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万葉集読解・・・143(2176~2193番歌)
2176 秋田刈る苫手動くなり白露し置く穂田なしと告げに来ぬらし [一云 告げに来らしも]
(秋田苅 苫手揺奈利 白露志 置穂田無跡 告尓来良思 [一云 告尓来良思母])
「秋田刈る」は「秋田刈りおえたら」。苫手(とまて)は仮小屋の屋根を覆うために作られたムシロのような覆い。それがかさかさと動くことを伝えて間接的に風が吹いてきたことを表現している。「白露し」の「し」は強意の「し」。穂田は稲穂の田のこと。「稲穂を刈り終えたら、私が寝泊まりしている仮小屋の覆いがかさかさと秋風に揺れている。まるで、白露を降ろす稲穂がないではないかと告げにきたように(異伝には「告げにやってくるようだ」とある)」という歌である。ちょっと洒落た表現である。
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万葉集読解・・・143(2176~2193番歌)
2176 秋田刈る苫手動くなり白露し置く穂田なしと告げに来ぬらし [一云 告げに来らしも]
(秋田苅 苫手揺奈利 白露志 置穂田無跡 告尓来良思 [一云 告尓来良思母])
「秋田刈る」は「秋田刈りおえたら」。苫手(とまて)は仮小屋の屋根を覆うために作られたムシロのような覆い。それがかさかさと動くことを伝えて間接的に風が吹いてきたことを表現している。「白露し」の「し」は強意の「し」。穂田は稲穂の田のこと。「稲穂を刈り終えたら、私が寝泊まりしている仮小屋の覆いがかさかさと秋風に揺れている。まるで、白露を降ろす稲穂がないではないかと告げにきたように(異伝には「告げにやってくるようだ」とある)」という歌である。ちょっと洒落た表現である。
2177 春は萌え夏は緑に紅のまだらに見ゆる秋の山かも
(春者毛要 夏者緑丹 紅之 綵色尓所見 秋山可聞)
山を詠んだ歌。
「春は萌(も)え」は「春には草木が芽を出し」で、この句さえ把握すれば、後は平明。
「春には草木が芽を出し、夏は緑葉が繁り、そして紅葉に彩られる秋の山」という歌である。
(春者毛要 夏者緑丹 紅之 綵色尓所見 秋山可聞)
山を詠んだ歌。
「春は萌(も)え」は「春には草木が芽を出し」で、この句さえ把握すれば、後は平明。
「春には草木が芽を出し、夏は緑葉が繁り、そして紅葉に彩られる秋の山」という歌である。
2178 妻ごもる矢野の神山露霜ににほひそめたり散らまく惜しも
(妻隠 矢野神山 露霜尓 々寶比始 散巻惜)
2178~2218番歌41首にわたって黄葉を詠んだ歌が続く。
「妻ごもる」は枕詞(?)。本例のほかには135番長歌一例のみ。「矢野の神山」は所在不詳。「にほひそめたり」は「色づき始めた」という意味だが、「黄葉を詠んだ歌」という表題がないと分からない歌。「散らまく惜しも」の「~く」はこれまでもたびたび出てきた用法だが、この辺でちょっと解説しておこう。「~ということ」の意味で添えられる接尾語。「散っていくのが惜しい」という意味になる。参考までに3例ほど挙げておこう。526番歌「~やむ時もなし我が恋ふらくは」、949番歌「梅柳過ぐらく惜しみ~」、2447番歌「~忘れじと思ひけらくは~」。以上。
「神妻もいらっしゃるという矢野の神山が露霜に当たってすっかり色づき初めた。やがて木々の葉が散り出すだろうが惜しいことだ」という歌である。
(妻隠 矢野神山 露霜尓 々寶比始 散巻惜)
2178~2218番歌41首にわたって黄葉を詠んだ歌が続く。
