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そ の 58 へ
万葉集読解・・・57(802~811番歌)
頭注に「子等を偲ぶ歌、併せて序」とある。序は大略以下の通り。
「釈迦如来は説かれた。『衆生を思うはわが子ラゴラを思うのと同じ』と、・・・。さらに、『子以上の愛はない』と、・・・。釈迦如来でさえこうだから、凡百の我々の誰が子をいとしく思わないというのだろう。」
0802番 長歌
瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものぞ まなかひに もとなかかりて 安寐し寝なさぬ
(宇利<波><米婆> 胡藤母意母保由 久利波米婆 麻斯提斯農波由 伊豆久欲利 枳多利斯物能曽 麻奈迦比尓 母等奈可可利提 夜周伊斯奈佐農)
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万葉集読解・・・57(802~811番歌)
頭注に「子等を偲ぶ歌、併せて序」とある。序は大略以下の通り。
「釈迦如来は説かれた。『衆生を思うはわが子ラゴラを思うのと同じ』と、・・・。さらに、『子以上の愛はない』と、・・・。釈迦如来でさえこうだから、凡百の我々の誰が子をいとしく思わないというのだろう。」
0802番 長歌
瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものぞ まなかひに もとなかかりて 安寐し寝なさぬ
(宇利<波><米婆> 胡藤母意母保由 久利波米婆 麻斯提斯農波由 伊豆久欲利 枳多利斯物能曽 麻奈迦比尓 母等奈可可利提 夜周伊斯奈佐農)
長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「まなかひに」は「まのあたりに」という意味。「もとなかかりて」は「しきりに」という意味である。
(口語訳)
「(我が子が)ウリを食べていると可愛らしく、栗を食べているといっそう可愛く、子供というのはどこからやってきたのだろう。まのあたりにちらついてしきりに思い出され、安心して眠られない」
「(我が子が)ウリを食べていると可愛らしく、栗を食べているといっそう可愛く、子供というのはどこからやってきたのだろう。まのあたりにちらついてしきりに思い出され、安心して眠られない」
反 歌
0803 銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも
(銀母 金母玉母 奈尓世武尓 麻佐礼留多可良 古尓斯迦米夜母)
本歌は山上憶良の歌といえば真っ先に思い浮かぶほど有名な代表作である。
念のために上二句の訓みを示しておくと「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も」である。代表作とされることが多いため、本歌は単独に取り上げられて解釈されることが多い。このままだとここにいう「子にしかめやも」の「子」は山上憶良の子と解したくなる。そう解すると、本歌を詠んだ時の山上憶良の69歳という年齢が大きな謎として残る。現代でも高齢者に入るが、当時は超々高齢者。本歌は憶良自身の子を詠ったわけではない。
が、本歌が追善供養歌として旅人に奉られた歌と知れば何の疑問も湧かない。ここにいう「子」は一般的な「子」であり、同時に旅人の「子」のことを指しているのである。妻亡き後、旅人は飲んだくれ、酔いつぶれて帰宅しなかった日々があったのだろう。「息子さんを大切にしなさいよ」という一種の説教歌なのである。
