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万葉集読解・・・55(777~792番歌)

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     万葉集読解・・・55(777~792番歌)
 頭注に「大伴宿祢家持が更に紀女郎(きのいらつめ)に贈った歌五首」とある。
0777   我妹子がやどの籬を見に行かばけだし門より帰してむかも
      (吾妹子之 屋戸乃籬乎 見尓徃者 盖従門 将返却可聞)
 「やどの籬(まがき)」の「やど」はこれまでもたびたび登場したように庭のこと。庭に張り巡らされた垣根のことを言っている。
 「あなたの家の垣根を見に行ったら門の所で追い返されるでしょうね」という歌である。

0778   うつたへに籬の姿見まく欲り行かむと言へや君を見にこそ
      (打妙尓 前垣乃酢堅 欲見 将行常云哉 君乎見尓許曽)
 「うつたへに」は「決して」ないし「必ずしも」という意味。
 「決して垣根が見たくて行こうと言うのではありませんよ。あなたに逢いたいからこそ」という歌である。

0779   板葺の黒木の屋根は山近し明日の日取りて持ちて参ゐ来む
      (板盖之 黒木乃屋根者 山近之 明日取而 持将参来)
 「板葺(いたぶき)の黒木の屋根」は「皮付きの材木で造った板葺の屋根」ということである。「黒木の屋根」が何を意味するのか、どの書にも何の解説もない。おそらく高貴な女性の住む家を意味しているのであろう。相手の女性に対する皮肉歌か。
 「黒木の屋根が必要でしょうから木を伐採するには事欠きません。山も近いことですし、明日にでも持参いたしましょう」という歌である。

0780   黒木取り草も刈りつつ仕へめどいそしきわけとほめむともあらず [一云仕ふとも]
      (黒樹取 草毛苅乍 仕目利 勤和氣登 将譽十方不有 [一云仕登母])
 「いそしきわけ」は原文に「勤和氣」とあるように「勤勉な小僧」という意味である。この和気は、552番歌に「我が君はわけをば死ねと思へかも~」と使われている。この歌もお高くとまっている相手への皮肉歌である。
 「黒木を伐採し、草を刈り取って懸命にお仕えしても勤勉な小僧だとほめて下さいませんよね」という歌である。
 「仕えたとしても」という第三句の異伝句が掲げられているが、歌意に相違が出るわけではない。

0781   ぬばたまの昨夜は帰しつ今夜さへ我れを帰すな道の長手を
      (野干玉能 昨夜者令還 今夜左倍 吾乎還莫 路之長手<呼>)
 「ぬばたまの」はおなじみの枕詞。「昨夜(きぞ)は帰しつ」は「昨夜は私を帰しましたね」、つまり「逢ってくださいませんでしたね」という意味である。
 「昨夜は私に逢って下さらず、帰らざるを得ませんでした。今宵もまた拒否なさいませんように。遠い道のりを通ってお訪ねしているのですから」という歌である。

 頭注に「紀女郎(きのいらつめ)が包んだ物を友に贈った歌」とあり、細注に「女郎の名は小鹿(をが)という」とある。
0782   風高く辺には吹けども妹がため袖さへ濡れて刈れる玉藻ぞ
      (風高 邊者雖吹 為妹 袖左倍所<沾>而 苅流玉藻焉)
 「女郎の名は小鹿(をが)という」という細注だが、643番歌、762番歌にも付いていて、いやでも名の小鹿が印象付けられる。彼女は安貴王(あきのおほきみ)の妻という。
 第三句目に「妹がため」とあるが、別に妹(いもうと)をさしているわけではない。恋人はもとより親しい女性をしばしば妹(いも)と呼んでいたので、この場合は女友達を意味している。
 「風高く辺(へ)には吹けども」は「頭上高く海辺に風が吹きすさぶ日でしたが」という意味である。
 「頭上高く海辺に風が吹きすさぶ日でしたが、(この袋に入っているのは)あなたのために着物の袖さえ濡らして刈り取った玉藻ですよ」という歌である。
 「風吹きすさぶ海岸に入って高貴な女性が玉藻を刈る」とは、まるで絵に描かれたように美しい風景である。印象的な一首といっていい。

 頭注に「大伴家持が娘子(をとめ)に贈った歌三首」とある。
0783   をととしの先つ年より今年まで恋ふれどなぞも妹に逢ひかたき
      (前年之 先年従 至今年 戀跡奈何毛 妹尓相難)
 「逢ひかたき」は「なかなか逢えない」という意味である。
 「一昨年以前から今年までずっとあなたを恋し続けていますが、どうしてなかなか逢えないのでしょう」という歌である。

0784   うつつにはさらにもえ言はず夢にだに妹が手本を卷き寝とし見ば
      (打乍二波 更毛不得言 夢谷 妹之<手>本乎 纒宿常思見者)
 「うつつには」は「現実に」である。「さらにもえ言はず」は「このうえ言うことはありませんが(せめて)」という心情である。
 「現実にとはいいませんが、せめて夢でもいいからあなたの手枕で共寝できたらなあ」という歌である。