「妻ごもる」は枕詞(?)。本例のほかには135番長歌一例のみ。「矢野の神山」は所在不詳。「にほひそめたり」は「色づき始めた」という意味だが、「黄葉を詠んだ歌」という表題がないと分からない歌。「散らまく惜しも」の「~く」はこれまでもたびたび出てきた用法だが、この辺でちょっと解説しておこう。「~ということ」の意味で添えられる接尾語。「散っていくのが惜しい」という意味になる。参考までに3例ほど挙げておこう。526番歌「~やむ時もなし我が恋ふらくは」、949番歌「梅柳過ぐらく惜しみ~」、2447番歌「~忘れじと思ひけらくは~」。以上。
「神妻もいらっしゃるという矢野の神山が露霜に当たってすっかり色づき初めた。やがて木々の葉が散り出すだろうが惜しいことだ」という歌である。
2179 朝露ににほひそめたる秋山にしぐれな降りそありわたるがね
(朝露尓 染始 秋山尓 <鍾>礼莫零 在渡金)
「にほひそめたる」は前歌参照。「な降りそ」は「な~そ」の禁止形。「ありわたるがね」は「このまま続いてほしいから」という意味である。結句に「~るがね」と結ばれる歌は本歌も含めて7例ある。たとえば1906番歌の「梅の花我れは散らさじあをによし奈良なる人も来つつ見るがね」。願望や理由をあらわす。「朝に露が見られるようになって秋山が色づきはじめた。この美しい山にしぐれよ降るなよ、このままずっと続いてほしいから」という歌である。
左注が付いていて、「右二首は柿本朝臣人麻呂の歌集に出ている」とある。
(朝露尓 染始 秋山尓 <鍾>礼莫零 在渡金)
「にほひそめたる」は前歌参照。「な降りそ」は「な~そ」の禁止形。「ありわたるがね」は「このまま続いてほしいから」という意味である。結句に「~るがね」と結ばれる歌は本歌も含めて7例ある。たとえば1906番歌の「梅の花我れは散らさじあをによし奈良なる人も来つつ見るがね」。願望や理由をあらわす。「朝に露が見られるようになって秋山が色づきはじめた。この美しい山にしぐれよ降るなよ、このままずっと続いてほしいから」という歌である。
左注が付いていて、「右二首は柿本朝臣人麻呂の歌集に出ている」とある。
2180 九月のしぐれの雨に濡れ通り春日の山は色づきにけり
(九月乃 <鍾>礼乃雨丹 沾通 春日之山者 色付丹来)
春日の山は「春の日の山」のことか「春日大社の東側にそびえる花山ないしは西側の御蓋山(みかさやま)(三笠山)」のことか出てくるたびに頭を悩ませる。ここでは「濡れ通り」とあるのでおそらく花山のことだろう。九月にしぐれは早いだろうと思う人もいるだろうが、万葉時代は当然旧暦の九月(ながつき)。現在なら十月から十一月にかけての時期。「濡れ通り」は現在ではあまり見かけない表現だが、一面に濡れること。「長月のしぐれ雨に春日山は一面に濡れ、すっかり色づいた」という歌である。
(九月乃 <鍾>礼乃雨丹 沾通 春日之山者 色付丹来)
春日の山は「春の日の山」のことか「春日大社の東側にそびえる花山ないしは西側の御蓋山(みかさやま)(三笠山)」のことか出てくるたびに頭を悩ませる。ここでは「濡れ通り」とあるのでおそらく花山のことだろう。九月にしぐれは早いだろうと思う人もいるだろうが、万葉時代は当然旧暦の九月(ながつき)。現在なら十月から十一月にかけての時期。「濡れ通り」は現在ではあまり見かけない表現だが、一面に濡れること。「長月のしぐれ雨に春日山は一面に濡れ、すっかり色づいた」という歌である。
2181 雁が音の寒き朝明の露ならし春日の山をもみたすものは
(鴈鳴之 寒朝開之 露有之 春日山乎 令黄物者)
「露ならし」は「露が降りたらしい」という意味である。見かけないのが結句の「もみたすものは」。「紅葉に色づく」は通常「もみたむ」と使用され、4例ある。一例挙げておくと、1551番歌に「時待ちて降れるしぐれの雨やみぬ明けむ朝か山のもみたむ」とある。「もみたす」はその使役例で「紅葉に色づかせる」である。本歌一例しかない。「鳴く雁の声が寒々と聞こえる朝明けだ。露が降りていることだろう。春日山を色づかせる露が」という歌である。
