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万葉集読解・・・238(3771~3785番歌)

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     万葉集読解・・・238(3771~3785番歌)
3771  宮人の安寐も寝ずて今日今日と待つらむものを見えぬ君かも
      (宮人能 夜須伊毛祢受弖 家布々々等 麻都良武毛能乎 美要奴君可聞)
 本歌の作者は狭野弟上娘子(さののおとかみのをとめ)。その相手は、中臣宅守(なかとみのやかもり)。当事者でないと歌にならないこと明白である。ここにいう宮人は弟上娘子当人と見ていい。
 「宮廷に仕える私は安眠出来ない。今日か今日かとお待ちしているのですが、お姿を見ることはありませんもの」という歌である。

3772  帰りける人来れりと言ひしかばほとほと死にき君かと思ひて
      (可敝里家流 比等伎多礼里等 伊比之可婆 保等保登之尓吉 君香登於毛比弖)
 「帰りける人来れりと」は赦免されて帰京した人々のことで、「続日本紀」の天平十二年(七四〇年)六月十五日の記事に流人恩赦の記事が見える。が、中臣宅守等は「赦されず」とある。この時のことかと思われる。「ほとほと」は「すんでのことに」という意味。
 「赦されて帰京してきた人たちがいると聞いて、うれしくてすんでのことに死ぬところでした。あなたもそうかと思って」という歌である。

3773  君が共行かましものを同じこと後れて居れどよきこともなし
      (君我牟多 由可麻之毛能乎 於奈自許等 於久礼弖乎礼杼 与伎許等毛奈之)
 「君が共(むた)」は「あなたと共に」という意味。
 「あなたと共に配流先までついていけばよかった。こちらに残っていても少しもいいことがありませんもの」という歌である。

3774  我が背子が帰り来まさむ時のため命残さむ忘れたまふな
      (和我世故我 可反里吉麻佐武 等伎能多米 伊能知能己佐牟 和須礼多麻布奈)
 「命残さむ」は「生きております」という意味。
 「私のあなた、あなたがお帰りになる時を励みにして私は生きております。どうかお忘れなく」という歌である。
 左注に「右の八首娘子の歌」とある。3767~3774番歌。

3775  あらたまの年の緒長く逢はざれど異しき心を我が思はなくに
      (安良多麻能 等之能乎奈我久 安波射礼杼 家之伎己許呂乎 安我毛波奈久尓)
 「あらたまの」は枕詞。「異(け)しき心を」は「他の女性に心を動かす」こと。「年月ばかりが経って長らくお逢いできませんが、あなたが他の女性に心を動かそうなどと私は思いません」という歌である。

3776  今日もかも都なりせば見まく欲り西の御馬屋の外に立てらまし
      (家布毛可母 美也故奈里世婆 見麻久保里 尓之能御馬屋乃 刀尓多弖良麻之)
 「今日もかも」は「今日もまた」という意味。西の御馬屋(みまや)は宮中にあった右馬寮。宅守が宮中勤めをしていた頃、二人はここでしばしば逢っていたらしい。
 「都にいれば今日もまたあなたに逢いたくて西の御馬屋の外に立って待っていただろう」という歌である。
 左注に「右の二首は中臣朝臣宅守(なかとみのあそみやかもり)の歌」とある。

3777  昨日今日君に逢はずてするすべのたどきを知らに音のみしぞ泣く
      (伎能布家布 伎美尓安波受弖 須流須敝能 多度伎乎之良尓 祢能未之曽奈久)
 「たどきを知らに」は「手段も分からず」という意味である。
 「昨日も今日もあなたに逢えず、なすすべも知らないでただ声をあげてむせび泣くばかりです」という歌である。

3778  白栲の我が衣手を取り持ちて斎へ我が背子直に逢ふまでに
      (之路多<倍>乃 阿我許呂毛弖乎 登里母知弖 伊波敝和我勢古 多太尓安布末悌尓)
 「白栲(しろたへ)の」は「真っ白な」ないし袖の美称。「斎(いは)へ」は「神に祈る」こと。 「私が贈った着物の袖を両手に持ってお祈り下さい。直接私に逢う日まで」という歌である。
  左注に「右の二首は娘子(をとめ)の歌」とある。 

