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万葉集読解・・・108(1581~1595番歌)

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     万葉集読解・・・108(1581~1595番歌)
1581  手折らずて散りなば惜しと我が思ひし秋の黄葉をかざしつるかも
      (手折らずて散りなば惜しと我が思ひし秋の黄葉をかざしつるかも)
 題詞に「橘朝臣奈良麻呂(たちばなのあそみならまろ)の元に集まって宴を催した際の歌十一首」とある。(1581~1591番歌)。次歌の左注により本歌と次歌は奈良麻呂作。
 読解不要の平明歌。「手折ることなく散らしてしまうのは惜しいと思って秋の黄葉を手折ってきてかざしました」という歌である。

1582  めづらしき人に見せむと黄葉を手折りぞ我が来し雨の降らくに
      (希将見 人尓令見跡 黄葉乎 手折曽我来師 雨零久仁)
 「めづらしき人」は珍客。次歌の作者久米女王(くめのおほきみ)のことか?。「雨の降らくに」は「雨が降っているのに」である。「ようこそおいで下さった珍しいあなたにお見せしようと、雨中も厭わず、こうして黄葉(もみじば)を手折ってまいりました」という歌である。

1583  黄葉を散らす時雨に濡れて来て君が黄葉をかざしつるかも
      (黄葉乎 令落鍾礼尓 所沾而来而 君之黄葉乎 挿頭鶴鴨)
 作者は久米女王(くめのおほきみ)。
 「黄葉を散らしてしまうしぐれに濡れながらやって参りましたが、おかげで、あなた様が手折って下さった黄葉をかざすことができましたわ」という歌である。

1584  めづらしと我が思ふ君は秋山の初黄葉に似てこそありけれ
      希将見跡 吾念君者 秋山<乃> 始<黄>葉尓 似許曽有家礼)
 作者は長忌寸娘(ながのいみきがをとめ)。「めづらし」は前々歌の「めづらし」と同意に見えるが、作者が娘(をとめ)となると、前々歌とはニュアンスが異なって感じられる。原文「希将見」からすると「珍しい」というよりは「類い希な(特別な)」方という呼びかけに取れる。「特別な(すなわちお慕い申し上げている)あなた様は秋の山に初めて色づいた黄葉のように美しゅうございます」という歌である。もしも、これが適解だとすると、前々歌の「めづらし」も「特別な」という意味かもしれない。

1585  奈良山の嶺の黄葉取れば散る時雨の雨し間なく降るらし
      (平山乃 峯之黄葉 取者落 鍾礼能雨師 無間零良志)
 作者は内舎人縣犬養宿祢吉男(うどねりあがたのいぬかひのすくねよしを)。内舎人(うどねり)は天皇の付き人。
 奈良麻呂が開いた宴会は、1591番歌の左注により、右大臣橘卿の旧宅で開かれている。この旧宅のある山が奈良山。右大臣橘卿(たちばなのまへつきみ)とは橘諸兄(たちばなのもろえ)のことで、奈良麻呂の父である。旧宅は平城京の北方京都府井手町にあった所で、現在、そこに「井手左大臣 橘諸兄公旧跡」と刻印された石碑が建てられている。「嶺の黄葉(もみじば)取れば散る」とは「一枝手折ったところハラハラと黄葉が散った」という意味である。「奈良山の嶺の黄葉の木を一枝手折ったところハラハラと黄葉が散った。しぐれ雨が絶え間なく降り続けているからだろうか」という歌である。

1586   黄葉を散らまく惜しみ手折り来て今夜かざしつ何か思はむ
      (黄葉乎 落巻惜見 手折来而 今夜挿頭津 何物可将念)
 作者は縣犬養宿祢持男(あがたのいぬかひのすくねもちを)。
 「何か思はむ」は「何を思うことがあろう」すなわち「もう思い残すことはない」という意味である。「黄葉が散ってしまうのが惜しいので、手折ってきて今夜かざし十分堪能しました。もう思い残すことはありません」という歌である。

