万葉集読解・・・7(68~78番歌)
0068 大伴の御津の浜なる忘れ貝家なる妹を忘れて思へや
(大伴乃 美津能濱尓有 忘貝 家尓有妹乎 忘而念哉)
「大伴の御津の浜」は63番歌で記したように大阪湾にあった大伴一族の故郷の浜。結句の「忘れて思へや」は原文に「忘而念哉」とある通り反語。家で待つ妻を「忘れる筈もない」である。
「大伴の故郷の御津の浜さえ忘れそうな忘れ貝だが、家に残っている妻のことをどうして忘れようか」という歌である。
左注に「右は身人部王(むとべのおほきみ)の歌」とある。
0068 大伴の御津の浜なる忘れ貝家なる妹を忘れて思へや
(大伴乃 美津能濱尓有 忘貝 家尓有妹乎 忘而念哉)
「大伴の御津の浜」は63番歌で記したように大阪湾にあった大伴一族の故郷の浜。結句の「忘れて思へや」は原文に「忘而念哉」とある通り反語。家で待つ妻を「忘れる筈もない」である。
「大伴の故郷の御津の浜さえ忘れそうな忘れ貝だが、家に残っている妻のことをどうして忘れようか」という歌である。
左注に「右は身人部王(むとべのおほきみ)の歌」とある。
0069 草枕旅行く君と知らませば岸の埴生ににほはさましを
(草枕 客去君跡 知麻世婆 崖之埴布尓 仁寶播散麻思呼)
草枕(くさまくら)は枕詞。埴(はに)は粘土質のいわゆる赤土。埴生(はにふ)は埴のとれる場所。「にほふ」は「染める」こと。
「旅の途中のお方と存知あげていれば、美しい埴生(はにゅう)の染料で染めて差し上げられたのに」という歌である。
左注に「右は清江娘子(すみのえのをとめ)が長皇子に奉った歌。娘子の姓氏未詳」とある。長皇子(ながのみこ)は四十代天武天皇の皇子。
左注にあるとおり本歌は女性(清江娘子)の歌である。彼女は遊女と言われる。65番歌に登場した弟日娘女(おとひをとめ)も遊女と言われる。50番長歌の作者は役民(人夫)とある。そして後半の万葉集には異国の外敵の守備に従事した防人(さきもり)たちの歌が数多く登載されている。こうした事実は万葉集を巡って非常に重要で大きな問題を私たちに投げかけてくる。
万葉集は貴族を始め高位高官の、いわゆる知識人層の作と理解されている。が、複雑で難解に見える万葉仮名も、当時、幅広く色々な人々に浸透していたことを伺わせるからである。文字や用語をよほど使いこなす能力がなければ長歌や短歌など作歌しうる筈がない。つまり、日本はすでに奈良時代以前の古代、驚くべき文字文化を保持していた可能性が高いのである。
(草枕 客去君跡 知麻世婆 崖之埴布尓 仁寶播散麻思呼)
草枕(くさまくら)は枕詞。埴(はに)は粘土質のいわゆる赤土。埴生(はにふ)は埴のとれる場所。「にほふ」は「染める」こと。
「旅の途中のお方と存知あげていれば、美しい埴生(はにゅう)の染料で染めて差し上げられたのに」という歌である。
左注に「右は清江娘子(すみのえのをとめ)が長皇子に奉った歌。娘子の姓氏未詳」とある。長皇子(ながのみこ)は四十代天武天皇の皇子。
左注にあるとおり本歌は女性(清江娘子)の歌である。彼女は遊女と言われる。65番歌に登場した弟日娘女(おとひをとめ)も遊女と言われる。50番長歌の作者は役民(人夫)とある。そして後半の万葉集には異国の外敵の守備に従事した防人(さきもり)たちの歌が数多く登載されている。こうした事実は万葉集を巡って非常に重要で大きな問題を私たちに投げかけてくる。
万葉集は貴族を始め高位高官の、いわゆる知識人層の作と理解されている。が、複雑で難解に見える万葉仮名も、当時、幅広く色々な人々に浸透していたことを伺わせるからである。文字や用語をよほど使いこなす能力がなければ長歌や短歌など作歌しうる筈がない。つまり、日本はすでに奈良時代以前の古代、驚くべき文字文化を保持していた可能性が高いのである。