3779  我が宿の花橘はいたづらに散りか過ぐらむ見る人なしに
      (和我夜度乃 波奈多知<婆>奈波 伊多都良尓 知利可須具良牟 見流比等奈思尓)
 「我が宿の」は「我が家の庭の」という意味。
 「家の庭に咲いている花橘は、誰も見る人もなく、いたずらに散っていくままになっている」という歌である。

3780  恋ひ死なば恋ひも死ねとや霍公鳥物思ふ時に来鳴き響むる
      (古非之奈婆 古非毛之祢等也 保等登藝須 毛能毛布等伎尓 伎奈吉等余牟流)
 「恋ひ死なば恋ひも死ねとや」は「恋焦がれて死にそうというなら、いっそ死んでしまったらとでもいうのか」という意味である。「鳴き響(とよ)むる」は「鳴き立てる」こと。 「恋焦がれて死にそうというなら死んでしまったらとでもいうのか、ホトトギスよ。物思う時にやってきて鳴き立てる」という歌である。

3781  旅にして物思ふ時に霍公鳥もとなな鳴きそ我が恋まさる
      (多婢尓之弖 毛能毛布等吉尓 保等登藝須 毛等奈那難吉曽 安我古非麻左流)
 「旅にして」は、配流先の越前国(福井県東部)の家から配流先に向かったということか。「もとな」は「心もとない」ないしは「しきりに」という意味。「な鳴きそ」は「な~そ」の禁止形。
 「ちょっと旅に出て、物思う時に、ホトトギスよ。しきりに鳴かないでおくれ。彼女への思いが増すではないか」という歌である。

3782  雨隠り物思ふ時に霍公鳥我が住む里に来鳴き響もす
      (安麻其毛理 毛能母布等伎尓 保等登藝須 和我須武佐刀尓 伎奈伎等余母須)
 「雨隠(ごも)り」は「家に雨ごもり」していること。「鳴き響(とよ)もす」は「鳴き立てる」。
 「家に雨ごもりしていると、ホトトギスが私の住んでいる里にやって来て鳴き立てる」という歌である。

3783  旅にして妹に恋ふれば霍公鳥我が住む里にこよ鳴き渡る
      (多婢尓之弖 伊毛尓古布礼婆 保登等伎須 和我須武佐刀尓 許欲奈伎和多流)
 「旅にして」は前々歌参照。「こよ」は「こゆ」と同じで、「ここから」という意味。
 「ちょっと旅に出て、彼女に恋い焦がれていると、ホトトギスがここから私が住んでいる里に鳴きながら飛んでいった」という歌である。

3784  心なき鳥にぞありける霍公鳥物思ふ時に鳴くべきものか
      (許己呂奈伎 登里尓曽安利家流 保登等藝須 毛能毛布等伎尓 奈久倍吉毛能可)
 「心なき鳥にぞありける」は「心ない鳥」、すなわち「二人の恋情を解さない鳥」という意味。「鳴くべきものか」は「鳴き立てていいものか」という意味である。
 「二人の恋情を解さない心ない鳥よのう、ホトトギス。物思う時にやってきて鳴き立てていいものか」という歌である。

3785  霍公鳥間しまし置け汝が鳴けば我が思ふ心いたも術なし
      (保登等藝須 安比太之麻思於家 奈我奈氣婆 安我毛布許己呂 伊多母須敝奈之)
 「間(あひだ)しまし置け」は「しばらく、間を置いてくれよ」という意味。「いたも術(すべ)なし」は「どうしようもない」という意味。
 「ホトトギスよ。鳴くのをしばらく、間を置いてくれないか。お前が鳴くと彼女への思いが高ぶってどうしようもないのだよ」という歌である。
 左注に「右の七首は中臣朝臣宅守が花鳥に寄せて思いを陳べて作った歌」とある。

 以上で「中臣朝臣宅守(なかとみのあそみやかもり)と狭野弟上娘子(さののおとかみのをとめ)の贈答歌」は終了。3723~3785番歌の、実に63首(宅守40首、娘子23首)に及ぶやりとりである。そして、どの歌もほぼ平明で、それだけに心情が私たちに切々と伝わってくる、ある意味名歌揃いといってよい。万葉集の編者もそれだからこそ63首に及ぶ歌を採録したに相違ない。用語の修辞、句の修飾、かけ言葉の妙といったテクニックにほとんど頼ることなく、その真情を吐露した、すばらしい短歌群だと私は思う。
       巻15完了
           (2016年7月28日記、2019年4月3日)
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