1587  あしひきの山の黄葉今夜もか浮かび行くらむ山川の瀬に
      (足引乃 山之黄葉 今夜毛加 浮去良武 山河之瀬尓)
 作者は大伴宿祢書持(ふみもち)。書持は家持の弟。
 「あしひきの」はお馴染み枕詞。山は一般の山のことではない。奈良麻呂が開いた宴会の場で詠われた歌なので、橘諸兄旧宅の山、すなわち奈良山のことである。「この山の黄葉は今夜も谷川にはらはら散って浮かび、流れていくことだろう」という歌である。

1588  奈良山をにほはす黄葉手折り来て今夜かざしつ散らば散るとも
      (平山乎 令丹黄葉 手折来而 今夜挿頭都 落者雖落)
 作者は三手代人名(みてしろひとな)。
 「にほはす」は「彩る」ないし「飾り立てる」という意味である。「奈良山を彩る黄葉、手折ってきて今夜かざしました。もう散るなら散っても構わない」という歌である。

1589  露霜にあへる黄葉を手折り来て妹が(定訓は「妹と」)かざしつ後は散るとも
      (露霜尓 逢有黄葉乎 手折来而 妹挿頭都 後者落十方)
 作者は秦許遍麻呂(はたのこへまろ)。前歌と同趣向の歌。
 第四句「妹とかざしつ」が悩ましい。原文は「妹挿頭都」。この訓が一定していない。手持ちの四書の訓を掲げると次のとおりである。
 イ、「妹とかざしつ」 (「佐々木本」)
 ロ、「妹とかざしつ」 (「岩波大系本」)
 ハ、「妹はかざしつ」 (「伊藤本」)
 ニ、「妹にかざしつ」 (「中西本」)
 このように訓が一定しないのは原文「妹挿頭都」に助詞に当たる文字が見あたらないからである。こんな場合は全万葉集歌に当たってみる必要がある。当たってみると、イとロは疑問。「~と共に」の「と」は大部分「与」が使われている。たとえば2036番歌や2615番歌の「妹与吾」(妹と我れと)のように・・・。「与」ではなく1798番歌の「妹等吾見」(妹と我が見し)のように「等」が使われることがあるが、無助詞の例はない。また、二の「妹にかざしつ」はもっと疑問。326番歌の「妹尓戀久」(妹に恋ふらく)や513番歌の「吾念妹尓」(我が思ふ妹に)の例をあげるまでもなく、「~に」と指示する場合は「尓」が使われているのである。では、ハの「妹はかざしつ」はどうか。「は」は「者」等が使われるが、主語助詞の「は」は省略される場合がある。なので「妹は」と「は」を補って訓ずるのはあり得る。が、「~は」は客観視した言い方。全体の歌意に情がこもらなくなってしまう。つまり和歌としては平板になる欠点がある。そこで、「彼女がかざしてくれた」という意がこもる「妹がかざしつ」が一番フィットするように私には思われる。「露霜に当たった黄葉を手折ってきたら彼女がかざしてくれた。後は山の黄葉が散っても悔いはない」という歌である。

1590  神無月しぐれにあへる黄葉の吹かば散りなむ風のまにまに
      (十月 鍾礼尓相有 黄葉乃 吹者将落 風之随)
 作者は大伴宿祢池主(いけぬし)。
 旧暦十月といえば、今日の十一月から十二月にかけての時節。「もう神無月、しぐれにあった黄葉は風が吹けば風のまにまに散ってしまうことだろう」という歌である。

