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万葉集読解・・・271(4177~4188番歌)
頭注に「四月三日、越前の判官大伴宿祢池主に贈る霍公鳥(ホトトギス)の歌、旧交の感に堪えられず、思いを述べた歌と短歌」とある。判官は掾(じょう)のこと。掾は国司(国の役所)に置かれた四部官の一つ。3番目の官。池主は越中で家持の部下として一緒に仕事をしていた。その後、越前に転任している。
4177番長歌
我が背子と 手携はりて 明けくれば 出で立ち向ひ 夕されば 振り放け見つつ 思ひ延べ 見なぎし山に 八つ峰には 霞たなびき 谷辺には 椿花咲き うら悲し 春し過ぐれば 霍公鳥 いやしき鳴きぬ 独りのみ 聞けば寂しも 君と我れと 隔てて恋ふる 砺波山 飛び越え行きて 明け立たば 松のさ枝に 夕さらば 月に向ひて あやめぐさ 玉貫くまでに 鳴き響め 安寐寝しめず 君を悩ませ
(和我勢故等 手携而 暁来者 出立向 暮去者 授放見都追 念暢 見奈疑之山尓 八峯尓波 霞多奈婢伎 谿敝尓波 海石榴花咲 宇良悲 春之過者 霍公鳥 伊也之伎喧奴 獨耳 聞婆不怜毛 君与吾 隔而戀流 利波山 飛超去而 明立者 松之狭枝尓 暮去者 向月而 菖蒲 玉貫麻泥尓 鳴等余米 安寐不令宿 君乎奈夜麻勢)
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万葉集読解・・・271(4177~4188番歌)
頭注に「四月三日、越前の判官大伴宿祢池主に贈る霍公鳥(ホトトギス)の歌、旧交の感に堪えられず、思いを述べた歌と短歌」とある。判官は掾(じょう)のこと。掾は国司(国の役所)に置かれた四部官の一つ。3番目の官。池主は越中で家持の部下として一緒に仕事をしていた。その後、越前に転任している。
4177番長歌
我が背子と 手携はりて 明けくれば 出で立ち向ひ 夕されば 振り放け見つつ 思ひ延べ 見なぎし山に 八つ峰には 霞たなびき 谷辺には 椿花咲き うら悲し 春し過ぐれば 霍公鳥 いやしき鳴きぬ 独りのみ 聞けば寂しも 君と我れと 隔てて恋ふる 砺波山 飛び越え行きて 明け立たば 松のさ枝に 夕さらば 月に向ひて あやめぐさ 玉貫くまでに 鳴き響め 安寐寝しめず 君を悩ませ
(和我勢故等 手携而 暁来者 出立向 暮去者 授放見都追 念暢 見奈疑之山尓 八峯尓波 霞多奈婢伎 谿敝尓波 海石榴花咲 宇良悲 春之過者 霍公鳥 伊也之伎喧奴 獨耳 聞婆不怜毛 君与吾 隔而戀流 利波山 飛超去而 明立者 松之狭枝尓 暮去者 向月而 菖蒲 玉貫麻泥尓 鳴等余米 安寐不令宿 君乎奈夜麻勢)
長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「見なぎし山」は「二上山」のこととされる。二上山は通常、奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町に跨がる山を指す。が、ここは越中の歌。富山県高岡市に現存。砺波(となみ)山は富山県と石川県の県境にある。「明け立たば」は夜明けのこと。
(口語訳)
貴君と手を取り合って過ごした日々。夜が明けると出勤して向き合い、夕方になると遠くの山を振り仰いで思いを述べ合った。その二上山、峰々には霞がたなびき、谷辺には椿の花が咲き、うら悲しかった。そんな春が過ぎる季節になると、ホトトギスがやってきてしきりに鳴いた。その声を独りだけで聞くのは寂しくてならない。貴君と私の間は国境の砺波山に隔てられている。ホトトギスよ、砺波山を飛び越えていって、夜明けには松の枝にとまり、夕方になったら月に向かって鳴き立てるがよい。アヤメグサで薬玉を飾り立てる五月がくるまで、鳴き立てるがよい。安眠出来ないほど君を悩ませて。