頭注に「太上天皇、吉野宮に行幸の時、高市連黒人(くろひと)の作った歌」とある。太上天皇は持統上皇。
0070 大和には鳴きてか来らむ呼子鳥象の中山呼びぞ越ゆなる
(倭尓者 鳴而歟来良武 呼兒鳥 象乃中山 呼曽越奈流)
呼子鳥ははっきりしないが、ホトトギスのことか。「象(きさ)の中山」は吉野と大和の間にある山。
「呼子鳥よ。大和には鳴きながら到着しているだろうか。家で待つ妻の名を呼びながら。象(きさ)の中山を鳴きながらこえていったけれど」という歌である。
0070 大和には鳴きてか来らむ呼子鳥象の中山呼びぞ越ゆなる
(倭尓者 鳴而歟来良武 呼兒鳥 象乃中山 呼曽越奈流)
呼子鳥ははっきりしないが、ホトトギスのことか。「象(きさ)の中山」は吉野と大和の間にある山。
「呼子鳥よ。大和には鳴きながら到着しているだろうか。家で待つ妻の名を呼びながら。象(きさ)の中山を鳴きながらこえていったけれど」という歌である。
頭注に「大行天皇、難波宮に行幸された時の歌」とある。前歌の「太上」と異なって「大行」は前帝のこと。四十二代文武天皇。
0071 大和恋ひ寐の寝らえぬに心なくこの洲崎廻に鶴鳴くべしや
「大和が恋しくて寝るに寝られないのに、鶴たちは、この入り江のあたりで心なく鳴き交わしてよいものだろうか」という歌である。
左注に「右は忍坂部乙麻呂(おさかべのおとまろ)の歌」とある。
0071 大和恋ひ寐の寝らえぬに心なくこの洲崎廻に鶴鳴くべしや
(倭戀 寐之不所宿尓 情無 此渚崎<未>尓 多津鳴倍思哉)
この歌も前歌と同様望郷の歌。「洲崎廻」の廻(み)はちょっとした入り江状になった所、ないしは「辺りという意味。「鶴(たづ)鳴くべしや」は反語表現。「大和が恋しくて寝るに寝られないのに、鶴たちは、この入り江のあたりで心なく鳴き交わしてよいものだろうか」という歌である。
左注に「右は忍坂部乙麻呂(おさかべのおとまろ)の歌」とある。
0072 玉藻刈る沖へは漕がじ敷栲の枕のあたり忘れかねつも
「女たちが玉藻を刈り取っている沖に向かって舟を漕いでいくまい。夕べ真っ白な床で枕を共にした女がいたら、忘れられないから」という歌である。
左注に「右は、式部卿藤原宇合(ふぢはらのうまかひ)の歌」とある。式部卿は国の礼儀、儀式等を司った式部省の長官。宇合は藤原不比等の第三子。
(玉藻苅 奥敝波不榜 敷妙乃 枕之邊 忘可祢津藻)
「玉藻」は藻の美称。「漕がじ」は「漕いでいくまい」という作者の意志。「敷栲の」(しきたへの)は枕詞。敷栲の「栲」は、28番歌に「春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山」に出ている。すなわち、真っ白な布ないし着物である。そこで「敷栲の」は枕詞ではなく、「敷いた白布の」と解することも可能だろう。「女たちが玉藻を刈り取っている沖に向かって舟を漕いでいくまい。夕べ真っ白な床で枕を共にした女がいたら、忘れられないから」という歌である。
左注に「右は、式部卿藤原宇合(ふぢはらのうまかひ)の歌」とある。式部卿は国の礼儀、儀式等を司った式部省の長官。宇合は藤原不比等の第三子。
頭注に「長皇子の御歌」とある。長皇子(ながのみこ)は四十代天武天皇の皇子。
0073 我妹子を早見浜風大和なる吾をまつ椿吹かざるなゆめ
(吾妹子乎 早見濱風 倭有 吾松椿 不吹有勿勤)
この歌、「早み」が「早く妻に会いたい」と「浜風が吹くのを早めて」の両意にかかっていることと、「吹かざるなゆめ」が二重否定、すなわち「ゆめゆめ吹かないなんてことがないように」という意味だと分かれば平明歌。
