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万葉集読解・・・144(2194~2213番歌)

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     万葉集読解・・・144(2194~2213番歌)
2194  雁がねの来鳴きしなへに韓衣龍田の山はもみちそめたり
      (鴈鳴乃 来鳴之共 韓衣 裁田之山者 黄始南)
 龍田山は奈良県生駒郡の山の一つ。「韓衣(からころも)龍田の山は」は952番歌の際に触れたが、「きらびやかな美しい韓衣のような龍田の山は」という意味に相違ない。「なへに」は2191番歌に出てきたばかりだが、「~とともに」という意味である。「雁がやってきて鳴くようになった。それとともに、きらびやかな美しい韓衣のような龍田の山は色づき始めた」という歌である。

2195  雁がねの声聞くなへに明日よりは春日の山はもみちそめなむ
      (鴈之鳴 聲聞苗荷 明日従者 借香能山者 黄始南)
 「なへに」は「~とともに」。春日山は奈良の春日大社が鎮座する山、御笠山ともいう。「雁の鳴き声が聞こえるようになったが、明日からは春日山が色づき始めることだろう」という歌である

2196   しぐれの雨間なくし降れば真木の葉も争ひかねて色づきにけり
      (四具礼能雨 無間之零者 真木葉毛 争不勝而 色付尓家里)
 「真木」は立派な木という意味。「しぐれ雨が間断なく降るので木々の葉も抗しきれずに色づいてきた」という歌である。

2197  いちしろくしぐれの雨は降らなくに大城の山は色づきにけり
      (灼然 四具礼乃雨者 零勿國 大城山者 色付尓家里)
 本歌には細注が付いていて、「大城の山は筑前國御笠郡(つくしのみちのくにみかさのこほり)の大野山の頂(いただき)にあり、名付けて大城(おほき)といえるものなり」とある。
 「いちしろく」はここまでに2例(688番歌及び1643番歌)しか出てないが、意外なことに全部で17例に及ぶ。大部分、本歌以降に登場する。「目に見えて」ないしは「著しく」という意味である。「降らなくに」は「降るわけではないが」である。「目に見えてしぐれの雨が多く降るわけではないが、大城山は色づいてきた」という歌である。

2198  風吹けば黄葉散りつつすくなくも吾の松原清くあらなくに
      (風吹者 黄葉散乍 小雲 吾松原 清在莫國)
 「すくなくも~あらなくに」は「少々の~ではない」という意味である。「吾(あが)の松原」は1030番歌に詠われているが、具体的にはどこの地のことかはっきりしていない。「風に吹かれて黄葉が散り敷くと、ただでさえ美しい吾の松原がさらに美しさを増す」という歌である。

2199  物思ふと隠らひ居りて今日見れば春日の山は色づきにけり
      (物念 隠座而 今日見者 春日山者 色就尓家里)
 「隠(こも)らひ居りて」は「家に引きこもっていて」という意味である。春日の山は2180番歌に出てきたばかりだが、奈良市春日大社の東側の山。「家に引きこもっていて物思いに耽っていたが、ふと外の春日山を眺めてみたら、すっかり色づいていた」という歌である。

2200  九月の白露負ひてあしひきの山のもみたむ見まくしもよし
      (九月 白露負而 足日木乃 山之将黄變 見幕下吉)
 「あしひきの」はお馴染みの枕詞。「もみたむ」も前歌の「春日の山」同様、2181番歌に出てきたばかり。「紅葉に色づく」という意味である。「見まくしもよし」は「見るのはいいものだ」という意味。「九月(ながつき)の白露を浴びて、山一帯が色づくのを見るのはいいものだ」という歌である。

2201  妹がりと馬に鞍置きて生駒山うち越え来れば黄葉散りつつ
      (妹許跡 馬鞍置而 射駒山 撃越来者 紅葉散筒)
 「妹がり」は「暗がり」と同様「彼女のいる所」という意味。「馬に鞍置いて彼女の許へと生駒山を越えてきたところ、もう黄葉は散り始めていた」という歌である。

2202  黄葉する時になるらし月人の楓の枝の色づく見れば
      (黄葉為 時尓成良之 月人 楓枝乃 色付見者)
 本歌のポイントは「楓(かへで)の枝」。原文に「楓枝」とあるように楓の枝。ところが、これを「桂(かつら)」と読ませ、「楓の枝の」を「桂の枝の」とする書がある。が、楓と桂は全く別の木であり、同一視は不可。では、原文を変えてまでなぜ桂にするのだろう。思うに、中国の伝説に月の中に桂の木があるということから、それに合わせたものに相違ない。が、歌の作者が楓と桂を同一視するとは思えない。文字自体が全く異なっている。「月人」は「お月様」のことで、別に月世界のことではない。月世界としてしまうと「黄葉する時になるらし」が無意味になるばかりでなく、結句の「色づく見れば」もぴんとこない。楓であればこそ、その美しさは月光に映えるのである。「いよいよ黄葉の季節がやってきたようだ。お月様に映える楓が美しく色づいているのを見ると」という歌である。