貴君と手を取り合って過ごした日々。夜が明けると出勤して向き合い、夕方になると遠くの山を振り仰いで思いを述べ合った。その二上山、峰々には霞がたなびき、谷辺には椿の花が咲き、うら悲しかった。そんな春が過ぎる季節になると、ホトトギスがやってきてしきりに鳴いた。その声を独りだけで聞くのは寂しくてならない。貴君と私の間は国境の砺波山に隔てられている。ホトトギスよ、砺波山を飛び越えていって、夜明けには松の枝にとまり、夕方になったら月に向かって鳴き立てるがよい。アヤメグサで薬玉を飾り立てる五月がくるまで、鳴き立てるがよい。安眠出来ないほど君を悩ませて。
4178 我れのみし聞けば寂しも霍公鳥丹生の山辺にい行き鳴かにも
(吾耳 聞婆不怜毛 霍公鳥 丹生之山邊尓 伊去鳴<尓毛>)
「丹生(にふ)の山」は福井県越前市にあった越前国府の西方の山地。「い行き」は強意の「い」。「鳴かにも」は「鳴いてほしい」という意味である。「私独りきりで聞いているのは寂しい。ホトトギスよ(池主のいる国府の)近くの丹生の山あたりに飛んでいって鳴いておくれ」という歌である。
(吾耳 聞婆不怜毛 霍公鳥 丹生之山邊尓 伊去鳴<尓毛>)
「丹生(にふ)の山」は福井県越前市にあった越前国府の西方の山地。「い行き」は強意の「い」。「鳴かにも」は「鳴いてほしい」という意味である。「私独りきりで聞いているのは寂しい。ホトトギスよ(池主のいる国府の)近くの丹生の山あたりに飛んでいって鳴いておくれ」という歌である。
4179 霍公鳥夜鳴きをしつつ我が背子を安眠な寝しめゆめ心あれ
(霍公鳥 夜喧乎為管 和我世兒乎 安宿勿令寐 由米情在)
「な寝しめゆめ」は「な~ゆめ」の禁止形。「心あれ」は「私が独りだけで聞くのはつらいという心を分かってほしい」という意味である。「ホトトギスよ、夜中じゅう泣き続けて、我が友を安眠など決してさせないでおくれ。独りだけでお前の鳴き声を聞いているのがつらい、その思いを分かっておくれ」という歌である。
(霍公鳥 夜喧乎為管 和我世兒乎 安宿勿令寐 由米情在)
「な寝しめゆめ」は「な~ゆめ」の禁止形。「心あれ」は「私が独りだけで聞くのはつらいという心を分かってほしい」という意味である。「ホトトギスよ、夜中じゅう泣き続けて、我が友を安眠など決してさせないでおくれ。独りだけでお前の鳴き声を聞いているのがつらい、その思いを分かっておくれ」という歌である。
霍公鳥(ホトトギス)の鳴き声に飽きることがない心情を詠んだ歌と短歌
4180番長歌
春過ぎて 夏来向へば あしひきの 山呼び響め さ夜中に 鳴く霍公鳥 初声を 聞けばなつかし あやめぐさ 花橘を 貫き交へ かづらくまでに 里響め 鳴き渡れども なほし偲はゆ
(春過而 夏来向者 足桧木乃 山呼等余米 左夜中尓 鳴霍公鳥 始音乎 聞婆奈都可之 菖蒲 花橘乎 貫交 可頭良久麻泥尓 里響 喧渡礼騰母 尚之努波由)
4180番長歌
春過ぎて 夏来向へば あしひきの 山呼び響め さ夜中に 鳴く霍公鳥 初声を 聞けばなつかし あやめぐさ 花橘を 貫き交へ かづらくまでに 里響め 鳴き渡れども なほし偲はゆ
(春過而 夏来向者 足桧木乃 山呼等余米 左夜中尓 鳴霍公鳥 始音乎 聞婆奈都可之 菖蒲 花橘乎 貫交 可頭良久麻泥尓 里響 喧渡礼騰母 尚之努波由)
「春過ぎて夏来向へば」は「春過ぎて夏がやって来ると」という意味。「山呼び響め」は「山々にこだまし、響き渡る」こと。
