万葉集読解・・・23(292~305番歌)
頭注に「角麻呂(つのまろ)の歌四首」とある。角麻呂は伝未詳。
0292 ひさかたの天の探女が岩船の泊てし高津は浅せにけるかも
(久方乃 天之探女之 石船乃 泊師高津者 淺尓家留香裳)
この歌、探女(さぐめ)だの岩船(いはふね)だの耳慣れない言葉が出てきてこのままでは分かり辛い。少々長くなるかも知れないが、簡単に解説を試みておこう。『古事記』や『日本書紀』の神話に天照大神(あまてらすおおみかみ)がその孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を葦原中國(あしはらのなかつくに)に天降らせる、いわゆる天孫降臨神話が記されている。天孫降臨に先立って高天原の神々は先ず葦原中國を平定しようとする。ここにいう葦原中國は後に日本国全体を指すようになるが、私の考えによれば(本ブログの拙論「高天原をめぐって」を参照)天孫降臨時は出雲国(島根県)を指していた。
それはさておき、先を急ぐ。神々は相談して葦原中國に4度にわたって神々を派遣する。が、平定はうまくいかず、4度目にいたって大国主命(おおくにぬしのみこと)に国を明け渡させることに成功する。いわゆる有名な国譲り神話である。ここで3度目に派遣された神が天稚彦(あめわかひこ)なのだが、その神につきしたがって岩船に同乗したのが「天の探女」で、その船が停泊した所が高津(たかつ)だったという(摂津風土記)。高津は今の大阪市方円寺坂あたりと言われている。つまり、かいつまんでいうと、高津はその昔は船が停泊できるほど深い海だったわけだ。本歌はこうした神話を踏まえて詠われているわけである。作者の言いたいことは結句の「浅(あ)せにけるかも」。「ひさかたの」はお馴染みの枕詞。
「かっては探女(さぐめ)等の神々を乗せた岩船が停泊できるほど大きく深かった高津も、いまでは浅瀬になってしまったなあ」と感慨に耽っている歌である。
頭注に「角麻呂(つのまろ)の歌四首」とある。角麻呂は伝未詳。
0292 ひさかたの天の探女が岩船の泊てし高津は浅せにけるかも
(久方乃 天之探女之 石船乃 泊師高津者 淺尓家留香裳)
この歌、探女(さぐめ)だの岩船(いはふね)だの耳慣れない言葉が出てきてこのままでは分かり辛い。少々長くなるかも知れないが、簡単に解説を試みておこう。『古事記』や『日本書紀』の神話に天照大神(あまてらすおおみかみ)がその孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を葦原中國(あしはらのなかつくに)に天降らせる、いわゆる天孫降臨神話が記されている。天孫降臨に先立って高天原の神々は先ず葦原中國を平定しようとする。ここにいう葦原中國は後に日本国全体を指すようになるが、私の考えによれば(本ブログの拙論「高天原をめぐって」を参照)天孫降臨時は出雲国(島根県)を指していた。
それはさておき、先を急ぐ。神々は相談して葦原中國に4度にわたって神々を派遣する。が、平定はうまくいかず、4度目にいたって大国主命(おおくにぬしのみこと)に国を明け渡させることに成功する。いわゆる有名な国譲り神話である。ここで3度目に派遣された神が天稚彦(あめわかひこ)なのだが、その神につきしたがって岩船に同乗したのが「天の探女」で、その船が停泊した所が高津(たかつ)だったという(摂津風土記)。高津は今の大阪市方円寺坂あたりと言われている。つまり、かいつまんでいうと、高津はその昔は船が停泊できるほど深い海だったわけだ。本歌はこうした神話を踏まえて詠われているわけである。作者の言いたいことは結句の「浅(あ)せにけるかも」。「ひさかたの」はお馴染みの枕詞。
