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万葉集読解・・・3 (16~24番歌)

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     万葉集読解・・・3 (16~24番歌)             
 題詞に「近江大津宮御宇天皇代」とあり、細注に「天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)といい、謚名(おくりな)は天智天皇」とある。
 近江宮は滋賀県の大津にあった都。天智天皇は三十八代天皇。二字の漢風謚号は天平宝字六年~同八年(762~764年)に淡海三船によって一括撰進されたとされている。が、すでに万葉集第一巻に「謚日天智天皇」(原文)と注記されているのは注目される。
 頭注に「天皇、内大臣藤原朝臣(藤原鎌足)に詔(みことのり)して、春山の万花の艶(美しさ)と秋山の千葉の彩り(紅葉の美しさ)と競わせたら(どちらが)美しいだろう、とおっしゃった。すると、額田王(んかたのおほきみ)が歌を作って判定した」とある。
0016番長歌
  冬こもり 春さり来れば 鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ 咲かずありし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてぞ偲ふ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨めし 秋山吾は
  (冬木成 春去来者 不喧有之 鳥毛来鳴奴 不開有之 花毛佐家礼抒 山乎茂 入而毛不取 草深 執手母不見 秋山乃 木葉乎見而者 黄葉乎婆 取而曽思努布 青乎者 置而曽歎久 曽許之恨之 秋山吾者)

  長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「冬こもり」は9例に及び、枕詞説もあるが、本歌は「冬が去り」の意味で十分意がとおる。「草深み」は「~なので」のみ。

 (口語訳)
 冬が去り、春がやってくれば、鳴かずにいた鳥もやって来て鳴く。咲かずにいた花も咲きます。ですが、山が繁り、分け入っていくことが出来ず、草が深いので折り取って観賞することもできません。秋山は木の葉を観賞し、黄葉を手折って観賞することも出来ます。青葉が残り少なくて残念ですが、でも、私は秋山がいいですね。

 頭注に「額田王が近江國に下った時の歌と、井戸王がこれに応えた歌」とある。
0017番長歌
  味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや
  (味酒 三輪乃山 青丹吉 奈良能山乃 山際 伊隠萬代 道隈 伊積流萬代尓 委曲毛 見管行武雄 數々毛 見放武八萬雄 情無 雲乃 隠障倍之也)

  「味酒」は「うまざけ」と4音にして読む説がある。が、「古」一字でも「いにしへの」と読む例があり、5音を通常とすることから考えても「うまざけの」と読むのがよいだろう。「三輪山」は奈良県桜井市にある山。三輪山は大和の神聖な山。「奈良山」は奈良県奈良市北部にある山」。「あをによし」は「うまざけの」とともに枕詞。「つばらにも」は「子細に」という意味。。

 (口語訳)
 神聖な三輪山と奈良山が遠く隠れてしまうまで、道の曲がり角ごとに、子細に見やりつつ行こうと思うのに、遠くからでも見はらしたいその山を、無情にも隠してよいものか、雲よ。
 
 反歌
0018 三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや
(三輪山乎 然毛隠賀 雲谷裳 情有南畝 可苦佐布倍思哉)
 三輪山は前歌参照。三輪山は中大兄皇子(天智天皇)と解して恋の歌ともとれる。「しかも」は「どうして」という意味で、この用語から恋の歌ともとれるのである。
 「雲よ。どうして神聖な三輪山(あの方の麗姿)を隠すのか。雲よ、心があるならなぜ隠したりするの」という歌である。
 左注に「右二首の歌、山上憶良大夫の類聚歌林に「都を近江國に遷された時、三輪山をご覧になって詠われた歌」とある。日本書紀には「天智六年(丙寅年)春三月(辛酉を朔日とする己卯の日(十九日)に遷都」と・・・。」とある。類聚歌林は歌集。7番歌の左注にも記したが、ここに日本書紀(原文表記)とあるのは現行の日本書紀であろうが、7番歌の左注にある「紀」と同一か否かはっきりしない。「紀」と「日本書紀」と書き分けているのだろうか。

0019 綜麻形の林のさきのさ野榛の衣に付くなす目につく吾が背
(綜麻形乃 林始乃 狭野榛能 衣尓著成 目尓都久和我勢)
 綜麻形(へそがた)は三輪山の異名という。「さ野」は野原。榛(はり)はハンノキのことで、カバノキ科の落葉高木。「衣(きぬ)に付くなす」は「着物に染まるように」という意味である。
 「三輪山の麓の林の先に立つハンノキの真っ赤な木の葉があなたの着物に染まったようにあざやかに目に付きます」という歌である。
 左注に「右は、今考えるに、応える歌ではない。ただ旧本にこの場所に記すので、ここに載せる」とある。
 
