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一昨日古代史の会、その前日は英会話クラブの例会に顔を出した。いずれも2ヶ月近く間を空けての出席である。いずれも同好会のようなものだが、久方ぶりだとどこか新鮮な気が漲る。とりわけ英会話クラブは毎週土曜日に例会が行われているので、久方ぶり感が強かった。例会場に到着して机を前にしたとき、最初に私の胸を襲ったのは「自分は日常の世界に戻ってきたんだな」という思いだった。
考えてみれば奇妙な思いである。日常生活は日々の身の回りの生活である。それは退院してきてこの方、ずっと続いている。途中若干不便な思いはしたけれど、今月に入ってからは、ほぼ何の支障もなく、雑用をこなしている。なので「自分は日常の世界に戻ってきたんだな」という思いにあらためて駆られるまでもない。にもかかわらずそんな思いに駆られた。
これはどういうことかというと、日常生活というのは単に日々の生活に入ったことを意味していないらしいことである。社会的つながりをも含めたトータル活動。そのトータル活動は人によって異なるだろうが、それはきっと「活動の場に自分は戻ってこられたんだ」という思いに相違ない。目の手術くらいでこんな思いに駆られるのだから、数ヶ月から一年以上に及ぶ長期間の闘病生活を送った人は、日常生活というものがこんなにまぶしくありがたいものだと思われるに相違ない。
もう一方の古代史の会は月一回の月例会なので、一回休んだだけという感覚だった。が、その私にも2ヶ月ぶりに訪れる例会場の名古屋市市政資料館の赤煉瓦づくりの建造物はなつかしかった。その前庭に、折しも彼岸花が咲き誇っていて、彼岸の到来を告げていた。そして彼岸花は私の復帰を喜んでいてくれるような気がした。
館の庭喜びてみゆ彼岸花
(2015年9月22日)
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一昨日古代史の会、その前日は英会話クラブの例会に顔を出した。いずれも2ヶ月近く間を空けての出席である。いずれも同好会のようなものだが、久方ぶりだとどこか新鮮な気が漲る。とりわけ英会話クラブは毎週土曜日に例会が行われているので、久方ぶり感が強かった。例会場に到着して机を前にしたとき、最初に私の胸を襲ったのは「自分は日常の世界に戻ってきたんだな」という思いだった。
考えてみれば奇妙な思いである。日常生活は日々の身の回りの生活である。それは退院してきてこの方、ずっと続いている。途中若干不便な思いはしたけれど、今月に入ってからは、ほぼ何の支障もなく、雑用をこなしている。なので「自分は日常の世界に戻ってきたんだな」という思いにあらためて駆られるまでもない。にもかかわらずそんな思いに駆られた。
これはどういうことかというと、日常生活というのは単に日々の生活に入ったことを意味していないらしいことである。社会的つながりをも含めたトータル活動。そのトータル活動は人によって異なるだろうが、それはきっと「活動の場に自分は戻ってこられたんだ」という思いに相違ない。目の手術くらいでこんな思いに駆られるのだから、数ヶ月から一年以上に及ぶ長期間の闘病生活を送った人は、日常生活というものがこんなにまぶしくありがたいものだと思われるに相違ない。
もう一方の古代史の会は月一回の月例会なので、一回休んだだけという感覚だった。が、その私にも2ヶ月ぶりに訪れる例会場の名古屋市市政資料館の赤煉瓦づくりの建造物はなつかしかった。その前庭に、折しも彼岸花が咲き誇っていて、彼岸の到来を告げていた。そして彼岸花は私の復帰を喜んでいてくれるような気がした。
館の庭喜びてみゆ彼岸花
(2015年9月22日)