「銀も金も真珠もどうして子にまさる宝はあるだろうか」という歌である。
0803 銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも
(銀母 金母玉母 奈尓世武尓 麻佐礼留多可良 古尓斯迦米夜母)
本歌は山上憶良の歌といえば真っ先に思い浮かぶほど有名な代表作である。
念のために上二句の訓みを示しておくと「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も」である。代表作とされることが多いため、本歌は単独に取り上げられて解釈されることが多い。このままだとここにいう「子にしかめやも」の「子」は山上憶良の子と解したくなる。そう解すると、本歌を詠んだ時の山上憶良の69歳という年齢が大きな謎として残る。現代でも高齢者に入るが、当時は超々高齢者。本歌は憶良自身の子を詠ったわけではない。
が、本歌が追善供養歌として旅人に奉られた歌と知れば何の疑問も湧かない。ここにいう「子」は一般的な「子」であり、同時に旅人の「子」のことを指しているのである。妻亡き後、旅人は飲んだくれ、酔いつぶれて帰宅しなかった日々があったのだろう。「息子さんを大切にしなさいよ」という一種の説教歌なのである。
「銀も金も真珠もどうして子にまさる宝はあるだろうか」という歌である。
頭注に「世の中の住(とど)まり難きを哀しむ歌併せて序」とある。序は大略以下の通り。
「襲われやすく払いのけ難いのは、老い、病、死、別離等の八大辛苦であり、尽きやすいのは寿命や賞樂である。これは古人の嘆いたところだが、今も同じだ。白髪加わる老いの嘆きを払わんとする歌」
0804番 長歌
世間の すべなきものは 年月は 流るるごとし とり続き 追ひ来るものは 百種に 迫め寄り来る 娘子らが 娘子さびすと 唐玉を 手本に巻かし [白妙の 袖振り交はし 紅の 赤裳裾引き] よち子らと 手携はりて 遊びけむ 時の盛りを 留みかね 過ぐしやりつれ 蜷の腸 か黒き髪に いつの間か 霜の降りけむ 紅の [丹のほなす] 面の上に いづくゆか 皺が来りし [常なりし 笑まひ眉引き 咲く花の 移ろひにけり 世間は かくのみならし] ますらをの 男さびすと 剣太刀 腰に取り佩き さつ弓を 手握り持ちて 赤駒に 倭文鞍うち置き 這ひ乗りて 遊び歩きし 世間や 常にありける 娘子らが さ寝す板戸を 押し開き い辿り寄りて 真玉手の 玉手さし交へ さ寝し夜の いくだもあらねば 手束杖 腰にたがねて か行けば 人に厭はえ かく行けば 人に憎まえ 老よし男は かくのみならし たまきはる 命惜しけど 為むすべもなし
(世間能 周弊奈伎物能波 年月波 奈何流々其等斯 等利都々伎 意比久留<母>能波 毛々久佐尓 勢米余利伎多流 遠等n良何 遠等n佐備周等 可羅多麻乎 多母等尓麻可志 [或有此句云 之路多倍乃 袖布利可伴之 久礼奈為乃 阿可毛須蘇?伎] 余知古良等 手多豆佐波利提 阿蘇比家武 等伎能佐迦利乎 等々尾迦祢 周具斯野利都礼 美奈乃和多 迦具漏伎可美尓 伊都乃麻可 斯毛乃布利家武 久礼奈為能 [一云 尓能保奈須] 意母提乃宇倍尓 伊豆久由可 斯和何伎多利斯 [一云 都祢奈利之 恵麻比麻欲?伎 散久伴奈能 宇都呂比<尓>家利 余乃奈可伴 可久乃未奈良之] 麻周羅遠乃 遠刀古佐備周等 都流伎多智 許志尓刀利波枳 佐都由美乎 多尓伎利物知提 阿迦胡麻尓 志都久良宇知意伎 波比能利提 阿蘇比阿留伎斯 余乃奈迦野 都祢尓阿利家留 遠等n良何 佐那周伊多斗乎 意斯比良伎 伊多度利与利提 麻<多麻>提乃 多麻提佐斯迦閇 佐祢斯欲能 伊久陀母阿羅祢婆 多都可豆<恵> 許志尓多何祢提 可由既婆 比等尓伊等波延 可久由既婆 比等尓邇久<麻>延 意余斯遠波 迦久能尾奈良志 多麻枳<波>流 伊能知遠志家騰 世武周弊母奈新)