1591  黄葉の過ぎまく惜しみ思ふどち遊ぶ今夜は明けずもあらぬか
      (黄葉乃 過麻久惜美 思共 遊今夜者 不開毛有奴香)
 作者は内舎人大伴宿祢家持(うどねりやかもち)。内舎人(うどねり)は1585番歌に出てきたように、天皇の付き人。内舎人は20代前半の若者で占められていたから、家持の若い頃の歌ということになる。
 「過ぎまく」は「散って行くのが」、「惜しみ」は「惜しいので」という意味である。「思ふどち」は、1558番歌に「鶉鳴く古りにし里の秋萩を思ふ人どち相見つるかも」とあったように、「気心の知れた仲間」ということ。「黄葉が散ってしまうのが惜しいのでわれら仲間内で遊んでいる今宵は明けなければいいのに」という歌である。
 本歌の左注には「以上の歌は、冬十月十七日右大臣橘卿(橘諸兄)の旧宅に集まって開かれた宴会の際のもの」とある。が、どうしたわけか年が記されていない。巻8は原則として年代順に歌が配列されているため、以上11首は天平十年(738年)時点のものと考えられている。すなわち、直前の1580番歌には「天平十年(738年)八月作歌」と注され、次歌の注には「天平十一年(739年)九月作歌」とあるからである。

1592  しかとあらぬ五百代小田を刈り乱り田廬に居れば都し思ほゆ
      (然不有 五百代小田乎 苅乱 田蘆尓居者 京師所念)
 大伴坂上郎女が竹田庄(たけだのたどころ)で作った歌二首。
 「しかとあらぬ」は「わずかばかりの」。「五百代(いほしろ)は面積で3600坪のこと。田廬(たぶせ)は田に作られた仮小屋。「3600坪ほどのわずかばかりの小田を慣れない手つきで乱雑に刈り取りながら仮小屋にいると、都にいた頃のことが思い出される」という歌である。

1593  隠口の泊瀬の山は色づきぬ時雨の雨は降りにけらしも
      (隠口乃 始瀬山者 色附奴 <鍾>礼乃雨者 零尓家良思母)
 「隠口(こもりく)の」は枕詞。「泊瀬の山は色づきましたねえ。山ではしぐれが降ったのでしょうね」という歌である。
 本歌の左注に「右二首は天平十一年己卯の年〔739年)秋九月作」とある。

1594  時雨の雨間なくな降りそ紅ににほへる山の散らまく惜しも
      (思具礼能雨 無間莫零 紅尓 丹保敝流山之 落巻惜毛)
 題詞に「佛前唱歌一首」とある。法会の際に詠われた歌であるという。
 「な降りそ」は例によって「な~そ」の禁止形。「にほへる」は「色づいた」の意。「しぐれ雨よ、そんなに絶え間なく降り続けないでおくれ。紅に色づいた山の紅葉が散ってしまうのが惜しいではないか」という歌である。本歌には左注が付いていて、
 「この歌は、聖武天皇の皇后、光明皇后の宮で冬十月に営まれた法会(ほうえ)で唄われた。また、一日中種々の音楽が供養され、市原王(いちはらのおほきみ)と忍坂王(をさかのおほきみ)が琴を演奏し、田口朝臣家守(たぐちのやかもり)、河邊朝臣東人(かわべのあづまひと)、置始連長谷(をきそめのむらじはつせ)等十數人が唄った」とある。

1595  秋萩の枝もとををに置く露の消なば消ぬとも色に出でめやも
      (秋芽子乃 枝毛十尾二 降露乃 消者雖消 色出目八方)
 作者は大伴宿祢像見(かたみ)。
 「枝もとををに」は「枝がたわむほど」。各書とも恋の歌と解し、「置く露の」までを序歌としている。「秋萩の枝がたわむほどぴっしり付いた露のようにはかなく消えてしまっても人に覚られるような真似は致しません」という歌というわけである。他に解しようがないのでこれでよしとしなければならない。が、内容的には相聞歌なのに、なぜここ雑歌に組込まれているかという疑問は残る。それと、「色に出でめやも」というだけのために「露と消える」を導いてくるのはかなり迂遠で重苦しい手法という風に私には見える。他にすっきりした解釈が考えられるか否か。現時点では不明としておきたい。
           (2014年9月19日記)
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