万葉集読解・・・あ と が き
私が「万葉集読解」の執筆を思い立ったのは2013年1月のことである。世界的に屈指な文化遺産である「万葉集」。誰もがその名を知っているほど、超有名な歌集。それでいて、肝心の私たち日本人がこれを通しで読んだ人は少ない。かく言う私自身がそうで、岩波書店による「万葉集」、いわゆる「岩波大系本」は本箱の一画を占めたまま眠り続けた。古典中の古典たる世界的文化遺産である「万葉集」がこれではいけない。なんとか私たち自身の誰もが読めるものに出来ないか、こんな思いから始めた執筆だった。
以来、悪戦苦闘しながら、このたび、完了の日を迎えた。2019年4月。5年3ヶ月余の年月がかかったことになる。
「通しで読める万葉集」という目的から、脚注、古文法、言語学等からなる注記を、原則一切なくした。必要な場合は一切本文に取り込み、本文を読めば分かるようなスタイルにした。
「通しで読める万葉集」に加えて、「個々の歌の観賞にも耐えるような万葉集」をめざした。つまり、頭から尻尾まで通しで読めることはもとより、どのページのどの歌を開いても単独で分かるように努めた。言うはたやすく、実際はこれを両立させることは至難だった。
ところが、各歌の読解にはこれは便利だが、「通し」で読む人には余計な注記になりかねない。そこで、その辺りを勘案しながら、時々、注記を省くこともあった。
さて、私が一番苦労したのは、原文が注記している、長々とした、歌に先立ったいわゆる頭注であり、歌が終わった後に掲げられているいわば左注の存在である。これらを、いかに分かりやすくするか、いかにうまく要約するかにに力を注いだ。なぜかといえば、 「万葉集」は歌だけではなく、こうした頭注や左注を含めた記述に意味があることに気付いたからである。こうした記述により、当時の制度や慣習をうかがい知ることが出来る。大伴家持(おおとものやかもち)と大伴池主(おおとものいけぬし)のやりとりに象徴的に現れているように、当時の上下関係や交友関係が示されている。また、東国の人々を大阪の難波に集結させて、九州方面に防人(さきもり)として3年毎に交替させていたこと等々もうかがい知ることが出来る。
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私が「万葉集読解」の執筆を思い立ったのは2013年1月のことである。世界的に屈指な文化遺産である「万葉集」。誰もがその名を知っているほど、超有名な歌集。それでいて、肝心の私たち日本人がこれを通しで読んだ人は少ない。かく言う私自身がそうで、岩波書店による「万葉集」、いわゆる「岩波大系本」は本箱の一画を占めたまま眠り続けた。古典中の古典たる世界的文化遺産である「万葉集」がこれではいけない。なんとか私たち自身の誰もが読めるものに出来ないか、こんな思いから始めた執筆だった。
以来、悪戦苦闘しながら、このたび、完了の日を迎えた。2019年4月。5年3ヶ月余の年月がかかったことになる。
「通しで読める万葉集」という目的から、脚注、古文法、言語学等からなる注記を、原則一切なくした。必要な場合は一切本文に取り込み、本文を読めば分かるようなスタイルにした。
「通しで読める万葉集」に加えて、「個々の歌の観賞にも耐えるような万葉集」をめざした。つまり、頭から尻尾まで通しで読めることはもとより、どのページのどの歌を開いても単独で分かるように努めた。言うはたやすく、実際はこれを両立させることは至難だった。
一例だけかかげると、4503番歌の左注に「右は右中辨大伴宿祢家持の歌」とある。 ここで問題になるのは「右中辨」である。そこでこれについて「弁官は太政官に直属し、各省に上意下達を行った。左右の弁官が置かれていた。右中弁は次官」と記した。ところが、 同様な左注が近くの、4506番歌、4509番歌、4512番歌に出てくる。 そこで、それぞれ、たとえば「右中弁は前々歌左注参照。」と記して、即座に参照出来るようにした。遠く離れた歌の場合は、煩瑣を厭わず、4503番歌に掲げた注記と同じ注記を掲げた。
このような例はいくつもあって、各歌に煩瑣を厭わず、「~ので」の「み」、強意の「し」といちいち同じ注記を掲げた。ところが、各歌の読解にはこれは便利だが、「通し」で読む人には余計な注記になりかねない。そこで、その辺りを勘案しながら、時々、注記を省くこともあった。
さて、私が一番苦労したのは、原文が注記している、長々とした、歌に先立ったいわゆる頭注であり、歌が終わった後に掲げられているいわば左注の存在である。これらを、いかに分かりやすくするか、いかにうまく要約するかにに力を注いだ。なぜかといえば、 「万葉集」は歌だけではなく、こうした頭注や左注を含めた記述に意味があることに気付いたからである。こうした記述により、当時の制度や慣習をうかがい知ることが出来る。大伴家持(おおとものやかもち)と大伴池主(おおとものいけぬし)のやりとりに象徴的に現れているように、当時の上下関係や交友関係が示されている。また、東国の人々を大阪の難波に集結させて、九州方面に防人(さきもり)として3年毎に交替させていたこと等々もうかがい知ることが出来る。
以上のようなことから、頭注や左注の存在は「万葉集」に不可欠なのである。
幸い、本ブログの年間訪問者は平成21年の8541人から平成30年の33258人とほぼ4倍に達している。一人でも多くの方々に「万葉集」をと目指した「万葉集読解」はやっと完了の日を迎えた。以上、簡単ながら、「あとがき」とし、「万葉集読解」の今後の行方を見守ることとしたい。
(2019年4月26日)