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万葉集読解・・・24(306~318番歌)

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     万葉集読解・・・24(306~318番歌)
 頭注に「伊勢國に幸まされたとき、安貴王(あきのおほきみ)が作った歌」とある。四十四代元正天皇の行幸。安貴王は天智天皇の皇子である志貴皇子(しきのみこ)の孫に当たる。
0306   伊勢の海の沖つ白波花にもが包みて妹が家づとにせむ
      (伊勢海之 奥津白浪 花尓欲得 裹而妹之 家裹為)
 「花にもが」は「花であったなら」である。「家づとにせむ」は「手土産にしよう」である。よほど美しい白波であったに相違ない。
 「伊勢の海の沖の白波が花であったなら、包んで妻への手土産にもって帰りたい」という歌である。

 頭注に「「博通法師(はくつうほふし)が紀伊国の三穂の石室を訪れた時作った歌三首」とある。三穂の石室は和歌山県美浜町。博通法師は伝未詳。
0307   はだ薄久米の若子がいましける [一云 けむ] 三穂の石室は見れど飽かぬかも [一云 荒れにけるかも]
      (皮為酢寸 久米能若子我 伊座家留 [一云 家牟] 三穂乃石室者 雖見不飽鴨 [一云 安礼尓家留可毛])
 「はだ薄」(はだすすき)は枕詞。8例ある。久米の若子(わくご)は久米氏の若様と考えてよく、岩屋に祀られていたに相違ない。
 「久米の若様がいらっしゃる([一云「という」)三穂の石室(いわや)は見ても見ても見飽きることがない(一云「荒れてしまったなあ」)」という歌である。

0308   常磐なす石室は今もありけれど住みける人ぞ常なかりける
      (常磐成 石室者今毛 安里家礼騰 住家類人曽 常無里家留)
 第三句の「ありけれど」までは「石室(いわや)は今も昔に変わらず存在しつづけているが」という意味で、諸家一致。が、「住みける人ぞ」の解が奇妙である。諸家揃って祀られている久米の若子としている。この解は奇妙と断定せざるを得ない。岩室が変わらないのは岩が崩れ落ちない限り不変なので見やすい。が、そこに祀られている若子が「常なかりける」とはどいうことだろう。「常なかりける」は無常の意でいいと思うけれど、若子が無常では理解不能だ。石室が常磐ならそこに祀られている若子もまた常磐なること至極当然の筈。岩屋は神社の一種であって、そこに祀られている若子は祭神なのである。すなわち岩屋とは切り離し不可分の存在。岩屋が存在し続ける限り祭神もまた同様だ。
 「住みける人ぞ」は現在の状態。原文にも「住家類人曽」とある。過去のことなら「住尓寸人曽」(住みにき人ぞ)とでも表記されている筈だ。過去の表記を一例だけ掲げてみると、461番歌の結句はちゃんと「雲隠りにき」(原文「雲隠去寸」)となっている。
 「住みける人ぞ」についてくどくどと言及したのはほかでもない。「住みける人」とは祭神若子のことでは決してない。若子を祀った人々ないし岩屋を参拝する人々、つまり作者自身をも含む人々のことに相違ない。
 「石室(いわや)は今も昔に変わらず存在しつづけているが、私どもこの世に住んでいる人間界は無常であることよ」という歌である。

0309   石室戸に立てる松の木汝を見れば昔の人を相見るごとし
      (石室戸尓 立在松樹 汝乎見者 昔人乎 相見如之)
 博通法師の最後の歌である。この歌こそ松の木を久米の若子に見立てて詠っている。石室の戸口に立っている松の木に相対していると、在りし日をしのぶ気持ちに襲われるのはひとり博通法師に限らない。私なども離島に行って岩屋の前に立ったとき、遠い昔の在りし日に思いが及ぶ気にさせられた。
 「石室(いわや)の戸口に立っている松の木よ。お前を見ていると、昔の人に逢っているような気がする」という歌である。

 頭注に「門部王(かどへのおおきみ)が東の市の樹を詠んで作った歌」とあり、細注に「後に大原真人の姓を賜る」とある。門部王は系統不詳。東の市は平城京の東側にあった市。
0310   東の市の植木の木足るまで逢はず久しみうべ恋ひにけり
      (東 市之殖木乃 木足左右 不相久美 宇倍<戀>尓家利)
 門部王(かどへのおおきみ)の歌。この王、
 東(ひむがし)の市(いち)とは平城京の東側にあった市。「木足るまで」は「木が成長するまで」という意味である。幾年もかかって成長した姿のことを言っている。
 「東の市場に植えられた木が成長するまで逢わずにいたのだもの。久しぶりに恋しくなるのも当然だよね」という歌である。

 頭注に「按作村主益人(くらのつくりのすぐりますひと)が豊國から上京してきたとき作った歌」とある。豊國(とよくに)は福岡県から大分県にまたがる一帯の国。
0311   梓弓引き豊国の鏡山見ず久ならば恋しけむかも
      (梓弓 引豊國之 鏡山 不見久有者 戀敷牟鴨)
 「梓弓(あづさゆみ)引き」は「梓弓を引き響(とよ)める」から豊(とよ)にかけた序句。鏡山は福岡県田川郡香春町(かわらまち)の大字名。鏡山神社がある。
 「豊国の見慣れた鏡山を長らく見なくなればさぞかし恋しくなるだろうな」という歌である。

