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万葉集読解・・・157(2440~2460番歌)

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     万葉集読解・・・157(2440~2460番歌)
2440  近江の海沖漕ぐ舟のいかり下ろし隠りて君が言待つ我れぞ
      (近江海 奥滂船 重下 蔵公之 事待吾序)
 「~いかり下ろし」の上三句は「隠(こも)りて」の比喩的序歌。「琵琶湖の沖合を漕ぐ舟が湖中にいかりを降ろして停泊した、そのいかりのように私は家にこもってあなた様の便りを待っています」という歌である。

2441  隠り沼の下ゆ恋ふればすべをなみ妹が名告りつ忌むべきものを
      (隠沼 従裏戀者 無乏 妹名告 忌物矣)
 「隠(こも)り沼(ぬ)の下ゆ」だが、「沼の下ゆ」だけで十分に意を尽くしているが、その沼自身が木々の茂みや葉に覆われている沼とすることによって「密かに」を強調する言い方になっている。「すべをなみ」は「どうしようもなく」という意味である。「隠り沼のように密かに恋い焦がれていると、どうしようもない思いになって思わず彼女の名を告げてしまった。滅多に(人前に)口に出すべきじゃないと分かってはいるが」という歌である。

2442  大地は取り尽すとも世の中の尽しえぬものは恋にしありけり
      (大土 採雖盡 世中 盡不得物 戀在)
 読解不要の平明歌。鑑賞者により各々解釈してよい歌であろう。「大地なら(人出や時間をかければ)取り尽くせるだろうが、どうにもならないのは恋。恋ばかりは取り尽くせないよ」という歌である。

2443  隠りどの沢泉なる岩が根も通してぞ思ふ我が恋ふらくは
      (隠處 澤泉在 石根 通念 吾戀者)
 本歌も平明歌。「岩が根」は根を下ろしたように頑丈な岩。「隠れた沢や泉を流れ下る激流にがっしりと根を張った岩。その岩をも貫き通さんばかりに私はこの恋に思い詰めている」という歌である。

2444  白真弓石辺の山の常磐なる命なれやも恋ひつつ居らむ
      (白檀 石邊山 常石有 命哉 戀乍居)
 「白真弓(しらまゆみ)」は白い弓のこと。決まった語にかかるわけではないので枕詞(?)である。ただ本歌の場合は枕詞的に使われている。他方、石の白さを強調しているとも取れる。「常磐(ときは)なる命なれやも」は命短いことを反語的に表現している。「この命は永久不変の真っ白な岩とでもゆうのか。こうしていつまで恋続けていればいいのだろう」という歌である。

2445  近江の海沈く白玉知らずして恋ひせしよりは今こそまされ
      (淡海々 沈白玉 不知 従戀者 今益)
 「沈(しづ)く白玉知らずして」は「沈んだ白玉のように恋というものを知らなかったが」、「恋ひせしよりは」は「現実に恋するようになってから」という意味である。「琵琶湖に沈んだ白玉のように恋というものを知らなかったが、現実に恋してみるといいものだなあ」という歌である。

2446  白玉を巻きてぞ持てる今よりは我が玉にせむ知れる時だに
      (白玉 纒持 従今 吾玉為 知時谷)
 やや理屈っぽい歌である。結句の「知れる時だに」の「知れる」は久々に出合った表現。『古事記』や『日本書紀』によく使われていて「支配する」という意味である。「白玉を腕に巻いている今からは、私だけの玉にしよう。占有できる時期がやってきたのだ」という歌である。彼女の占有宣言歌である。

2447  白玉を手に巻きしより忘れじと思ひけらくは何か終らむ
      (白玉 従手纒 不忘 念 何畢)
 前歌を見た今、一目瞭然の歌である。「白玉を手中にした時からこの満ち足りた思いは忘れるものかと思い、これがいつまでも続いてほしいと願った」という歌である。

2448  白玉の間開けつつ貫ける緒もくくり寄すれば後もあふものを
      (白玉 間開乍 貫緒 縛依 後相物)
 結句「後もあふものを」は「結局最後は結び合わさるというではないか」という意味。一緒になれるという寓意。「白玉と白玉の間を開けて紐に通していくけれど、くくり寄せれば、結局最後は結び合わさるというではないか」という歌である。

2449  香具山に雲居たなびきおほほしく相見し子らを後恋ひむかも
      (香山尓 雲位桁曵 於保々思久 相見子等乎 後戀牟鴨)
 雲居(くもゐ)は「雲がかかった状態」。「おほほしく」は「ぼんやりと」。「相見し子らを」の「子ら」は複数を意味するわけではなく親しみの表現、「あの子」といったニュアンス。次歌も同じ。「香具山に雲がかかってたなびいているように、ぼんやりと見かけただけのあの子だけど、後日恋することになるのだろうか」という歌である。

2450  雲間よりさ渡る月のおほほしく相見し子らを見むよしもがも
      (雲間従 狭や月乃 於保々思久 相見子等乎 見因鴨)
 「見むよしもがも」の「よし」は「由」、すなわち「きっかけや手段」のこと。「雲間を渡っていく月のように、ぼんやりと見かけただけのあの子だけど、逢うきっかけでもあればなあ」という歌である。

