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万葉集読解・・・206(3318~3325番歌)

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     万葉集読解・・・206(3318~3325番歌)
3318番長歌
  紀の国の 浜に寄るといふ 鰒玉 拾はむと言ひて 妹の山 背の山越えて 行きし君 いつ来まさむと 玉桙の 道に出で立ち 夕占を 我が問ひしかば 夕占の 我れに告らく 我妹子や 汝が待つ君は 沖つ波 来寄る白玉 辺つ波の 寄する白玉 求むとぞ 君が来まさぬ 拾ふとぞ 君は来まさぬ 久ならば いま七日ばかり 早くあらば いま二日ばかり あらむとぞ 君は聞こしし な恋ひそ我妹
 (木國之 濱因云 <鰒>珠 将拾跡云而 妹乃山 勢能山越而 行之君 何時来座跡 玉桙之 道尓出立 夕卜乎 吾問之可婆 夕卜之 吾尓告良久 吾妹兒哉 汝待君者 奥浪 来因白珠 邊浪之 緑<流>白珠 求跡曽 君之不来益 拾登曽 公者不来益 久有 今七日許 早有者 今二日許 将有等曽 君<者>聞之二々 勿戀吾妹)

 紀の国は紀伊の国。大部分は和歌山県。一部は三重県。鰒玉(あはびたま)は真珠のこと。紀伊の国に「妹の山、背の山」と呼ばれた山があることは、544番歌に「後れ居て恋ひつつあらずは紀の国の妹背の山にあらましものを」と詠われていることからも明らかである。現在でも和歌山県かつらぎ町に、東西を流れる紀ノ川の北側に「背ノ山」、南側に「妹山」と呼ばれる山がある。「玉桙(たまほこ)の」はおなじみの枕詞。道で占いをすることは2507番歌に「玉桙の道行き占に占なへば妹に逢はむと我れに告りつも」とあるのでも分かる。「白玉」はむろん真珠のこと。「久(ひさ)ならば」は「遅くても」という意味。「君は聞こしし」は「あの人がおっしゃるには」である。
 「紀の国の浜に寄せられるという鰒玉(真珠)を拾おうといおっしゃって、妹の山 背の山越えていかれたあの人。いつ帰って来るのだろうと、道に出て立って(道祖神に)夕占いをお願いしたら、夕占いが出て私におっしゃった。『愛しい人よ、そなたが待っている彼は、沖の方から波に寄せられてくる真珠、岸辺に寄せられてくる真珠を求めようとしているので来られない。あるいはその真珠を拾おうとしているので来られない。が、遅くなっても七日間、早ければあと二日間待ってほしいと言いなすった。なのでそんなに恋わないでくれと』と・・・。」という歌である。

3319  杖つきもつかずも我れは行かめども君が来まさむ道の知らなく
      (杖衝毛 不衝毛吾者 行目友 公之将来 道之不知苦)
 「杖つきもつかずも」は文字通りなら「杖をついてもつかなくとも」という意味だが、強調表現ととって「杖をついてでも」ととりたい。「杖をついてでもお迎えにあがろうと思うのですが、あなたの帰り道が分からない」という歌である。

3320  直に行かずこゆ巨勢道から石瀬踏み求めぞ我が来し恋ひてすべなみ
      (直不徃 此従巨勢道柄 石瀬踏 求曽吾来 戀而為便奈見)
 本歌は、古本にあるという3257番歌の「直に来ず此ゆ巨勢道から石橋踏みなづみぞ我が来し恋ひてすべなみ」と同歌のようである。「直(ただ)に行かず」は本来まっすぐな道」の意だが、ここでは「通常の道」という意味である。巨勢(こせ)は奈良県御所市古瀬。従って多少危険でも巨勢(こせじ)を越えてここ紀の国にやってきたという意味のようだ。「通常の道はたどらず、巨勢を越えて石瀬を踏み踏みここまでやってきました。あなたが恋しくてどうしようもなく」という歌である。