「我が妻に早く逢いたいと吹く浜の早風、故郷の大和で私を待つ、松椿(待つ妻)にこの思いがゆめゆめ吹き届かないなんてないように」という歌である。
0073 我妹子を早見浜風大和なる吾をまつ椿吹かざるなゆめ
(吾妹子乎 早見濱風 倭有 吾松椿 不吹有勿勤)
この歌、「早み」が「早く妻に会いたい」と「浜風が吹くのを早めて」の両意にかかっていることと、「吹かざるなゆめ」が二重否定、すなわち「ゆめゆめ吹かないなんてことがないように」という意味だと分かれば平明歌。
「我が妻に早く逢いたいと吹く浜の早風、故郷の大和で私を待つ、松椿(待つ妻)にこの思いがゆめゆめ吹き届かないなんてないように」という歌である。
頭注に「大行天皇、吉野宮に行幸された時の歌」とある。「大行」は前帝のことで、四十二代文武天皇。
0074 み吉野の山のあらしの寒けくにはたや今夜も我が独り寝む
(見吉野乃 山下風之 寒久尓 為當也今夜毛 我獨宿牟)
吉野山は奈良県吉野郡吉野町の山。「はたや」は「もしや」ないし「やはり」である。旅先で独り身をかこつ寒々とした光景である。
「吉野の山の嵐は寒々としている。今夜もやはり私は独り寝することになろうか」という歌である。
左注に「右はあるいは天皇の御製歌」とある。不思議な注である。文字通りなら今上天皇(四十三代元明天皇)ということになる。が、元明天皇は女帝。本歌の作者でありそうにない。
0074 み吉野の山のあらしの寒けくにはたや今夜も我が独り寝む
(見吉野乃 山下風之 寒久尓 為當也今夜毛 我獨宿牟)
吉野山は奈良県吉野郡吉野町の山。「はたや」は「もしや」ないし「やはり」である。旅先で独り身をかこつ寒々とした光景である。
「吉野の山の嵐は寒々としている。今夜もやはり私は独り寝することになろうか」という歌である。
左注に「右はあるいは天皇の御製歌」とある。不思議な注である。文字通りなら今上天皇(四十三代元明天皇)ということになる。が、元明天皇は女帝。本歌の作者でありそうにない。
0075 宇治間山朝風寒し旅にして衣貸すべき妹もあらなくに
「宇治間山、朝風が寒く厳しい。旅の途上にあって着物を貸してくれる女性もいないというのに」という歌である。
左注に「右は長屋王の歌」とある。長屋王(ながやのおほきみ)は四十代天武天皇の孫皇子。
(宇治間山 朝風寒之 旅尓師手 衣應借 妹毛有勿久尓)
宇治間山は奈良県吉野郡吉野町の山。舞台は前歌と同じような場所なのだろうか。前歌が夜の風、この歌が朝風、朝も夜も、いわゆる宇治間山おろしが厳しかったようである。古代の旅は相対的に野宿が多かったに相違なく、厳しい旅である。「宇治間山、朝風が寒く厳しい。旅の途上にあって着物を貸してくれる女性もいないというのに」という歌である。
左注に「右は長屋王の歌」とある。長屋王(ながやのおほきみ)は四十代天武天皇の孫皇子。
頭注に「和銅元年(戊申年)天皇御製」とある。天皇は四十三代元明天皇。
0076 ますらをの鞆の音すなり物部の大臣盾立つらしも
「りりしい勇者の鞆(とも)の音がする。物部の大臣が盾を立てて武術の鍛錬を始めたのでしょうか」という歌である。
0076 ますらをの鞆の音すなり物部の大臣盾立つらしも
(大夫之 鞆乃音為奈利 物部乃 大臣 楯立良思母)
「ますらを」は男子の美称、「りりしい男」という意味。鞆(とも)は手首に巻く丈夫な防具で、矢を放ったとき、弓の弦が反動で当たったとき、手首を守るためにつけられる。盾はむろん手に持って剣、槍、矢などから身を守る武具。物部氏のトップ自らが盾を立てた状態で弓術の鍛錬を開始した勇壮な歌。「りりしい勇者の鞆(とも)の音がする。物部の大臣が盾を立てて武術の鍛錬を始めたのでしょうか」という歌である。