「襲われやすく払いのけ難いのは、老い、病、死、別離等の八大辛苦であり、尽きやすいのは寿命や賞樂である。これは古人の嘆いたところだが、今も同じだ。白髪加わる老いの嘆きを払わんとする歌」
0804番 長歌
世間の すべなきものは 年月は 流るるごとし とり続き 追ひ来るものは 百種に 迫め寄り来る 娘子らが 娘子さびすと 唐玉を 手本に巻かし [白妙の 袖振り交はし 紅の 赤裳裾引き] よち子らと 手携はりて 遊びけむ 時の盛りを 留みかね 過ぐしやりつれ 蜷の腸 か黒き髪に いつの間か 霜の降りけむ 紅の [丹のほなす] 面の上に いづくゆか 皺が来りし [常なりし 笑まひ眉引き 咲く花の 移ろひにけり 世間は かくのみならし] ますらをの 男さびすと 剣太刀 腰に取り佩き さつ弓を 手握り持ちて 赤駒に 倭文鞍うち置き 這ひ乗りて 遊び歩きし 世間や 常にありける 娘子らが さ寝す板戸を 押し開き い辿り寄りて 真玉手の 玉手さし交へ さ寝し夜の いくだもあらねば 手束杖 腰にたがねて か行けば 人に厭はえ かく行けば 人に憎まえ 老よし男は かくのみならし たまきはる 命惜しけど 為むすべもなし
(世間能 周弊奈伎物能波 年月波 奈何流々其等斯 等利都々伎 意比久留<母>能波 毛々久佐尓 勢米余利伎多流 遠等n良何 遠等n佐備周等 可羅多麻乎 多母等尓麻可志 [或有此句云 之路多倍乃 袖布利可伴之 久礼奈為乃 阿可毛須蘇?伎] 余知古良等 手多豆佐波利提 阿蘇比家武 等伎能佐迦利乎 等々尾迦祢 周具斯野利都礼 美奈乃和多 迦具漏伎可美尓 伊都乃麻可 斯毛乃布利家武 久礼奈為能 [一云 尓能保奈須] 意母提乃宇倍尓 伊豆久由可 斯和何伎多利斯 [一云 都祢奈利之 恵麻比麻欲?伎 散久伴奈能 宇都呂比<尓>家利 余乃奈可伴 可久乃未奈良之] 麻周羅遠乃 遠刀古佐備周等 都流伎多智 許志尓刀利波枳 佐都由美乎 多尓伎利物知提 阿迦胡麻尓 志都久良宇知意伎 波比能利提 阿蘇比阿留伎斯 余乃奈迦野 都祢尓阿利家留 遠等n良何 佐那周伊多斗乎 意斯比良伎 伊多度利与利提 麻<多麻>提乃 多麻提佐斯迦閇 佐祢斯欲能 伊久陀母阿羅祢婆 多都可豆<恵> 許志尓多何祢提 可由既婆 比等尓伊等波延 可久由既婆 比等尓邇久<麻>延 意余斯遠波 迦久能尾奈良志 多麻枳<波>流 伊能知遠志家騰 世武周弊母奈新)
「娘子(をとめ)さびすと」は「娘子らしく」ということ、「男さびすと」も同様である。「よち子」は「同年輩の子」という意味。「蜷の腸(みなのわた)」は「タニシの腸」のことで、全部で5例ある。すべて「か黒き(し)髪に」と続くので、枕詞としてもいいが、単純に「蜷の腸のように」という形容にとってもいい。「倭文(しつ)鞍うち置き」は「倭文(しつ)織りの布を鞍に敷いて」という意味である。倭文(しつ)織りは日本古来の織物。
(口語訳)
世の中の何ともならないものは、年月は流れゆき、つれて種々の変化がが押し寄せてくることである。
娘子(をとめ)が娘子らしく外国製の玉を手首に巻いて(あるいは真っ白な袖を振り交わし、真っ赤な裳すそをひきずって)、同年輩の子らと手を携えて遊んでいた娘子たちも、時の盛りを留めかね、やり過ごしてしまうと、タニシの腸のように黒かった髪の毛も、いつの間にか白髪がまじりくる。ほの紅かった顔にはいつの頃からか皺が寄ってくる。変わりなく見えた笑顔で眉を引いていたのも、咲く花が散っていくようになる。世の中というのはこんなものなのだろう。
