。ところがその天照大神自身も「えっ、何それ」となる人も少なくない。が、それでいいのである。神社を訪れると荘厳な気分になり、「さあ、出発」という気になる。神社は宗教であって宗教ではない。それでいて、初詣を済ませないとどこか落ち着かない。
天照大神は洞窟の中にいて、外が騒がしいとそっと戸を開けて外の様子をのぞき見ようとする、いわば極めて人間的な神様なのである。皆さんの中で初詣を済ませていない方がおられたら出かけてみたらいかがだろう。「さあ、出発」という気になりますから。
(2015年1月2日)
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