「かっては探女(さぐめ)等の神々を乗せた岩船が停泊できるほど大きく深かった高津も、いまでは浅瀬になってしまったなあ」と感慨に耽っている歌である。
0293 潮干の三津の海女のくぐつ持ち玉藻刈るらむいざ行きて見む
(塩干乃 三津之海女乃 久具都持 玉藻将苅 率行見)
三津は前歌の高津が難波の港なので、これも難波の港と解されている。第三句の「くぐつ持ち」の「くぐつ」は刈り取った藻を入れる篭のことである。
「潮が引いた三津の浜で海女たちが篭を持って藻を刈り取っているという。さあ、行って見てみようではないか」という歌である。
(塩干乃 三津之海女乃 久具都持 玉藻将苅 率行見)
三津は前歌の高津が難波の港なので、これも難波の港と解されている。第三句の「くぐつ持ち」の「くぐつ」は刈り取った藻を入れる篭のことである。
「潮が引いた三津の浜で海女たちが篭を持って藻を刈り取っているという。さあ、行って見てみようではないか」という歌である。
0294 風をはやみ沖つ白波高からし海人の釣舟浜に帰りぬ
(風乎疾 奥津白波 高有之 海人釣船 濱眷奴)
「風をはやみ」は「~ので」のみ。「風が激しくなってきたので」という意味。
「風が激しくなってきたので、沖の白波が高くなってきたのだろう。沖にでていた漁師の釣り舟がみな浜に戻ってきた」という歌である。
(風乎疾 奥津白波 高有之 海人釣船 濱眷奴)
「風をはやみ」は「~ので」のみ。「風が激しくなってきたので」という意味。
「風が激しくなってきたので、沖の白波が高くなってきたのだろう。沖にでていた漁師の釣り舟がみな浜に戻ってきた」という歌である。
0295 住吉の岸の松原遠つ神わが大君の幸しところ
(清江乃 木笶松原 遠神 我王之 幸行處)
第二句の原文「木笶松原」は「野木笶松原」と頭に「野」がついている写本もある。なので「岩波大系本」や「伊藤本」はこれを「野木の松原」としている。つまり野木を地名と解している。これに対し「中西本」は野のない写本に従い「岸の松原」としている。ここでは「中西本」に従っておきたい。「野木笶松原」とする場合は「笶」を「し」とは読むが「の」とは読めないので、「野木し松原」となる。強意のしと取ればこれもありだ。「遠つ神」は枕詞説もあるが、本歌のほかに5番長歌一例しかなく、かつ、「遠い昔から神でいらっしゃる」と解して意が通ずるので、枕詞(?)。
「松の並ぶここ住吉の松原は遠い昔から神でいらっしゃる大君がおいでになった所よなあ」という歌である。
(清江乃 木笶松原 遠神 我王之 幸行處)
第二句の原文「木笶松原」は「野木笶松原」と頭に「野」がついている写本もある。なので「岩波大系本」や「伊藤本」はこれを「野木の松原」としている。つまり野木を地名と解している。これに対し「中西本」は野のない写本に従い「岸の松原」としている。ここでは「中西本」に従っておきたい。「野木笶松原」とする場合は「笶」を「し」とは読むが「の」とは読めないので、「野木し松原」となる。強意のしと取ればこれもありだ。「遠つ神」は枕詞説もあるが、本歌のほかに5番長歌一例しかなく、かつ、「遠い昔から神でいらっしゃる」と解して意が通ずるので、枕詞(?)。
「松の並ぶここ住吉の松原は遠い昔から神でいらっしゃる大君がおいでになった所よなあ」という歌である。
頭注に「田口益人大夫(たのくちのますひとまへつきみ)、上野國司に任命された時に駿河の浄見埼で作った歌二首」とある。益人は和銅元年(708年)三月に任命される。上野(かみつけ)は群馬県。
0296 廬原の清見の崎の三保の浦のゆたけき見つつ物思ひもなし
(廬原乃 浄見乃埼乃 見穂之浦乃 寛見乍 物念毛奈信)
「廬原(いほはら)の清見の崎」は静岡市清水区内の地名。三保は三保の松原で有名だが万葉集ではこの歌にしか登場しない。あとは三穂や美穗でいずれも和歌山県の地名である。