男らしく剣太刀(つるぎたち)を腰に帯び、狩りの弓を手に握りしめ、倭文(しつ)織りの布を敷いた馬の鞍に這いまたがって遊び歩いた世の中もいつまで続いただろう。娘子たちが寝ている板戸を押し開き、探り寄せて手を交わし合い、共寝した夜はいくらもないのに、いつのまにか杖を握りしめて、腰にあてがい、とぼとぼ行けば、人に厭われ、よぼよぼ歩めば人に嫌われる。老いれば人はこんなものらしい。命は惜しいけれど、止める手だてはない。
世の中の何ともならないものは、年月は流れゆき、つれて種々の変化がが押し寄せてくることである。
娘子(をとめ)が娘子らしく外国製の玉を手首に巻いて(あるいは真っ白な袖を振り交わし、真っ赤な裳すそをひきずって)、同年輩の子らと手を携えて遊んでいた娘子たちも、時の盛りを留めかね、やり過ごしてしまうと、タニシの腸のように黒かった髪の毛も、いつの間にか白髪がまじりくる。ほの紅かった顔にはいつの頃からか皺が寄ってくる。変わりなく見えた笑顔で眉を引いていたのも、咲く花が散っていくようになる。世の中というのはこんなものなのだろう。
男らしく剣太刀(つるぎたち)を腰に帯び、狩りの弓を手に握りしめ、倭文(しつ)織りの布を敷いた馬の鞍に這いまたがって遊び歩いた世の中もいつまで続いただろう。娘子たちが寝ている板戸を押し開き、探り寄せて手を交わし合い、共寝した夜はいくらもないのに、いつのまにか杖を握りしめて、腰にあてがい、とぼとぼ行けば、人に厭われ、よぼよぼ歩めば人に嫌われる。老いれば人はこんなものらしい。命は惜しいけれど、止める手だてはない。
反 歌
0805 常磐なすかくしもがもと思へども世の事なれば留みかねつも
(等伎波奈周 <迦>久斯母何母等 意母閇騰母 余能許等奈礼婆 等登尾可祢都母)
「常磐(ときは)なす」は「岩のように永遠不変に」という意味。「かくしもがも」は「こうありたいと願う」ことである。
「岩のように永遠不変でありたいと思っても(老いや死)は世の常、留めようがない」という歌である。
左注に「神龜五年(728年)七月廿一日、嘉摩郡にて撰定 筑前國守(つくしのみちのくのくにのかみ)山上憶良」とある。嘉摩郡(かまのこほり)は福岡県嘉麻市。
0805 常磐なすかくしもがもと思へども世の事なれば留みかねつも
(等伎波奈周 <迦>久斯母何母等 意母閇騰母 余能許等奈礼婆 等登尾可祢都母)
「常磐(ときは)なす」は「岩のように永遠不変に」という意味。「かくしもがも」は「こうありたいと願う」ことである。
「岩のように永遠不変でありたいと思っても(老いや死)は世の常、留めようがない」という歌である。
左注に「神龜五年(728年)七月廿一日、嘉摩郡にて撰定 筑前國守(つくしのみちのくのくにのかみ)山上憶良」とある。嘉摩郡(かまのこほり)は福岡県嘉麻市。
以上、800番歌~805番歌までの歌は大伴旅人の妻の死後百日ほど経て行われた追善供養用に詠われたものらしく、要は旅人に、いつまでもうじうじして子を放置していないで元気を出しなさいと励ます歌である。
頭注に「本歌と次歌の二首は大伴旅人の歌」とある。
0806 龍の馬も今も得てしかあをによし奈良の都に行きて来むため
(多都能馬母 伊麻勿愛弖之可 阿遠尓与志 奈良乃美夜古尓 由吉帝己牟丹米)
「龍の馬も今も得てしか」は「今すぐにでも竜の背にまたがり」という意味である。「あをによし」はお馴染みの枕詞。