(鴈鳴之 寒朝開之 露有之 春日山乎 令黄物者)
「露ならし」は「露が降りたらしい」という意味である。見かけないのが結句の「もみたすものは」。「紅葉に色づく」は通常「もみたむ」と使用され、4例ある。一例挙げておくと、1551番歌に「時待ちて降れるしぐれの雨やみぬ明けむ朝か山のもみたむ」とある。「もみたす」はその使役例で「紅葉に色づかせる」である。本歌一例しかない。「鳴く雁の声が寒々と聞こえる朝明けだ。露が降りていることだろう。春日山を色づかせる露が」という歌である。
2182 このころの暁露に我がやどの萩の下葉は色づきにけり
(比日之 暁露丹 吾屋前之 芽子乃下葉者 色付尓家里)
読解不要だろう。「ここんところの明け方の露せいで、我が家の庭の萩の下葉が色づいてきた」という歌である。
(比日之 暁露丹 吾屋前之 芽子乃下葉者 色付尓家里)
読解不要だろう。「ここんところの明け方の露せいで、我が家の庭の萩の下葉が色づいてきた」という歌である。
2183 雁がねは今は来鳴きぬ我が待ちし黄葉早継げ待たば苦しも
(鴈音者 今者来鳴沼 吾待之 黄葉早継 待者辛苦母)
雁がねは通常雁の鳴き声だが、この場合は雁そのものを指すと見られる。が、原文どおり鳴き声と解して解せないことはない。「近頃雁の鳴き声がしていたが、」ととるのである。「黄葉早継げ」は「紅葉よ雁に遅れるな」という意味である。「近頃雁の鳴き声がしていたが、今ではここまでやってきて鳴いている。紅葉よ雁に遅れることなく、雁に続いて早く色づいておくれ。待ち遠しくてならない」という歌である。
(鴈音者 今者来鳴沼 吾待之 黄葉早継 待者辛苦母)
雁がねは通常雁の鳴き声だが、この場合は雁そのものを指すと見られる。が、原文どおり鳴き声と解して解せないことはない。「近頃雁の鳴き声がしていたが、」ととるのである。「黄葉早継げ」は「紅葉よ雁に遅れるな」という意味である。「近頃雁の鳴き声がしていたが、今ではここまでやってきて鳴いている。紅葉よ雁に遅れることなく、雁に続いて早く色づいておくれ。待ち遠しくてならない」という歌である。
2184 秋山をゆめ人懸くな忘れにしその黄葉の思ほゆらくに
(秋山乎 謹人懸勿 忘西 其黄葉乃 所思君)
「ゆめ人懸くな」は「決して口にするな」という意味であるという。なぜそういう意味になるのかどの書にも解説が見あたらない。歌意からいってそれでいいのだが、なぜ「懸くな」が「口にするな」という意味になるのだろう。懸は懸念の懸。もう秋は過ぎたのだから「もう気に懸けるな」という所から来ているのだろう。「もう過ぎ去った秋山のことは決して話題にしないでおくれ。あの美しかった黄葉のことが思い出されてならないから」という歌である。
(秋山乎 謹人懸勿 忘西 其黄葉乃 所思君)
「ゆめ人懸くな」は「決して口にするな」という意味であるという。なぜそういう意味になるのかどの書にも解説が見あたらない。歌意からいってそれでいいのだが、なぜ「懸くな」が「口にするな」という意味になるのだろう。懸は懸念の懸。もう秋は過ぎたのだから「もう気に懸けるな」という所から来ているのだろう。「もう過ぎ去った秋山のことは決して話題にしないでおくれ。あの美しかった黄葉のことが思い出されてならないから」という歌である。
2185 大坂を我が越え来れば二上に黄葉流るしぐれ降りつつ
(大坂乎 吾越来者 二上尓 黄葉流 志具礼零乍)
大坂は二上山(ふたかみやま)を越えていく坂。大きい坂だったのだろう。北方の雄岳と南方の雌岳の二つの山から成るので二上山と呼ばれた。奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町に跨がる山。いわば両府県の境界近辺の山だが、どちらからどちらへ越えていったのか歌には詠まれていないので分からない。「大坂を越えて来たら二上山ではしぐれを受けて黄葉が散っていた」という歌である。
