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万葉集の話であるが、巻17に珍しく書簡が掲載されている。大伴家持と大伴池主の間にやりとりされた書簡である。万葉集読解には、和歌とは直接関係がない上に大仰な美辞麗句で綴られていて略したが、全く無意味かというと、そうとも言い切れない。当時の個人的な書簡はほとんど例がなく、この意味で歌とは別に当時の個人的交流をうかがう絶好の資料と言える。役人間の様子や生活が伺い知れる意味において貴重な書簡といえる。
さて、池主から家持に当てた書簡の一節に「昨日述短懐今朝汙耳目、更承賜書且奉不次、死罪々々」とある。「昨日拙い思いを述べ、今朝また耳目を汚します。更にお手紙を賜り、ここに駄文を弄します。死罪死罪」という意味である。
私が耳目を疑ったのは「死罪死罪」という言葉である。「死罪に値する」という意味であるが、初めて出会った私は、その大袈裟な表現に驚いたのである。この一節は手紙の冒頭部だが、本来は末尾に使用された書簡用語らしい。つまり、同じく末尾に使用される「頓首頓首」と同意である。頓首が分からないって?。地面に頭をこすりつけて平服する意味である。
家持(やかもち)と池主(いけぬし)は同族である上に、同じ越中國(富山県)に勤めていて、家持は守(かみ)=トップの官職、池主は掾(じょう)、=3番目の官職であった。二人は手紙で歌をやりとりする非常に親しい間柄だったようである。それなのに手紙には「死罪死罪」(恐縮至極)という用語を使っているのである。古代人は非常に上下関係が厳しく、「親しき中にも礼儀あり」とはこのことを指すのだろうか、と思った。
単に書簡の一節であるが、古代人の人間関係と上下関係を同時にうかがいしれる一例だと推察した。「万葉集」、それは単に和歌集ではなく、こうした古代人の心情もうかがえる貴重な資料なのである。
(2016年10月11日)
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万葉集の話であるが、巻17に珍しく書簡が掲載されている。大伴家持と大伴池主の間にやりとりされた書簡である。万葉集読解には、和歌とは直接関係がない上に大仰な美辞麗句で綴られていて略したが、全く無意味かというと、そうとも言い切れない。当時の個人的な書簡はほとんど例がなく、この意味で歌とは別に当時の個人的交流をうかがう絶好の資料と言える。役人間の様子や生活が伺い知れる意味において貴重な書簡といえる。
さて、池主から家持に当てた書簡の一節に「昨日述短懐今朝汙耳目、更承賜書且奉不次、死罪々々」とある。「昨日拙い思いを述べ、今朝また耳目を汚します。更にお手紙を賜り、ここに駄文を弄します。死罪死罪」という意味である。
私が耳目を疑ったのは「死罪死罪」という言葉である。「死罪に値する」という意味であるが、初めて出会った私は、その大袈裟な表現に驚いたのである。この一節は手紙の冒頭部だが、本来は末尾に使用された書簡用語らしい。つまり、同じく末尾に使用される「頓首頓首」と同意である。頓首が分からないって?。地面に頭をこすりつけて平服する意味である。
家持(やかもち)と池主(いけぬし)は同族である上に、同じ越中國(富山県)に勤めていて、家持は守(かみ)=トップの官職、池主は掾(じょう)、=3番目の官職であった。二人は手紙で歌をやりとりする非常に親しい間柄だったようである。それなのに手紙には「死罪死罪」(恐縮至極)という用語を使っているのである。古代人は非常に上下関係が厳しく、「親しき中にも礼儀あり」とはこのことを指すのだろうか、と思った。
単に書簡の一節であるが、古代人の人間関係と上下関係を同時にうかがいしれる一例だと推察した。「万葉集」、それは単に和歌集ではなく、こうした古代人の心情もうかがえる貴重な資料なのである。
(2016年10月11日)