0785   我がやどの草の上白く置く露の身も惜しからず妹に逢はずあれば
      (吾屋戸之 草上白久 置露乃 壽母不有惜 妹尓不相有者)
 「我がやどの」は「私の家の庭の」という意味。結句の「妹に逢はずあれば」は反語でかつ倒置表現である。「あなたに逢えないくらいなら」という意味である。
 「我が庭の草の上に置く白露のように、露と消えても惜しい命ではありません。あなたに逢えないくらいなら」という歌である。
 以上、三首が三首とも表現は激しいが、それでいて恋愛ごっこを楽しんでいるような趣がある。

 頭注に「大伴家持が藤原朝臣久須麻呂(ふぢはらのあそみくすまろ)に応えて贈った歌三首」とある。久須麻呂は藤原南家仲麻呂の次男。
0786   春の雨はいやしき降るに梅の花いまだ咲かなくいと若みかも
      (春之雨者 弥布落尓 梅花 未咲久 伊等若美可聞)
 「いやしき降るに」はひらがな表記だとわかりにくいが「いや、頻りに降りますが」という意味である。求婚の寓意だという。「梅の花」は家持の娘の寓意。
 「春の雨はしきりに降り注ぎますが、梅の花はまだ咲くには幼すぎます」という歌である。

0787   夢のごと思ほゆるかも愛しきやし君が使の数多く通へば
      (如夢 所念鴨 愛八師 君之使乃 麻祢久通者)
 「愛(は)しきやし」は、「慕わしい、いとしい」といった意味。「数多(まね)く通へば」は「幾度も訪れてくるので」という意味である。藤原久須麻呂に対する外交辞令歌。
 「あなた様のような方のいとしい使いが幾度もいらしゃるので夢のようです」という歌である。

0788   うら若み花咲きかたき梅を植ゑて人の言繁み思ひぞ我がする
      (浦若見 花咲難寸 梅乎殖而 人之事重三 念曽吾為類)
 「うら若み」は「末(うら)若み」で「枝先がまだ小さくて」の意味である。「人の言(こと)繁み」は「~ので」のみ、「幾度も幾度も求婚なさるので」という意味である。
 「植えてまだ間もない梅の木ゆえまだ簡単に花が咲く筈もない。なのに幾度も求婚なさるので咲くか否か気がかりです」という歌である。

 頭注に「又、家持が藤原朝臣久須麻呂(ふぢはらのあそみくすまろ)に贈った歌二首」とある。
0789   心ぐく思ほゆるかも春霞たなびく時に言の通へば
      (情八十一 所念可聞 春霞 軽引時二 事之通者)
 735番歌の折りに私は「「心ぐく」は他に類例がなく、必ずしも意味が明確でない」と記した。が、本歌にあった。「心ぐく」は春霞のように「晴れやらぬ気分」を言っている。「言(こと)の通へば」は「幾度も求婚なさるので」という意味である。
 「幾度も求婚なさるので春霞のように晴れやらぬ気分でいます」という歌である。

0790   春風の音にし出なばありさりて今ならずとも君がまにまに
      (春風之 聲尓四出名者 有去而 不有今友 君之随意)
 「春風の音にし出なば」は「春風がはっきり音を立てて吹くようになったら」、つまり「成長したら」という意味である。「ありさりて」は「このままにしておいて」ということである。
 「春風がはっきり音を立てて吹くようになる(娘が成長する)まで、今はこのままそっとしておいて下さい。時が来たら、あなた様の気持にお任せいたしましょう」という歌である。

 頭注に「藤原朝臣久須麻呂(ふぢはらのあそみくすまろ)が応えて寄越した歌二首」とある。久須麻呂は藤原南家仲麻呂の次男。
0791   奥山の岩蔭に生ふる菅の根のねもころ我れも相思はざれや
      (奥山之 磐影尓生流 菅根乃 懃吾毛 不相念有哉)
 「ねもころ」は「菅の根の細かさ」からくる用語で、「細やかに」ないし「丁重に」という意味である。ここでは682番歌の「心尽くして」と同様の意。結句の「相思はざれや」は反語表現。
 「奥山の岩蔭に生える菅の根のように、お父上(家持様)と同様私もまたお嬢様に慎重に心尽くして対処しないことがありましょうか」という歌である。 

0792   春雨を待つとにしあらし我がやどの若木の梅もいまだふふめり
      (春雨乎 待<常>二師有四 吾屋戸之 若木乃梅毛 未含有)
 「待つとにしあらし」は「あるらし」で「待っておいでのようですね」という意味である。「ふふめり」は「つぼみのままです」という意味。
 「梅の木(お嬢様)は春雨が降り注ぐのを待っておいでのようですね。我が家の庭の梅の若木もまだ蕾のままです」という歌である。
 以上で、全巻これ相聞歌という巻四の終了である。一部、友人等親しい相手に当てた歌が入っているが、大部分は恋愛歌である。とりわけ、大伴家持及び彼を取り巻く女性たちが織りなす歌が数も多く、色彩豊かである。が、不思議に大伴家持のドンファン的要素は少ない。むしろ大嬢とのやりとりの真剣みが際立っている。どう解釈しようと、各自の自由だが、男女間の丁々発止のやりとりをも含んだ色彩豊かな巻と私には映じた。
           (2013年10月4日記、2017年12月18日記)
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