(大坂乎 吾越来者 二上尓 黄葉流 志具礼零乍)
大坂は二上山(ふたかみやま)を越えていく坂。大きい坂だったのだろう。北方の雄岳と南方の雌岳の二つの山から成るので二上山と呼ばれた。奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町に跨がる山。いわば両府県の境界近辺の山だが、どちらからどちらへ越えていったのか歌には詠まれていないので分からない。「大坂を越えて来たら二上山ではしぐれを受けて黄葉が散っていた」という歌である。
2186 秋されば置く白露に我が門の浅茅が末葉色づきにけり
(秋去者 置白露尓 吾門乃 淺茅何浦葉 色付尓家里)
浅茅(あさぢ)は丈の低い茅(かや)。末葉(うらば)はいうまでもなく葉の先端部分。「秋がやって来て、白露が降りるようになったこのごろ、我が家の門に生えている浅茅の先端部分が色づいてきた」という歌である。
(秋去者 置白露尓 吾門乃 淺茅何浦葉 色付尓家里)
浅茅(あさぢ)は丈の低い茅(かや)。末葉(うらば)はいうまでもなく葉の先端部分。「秋がやって来て、白露が降りるようになったこのごろ、我が家の門に生えている浅茅の先端部分が色づいてきた」という歌である。
2187 妹が袖巻来の山の朝露ににほふ黄葉の散らまく惜しも
(妹之袖 巻来乃山之 朝露尓 仁寶布黄葉之 散巻惜裳)
「妹が袖」は枕詞(?)。少なくとも「岩波大系本」のように「巻きにかかる」などと断定し難い。「妹が袖」は全万葉集歌中5例あるが、「~、巻き」とくるのは本歌一例のみ。他は「~、わかれ」、「~、さやにも」等様々。「巻来(まきき)の山」は所在不明。「巻向山」の誤りとする説もある。「にほふ」は「色づく」という意味。「散らまく」は2178番歌にあったように「散っていくのが惜しい」という意味。「妹が袖に由来するという巻来の山に朝露が降り、色づいた黄葉が散っていくのが惜しい」という歌である。
(妹之袖 巻来乃山之 朝露尓 仁寶布黄葉之 散巻惜裳)
「妹が袖」は枕詞(?)。少なくとも「岩波大系本」のように「巻きにかかる」などと断定し難い。「妹が袖」は全万葉集歌中5例あるが、「~、巻き」とくるのは本歌一例のみ。他は「~、わかれ」、「~、さやにも」等様々。「巻来(まきき)の山」は所在不明。「巻向山」の誤りとする説もある。「にほふ」は「色づく」という意味。「散らまく」は2178番歌にあったように「散っていくのが惜しい」という意味。「妹が袖に由来するという巻来の山に朝露が降り、色づいた黄葉が散っていくのが惜しい」という歌である。
2188 黄葉のにほひは繁ししかれども妻梨の木を手折りかざさむ
(黄葉之 丹穂日者繁 然鞆 妻梨木乎 手折可佐寒)
「にほひ」は前歌の「にほふ」を参照。「妻梨の木」などという木はない由。「梨の木」に「妻の無い私」をかけたとみられる。「色づいた黄葉の木はいっぱいあるけれど妻無しの私は梨の木を手折って頭に飾ろう」という歌である。
(黄葉之 丹穂日者繁 然鞆 妻梨木乎 手折可佐寒)
「にほひ」は前歌の「にほふ」を参照。「妻梨の木」などという木はない由。「梨の木」に「妻の無い私」をかけたとみられる。「色づいた黄葉の木はいっぱいあるけれど妻無しの私は梨の木を手折って頭に飾ろう」という歌である。
2189 露霜の寒き夕の秋風にもみちにけらし妻梨の木は
(露霜乃 寒夕之 秋風丹 黄葉尓来毛 妻梨之木者)
結句の「妻梨の木は」は前歌と同趣旨か。「露霜が降りる寒い夕方の秋風を受けたためなのか妻無しの梨の木も美しく色づいたよ」という歌である。
