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万葉集読解・・・2(7~15番歌)

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     万葉集読解・・・2(7~15番歌)               頭注に「明日香の川原宮の御宇(御世)の天皇代」とあり、細注に「天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)」とある。明日香の川原宮は奈良県高市郡明日香村川原にあったとされる。天豊財重日足姫天皇は第三十五代皇極天皇。
 題詞に「額田王(ぬかたのおほきみ)の歌」とあり、細注に「未詳」とある。額田王は大海人皇子(後の第四十代天武天皇)の寵愛を受け、十市皇女を生む。
0007 秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治の宮処の仮廬し思ほゆ
(金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念)
 「み草刈り葺き」は「草を刈り取って仮の屋根にした」という意味である。宇治は京都府宇治市。「仮廬(かりいほ)し」は「仮の家」のこと。しは強意のし。
 「秋の野の草を刈り取って屋根にして泊まった、宇治のあの仮宮(家)が思い出される」という歌である。
 左注に「右は、山上憶良大夫の類聚歌林には、一書に「戊申の年に比良宮に幸(いでま)した時の大御歌」とある。但し紀には「五年春正月、己卯を朔(ついたち)とする月の辛巳の日(正月三日)に天皇は紀伊の温湯から来られ、三月戊寅の月の朔(ついたち)(三月一日)に天皇は吉野宮に幸(いでま)され、肆宴(とよのあかり)をなさった。庚辰の日(三月三日)には天皇、近江の比良の浦に幸(いでま)された」とある。比良宮は滋賀県比良山の麓にあったとされる離宮。
 当時は年月日を干支で表現しており、かつ、毎月のついたちも干支で示されているので長々とした左注になっている。山上憶良(やまのうへのおくら)には編纂歌集「類聚歌林」があったようだ。左注によれば、五年春正月三日は斉明五年(659年)。「紀の温湯」は和歌山県白浜の温泉。なお、「紀には」とあるが、日本紀(日本書紀)を指すかどうかはっきりしない。一番肝心なことはこの左注には「本歌(7番歌)は皇極上皇の御歌」とある。が、頭注には「額田王歌」とある。いずれが正しいのだろう。

 頭注に「後岡本宮の御宇の天皇代、天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)」とあり、細注に「後に後岡本宮で即位したまう」とある。この注は整理してお目にかけないと分からない。先ず、奈良県高市郡明日香村に岡本宮があった。これは第三十四代舒明天皇の宮。その後に同宮で即位したのが三十五代皇極天皇。そして、三十六代孝徳天皇に譲位。その十年後に孝徳天皇が崩御した。そこで皇祖母尊(すめみおやのみこと)となっていた皇極が再度岡本の地に宮を築いて三十七代斉明天皇として即位(同一人物の即位を重祚(ちょうそ)という)する。後岡本宮は重祚後の岡本宮。
 題詞に「額田王の歌」とある。
0008 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
(熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜)
 熟田津(にきたづ)は愛媛県松山市。多くの人々に親しまれている有名な歌のひとつ。
 「熟田津で船に乗ろうと月を待っていたら海面が穏やかになった。さあ、今こそ漕ぎ出そう」という歌である。
 左注に「右は、山上憶良大夫の類聚歌林にはこうある。「飛鳥岡本宮御宇天皇元年(己丑年)九年(丁酉年)十二月(朔(ついたち)を己巳とする壬午の日(十四日)、天皇大后(斉明天皇)は伊豫湯宮(伊予温泉)に幸(いで)ます。後岡本宮の天皇の御代(斉明天皇)七年(辛酉年)春正月(朔(ついたち)を丁酉とする壬寅の日(六日)、御船、西方の海路に就く。庚戌の日(十四日)御船は伊予の熟田津に停泊。その温泉に行宮(かりのみや)をなさった。天皇、在りし昔からある景物をご覧になり、当時に感愛の情を抱かれ、故に歌を作られ、哀傷したまう」と・・・。すなわち、この歌は斉明天皇の御歌なり、但し、額田王の歌がこれとは別に四首あり」とある。この左注は長々としていて、読み取り難い。できるだけ原意を尊重しながら、最小限の解説を入れ、そのまま一読出来るように工夫したつもりである。

 頭注に「斉明天皇、紀伊の温泉に幸(いで)まされた時、額田王が作った歌」とある。
0009 莫囂円隣之大相七兄爪謁気我が背子がい立たせりけむ厳橿が本
(莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本)
 最初の上二句「莫囂円隣之大相七兄爪謁気」は難訓とされ詠みが不詳。ただ後半に「わが君がお立ちになっていらした橿(かし)の木の下」とあるのでそれに相応しい二句の筈。根拠はないが、私は「莫囂圓隣之」を「静まりし」と、「大相七兄爪謁気」を「たなびける岬(さき)」と詠み、朝の海辺の静まりかえった光景と解したい。
 「しんと静まった朝の岬、白雲がたなびいている。わが君がお立ちになっていらした橿(かし)の木の下に」という歌である。