「廬原(いほはら)の清見の崎の三保の浦の豊かな海。そののびやかな景色を見ていると、何の思いも起こらない」という歌である。
0296 廬原の清見の崎の三保の浦のゆたけき見つつ物思ひもなし
(廬原乃 浄見乃埼乃 見穂之浦乃 寛見乍 物念毛奈信)
「廬原(いほはら)の清見の崎」は静岡市清水区内の地名。三保は三保の松原で有名だが万葉集ではこの歌にしか登場しない。あとは三穂や美穗でいずれも和歌山県の地名である。
「廬原(いほはら)の清見の崎の三保の浦の豊かな海。そののびやかな景色を見ていると、何の思いも起こらない」という歌である。
0297 昼見れど飽かぬ田子の浦大君の命畏み夜見つるかも
(晝見騰 不飽田兒浦 大王之 命恐 夜見鶴鴨)
この歌、諸家の読解に従えば「昼間は見飽きることがないほど絶景の田子の浦だが、官命の旅故夜見る羽目になってしまった」となる。つまり絶景を楽しんでいるゆとりもない忙しい旅だったという意味になる。私の目には妙な解釈に映る。前歌に見られるように作者は、昼間の田子の浦を「物思ひもなし」と詠じたほど堪能している。かつ、そこで一泊するほどだからそれほど急ぐ旅でもなかったのだろう。「夜見る羽目になってしまった」では不平不満の歌になってしまう。「命畏み」(みことかしこみ)を「官命故」と解するとこうなるが、「命畏み」を「官命に感謝し」と解することは出来ないだろうか。少なくとも私はこう解し、歌意を次のように取っている。
「田子の浦は昼見ても飽きない絶景だが、官命のおかげで、こうして夜になっても見られるなんて感謝に堪えません」という歌である。
(晝見騰 不飽田兒浦 大王之 命恐 夜見鶴鴨)
この歌、諸家の読解に従えば「昼間は見飽きることがないほど絶景の田子の浦だが、官命の旅故夜見る羽目になってしまった」となる。つまり絶景を楽しんでいるゆとりもない忙しい旅だったという意味になる。私の目には妙な解釈に映る。前歌に見られるように作者は、昼間の田子の浦を「物思ひもなし」と詠じたほど堪能している。かつ、そこで一泊するほどだからそれほど急ぐ旅でもなかったのだろう。「夜見る羽目になってしまった」では不平不満の歌になってしまう。「命畏み」(みことかしこみ)を「官命故」と解するとこうなるが、「命畏み」を「官命に感謝し」と解することは出来ないだろうか。少なくとも私はこう解し、歌意を次のように取っている。
「田子の浦は昼見ても飽きない絶景だが、官命のおかげで、こうして夜になっても見られるなんて感謝に堪えません」という歌である。
頭注に「弁基(べんき)の歌」とある。
0298 真土山夕越え行きて廬前の角太川原にひとりかも寝む
(亦打山 暮越行而 廬前乃 角太川原尓 獨可毛将宿)
真土山(まつちやま)は大和と紀伊の国境。廬前(くらさき)の角太川原(すみだがはら)は和歌山県橋本市内の川原。川原に野宿というと、私たち現代人にはびっくり。だが、古代にあっては山中に宿ひとつないことなど少しも珍しいことではない。法師ばかりではなく、一般の古代人にとっては旅の途上での野宿はむしろ常態だったと考えてよい。
「真土山を夕方越えていって廬前(くらさき)の角太川原(すみだがはら)で一人野宿することになるのだろうか」という歌である。
左注に「弁基は或いは春日蔵首老の法師名という」とある。春日蔵首老は56番歌にも同様のことを記した。
0298 真土山夕越え行きて廬前の角太川原にひとりかも寝む
(亦打山 暮越行而 廬前乃 角太川原尓 獨可毛将宿)
真土山(まつちやま)は大和と紀伊の国境。廬前(くらさき)の角太川原(すみだがはら)は和歌山県橋本市内の川原。川原に野宿というと、私たち現代人にはびっくり。だが、古代にあっては山中に宿ひとつないことなど少しも珍しいことではない。法師ばかりではなく、一般の古代人にとっては旅の途上での野宿はむしろ常態だったと考えてよい。