(露霜乃 寒夕之 秋風丹 黄葉尓来毛 妻梨之木者)
結句の「妻梨の木は」は前歌と同趣旨か。「露霜が降りる寒い夕方の秋風を受けたためなのか妻無しの梨の木も美しく色づいたよ」という歌である。
2190 我が門の浅茅色づく吉隠の浪柴の野の黄葉散るらし
(吾門之 淺茅色就 吉魚張能 浪柴乃野之 黄葉散良新)
「我が門の浅茅色づく」は2186番歌を参照。吉隠(よなばり)は奈良県桜井市の国道165号線沿いにある地名。浪柴(なみしば)の野は吉隠内のどこかだろうが、具体的には不明。「我が家の門の浅茅は色づいてきた。このぶんだと吉隠の浪柴の野の黄葉は散っていることだろうな」という歌である。
(吾門之 淺茅色就 吉魚張能 浪柴乃野之 黄葉散良新)
「我が門の浅茅色づく」は2186番歌を参照。吉隠(よなばり)は奈良県桜井市の国道165号線沿いにある地名。浪柴(なみしば)の野は吉隠内のどこかだろうが、具体的には不明。「我が家の門の浅茅は色づいてきた。このぶんだと吉隠の浪柴の野の黄葉は散っていることだろうな」という歌である。
2191 雁が音を聞きつるなへに高松の野の上の草ぞ色づきにける
(鴈之鳴乎 聞鶴奈倍尓 高松之 野上乃草曽 色付尓家留)
「聞きつるなへに」の「~なへに」はときおり使われる「~とともに」を意味する表現。「高松の野」は奈良市東部の高円山(たかまどのやま)のことと言う説もあるが、不詳。「雁の鳴き声を聞いていると、きっと高松の野の草々も色づいたことと思われる」という歌である。
(鴈之鳴乎 聞鶴奈倍尓 高松之 野上乃草曽 色付尓家留)
「聞きつるなへに」の「~なへに」はときおり使われる「~とともに」を意味する表現。「高松の野」は奈良市東部の高円山(たかまどのやま)のことと言う説もあるが、不詳。「雁の鳴き声を聞いていると、きっと高松の野の草々も色づいたことと思われる」という歌である。
2192 我が背子が白栲衣行き触ればにほひぬべくももみつ山かも
(吾背兒我 白細衣 徃觸者 應染毛 黄變山可聞)
白栲衣(しろたへころも)は真っ白な着物のこと。「にほひぬべくも」は「染まってしまうに相違なく思われる」という意味である。「あの人が真っ白な着物姿で歩いていって、黄葉に触れるとたちまち黄葉色に染まるに相違ないと思われるほど山は見事に色づいている」という歌である。
(吾背兒我 白細衣 徃觸者 應染毛 黄變山可聞)
白栲衣(しろたへころも)は真っ白な着物のこと。「にほひぬべくも」は「染まってしまうに相違なく思われる」という意味である。「あの人が真っ白な着物姿で歩いていって、黄葉に触れるとたちまち黄葉色に染まるに相違ないと思われるほど山は見事に色づいている」という歌である。
2193 秋風の日に異に吹けば水茎の岡の木の葉も色づきにけり
(秋風之 日異吹者 水莫能 岡之木葉毛 色付尓家里)
2121番歌にあったように、「日に異(け)に吹きぬ」は「日増しに強く吹く」という意味である。「水茎の」は枕詞(?)。「水茎の」は5例あるが、すべて「みずみずしい草の生える」という意味で十分に意味がとおる。「秋風が日増しに強く吹くようになってきてみずみずしい草の生える岡の木々も色づいてきた」という歌である。
(2015年2月23日記)
(秋風之 日異吹者 水莫能 岡之木葉毛 色付尓家里)
2121番歌にあったように、「日に異(け)に吹きぬ」は「日増しに強く吹く」という意味である。「水茎の」は枕詞(?)。「水茎の」は5例あるが、すべて「みずみずしい草の生える」という意味で十分に意味がとおる。「秋風が日増しに強く吹くようになってきてみずみずしい草の生える岡の木々も色づいてきた」という歌である。
(2015年2月23日記)
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