(口語訳)
春過ぎて夏がやって来ると、山々にこだまし、響き渡るほど夜中じゅう鳴き続けるホトトギス。その初声を聞くとなつかしくてたまらない。アヤメグサや花橘を薬玉に通して髪飾りにする五月まで、里じゅう響かせて鳴くけれど、それでもホトトギス、お前の声は飽きない。
春過ぎて夏がやって来ると、山々にこだまし、響き渡るほど夜中じゅう鳴き続けるホトトギス。その初声を聞くとなつかしくてたまらない。アヤメグサや花橘を薬玉に通して髪飾りにする五月まで、里じゅう響かせて鳴くけれど、それでもホトトギス、お前の声は飽きない。
反歌三首
4181 さ夜更けて暁月に影見えて鳴く霍公鳥聞けばなつかし
(左夜深而 暁月尓 影所見而 鳴霍公鳥 聞者夏借)
「暁月に影見えて」は「明け方の月に影が映し出されて」という意味。「夜が更け渡って明け方に出ている月に影が映し出されて鳴くホトトギス、それを聞いていると興が尽きない」という歌である。
4181 さ夜更けて暁月に影見えて鳴く霍公鳥聞けばなつかし
(左夜深而 暁月尓 影所見而 鳴霍公鳥 聞者夏借)
「暁月に影見えて」は「明け方の月に影が映し出されて」という意味。「夜が更け渡って明け方に出ている月に影が映し出されて鳴くホトトギス、それを聞いていると興が尽きない」という歌である。
4182 霍公鳥聞けども飽かず網捕りに捕りてなつけな離れず鳴くがね
(霍公鳥 雖聞不足 網取尓 獲而奈都氣奈 可礼受鳴金)
「網捕(と)りに捕(と)りてなつけな」は「網で捕らえてなつかせれば」、「鳴くがね」は「鳴くのに」という意味である。「ホトトギスの鳴き声は聞いても聞いても飽かない。いっそ網で捕らえてなつかせれば、いつもそばにいて鳴くのに」という歌である。
(霍公鳥 雖聞不足 網取尓 獲而奈都氣奈 可礼受鳴金)
「網捕(と)りに捕(と)りてなつけな」は「網で捕らえてなつかせれば」、「鳴くがね」は「鳴くのに」という意味である。「ホトトギスの鳴き声は聞いても聞いても飽かない。いっそ網で捕らえてなつかせれば、いつもそばにいて鳴くのに」という歌である。
4183 霍公鳥飼ひ通せらば今年経て来向ふ夏はまづ鳴きなむを
(霍公鳥 飼通良婆 今年經而 来向夏<波> 麻豆将喧乎)
「飼ひ通(とほ)せらば」は「飼い続けることができたなら」である。「まづ鳴きなむを」は「先ず真っ先に鳴くだろうに」という意味である。「ホトトギスを飼い続けることができたなら、今年の夏を過ぎて来年の夏は先ず真っ先に鳴くだろうに」という歌である。
(霍公鳥 飼通良婆 今年經而 来向夏<波> 麻豆将喧乎)
「飼ひ通(とほ)せらば」は「飼い続けることができたなら」である。「まづ鳴きなむを」は「先ず真っ先に鳴くだろうに」という意味である。「ホトトギスを飼い続けることができたなら、今年の夏を過ぎて来年の夏は先ず真っ先に鳴くだろうに」という歌である。
京師(みやこ)から贈ってきた歌一首
4184 山吹の花取り持ちてつれもなく離れにし妹を偲ひつるかも
(山吹乃 花執持而 都礼毛奈久 可礼尓之妹乎 之努比都流可毛)
「取り持ちて」は「手に持って」ということ。「つれもなく」は「冷たく」の軽い意味。「離(か)れにし妹を」は「残していった彼女を」という意味。「偲(しの)ひつるかも」は作者の心情。彼女を(妹を)と詠っているので、彼女は家持の妻、坂上大嬢(さかのうへのおほいらつめ)を指しているに相違ない。では、この歌の作者は誰かということになるが、家持とその妻に近い女性としか分からない。「山吹の花を手に持って軽々しく彼女を残していったあなた。その彼女が思いやられて仕方がありませんわ」という歌である。