 頭注に「中皇命、紀伊の温泉にいらっしゃったときの御歌」とある。
0010 君が代も我が代も知るや岩代の岡の草根をいざ結びてな
(君之齒母 吾代毛所知哉 磐代乃 岡之草根乎 去来結手名)
 「君が代も我が代も知るや」であるが、「岩波大系本」は「君の寿命も私の寿命も支配している」と解している。要するに「代」を寿命と解している。この解を引き継いだのか「中西本」も「伊藤本」も同様に解している。が、「君が寿命も私の寿命も支配している」とは何だろう。寿命など「神のみぞ知る」の筈。どこかぴんと来ない解である。「岩代の岡」は和歌山県日高郡南部町岩代の岡。私は「代」を「世」と解し「君と共に生きてきた人々、私と共に生きてきた人々」つまり生きてきた世間と解したい。
 「世間の人々は岩代の岡にそっと寄り添っている私たちのことを誰か知っているでしょうか。草の根を結びつけてしっかりと絆を結びましょう」という歌である。

0011 我が背子は仮廬作らす草なくは小松が下の草を刈らさね
(吾勢子波 借廬作良須 草無者 小松下乃 草乎苅核)
 旅先での歌。草は萱(かや)。「仮廬(かりいほ)」はむろん一夜の仮の屋。「二人だけの仮の宿ですもの、貧しくっても」という心情がこもった歌。
 「あなたは萱(かや)で仮屋をお作りになろうとなさる。でも、相応しい萱がなければ近くの松の下の草をかり集めてお作りになるだけでよろしいじゃありませんか」という歌である。

0012 我が欲りし野島は見せつ底深き阿胡根の浦の玉ぞ拾はぬ [或いは頭に云う 「我が欲りし子島は見しを」と]
    (吾欲之 野嶋波見世追 底深伎 阿胡根能浦乃 珠曽不拾 ) [或頭云 吾欲 子嶋羽見遠] 
 「我が欲りし野島は見せつ」は「あれが見たいと思っていた野島ですね。見せていただいたあの島が」という意味。野島は和歌山県御坊市の島。「阿胡根の浦」は所在不詳。玉は真珠。
 「あれが見たいと思っていた野島ですね。見せていただいたあの島が。でも、底まで透き通っている美しい阿胡根の浦の玉を拾うのはこれからですね」という歌である。
 左注に「右は、山上憶良大夫の類聚歌林に、天皇の御製歌云々」とある。類聚歌林は歌集。天皇は三十七代斉明天皇。
 異伝歌には「野島は見せつ」の部分が「子島は見しを」となっている。子島は不詳。

 頭注に「中大兄、近江宮御宇天皇三つの山の歌」とある。中大兄(なかのおほえ)は三十八代天智天皇。近江宮は滋賀県の大津にあった都。
0013番長歌
  香具山は 畝傍を愛しと 耳成と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古も しかにあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき
(高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相<挌>良思吉)

  長歌は用語の解説を最小限にとどめる。三山は大和三山のことで、奈良県橿原市(かしはらし)にある香具山、畝傍(うねび)山、耳成(みみなし)山のこと。「うつせみ」は「今の世」のこと。

 (口語訳)
 香具山は畝傍山を愛しいと、耳成山と相争ってきた。神代からこうであったらしいし、いにしえの昔からもそうであった。なので、今でも妻を争っているらしいではないか。

 反歌
0014 香具山と耳成山と闘ひし時立ちて見に来し印南国原
(高山与 耳梨山与 相之時 立見尓来之 伊奈美國波良)
 「印南国原」は兵庫県明石から加古川にかけての平野を指すようである。この地で香具山と耳成山が闘ったという伝説が伝えられている。播磨風土記によれば、出雲の国の阿菩(あぼ)の大がこの争いを見にやってきたという。したがって、「立ちて見に来し」はこの阿菩の大ということになる。
 「香具山と耳成山が印南国原で闘ったとき、立って見に来た大がいる」という歌である。
 本歌は中大兄皇子(天智天皇)作とされており、額田王を巡る大海人皇子(天武天皇)との心理的軋轢を含んでいるとも解せられ、そうなると、俄然興趣がつきない。
 額田王はよほどの才媛であり、よほどの美人であったようだ。

0015 海神の豊旗雲に入日さし今夜の月夜さやけくありこそ
(渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比<紗>之 今夜乃月夜 清明己曽)
 「海神の」は「わたつみの」と読む。「わたつみの」で始まる歌は12。これにかかる語は沖や海。問題は原文に見える表記である。本歌は「渡津海乃」となっているが、他の歌では「和多都民能」、「海若之」、ただの「海神」等と様々に表記されている。
 ここにいう「わたつみの」は遙か沖合の意。落日の光景が目に浮かぶ、まるでメルヘンの国のような美しい歌である。豊旗雲の豊(とよ)は美称。「たなびく旗のような雲」のこと。
 「遙か沖合の豊旗雲に入日が射し、今夜の月はさぞかし清らかな光を放つだろう」という歌である。
 左注に「本歌は反歌に似つかわしくない。が、原本には反歌として、ここに載せているので、今もここに載せる。「紀」には「天豊財重日足姫天皇四年(乙巳年)、皇太子を立てて天皇となす」という。」とある。天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)は第三十五代皇極天皇。皇太子は三十八代天智天皇。
         (2013年1月23日記、2017年5月24日記。)
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