「真土山を夕方越えていって廬前(くらさき)の角太川原(すみだがはら)で一人野宿することになるのだろうか」という歌である。
左注に「弁基は或いは春日蔵首老の法師名という」とある。春日蔵首老は56番歌にも同様のことを記した。
頭注に「大納言大伴卿(おほとものまへつきみ)の歌」とあり、細注に「未詳」とある。大納言大伴といえば安麻呂だが、大伴家持の父の旅人とも考えられる。歌の採録時には旅人は大納言になっていたから。
0299 奥山の菅の葉しのぎ降る雪の消なば惜しけむ雨な降りそね
(奥山之 菅葉凌 零雪乃 消者将惜 雨莫零行年)
「菅(すが)の葉」の菅はヤマスゲのことというが、そうとは言い切れないという説もあって不詳。「しのぎ降る」は「押さえて降る」という意味。要するに覆い被さって美しい雪景色に染まったことを言う。「雨な降りそね」は「な~そ」の禁止形。
「奥山の菅の葉に覆い被さって降り積もった雪が消えるのは惜しい。なので雨よ降らないでおくれ」という歌である。
0299 奥山の菅の葉しのぎ降る雪の消なば惜しけむ雨な降りそね
(奥山之 菅葉凌 零雪乃 消者将惜 雨莫零行年)
「菅(すが)の葉」の菅はヤマスゲのことというが、そうとは言い切れないという説もあって不詳。「しのぎ降る」は「押さえて降る」という意味。要するに覆い被さって美しい雪景色に染まったことを言う。「雨な降りそね」は「な~そ」の禁止形。
「奥山の菅の葉に覆い被さって降り積もった雪が消えるのは惜しい。なので雨よ降らないでおくれ」という歌である。
頭注に「長屋王(ながやのおほきみ)が寧樂山(ならやま)に馬を駐めて作った歌二首」とある。長屋王は四十代天武天皇の孫皇子。奈良山は奈良と京都の県境の山。
0300 佐保過ぎて奈良の手向けに置く幣は妹を目離れず相見しめとぞ
(佐保過而 寧樂乃手祭尓 置幣者 妹乎目不離 相見染跡衣)
佐保は奈良市北部の山。坂上郎女(さかのうへのいらつめ)が居を構えていた所。奈良山はその北、山城国(京都)の国境付近。なので、長屋王は馬で山城方面に向かう途上にあることになる。「手向け」(たむけ)は供えること。幣(ぬさ)はお供え物のこと。峠の頂上に祠(ほこら)ないし地蔵が祀られていたと考えていい。「妹」は妻ないし彼女のこと。
「佐保を過ぎて奈良山の峠に捧げるお供え物は、彼女から離れることなく互いに逢っていられるようにと祈って」という歌である。
0300 佐保過ぎて奈良の手向けに置く幣は妹を目離れず相見しめとぞ
(佐保過而 寧樂乃手祭尓 置幣者 妹乎目不離 相見染跡衣)
佐保は奈良市北部の山。坂上郎女(さかのうへのいらつめ)が居を構えていた所。奈良山はその北、山城国(京都)の国境付近。なので、長屋王は馬で山城方面に向かう途上にあることになる。「手向け」(たむけ)は供えること。幣(ぬさ)はお供え物のこと。峠の頂上に祠(ほこら)ないし地蔵が祀られていたと考えていい。「妹」は妻ないし彼女のこと。
「佐保を過ぎて奈良山の峠に捧げるお供え物は、彼女から離れることなく互いに逢っていられるようにと祈って」という歌である。
0301 岩が根のこごしき山を越えかねて哭には泣くとも色に出でめやも
(磐金之 凝敷山乎 超不勝而 哭者泣友 色尓将出八方)
「岩が根のこごしき山」は「根を張ったように岩がごつごつした山」のこと。その岩山を馬で越すのはさぞかし難渋したであろう。「哭(ね)には泣くとも」は「おいおいと声をだして泣きたくなることはあっても」の意。結句の「色に出でめやも」を文字通り解すると「顔色に出すことがあろうか」となる。この言い方は本人以外の第三者(お付きの者等)を意識しての表現で、弱音を見せないという意味になる。