3321  さ夜更けて今は明けぬと戸を開けて紀へ行く君をいつとか待たむ
      (左夜深而 今者明奴登 開戸手 木部行君乎 何時可将待)
 「~戸を開けて」までは相手の行為。「夜が更けて今は明けたぞと戸を開いて紀の国へ旅立っていったあの人。いつまで待っていたらよいのかしら」という歌である。

3322  門に居し我が背は宇智に至るともいたくし恋ひば今帰り来む
      (門座 郎子内尓 雖至 痛之戀者 今還金)
 二人の家は奈良県御所市の古瀬にあったと見られる。宇智(うち)は和歌山県境に近い奈良県五條市の大野のあたり。とすると、古瀬から通常なら紀ノ川沿いに南下する道をたどる。が、本歌では山道を越えて南下し、五條市の大野を通る。古瀬も宇智も奈良県内。すなわち大和の国内。紀の国をめざした夫はその宇智に至るというのが歌意の背景。
 「門を背に旅立っていった私の夫は、宇智まで行ったとしても、家が恋しければ今に帰ってくるだろう」という歌である。
 以上五首、問答歌。

  譬喩歌
3323番長歌
  しなたつ 筑摩さのかた 息長の 越智の小菅 編まなくに い刈り持ち来 敷かなくに い刈り持ち来て 置きて 我れを偲はす 息長の 越智の小菅
 (師名立 都久麻左野方 息長之 遠智能小菅 不連尓 伊苅持来 不敷尓 伊苅持来而 置而 吾乎令偲 息長之 遠智能子菅)

 {しなたつ}は本歌一例しかなく、枕詞(?)。分からないのは「筑摩さのかた 息長(おきなが)の 越智の小菅」の部分。結句に「越智の小菅」とあるので、それが比喩になっていることが分かる。筑摩も息長も米原市の北方にあって、琵琶湖の湖岸にある。筑摩は平城京の北方。さらにその奥に近接して息長がある。旧息長村。
 以上の背景を頭に入れて「筑摩さのかた 息長の 越智の小菅」の部分に着目していただきたい。「さの方」は各書がいうように植物名だの地名などではない。これに私は頭を悩まされた。植物名だとすると、「筑摩」に「息長の」(原文:息長之)のように「之」がついていない理由も、結句が「越智の小菅」とだけなっているのも 分からない。長らく頭を悩ませた結果、分かった。「さの方」の「さ」は強意の「さ」で、「筑摩の方面」という意味だ。これですっきり歌意が通じた。
 「(米原)の筑摩の方面にある息長、その越智原に生える小菅を編みもしないのに刈り取ってきて、あるいは、敷きもしないのに刈り取ってきて、置いたままにしておく。私は恋い焦がれるのみ。その越智の小菅なのね、私は」という歌である。