2203  里ゆ異に霜は置くらし高松の野山つかさの色づく見れば
      (里異 霜者置良之 高松 野山司之 色付見者)
 「里ゆ異(け)に」は「里とは異なって」という意味である。「岩波大系本」のように異を「こと」と読んで「里ごとに」とする説もある。が、それでは歌意が妙である。どの人里にも霜が降りているのなら「高松の野山」を引き合いに出すのは妙だ。霜は野山が先で里に及ぶのが普通。「高松の野」は2191番歌に出てきたばかり。奈良市東部の高円山(たかまどのやま)のことと言う説もあるが、不詳。「野山つかさ」(原文:野山司)だが、「つかさ」は通常官庁や官吏のことをいうが、「高いところ」という意味で使われることがある。たとえば529番歌に「佐保川の岸のつかさの柴な刈りそね~」とある。「里とは異なって、あそこ高松の野山には霜が降りているようだ。野山の高みが色づいているのを見ると」という歌である。

2204  秋風の日に異に吹けば露重み萩の下葉は色づきにけり
      (秋風之 日異吹者 露重 芽子之下葉者 色付来)
 「秋風の日に異(け)に吹けば」は2193番歌にそのまま使われている。「秋風が日増しに強く吹くようになってきて」という意味である。「秋風が日増しに強く吹くようになってきて、露日が重なり、萩の下の方の葉が色づいてきた」という歌である。

2205  秋萩の下葉もみちぬあらたまの月の経ぬれば風をいたみかも
      (秋芽子乃 下葉赤 荒玉乃 月之歴去者 風疾鴨)
 「風をいたみかも」は「風が強くなったせいでか」という意味である。「萩の下の方の葉が色づいてきた。月が変わって時が経ち、風が強くなったせいでか」という歌である。

2206  まそ鏡南淵山は今日もかも白露置きて黄葉散るらむ
      (真十鏡 見名淵山者 今日鴨 白露置而 黄葉将散)
 「まそ鏡」は枕詞。南淵山(みなぶちやま)は奈良県明日香村の稲淵の山。「南淵山には今日もまた白露が降りていて黄葉が散っているだろうか」という歌である。

2207  我がやどの浅茅色づく吉隠の夏身の上にしぐれ降るらし
      (吾屋戸之 淺茅色付 吉魚張之 夏身之上尓 四具礼零疑)
 「我がやどの」は「我が家の庭の」、浅茅(あさぢ)は丈の低い茅(かや)のこと。吉隠(よなばり)は奈良県桜井市の国道165号線沿いにある地名。2190番歌には「吉隠の浪柴(なみしば)」とあったが、本歌には「吉隠の夏身(なつみ)」とある。浪柴も夏身もどのあたりのことか不明。「我が家の庭では浅茅が色づいている。きっと吉隠の夏身のあたりにはしぐれが降り注いでいることだろう」という歌である。

2208  雁がねの寒く鳴きしゆ水茎の岡の葛葉は色づきにけり
      (鴈鳴之 寒鳴従 水茎之 岡乃葛葉者 色付尓来)
 「寒く鳴きしゆ」の「ゆ」は「~より」ないし「~以降」という意味。「水茎の」は2193番歌に出てきたばかりだが、「みずみずしい草の生える」という意味である。「雁が寒々と鳴いてからというもの、みずみずしい草の生える岡の葛の葉はすっかり色づいてきた」という歌である。

2209  秋萩の下葉の黄葉花に継ぎ時過ぎゆかば後恋ひむかも
      (秋芽子之 下葉乃黄葉 於花継 時過去者 後将戀鴨)
 「花に継ぎ」は「花の時と同様」という意味である。「萩の下葉が美しく色づいている。が、花の時と同様、その季節が過ぎ去ったら、後で恋しくなるだろうね」という歌である。

2210  明日香川黄葉流る葛城の山の木の葉は今し散るらし
      (明日香河 黄葉流 葛木 山之木葉者 今之<落>疑)
  明日香川は現在飛鳥川と表記されている。奈良県明日香村、橿原市、田原本町などを流れる川。「葛城(かつらぎ)の山」は奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町に跨がる二上山から金剛山にかけての山。「明日香川に黄葉が流れている。葛城山ではいまごろ木の葉が盛んに散っていることだろうなあ」という歌である。

2211  妹が紐解くと結びて龍田山今こそもみちそめてありけれ
      (妹之紐 解登結而 立田山 今許曽黄葉 始而有家礼)
 「妹が紐解くと結びて」は解いた妻の着物の紐を結んで出発する(発つ)を龍田山につなげる序歌。龍田山は奈良県生駒郡の山の一つ。「妻の着物の紐を結んで出発する(発つ)という、その龍田山ははちょうどいまごろ色づき始めたことだろうな」という歌である。

2212  雁がねの寒く鳴きしゆ春日なる御笠の山は色づきにけり
      (鴈鳴之 寒喧之従 春日有 三笠山者 色付丹家里)
 「雁がねの寒く鳴きしゆ」は2008番歌にそのまま使われているように、「雁が寒々と鳴いてからというもの」という意味である。御笠の山はこれまでも出てきたように、奈良公園に鎮座する春日大社の東側の山。春日山ともいい、山頂に本宮が鎮座している。「雁が寒々と鳴いてからというもの、御笠の山はすっかり色づいてきた」という歌である。

2213  このころの暁露に我が宿の秋の萩原色づきにけり
      (比者之 五更露尓 吾屋戸乃 秋之芽子原 色付尓家里)
 「我が宿」は「我が家の庭」のこと。「このごろ明け方に露が降りている。我が家の庭の萩の原はすっかり色づいてきた」という歌である。
           (2015年2月25日記)
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