頭注に「御名部皇女(みなべのひめみこ)の応えられた歌」とある。御名部皇女は四十三代元明天皇の姉。
0077 吾が大君ものな思ほし皇神の継ぎて賜へる吾がなけなくに
「わが大君。ご心配めさるな。皇祖神の天照大御神が大君に続いて与え賜うたこの私がいないわけではありませんのに」という歌である。
0077 吾が大君ものな思ほし皇神の継ぎて賜へる吾がなけなくに
(吾大王 物莫御念 須賣神乃 嗣而賜流 吾莫勿久尓)
この歌、このままでは分かりにくい。「ものな思ほし」とか「皇神(すめかみ)」とか「吾がなけなくに」と矢継ぎ早に耳慣れない古語が登場するからだ。頭注にあるように、この歌の作者は前歌の作者元明天皇の姉である。この点を念頭に置いてこれらの古語を読み解いてみよう。先ず「ものな思ほし」だが、「な~そ」の禁止形。「ご心配めさるな」と妹を気遣っている言葉と分かる。「皇神(すめかみ)」は天照大御神。「継ぎて賜へる」は文字通りご先祖が添えて下さった(私)である。「吾がなけなくに」は二重否定。「私がいないわけではないのに」、すなわち「私がついているではありませんか」である。実際に元明天皇が物部氏の射的鍛錬に(戦い近し)という不安を覚えていたかといえばそんなことはあるまい。姉の皇女が先回りして気遣って詠ったと考えてよかろう。「わが大君。ご心配めさるな。皇祖神の天照大御神が大君に続いて与え賜うたこの私がいないわけではありませんのに」という歌である。
頭注に「和銅三年(庚戌年)春二月、藤原宮から奈良宮に遷る時、御輿を長屋原にとどめ、故郷を顧みて作った歌」とあり、細注に「一書に云う、この歌太上天皇の御製」とある。公式の遷都は和銅三年(710年)三月十日、四十三代元明天皇。長屋原は奈良県天理市南部の地。太上天皇は持統上皇。
0078 飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば君があたりは見えずかもあらむ [一云 君があたりを見ずてかもあらむ]
(飛鳥 明日香能里乎 置而伊奈婆 君之當者 不所見香聞安良武 [一云 君之當乎 不見而香毛安良牟])
「飛ぶ鳥の」は枕詞。明日香の里は藤原宮の地に近かったか、ないしは藤原宮を含んでいたのだろうか。「君があたり」の君は誰を指すか不明。
「明日香の里を置いて去っていったなら、あなたが住んでいるあたりは見えなくなってしまうのだろうか」という歌である。
なお、異伝歌は結句二句にが「あなたが住んでいるあたりを見ずに終わってしまうのだろうか」となっている。
(2013年2月9日記、 2017年6月14日)
0078 飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば君があたりは見えずかもあらむ [一云 君があたりを見ずてかもあらむ]
(飛鳥 明日香能里乎 置而伊奈婆 君之當者 不所見香聞安良武 [一云 君之當乎 不見而香毛安良牟])
「飛ぶ鳥の」は枕詞。明日香の里は藤原宮の地に近かったか、ないしは藤原宮を含んでいたのだろうか。「君があたり」の君は誰を指すか不明。
「明日香の里を置いて去っていったなら、あなたが住んでいるあたりは見えなくなってしまうのだろうか」という歌である。
なお、異伝歌は結句二句にが「あなたが住んでいるあたりを見ずに終わってしまうのだろうか」となっている。
(2013年2月9日記、 2017年6月14日)
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