  挽 歌
3324番長歌
  かけまくも あやに畏し 藤原の 都しみみに 人はしも 満ちてあれども 君はしも 多くいませど 行き向ふ 年の緒長く 仕へ来し 君の御門を 天のごと 仰ぎて見つつ 畏けど 思ひ頼みて いつしかも 日足らしまして 望月の 満しけむと 我が思へる 皇子の命は 春されば 植槻が上の 遠つ人 松の下道ゆ 登らして 国見遊ばし 九月の しぐれの秋は 大殿の 砌しみみに 露負ひて 靡ける萩を 玉たすき 懸けて偲はし み雪降る 冬の朝は 刺し柳 根張り植槻(うゑつき)を 大御手に 取らし賜ひて 遊ばしし 我が大君を 霞立つ 春の日暮らし まそ鏡 見れど飽かねば 万代に かくしもがもと 大船の 頼める時に 泣く我れ 目かも迷へる 大殿を 振り放け見れば 白栲に 飾りまつりて うちひさす 宮の舎人も [一云「は」] 栲のほの 麻衣着れば 夢かも うつつかもと 曇り夜の 迷へる間に あさもよし 城上の道ゆ つのさはふ 磐余を見つつ 神葬り 葬りまつれば 行く道の たづきを知らに 思へども 験をなみ 嘆けども 奥処をなみ 大御袖 行き触れし松を 言問はぬ 木にはありとも あらたまの 立つ月ごとに 天の原 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はな 畏くあれども
 (挂纒毛 文恐 藤原 王都志弥美尓 人下 満雖有 君下 大座常 徃向 <年>緒長 仕来 君之御門乎 如天 仰而見乍 雖畏 思憑而 何時可聞 日足座而 十五月之 多田波思家武登 吾思 皇子命者 春避者 殖槻於之 遠人 待之下道湯 登之而 國見所遊 九月之 四具礼乃秋者 大殿之 砌志美弥尓 露負而 靡<芽>乎 珠<手>次 懸而所偲 三雪零 冬朝者 刺楊 根張梓矣 御手二 所取賜而 所遊 我王矣 烟立 春日暮 喚犬追馬鏡 雖見不飽者 万歳 如是霜欲得常 大船之 憑有時尓 涙言 目鴨迷 大殿矣 振放見者 白細布 餝奉而 内日刺 宮舎人方 [一云 者] 雪穂 麻衣服者 夢鴨 現前鴨跡 雲入夜之 迷間 朝裳吉 城於道従 角障經 石村乎見乍 神葬 々奉者 徃道之 田付(口+リ)不知 雖思 印手無見 雖歎 奥香乎無見 御袖 徃觸之松矣 言不問 木雖在 荒玉之 立月毎 天原 振放見管 珠手次 懸而思名 雖恐有)

 語句の解説に終始したのでは煩雑。なので地名等最小限を掲げ、省略。読解訳により推測されたい。「藤原の都」は奈良県橿原市(かしはらし)にあった都。植槻(うゑつき)は奈良県大和郡山市。「砌(みぎり)しみみに」は「御殿の石畳いっぱいに」という意味。「我が大君を」の大君は通常天皇を指すが、ここでは死去した皇子。城上(きのへ)は一説に奈良県北葛城郡広陵町という。磐余(いはれ)は奈良県桜井市南西部、神武天皇ゆかりの地。
 「口に出すのも恐れ多い。藤原の都に人は多く満ち満ちており、君と呼ばれる方々は多くいらっしゃるが、長年月お仕え申し上げた君の御門。天上のごとく仰ぎたてまつり、恐れ多くも思い頼んできた君。一刻も早く成長なさって立派になってほしいと思ってきた皇子のみこと。春になると植槻(うゑつき)の丘に松の下道を通ってお登りになり、国見をなさった。長月(旧暦九月)のしぐれの秋には御殿の石畳にいっぱい露が降りる。その露を受けてなびく萩の花をたすきをかけるように心に懸けられ、愛でられる。雪が降る冬の朝は、挿し木した柳が根を張るように、大御手に取って梓弓を張り、狩りをなさった大君。霞がたち込める春の長い一日見飽きることのない君。永久にかくのごとく元気であらせられるだろうと、大船に乗った気でいたその矢先、わが泣く目の錯覚かと思った。仰ぎ見た御殿は真っ白な布で飾られ、大宮人たちも(あるいは「は」という)白装束をしていた。その光景にあまりのことに夢かうつつかと呆然とした。その間に城上(きのへ)から磐余(いはれ)に向けて神を葬り申し上げた。私は行く道もその方法も分からずに思い惑った。思う甲斐もなく、嘆いても際限がない。せめて、国見の際お触れになった松を、もの言わぬ木ではあるが、毎月命日には振り仰いで皇子をお忍び申し上げよう、恐れ多いけれど」という歌である。

3325  つのさはふ磐余の山に白栲にかかれる雲は大君にかも
      (角障經 石村山丹 白栲 懸有雲者 皇可聞)
 「つのさはふ」は枕詞。磐余(いはれ)は奈良県桜井市南西部、神武天皇ゆかりの地。「磐余の山に真っ白にかかっている雲はわが大君(皇子)なのであろうか」という歌である。
 以上長反歌二首
           (2016年2月24日記)
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