「根を張ったように岩がごつごつした山を越えかねておいおいと声をだして泣きたくなることはあっても、顔色に出すことがあろうか」という歌である。
(磐金之 凝敷山乎 超不勝而 哭者泣友 色尓将出八方)
「岩が根のこごしき山」は「根を張ったように岩がごつごつした山」のこと。その岩山を馬で越すのはさぞかし難渋したであろう。「哭(ね)には泣くとも」は「おいおいと声をだして泣きたくなることはあっても」の意。結句の「色に出でめやも」を文字通り解すると「顔色に出すことがあろうか」となる。この言い方は本人以外の第三者(お付きの者等)を意識しての表現で、弱音を見せないという意味になる。
「根を張ったように岩がごつごつした山を越えかねておいおいと声をだして泣きたくなることはあっても、顔色に出すことがあろうか」という歌である。
頭注に「中納言安倍廣庭卿(あべのひろにはのまえつきみ)の歌」とある。
0302 子らが家道やや間遠きをぬばたまの夜渡る月に競ひあへむかも
(兒等之家道 差間遠焉 野干<玉>乃 夜渡月尓 競敢六鴨)
「子らが家道(いへぢ)」はの「子ら」は親しみのら。。「ぬばたまの」は枕詞。
「あの娘が住む家までまだ遠い。月が沈む頃までに到着できるだろうか」という歌である。
0302 子らが家道やや間遠きをぬばたまの夜渡る月に競ひあへむかも
(兒等之家道 差間遠焉 野干<玉>乃 夜渡月尓 競敢六鴨)
「子らが家道(いへぢ)」はの「子ら」は親しみのら。。「ぬばたまの」は枕詞。
「あの娘が住む家までまだ遠い。月が沈む頃までに到着できるだろうか」という歌である。
頭注に「柿本朝臣人麻呂、筑紫國に海路で下る時、作った歌二首」とある。筑紫國は福岡県の大部分。
0303 名ぐはしき印南の海の沖つ波千重に隠りぬ大和島根は
(名細寸 稲見乃海之 奥津浪 千重尓隠奴 山跡嶋根者)
「名ぐはしき」は「その名も美しい」である。「印南(いなみ)の海」は明石海峡一帯。大和から遠ざかって明石海峡あたりにさしかかった時の歌。「大和島根」は「大和の山々」のこと。結句の「大和島根は」がぴたっと決まった見事な歌。倒置表現の見本のような素晴らしい歌である。
「その名も美しい印南の海の沖の波が幾重にも重なって、とうとう故郷大和の山々も見えなくなってしまった」という歌である。
0303 名ぐはしき印南の海の沖つ波千重に隠りぬ大和島根は
(名細寸 稲見乃海之 奥津浪 千重尓隠奴 山跡嶋根者)
「名ぐはしき」は「その名も美しい」である。「印南(いなみ)の海」は明石海峡一帯。大和から遠ざかって明石海峡あたりにさしかかった時の歌。「大和島根」は「大和の山々」のこと。結句の「大和島根は」がぴたっと決まった見事な歌。倒置表現の見本のような素晴らしい歌である。
「その名も美しい印南の海の沖の波が幾重にも重なって、とうとう故郷大和の山々も見えなくなってしまった」という歌である。
0304 おほきみの遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ
(大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念)
「おほきみ」はいうまでもなく天皇。その朝廷はむろん大和にあるが、その支庁ともいうべき朝廷が九州太宰府に置かれていた。それを「遠の朝廷」(とほのみかど)と呼んでいた。「とあり通ふ」は「その朝廷に往来すること」をいう。太宰府と大和の間には瀬戸内海の島々があり、当時の官人たちは船で往来していた。島門(しまと)は明石海峡のことで、往来時の出入り口とみなしていた。神代(かみよ)とは『古事記』及び『日本書紀』に記されている神話の時代のこと。
「大君の遠い朝廷として往来する出入り口(明石海峡)を見ると、遠い、遠い神世のことが偲ばれる」という歌である。
