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万葉集読解・・・14-2(159~167番歌)

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     万葉集読解・・・14-2(159~167番歌)
 頭注に「天皇崩御の時大后の御歌」とある。崩御は四十代天武天皇。大后は後の四十一代持統天皇。
0159番 長歌
   やすみしし 我が大君の 夕されば 見したまふらし 明け来れば 問ひたまふらし 神岳の 山の黄葉を 今日もかも 問ひたまはまし 明日もかも 見したまはまし その山を 振り放け見つつ 夕されば あやに悲しみ 明け来れば うらさび暮らし 荒栲の 衣の袖は 干る時もなし
   (八隅知之 我大王之 暮去者 召賜良之 明来者 問賜良志 神岳乃 山之黄葉乎 今日毛鴨 問給麻思 明日毛鴨 召賜萬旨 其山乎 振放見乍 暮去者 綾哀 明来者 裏佐備晩 荒妙乃 衣之袖者 乾時文無)

  長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「やすみしし」は枕詞。「見したまふらし」及び「問ひたまふらし」の主語「御霊」が省略されている。「神岳」は三輪山か。

 (口語訳)
   (お亡くなりになった)大君は夕方にはご覧になっている。夜明けにはきっとお尋ねになっている。神の山の黄葉を。もしも生きておられたら、今日もまたその黄葉のことをお尋ねになり、明日もまたご覧になられるだろう。神の山を振り仰いで見ながら、夕方になるとむしょうに悲しくなり、夜明けになるとうらさびしい日を迎え、荒栲の(白い)着物の袖は乾く間もありません。

 頭注に「一書にいう。天皇崩御の時の太上天皇の御製歌二首」とある。太上天皇は四十一代持統天皇。
0160 燃ゆる火も取りて包みて袋には入ると言はずや面知りたくも
      (燃火物 取而L而 福路庭 入澄不言八 面智男雲)
 結句の「面智男雲」は難訓とされる。参考までに紹介すると、「面知らなくも」(「岩波大系本」)、「知るといはなくも」(「佐々木本」)、「訓義未詳」(「伊藤本」)、「面知るを雲」(「中西本」)とまちまちである。私の解は、(私も棺に入って)「面知りたくも」である。
 「燃える火さえ包んで袋に入れるというではないか、私も棺に入って直にお逢いしたい」という歌である。

0161 神山にたなびく雲の青雲の星離り行き月を離れて
      (向南山 陳雲之 青雲之 星離去 月矣離而)
 初句の「向南山(原文)」を「岩波大系本」などは「南に向かう山」という意味から推察して北山としている。また、「中西本」は「神山」としている。私は「中西本」の「神山」に従いたい。
 「神山にたなびいていた青雲が星から離れ、月からも離れていく」という歌である。

 頭注に「天皇崩御の後八年九月九日、奉為(おほみため)の御齋會(ごさいゑ)の夜、夢の裏に習い賜へる御歌」とあり、細注に「古歌集」にある」とある。持統七年(693年)九月九日。「奉為の御齋會」は天武天皇の冥福を祈るため、僧侶を集めて行われた法会。夢に出てきた歌。
0162番 長歌
   明日香の 清御原の宮に 天の下 知らしめしし やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子 いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡みたる波に 潮気のみ 香れる国に 味凝り あやにともしき 高照らす 日の御子
   (明日香能 清御原乃宮尓 天下 所知食之 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 何方尓 所念食可 神風乃 伊勢能國者 奥津藻毛 靡足波尓 塩氣能味 香乎礼流國尓 味凝 文尓乏寸 高照 日之御子)

  「明日香の清御原の宮」は奈良県明日香村で営まれた宮。四十代天武天皇、四十一代持統天皇二代にわたって営まれた。「やすみしし」、「高照らす」、「神風の」は枕詞。「味凝(うまこ)り」ははっきりしないが、「ぎゅっと味が凝り固まった」という意味か。

 (口語訳)
   明日香の清御原の宮で天下を治められたわれらが大君、日の御子。どのように思し召してか、神風の吹く伊勢の国の、沖の藻が波に漂い、塩気のみが香る国に行かれたものやら。味凝りのようにお慕わしゅうございます。高照らす日の御子。

 頭注に「藤原宮御宇の天皇の代、高天原廣野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)元年(丁亥年)」とあり、細注に「持統十一年軽太子に譲位し、尊号を太上天皇という」とある。高天原廣野姫天皇は四十一代持統天皇。軽太子は四十二代文武天皇。持統十一年は697年。
 さらに頭注に「大津皇子が薨去した後、大伯皇女(おほくのひめみこ)が伊勢齋宮(いせのいつきのみや)より上京される時の御作歌二首」とある。大津皇子は天武天皇の皇子。朱鳥元年(686年)十月刑死。大伯皇女は大津皇子の同母姉。
0163 神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君もあらなくに
      (神風乃 伊勢能國尓母 有益乎 奈何可来計武 君毛不有尓)
 大来皇女は、かって処刑前夜に伊勢に会いに来た大津皇子を見送って哀傷極まりない歌を詠った皇女である。105番歌と106番歌がそれだが、なかでも105番歌の「我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に我れ立ち濡れし」は有名だ。大津皇子が処刑されたのは朱鳥元年(686年)10月。そして翌11月皇女は伊勢から藤原京に戻るが、本歌はその時の歌。「神風の」は枕詞。「君」は大津皇子を指す。
 「神風の吹く伊勢の国にいてもよかったのに、どうして私はここ藤原宮にやってきたのでしょう。あなたもいないのに」という歌である。