「竜を馬の背にして今すぐ、故郷の奈良の都にすっとんでいきたい」という歌である。
0806 龍の馬も今も得てしかあをによし奈良の都に行きて来むため
(多都能馬母 伊麻勿愛弖之可 阿遠尓与志 奈良乃美夜古尓 由吉帝己牟丹米)
「龍の馬も今も得てしか」は「今すぐにでも竜の背にまたがり」という意味である。「あをによし」はお馴染みの枕詞。
「竜を馬の背にして今すぐ、故郷の奈良の都にすっとんでいきたい」という歌である。
0807 うつつには逢ふよしもなしぬばたまの夜の夢にを継ぎて見えこそ
(宇豆都仁波 安布余志勿奈子 奴婆多麻能 用流能伊昧仁越 都伎提美延許曽)
「うつつには」は「現実には」である。「ぬばたまの」は枕詞。前歌も本歌も遇いたい相手の名は不記載なので誰に宛てた歌なのか不明。
「現実にはお逢いする術はありませんが、せめて夢の中ででもお逢いしたいものです」という歌である。
(宇豆都仁波 安布余志勿奈子 奴婆多麻能 用流能伊昧仁越 都伎提美延許曽)
「うつつには」は「現実には」である。「ぬばたまの」は枕詞。前歌も本歌も遇いたい相手の名は不記載なので誰に宛てた歌なのか不明。
「現実にはお逢いする術はありませんが、せめて夢の中ででもお逢いしたいものです」という歌である。
頭注に「答歌二首」とある。
0808 龍の馬を我れは求めむあをによし奈良の都に来む人のたに
(多都乃麻乎 阿礼波毛等米牟 阿遠尓与志 奈良乃美夜古邇 許牟比等乃多仁)
「あをによし」は枕詞。末尾の「たに」は「ために」という意味である。
「奈良の都にすっ飛んで来るお方のために竜の馬を探しとうございます」という歌である。
0808 龍の馬を我れは求めむあをによし奈良の都に来む人のたに
(多都乃麻乎 阿礼波毛等米牟 阿遠尓与志 奈良乃美夜古邇 許牟比等乃多仁)
「あをによし」は枕詞。末尾の「たに」は「ために」という意味である。
「奈良の都にすっ飛んで来るお方のために竜の馬を探しとうございます」という歌である。
0809 直に逢はずあらくも多く敷栲の枕去らずて夢にし見えむ
(多陀尓阿波須 阿良久毛於保久 志岐多閇乃 麻久良佐良受提 伊米尓之美延牟)
「直(ただ)に逢はず」は「直接お逢い出来ない日々」である。「あらくも多く」は「そうしたことが多く」という意味。「敷栲(しきたへ)の」は枕詞。「夢にし」は強意のし。
「直接お逢い出来ない日々が重なり、枕元を去らずにあなた様を夢に見ていましょう」という歌である。
以下は「大伴淡等(旅人)の書状」。
「大伴旅人(おおとものたびと)謹んで申し上げます。梧桐の大和琴一面。對馬の結石山(ゆふしやま)(長崎県対馬市最北端)の孫枝(木の枝)で出来た琴です。
この琴、夢に娘子になって言うことには、『私は遙か島の高い山に根を張り、幹を太陽の光にさらしてきました。そして長い間、靄(もや)や霞(かすみ)に覆われ、風や波を眺め、伐られることもなく、時を過ごしました。このままだと、百年後には虚しく朽ち果てるところでした。ところがある時、琴作りの名手の目にとまり、小さな琴になりました。音も悪く音も小さいささやかな琴ですが、立派なお方の愛用になればと思っています』と・・・。そして、次のような歌を作りました」
0810 いかにあらむ日の時にかも声知らむ人の膝の上我が枕かむ
(伊可尓安良武 日能等伎尓可母 許恵之良武 比等能比射乃倍 和我麻久良可武)
「声知らむ」は「私の音色を聞き分ける」という意味である。「我が枕かむ」「私の枕になって」ということである。