 頭注に「天皇、蒲生野に狩猟された時、額田王(ぬかたのおほきみ)が作った歌とある。天皇は三十八代天智天皇。蒲生(かまふ)は滋賀県蒲生郡のこと。
0020 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
(茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流)
 全万葉歌中、最も有名な歌の一つ。「あかねさす紫野」は文字通りなら、あかね色の日が射し込んで紫色に染まった野(狩り場)の意だろう。が、次歌(21番歌)の第一句に「紫草能」(原文)とあるので本歌の「紫野」も「紫草」を指していると知られる。
 「あかねさす」は枕詞としてよいが本歌の場合は「あかね色に輝く太陽の」という形容詞と解して一向に差し支えない。「標野」は標縄(しめなわ)等で囲われた狩場。この歌、結句の「君が袖振る」が秀逸。「袖振るや君」などと言いたい所を「袖振る」と現在形でとめているため、げんに目の前で袖を振っている姿が浮かんできて迫力があり、かつ、非常に印象的である。
 「あかねさす紫草が一面に咲く野、しめ縄を張った狩り場を行き来なさって、野の番人は見ていないでしょうか。あなたが袖を振っているのを」という歌である。
 袖を振っているのは大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇)で前の夫。現在は大海人皇子の兄、中大兄皇子(天智天皇)の后とされる。ために、この関係がクローズアップされて評判になっている感がある。が、歌自体が非凡で秀逸。天武や天智を離れて、二人の男性との恋情歌としてみても、強い普遍性を獲得しており、国民的人気が高い秘密がこの辺にもあると私は思う。

 頭注に「皇太子がこれに答えた御歌」とあり、細注に「後の明日香宮天皇、謚名を天武天皇という」とある。四十代天皇。
0021 紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも
(紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方)
 大海人皇子の返し歌で、前歌とセットで評判になっている歌である。「紫の」は「紫草」のことで、ムラサキ科の多年草。薬草にもなるが、昔は紫色の染料に使われた。「妹」は「いも」と読み、恋人、彼女、妻といった意味。「人妻故に」は「人妻と知りながらなお」という意味である。この歌も「妹を憎くあらば」と反語表現を使って印象強い効果を獲得している秀歌である。
 「紫草の野によく映えるそなたが憎いならば、人妻と知りながらなお恋焦がれるものでしょうか」という歌である。
 左注に「紀には、天皇七年(丁卯年)夏五月五日蒲生野に狩猟されたとき、大皇弟、諸王、内臣及び群臣、皆ことごとく付き従う」と」とある。大皇弟は大海人皇子。

 題詞に「明日香清御原宮天皇の代」とあり、細注に「天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇、謚名を天武天皇」とある。清御原宮(きよみはらのみや)天皇は四十代天武天皇。
 頭注に「十市皇女(とをちのひめみこ)が伊勢神宮に参拝されたとき、波多の横山の巖を見て吹芡(ふふき)の刀自が作った歌」とある。十市皇女は天武天皇と額田王の皇女。波多山は三重県津市の山。刀自(とじ)は一家の中心女性。
0022 河上のゆつ岩群に草生さず常にもがもな常處女にて
(河上乃 湯津盤村二 草武左受 常丹毛冀名 常處女煮手)
 「河上のゆつ岩群」は五十鈴川の清冽な岩々。「ゆつ」は「斉(いわ)うこと」で、清らかなこと。「もがもな」は「~であってほしい」という願望。刀自が十市皇女にこめた願望の歌と思われる。
 「五十鈴川の清冽な岩群れに雑草が繁茂することがないように、十市皇女様もずっと處女のように美しく清らかであらせられるように」という歌である。
 左注に「吹芡(ふふき)の刀自未詳。ただ、紀には、天武四年(乙亥年)春二月(乙亥を朔日とする丁亥の日(十三日)、十市皇女と阿閉皇女が伊勢神宮に参拝す、と」とある。阿閉皇女(あへのひめみこ)は後の四十三代元明天皇。この左注から推測するに、吹芡の刀自は巫女さんのトップか。

頭注に「麻續王(をみのおほきみ)が伊勢國の伊良虞の嶋に流された時、人が哀傷して作った歌」とある。伊良虞の嶋は愛知県伊良湖岬。
0023 打ち麻を麻続の王海人なれや伊良虞の島の玉藻刈ります
(打麻乎 麻續王 白水郎有哉 射等篭荷四間乃 珠藻苅麻須)
 「打ち麻」は「麻を打つ」、すなわち麻を織る意。麻續王の「麻續」も同じく麻を織る意。名前の由来にかこつけて詠んだ歌。「海人なれや」という反語表現がいっそう哀傷感を誘う。
 「麻を打つ麻の王様は、地元の海人さんなんだろうか。伊良湖の島に自ら出かけて玉藻を刈り取っていらっしゃる。ああ」という歌である。

 頭注に「麻續王(をみのおほきみ)はこれを聞いて悲しんで応えた」とある。
0024 うつせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞の島の玉藻刈り食む
(空蝉之 命乎惜美 浪尓所濕 伊良虞能嶋之 玉藻苅食)
 「うつせみ」は「現世の」ということで、「現にこの世に生きて在る」という意味。
 「私はこの世にある身。なんとかして生きていかねばならない。なので波に濡れながら藻を刈り取って食べているのです」という歌である。
 この王ばかりでなく、古今東西を問わず、権力機構からはじき飛ばされて辛酸を嘗めた人々はゴマンといたに相違ない。
 左注に「日本紀にはこうある。天武四年(乙亥年)夏四月(戊戌を朔日とする乙卯の日(十八日)、三位麻續王罪あって因幡(鳥取県東部)に流す。子の一人は伊豆の島に、子の一人は血鹿嶋(五島列島)に流すと・・・。そこで、伊勢國の伊良虞の嶋に流すというのは、後の人が歌の言葉によって誤って記したものか」とある。
          (2013年1月25日記、2017年5月27日)
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