2451  天雲の寄り合ひ遠み逢はずとも異し手枕我れまかめやも
      (天雲 依相遠 雖不相 異手枕 吾纒哉)
 「寄り合ひ遠み」は「寄り合う果てが遠いので」という意味。「異(あた)し手枕」は「君以外の女性を手枕に」ということ。「天と雲が寄り合う遙か果ては遠くて逢えないが、さりとて別の女性と共寝するものですか」という歌である。

2452  雲だにもしるくし立たば慰めて見つつも居らむ直に逢ふまでに
      (雲谷 灼發 意追 見乍居 及直相)
 「しるくし立たば」は「はっきりと出てくれれば」という意味。「せめて雲だけでも浮かび出てくれれば、慰めに眺めていよう。直接逢える日まで」という歌である。

2453  春柳葛城山に立つ雲の立ちても居ても妹をしぞ思ふ
      (春楊 葛山 發雲 立座 妹念)
 春柳は本歌と840番歌の二例のみ。なので枕詞(?)。葛城(かつらぎ)山は奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町に跨がる二上山から金剛山にかけての山。「春柳の季節に彩られた葛城山に湧き上がった雲のように立っても居てもいつも彼女のことが思われてならない」という歌である。

2454   春日山雲居隠りて遠けども家は思はず君をしぞ思ふ
      (春日山 雲座隠 雖遠 家不念 公念)
 平明な歌であるが、四句目の「家は思はず」だけはやや分かりづらい。「自分の家よりもあなたのこと」と詠っているので、きっと旅の帰路の歌に相違ない。「春日山は雲に隠れてまだ遠く、家までまだ遠いけれど、その家のことよりあなたのことが思われてなりません」という歌である。

2455  我がゆゑに言はれし妹は高山の嶺の朝霧過ぎにけむかも
      (我故 所云妹 高山之 峯朝霧 過兼鴨)
 第三句以下は比喩。「私のためにとかく噂がたってしまった彼女は、高山の嶺に立ちこめていた朝霧が引いてしまったように、もう相手にしてくれなくなったのだろうか」という歌である。

2456  ぬばたまの黒髪山の山草に小雨降りしきしくしく思ほゆ
      (烏玉 黒髪山 山草 小雨零敷 益々所<思>)
 「ぬばたまの」はお馴染みの枕詞。黒髪山は1241番歌にも詠われている。奈良市の山。「黒髪山の草葉に小雨がしきりに降っている。その小雨のように私もしきりに彼女のことが思われてならない」という歌である。

2457  大野らに小雨降りしく木の下に時と寄り来ね我が思ふ人
      (大野 小雨被敷 木本 時依来 我念人)
 初句の「大野らに」であるが、「岩波大系本」は「広い野に」とし、「ら」の言及を避けている。「伊藤本」も「中西本」も「ら」は接尾語とだけ記し、実質的に言及を避けている。2449番歌に「~相見し子らを~」と人に付いた「ら」は親しみの表現であり、かつ、原文に「子等」とある。が、本歌の原文には「大野」とあるだけで、「ら」は訓を付す際付加した「ら」である。ならば、最低限何の「ら」かを説明してしかるべきだろう。実際「佐々木本」では「大野らに」ではなく「大野に」という訓になっている。ふりがなが施されていないがきっと「おほきのに」と読むのだろう。注釈書にケチを付けるのが私の本意ではないのでそのまま「大野らに」としておくが、本来は「佐々木本」に従って「大野(おほきの)に」としたい所である。「読者には親切であるべき」をモットーにしているので、一言述べたまでである。「ら」に手間取ってしまったが、歌意は緒書と変わらない。「広々とした野に小雨が降りしきっている。こんな時だからこそ、雨宿りにこの木の根元にお寄りになったら、わが思う人よ」という歌である。

2458  朝霜の消なば消ぬべく思ひつついかにこの夜を明かしてむかも
      (朝霜 消々 念乍 何此夜 明鴨)
 平明歌だが、状況を推察するのにやや手間取る。「朝の霜のようにやがて消えるだろうと思いながらもなかなか消えぬこの思い。どうやってこの夜をやり過ごしたらいいのだろう」という歌である。

2459  我が背子が浜行く風のいや急に事を急がばいや逢はざらむ
      (吾背兒我 濱行風 弥急 急事 益不相有)
 第四句、五句の原文「急事 益不相有」の訓は「事を早みかいや逢はずあらむ」、「急事(はやこと) なさばいや逢はざらむ」、「急事(はやこと) 益(ま)してあはずあらむ」、「急事(はやこと) 増(ま)して逢はずてあるらむ」等色々あって一定していない。私は歌意を考えて頭書のような訓を付すことにした。「あの人が急に吹く浜風のように事を急かせるものだからもう逢わずにおこうかしら」という歌である。

2460  遠き妹が振り放け見つつ偲ふらむこの月の面に雲なたなびき
      (遠妹 振仰見 偲 是月面 雲勿棚引)
 「振り放(さ)け見つつ」は「振り仰いで見ながら」という意味。「雲なたなびき」は「な~そ」の禁止形。「遠くの地で彼女が、振り仰いで月を見ながら私のことを思ってくれているに相違ない。雲よ月にたなびかないでおくれ」という歌である。
           (2015年4月24日記)
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