(大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念)
「おほきみ」はいうまでもなく天皇。その朝廷はむろん大和にあるが、その支庁ともいうべき朝廷が九州太宰府に置かれていた。それを「遠の朝廷」(とほのみかど)と呼んでいた。「とあり通ふ」は「その朝廷に往来すること」をいう。太宰府と大和の間には瀬戸内海の島々があり、当時の官人たちは船で往来していた。島門(しまと)は明石海峡のことで、往来時の出入り口とみなしていた。神代(かみよ)とは『古事記』及び『日本書紀』に記されている神話の時代のこと。
「大君の遠い朝廷として往来する出入り口(明石海峡)を見ると、遠い、遠い神世のことが偲ばれる」という歌である。
頭注に「高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が近江の旧都を詠んだ歌」とある。
0305 かく故に見じと言ふものを楽浪の旧き都を見せつつもとな
(如是故尓 不見跡云物乎 樂浪乃 舊都乎 令見乍本名)
「楽浪(ささなみ)の旧き都」は31番歌等で記したように、琵琶湖南西部に置かれた大津京のことである。荒んだかっての都を傷む歌。出だしの「かく故に見じと言ふものを」は「だから目にしたくないというのに」という意味。結句の「見せつつもとな」は何だろう。「もとな」は「心もとない」だが、「見せつつ」とは何だろう。諸家はいずれも「見せられる」と受け取っている。黒人に誰が見せたというのだろう。主語が省略されている場合は作者本人というのが和歌の鉄則の筈である。とすると「作者が見せつつ」ということになる。がそれも妙である。今度は誰に見せているのかという問題が発生する。原文は「令見乍本名」であって、やはり「見せつつ」である。つまり「自分に見せながら」(見やりつつ)と解するよりほかなく、反語表現に相違ない。私の歌意は次のとおりである。
「だから目にしたくないというのに、誰が荒れた都を見たいというのだろう。旧都を見やりつつぼんやりしたままなすすべもない」という悲傷極まる歌である。
左注に「右の歌は或本に小弁(せうべん)の歌とある。未だ少弁か黒人か未詳」とある。
(2013年4月10日記、2017年8月23日)
0305 かく故に見じと言ふものを楽浪の旧き都を見せつつもとな
(如是故尓 不見跡云物乎 樂浪乃 舊都乎 令見乍本名)
「楽浪(ささなみ)の旧き都」は31番歌等で記したように、琵琶湖南西部に置かれた大津京のことである。荒んだかっての都を傷む歌。出だしの「かく故に見じと言ふものを」は「だから目にしたくないというのに」という意味。結句の「見せつつもとな」は何だろう。「もとな」は「心もとない」だが、「見せつつ」とは何だろう。諸家はいずれも「見せられる」と受け取っている。黒人に誰が見せたというのだろう。主語が省略されている場合は作者本人というのが和歌の鉄則の筈である。とすると「作者が見せつつ」ということになる。がそれも妙である。今度は誰に見せているのかという問題が発生する。原文は「令見乍本名」であって、やはり「見せつつ」である。つまり「自分に見せながら」(見やりつつ)と解するよりほかなく、反語表現に相違ない。私の歌意は次のとおりである。
「だから目にしたくないというのに、誰が荒れた都を見たいというのだろう。旧都を見やりつつぼんやりしたままなすすべもない」という悲傷極まる歌である。
左注に「右の歌は或本に小弁(せうべん)の歌とある。未だ少弁か黒人か未詳」とある。
(2013年4月10日記、2017年8月23日)
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