0164 見まく欲りわがする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに
      (欲見 吾為君毛 不有尓 奈何可来計武 馬疲尓)
 「君」はいうまでもなく大津皇子。
 「会いたいと思うあなたもいないのに、どうして私はやってきたのでしょう。馬が疲れるだけなのに」という歌である。

 頭注に「大津皇子の屍を葛城の二上山に葬った時、大伯皇女が哀しみ傷んで作歌した二首」とある。二上山は奈良県葛城市の山。雄岳と雌岳があり、大津皇子は雄岳に葬られた。
0165 うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山を弟背と我が見む
      (宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 弟世登吾将見)
 「うつそみの人」は「この世の人」という意味。
 「この世の人である私。明日からは二上山を私の弟と思って見ることになります」という歌である。

0166 磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありと言はなくに
      (磯之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓)
 馬酔木(あせび又はあしび)は磯などに自生する常緑灌木。春の花。「君がありと言はなくに」は字義にこだわって「君が在世していると人は言わないけれど」と解すると、理屈っぽくなる。「見せるべきあなたはいない」とあっさり解して読んだ方がいいように思う。
 「磯の上に生える馬酔木(あせび)の花を手折ろうと思うが、見せるべきあなたはいない」という歌である。
 左注に「この歌は今考えると、葬る際の歌のように見えない、伊勢宮から京に還る時路上に花をみて哀傷きわまりなくなって、この歌を作ったと見られる」とある。

 頭注に「日並皇子尊(ひなみしみこのみこと)、殯宮の時、柿本朝臣人麻呂の作った歌と短歌」とある。日並皇子尊は四十代天武天皇と四十一代持統天皇の間の皇子。草壁皇子、皇太子。持統三年(689年)没。「殯宮」は本葬までの期間、棺を安置しておく宮(建物)。
0167番 長歌
   天地の 初めの時 ひさかたの 天の河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひいまして 神分り 分りし時に 天照らす 日女の命 [一云 さしのぼる 日女の命] 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命と 天雲の 八重かき別きて [一云 天雲の八重雲別きて] 神下し いませまつりし 高照らす 日の御子は 飛ぶ鳥の 清御原の宮に 神ながら 太敷きまして すめろきの 敷きます国と 天の原 岩戸を開き 神上り 上りいましぬ [一云 神登り いましにしかば] 我が大君 皇子の命の 天の下 知らしめしせば 春花の 貴くあらむと 望月の 満しけむと 天の下 食す国 四方の人の 大船の 思ひ頼みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 真弓の岡に 宮柱 太敷きいまし みあらかを 高知りまして 朝言に 御言問はさぬ 日月の 数多くなりぬれ そこ故に 皇子の宮人 ゆくへ知らずも [一云 さす竹の 皇子の宮人 ゆくへ知らにす]
   (天地之 <初時> 久堅之 天河原尓 八百萬 千萬神之 神集 々座而 神分 々之時尓 天照 日女之命 [一云 指上 日女之命] 天乎婆 所知食登 葦原乃 水穂之國乎 天地之 依相之極 所知行 神之命等 天雲之 八重掻別而 [一云 天雲之 八重雲別而] 神下 座奉之 高照 日之皇子波 飛鳥之 浄之宮尓 神随 太布座而 天皇之 敷座國等 天原 石門乎開 神上 々座奴 [一云 神登 座尓之可婆] 吾王 皇子之命乃 天下 所知食世者 春花之 貴在等 望月乃 満波之計武跡 天下 [一云 食國] 四方之人乃 大船之 思憑而 天水 仰而待尓 何方尓 御念食可 由縁母無 真弓乃岡尓 宮柱 太布座 御在香乎 高知座而 明言尓 御言不御問 日月之 數多成塗 其故 皇子之宮人 行方不知毛 [一云 刺竹之 皇子宮人 歸邊不知尓為])

  この歌の前半は、『古事記』及び『日本書紀』の神話を下敷きにしている。出来れば神話を読んでいただきたい。「天照らす日女(ひるめ)の命」は天照大神。「ひさかたの」等の枕詞を駆使しての荘重な長歌。なので用語は省略。

 (口語訳)
   天地の初めの時、天(あま)の河原(かはら)に八百万(やほよろづ)、千万(ちよろづ)の神々がお集まりになって、神の領分を相談なさった。天照大神(また、さしのぼる日女の命、という)が天界を支配なさることにした。葦原の瑞穂の国(この日本の国)、すなわち、天地の寄り合う極みまでを支配なさる神として、天雲を八重かき別けて(または 天雲の八重雲別けて、という)一柱の神をお下しになった。その日の御子は飛ぶ鳥の清御原の宮で、神のままに統治なさった。そしてこの国は天皇が支配する国とおっしゃって、天の原の岩戸を開いて神としてお上りになった。(あるいは、神として登られたので、という)。そこで、われらが大君となられる皇子の命が天の下をお治めになる世は春の花のように貴くめでたいことだろう。満ちる月のように満たされるだろうと、天下方々の人々は大船に乗った気持で皇子を仰いでお待ちしていた。が、何と思われたのか、ゆかりのない真弓の岡に(奈良県高取町)宮柱を太々と建てられ、御殿を高々と建てられたが、朝の御言葉もなく、日月が積もり積もってしまった。それ故、皇子の宮人は途方に暮れている。(また、皇子の宮人たちは途方に暮れたまま、という)。

        (2013年3月3日記、2017年7月14日)
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