左注に「右は四月五日、都に留まっている女性から送られてきたもの」とある。
4184 山吹の花取り持ちてつれもなく離れにし妹を偲ひつるかも
(山吹乃 花執持而 都礼毛奈久 可礼尓之妹乎 之努比都流可毛)
「取り持ちて」は「手に持って」ということ。「つれもなく」は「冷たく」の軽い意味。「離(か)れにし妹を」は「残していった彼女を」という意味。「偲(しの)ひつるかも」は作者の心情。彼女を(妹を)と詠っているので、彼女は家持の妻、坂上大嬢(さかのうへのおほいらつめ)を指しているに相違ない。では、この歌の作者は誰かということになるが、家持とその妻に近い女性としか分からない。「山吹の花を手に持って軽々しく彼女を残していったあなた。その彼女が思いやられて仕方がありませんわ」という歌である。
左注に「右は四月五日、都に留まっている女性から送られてきたもの」とある。
山吹の花を詠った歌と短歌
4185番長歌
うつせみは 恋を繁みと 春まけて 思ひ繁けば 引き攀ぢて 折りも折らずも 見るごとに 心なぎむと 茂山の 谷辺に生ふる 山吹を 宿に引き植ゑて 朝露に にほへる花を 見るごとに 思ひはやまず 恋し繁しも
(宇都世美波 戀乎繁美登 春麻氣? 念繁波 引攀而 折毛不折毛 毎見 情奈疑牟等 繁山之 谿敝尓生流 山振乎 屋戸尓引殖而 朝露尓 仁保敝流花乎 毎見 念者不止 戀志繁母)
4185番長歌
うつせみは 恋を繁みと 春まけて 思ひ繁けば 引き攀ぢて 折りも折らずも 見るごとに 心なぎむと 茂山の 谷辺に生ふる 山吹を 宿に引き植ゑて 朝露に にほへる花を 見るごとに 思ひはやまず 恋し繁しも
(宇都世美波 戀乎繁美登 春麻氣? 念繁波 引攀而 折毛不折毛 毎見 情奈疑牟等 繁山之 谿敝尓生流 山振乎 屋戸尓引殖而 朝露尓 仁保敝流花乎 毎見 念者不止 戀志繁母)
「うつせみは」は「生きてこの世にある身」。「茂山の」は「草木が茂る山の」ということ。
(口語訳)
生きてこの世にある身、人恋しくなります。春がやってくると、ひときわ人恋しくなります。引き寄せて折っても折らなくとも心がなごむだろうと思って、草木が生い茂る山の谷のあたりに生える山吹を家の庭に植えました。けれども、朝露にぬれて美しく咲く山吹を見ると、そのたびに切ない思いは止まず、人恋しさがつのってやみません。
生きてこの世にある身、人恋しくなります。春がやってくると、ひときわ人恋しくなります。引き寄せて折っても折らなくとも心がなごむだろうと思って、草木が生い茂る山の谷のあたりに生える山吹を家の庭に植えました。けれども、朝露にぬれて美しく咲く山吹を見ると、そのたびに切ない思いは止まず、人恋しさがつのってやみません。
4186 山吹を宿に植ゑては見るごとに思ひはやまず恋こそまされ
(山吹乎 屋戸尓殖弖波 見其等尓 念者不止 戀己曽益礼)
宿は自宅の庭。「山吹を家の庭に植えてはみたものの、目にするたびに切ない思いは止まず、かえって人恋しさがつのります」という歌である。
(山吹乎 屋戸尓殖弖波 見其等尓 念者不止 戀己曽益礼)
宿は自宅の庭。「山吹を家の庭に植えてはみたものの、目にするたびに切ない思いは止まず、かえって人恋しさがつのります」という歌である。
頭注に「六日に布勢の水海を遊覧して作った歌と短歌」とある。布勢の水海(みづうみ)は塩水湖で、かなり大きな湖だったらしい。今は現存しない。富山県高岡市にある二上山の北方、氷見市に名残をとどめる。十二町潟と呼ぶ水郷である。
4187番長歌