 頭注に「式部卿藤原宇合卿(うまかひのまえつきみ)難波宮を改造せられた時の歌」とある。宇合は藤原不比等の子。
0312   昔こそ難波田舎と言はれけめ今は都引き都びにけり
      (昔者社 難波居中跡 所言奚米 今者京引 都備仁鷄里)
 難波宮は現在の大阪市中央区内。宮は大化の改新時に遡る前期難波宮と平城京の副都として作られた後期難波宮の二つが知られている。頭注に宇合卿の名が見えるので後期難波宮のことと分かる。
 「(前期難波宮が廃れて)昔は田舎と言われた難波宮も今は改造され、今ではすっかり都らしくなってきた」という歌である。

 頭注に「土理宣令(とりのせんりゃう)の歌」とある。宣令は伝不詳。
0313   み吉野の滝の白波知らねども語りし継げばいにしへ思ほゆ
      (見吉野之 瀧乃白浪 雖不知 語之告者 古所念)
 柿本人麻呂は36番長歌の末尾に「水激る瀧の都は見れど飽かぬかも」と詠っている。吉野は渓谷美にあふれていて、水ほとばしる滝の都として有名だったことがうかがえる。
「み吉野の滝の白波はまだ見たことがないので知らないけれど、語り継がれているので旧都がしのばれる」という歌である。

 頭注に「波多朝臣小足(はたのあそみをたり)の歌」とある。小足は伝未詳。
0314   さざれ波磯越道なる能登瀬川音のさやけさたぎつ瀬ごとに
      (小浪 磯越道有 能登湍河 音之清左 多藝通瀬毎尓)
 「さざれ波」は、原文に「小波」とあるように、さざ波(細波)のこと。さざ波が磯(水際)に押し寄せる光景。「磯を越してくる」で越道(こしじ)を導く序と解されている。越道とは、越国(富山、石川、新潟の日本海側一帯を中核とする南北に長い勢力圏)を貫く道のこと。能登瀬川と詠っているから、能登半島を流れる渓谷のことを言っているのであろうか。が、長大な一帯で渓谷は無数にある。どこの川のことか決めがたい。「たぎつ瀬ごとに」とあるから、滝の多い渓谷ならどこでもいいだろう。
 「さざ波が磯を越してくる越道(こしじ)の能登瀬川。どのたぎりたつ瀬の音も清々しい」という歌である。

 頭注に「暮春月の頃、吉野の離宮に幸まされた時、中納言大伴卿、勅を奉って作った歌と短歌」とあり、細注に「未だ奏上を経ない歌」とある。 四十五代聖武天皇の行幸。大伴卿は大伴旅人のこと。大伴家持の父。
0315番 長歌
   み吉野の 吉野の宮は 山からし 貴くあらし 川からし さやけくあらし 天地と 長く久しく 万代に 変はらずあらむ 幸しの宮
   (見吉野之 芳野乃宮者 山可良志 貴有師 <水>可良思 清有師 天地与 長久 萬代尓 不改将有 行幸之<宮>)

  長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「山からし」と「川からし」は「からして」でしは強意。

 (口語訳)
   み吉野の吉野の宮よ。山からして貴く、川からして清らか。天地と共に長く久しく 万代(よろづよ)に変わることはないだろう。大君が幸まされる宮は。

 反 歌
0316   昔見し象の小川を今見ればいよよさやけくなりにけるかも
      (昔見之 象乃小河乎 今見者 弥清 成尓来鴨)
 象(きさ)の小川は吉野川に注ぐ小川。
 「昔見た象の小川を今見ると、いよいよ清らかになっていることよ」という歌である。

 頭注に「山部宿祢赤人(やまべのすくねあかひと)、富士の山を見て作った歌と短歌」とある。赤人は伝未詳なるも自然を詠った代表的万葉歌人。
0317番 長歌
   天地の 別れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は
   (天地之 分時従 神左備手 高貴寸 駿河有 布士能高嶺乎 天原 振放見者 度日之 陰毛隠比 照月乃 光毛不見 白雲母 伊去波伐加利 時自久曽 雪者落家留 語告 言継将徃 不盡能高嶺者)

  富士の容姿を述べた後、「語り継ぎ」以下は一転して後世に語り継げようという歌

 (口語訳)
   世界が天地が別れた時から神々しく、高く貴い駿河(静岡県)の富士の高値を遙か遠くから振り仰いで見ると、空を渡る太陽も隠れ、照る月の光も見えない。白雲も行く手を阻まれ、時となく雪は降り続いている。この富士の高嶺を後世に語り継ぎ 言ひ継いで行こうではないか

 反 歌
0318   田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける
      (田兒之浦従 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留)
 山部赤人のあまりにも有名な代表歌。田子の浦は静岡市南部の浜。北に富士、西に美保の松原を望む景勝地。
 「田子の浦ゆ」は「浦を過ぎて」という意味。古代のこととて何一つ富士を遮る人工造作物はなかっただろうから、実に雄大な情景である。
 「田子の浦を過ぎて仰いで見ると、真っ白な富士の高嶺が見える。高嶺に今雪が降り続いている」という歌である。
          (2013年4月16日記、2017年8月26日記)
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