「いつの日にか私の音色を聞き分けて下さるお方の膝に乗って枕にすることが出来るでしょう」という歌である。
(多陀尓阿波須 阿良久毛於保久 志岐多閇乃 麻久良佐良受提 伊米尓之美延牟)
「直(ただ)に逢はず」は「直接お逢い出来ない日々」である。「あらくも多く」は「そうしたことが多く」という意味。「敷栲(しきたへ)の」は枕詞。「夢にし」は強意のし。
「直接お逢い出来ない日々が重なり、枕元を去らずにあなた様を夢に見ていましょう」という歌である。
「大伴旅人(おおとものたびと)謹んで申し上げます。梧桐の大和琴一面。對馬の結石山(ゆふしやま)(長崎県対馬市最北端)の孫枝(木の枝)で出来た琴です。
この琴、夢に娘子になって言うことには、『私は遙か島の高い山に根を張り、幹を太陽の光にさらしてきました。そして長い間、靄(もや)や霞(かすみ)に覆われ、風や波を眺め、伐られることもなく、時を過ごしました。このままだと、百年後には虚しく朽ち果てるところでした。ところがある時、琴作りの名手の目にとまり、小さな琴になりました。音も悪く音も小さいささやかな琴ですが、立派なお方の愛用になればと思っています』と・・・。そして、次のような歌を作りました」
0810 いかにあらむ日の時にかも声知らむ人の膝の上我が枕かむ
(伊可尓安良武 日能等伎尓可母 許恵之良武 比等能比射乃倍 和我麻久良可武)
「声知らむ」は「私の音色を聞き分ける」という意味である。「我が枕かむ」「私の枕になって」ということである。
「いつの日にか私の音色を聞き分けて下さるお方の膝に乗って枕にすることが出来るでしょう」という歌である。
そこで、私旅人は琴娘子に成り代わって、次のように詠いました。
0811 言とはぬ木にはありともうるはしき君が手馴れの琴にしあるべし
(許等々波奴 樹尓波安里等母 宇流波之吉 伎美我手奈礼能 許等尓之安流倍志)
「言(こと)とはぬ」は「もの言わぬ」である。
「これはもの言わぬ木の琴ですが、あなた様のような立派な方の愛用の琴になりたいと願っています」という歌である。
琴娘子は「大変ありがたいお言葉」と答えた。しばらくして、夢から目覚め、琴娘子の言葉に感激して黙っておられず、こうして使いの人に書状とともに琴を進呈致します。
天平元年(729年)十月七日 謹通中衛高明閤下(藤原房前(ふじはらのふさざき)。
以上、810番歌と811番歌は大伴旅人の書状の中で詠われている。目上の人に琴を贈るのに、今日の目から見れば馬鹿丁寧な書状だが、当時の書状の一つの見本となる。
(2013年11月1日記、2017年12月25日記)
0811 言とはぬ木にはありともうるはしき君が手馴れの琴にしあるべし
(許等々波奴 樹尓波安里等母 宇流波之吉 伎美我手奈礼能 許等尓之安流倍志)
「言(こと)とはぬ」は「もの言わぬ」である。
「これはもの言わぬ木の琴ですが、あなた様のような立派な方の愛用の琴になりたいと願っています」という歌である。
琴娘子は「大変ありがたいお言葉」と答えた。しばらくして、夢から目覚め、琴娘子の言葉に感激して黙っておられず、こうして使いの人に書状とともに琴を進呈致します。
天平元年(729年)十月七日 謹通中衛高明閤下(藤原房前(ふじはらのふさざき)。
以上、810番歌と811番歌は大伴旅人の書状の中で詠われている。目上の人に琴を贈るのに、今日の目から見れば馬鹿丁寧な書状だが、当時の書状の一つの見本となる。
(2013年11月1日記、2017年12月25日記)
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