思ふどち ますらをのこの 木の暗の 繁き思ひを 見明らめ 心遣らむと 布勢の海に 小舟つら並め ま櫂掛け い漕ぎ廻れば 乎布の浦に 霞たなびき 垂姫に 藤波咲て 浜清く 白波騒き しくしくに 恋はまされど 今日のみに 飽き足らめやも かくしこそ いや年のはに 春花の 茂き盛りに 秋の葉の もみたむ時に あり通ひ 見つつ偲はめ この布勢の海を
(念度知 大夫能 許<乃>久礼<能> 繁思乎 見明良米 情也良牟等 布勢乃海尓 小船都良奈米 真可伊可氣 伊許藝米具礼婆 乎布能浦尓 霞多奈妣伎 垂姫尓 藤浪咲而 濱浄久 白波左和伎 及々尓 戀波末佐礼杼 今日耳 飽足米夜母 如是己曽 祢年<乃>波尓 春花之 繁盛尓 秋葉能 黄色時尓 安里我欲比 見都追思努波米 此布勢能海乎)
4187番長歌
思ふどち ますらをのこの 木の暗の 繁き思ひを 見明らめ 心遣らむと 布勢の海に 小舟つら並め ま櫂掛け い漕ぎ廻れば 乎布の浦に 霞たなびき 垂姫に 藤波咲て 浜清く 白波騒き しくしくに 恋はまされど 今日のみに 飽き足らめやも かくしこそ いや年のはに 春花の 茂き盛りに 秋の葉の もみたむ時に あり通ひ 見つつ偲はめ この布勢の海を
(念度知 大夫能 許<乃>久礼<能> 繁思乎 見明良米 情也良牟等 布勢乃海尓 小船都良奈米 真可伊可氣 伊許藝米具礼婆 乎布能浦尓 霞多奈妣伎 垂姫尓 藤浪咲而 濱浄久 白波左和伎 及々尓 戀波末佐礼杼 今日耳 飽足米夜母 如是己曽 祢年<乃>波尓 春花之 繁盛尓 秋葉能 黄色時尓 安里我欲比 見都追思努波米 此布勢能海乎)
「思ふどち」は「親しい者同士」という意味。「布勢の海」は頭注参照。「乎布(をふ)の浦」は布勢の水海にあったとされる浦。「垂姫(たるひめ)の崎」は布勢の水海にあったという崎。「藤波咲て」は「藤の花が波打つように咲いていて」という意味。
(口語訳)
親しい男同士が木の下の暗がりのような思いを晴らそうと、布勢の海に打って出た。小舟を連ねて並べ、梶をとりつけ、漕ぎ回ってみると、乎布の浦に霞がたなびき、垂姫では藤の花が波打つように咲いていて、浜の光景は清らかであった。白波が騒ぎ、しきりに恋しさはつのった。今日一日で飽きたらず、こうして年ごとに、春は花の盛りどきに、秋は紅葉が美しいときに、引き続き、やってきて光景を堪能しようではないか、この布勢の海で。
親しい男同士が木の下の暗がりのような思いを晴らそうと、布勢の海に打って出た。小舟を連ねて並べ、梶をとりつけ、漕ぎ回ってみると、乎布の浦に霞がたなびき、垂姫では藤の花が波打つように咲いていて、浜の光景は清らかであった。白波が騒ぎ、しきりに恋しさはつのった。今日一日で飽きたらず、こうして年ごとに、春は花の盛りどきに、秋は紅葉が美しいときに、引き続き、やってきて光景を堪能しようではないか、この布勢の海で。
4188 藤波の花の盛りにかくしこそ浦漕ぎ廻つつ年に偲はめ
(藤奈美能 花盛尓 如此許曽 浦己藝廻都追 年尓之努波米)
「藤波」は前歌参照。「年に」は「年ごとに」を縮めた表現。「藤の花が波打つように咲く盛りに、こうして浦を漕ぎ回って毎年やってきて花を愛でようではないか」という歌である。
(2017年1月2日記)
(藤奈美能 花盛尓 如此許曽 浦己藝廻都追 年尓之努波米)
「藤波」は前歌参照。「年に」は「年ごとに」を縮めた表現。「藤の花が波打つように咲く盛りに、こうして浦を漕ぎ回って毎年やってきて花を愛でようではないか」という歌である。
(2017年1月2日記)
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