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万葉集読解・・・58ー1(812~814番歌)
大伴旅人から丁重な書状とともに琴を贈られた藤原房前(ふじはらのふさざき)の礼状。房前は藤原不比等の子で、藤原四家の祖。旅人の上司。礼状の大略以下の通り。
「ご丁重な書簡をたまわり、ただただ嬉しく存じます。卑しいこの身に御琴をたまわり、貴下への心情は旧来の百倍に増しました。ここに拙い歌を奉ります。房前謹状 十一月八日」
0812 言とはぬ木にもありとも我が背子が手馴れの御琴地に置かめやも
(許等騰波奴 紀尓茂安理等毛 和何世古我 多那礼之美巨騰 都地尓意加米移母)
「言とはぬ木にもありとも」は大伴旅人の前歌を承けたもの。「もの言わぬ木の琴ですが」という意味。「手馴(たな)れの御琴(みこと)」は「大切になさっていた琴」という意味である。「地に置かめやも」は現代でも大切な子や孫の形容に使われる表現。
「もの言わぬ琴でありましても貴下が大切にされていたお琴、誰が粗末にいたしましょうぞ」という歌である。
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万葉集読解・・・58ー1(812~814番歌)
大伴旅人から丁重な書状とともに琴を贈られた藤原房前(ふじはらのふさざき)の礼状。房前は藤原不比等の子で、藤原四家の祖。旅人の上司。礼状の大略以下の通り。
「ご丁重な書簡をたまわり、ただただ嬉しく存じます。卑しいこの身に御琴をたまわり、貴下への心情は旧来の百倍に増しました。ここに拙い歌を奉ります。房前謹状 十一月八日」
0812 言とはぬ木にもありとも我が背子が手馴れの御琴地に置かめやも
(許等騰波奴 紀尓茂安理等毛 和何世古我 多那礼之美巨騰 都地尓意加米移母)
「言とはぬ木にもありとも」は大伴旅人の前歌を承けたもの。「もの言わぬ木の琴ですが」という意味。「手馴(たな)れの御琴(みこと)」は「大切になさっていた琴」という意味である。「地に置かめやも」は現代でも大切な子や孫の形容に使われる表現。
「もの言わぬ琴でありましても貴下が大切にされていたお琴、誰が粗末にいたしましょうぞ」という歌である。
頭書に長い前文がついている。この前文には作者名が記されていない、が、万葉集には各巻に目録が付いている。その目録に山上憶良の名が記されている。前文は以下のとおり。
「筑前國怡土郡深江村の子負原(福岡県糸島市筑前深江駅南西部)海に臨む岡の上に二つの石がある。大きい石は長さ一尺二寸六分(38センチ)、周囲一尺八寸六分(56センチ)、重さ十八斤五兩(11キロ)、小さい石は長さ一尺一寸(33センチ)、周囲一尺八寸(54センチ)、重さ十六斤十兩(10)キロ)ある。共に楕円形で、鶏の卵のように美しく立派で、口ではとても言い表せない。世にいう「径尺の玉」というはこのことをいうのだろう。細字で(或いは「この二石はもと肥前國彼杵郡平敷(長崎県長崎市浦上あたり)にあった石で、占いによって取り寄せた」とも言う)とある。石は深江の駅家(うまや。馬で公用で往来するための宿泊施設)から二十里(当時の里で13キロほどに当たる)ほどの道のほとりにあり、公私の往来の際、馬から下りて拝まない人はいなかった。
古老の伝えによるとこうである。『昔、神功皇后が新羅を征討なさった時、この二つの石を御袖』の中に入れ、御心のしずめとなさった。細字で(実際は御裳裾の中)とある。往来する人がこの石を拝むのはこうした次第である。そこで作った歌」
神功皇后(じんぐうこうごう)は十四代仲哀天皇の皇后であり、十五代応神天皇の母でもある。
前文を用語の解説も付して詳細に記したのは、駅家制度や神功皇后伝説等々当時の制度や風聞の一端が詳細に述べられているからである。
0813番 長歌
かけまくは あやに畏し 足日女 神の命 韓国を 向け平らげて 御心を 鎮めたまふと い取らして 斎ひたまひし 真玉なす 二つの石を 世の人に 示したまひて 万代に 言ひ継ぐかねと 海の底 沖つ深江の 海上の 子負の原に 御手づから 置かしたまひて 神ながら 神さびいます 奇し御魂 今のをつづに 貴きろかむ
(可既麻久波 阿夜尓可斯故斯 多良志比 可尾能弥許等 可良久尓遠 武氣多比良宜弖 弥許々呂遠 斯豆迷多麻布等 伊刀良斯弖 伊波比多麻比斯 麻多麻奈須 布多都能伊斯乎 世人尓 斯n斯多麻比弖 余呂豆余尓 伊比都具可祢等 和多能曽許 意枳都布可延乃 宇奈可美乃 故布乃波良尓 美弖豆可良 意可志多麻比弖 可武奈何良 可武佐備伊麻須 久志美多麻 伊麻能遠都豆尓 多布刀伎呂可儛)
「筑前國怡土郡深江村の子負原(福岡県糸島市筑前深江駅南西部)海に臨む岡の上に二つの石がある。大きい石は長さ一尺二寸六分(38センチ)、周囲一尺八寸六分(56センチ)、重さ十八斤五兩(11キロ)、小さい石は長さ一尺一寸(33センチ)、周囲一尺八寸(54センチ)、重さ十六斤十兩(10)キロ)ある。共に楕円形で、鶏の卵のように美しく立派で、口ではとても言い表せない。世にいう「径尺の玉」というはこのことをいうのだろう。細字で(或いは「この二石はもと肥前國彼杵郡平敷(長崎県長崎市浦上あたり)にあった石で、占いによって取り寄せた」とも言う)とある。石は深江の駅家(うまや。馬で公用で往来するための宿泊施設)から二十里(当時の里で13キロほどに当たる)ほどの道のほとりにあり、公私の往来の際、馬から下りて拝まない人はいなかった。
古老の伝えによるとこうである。『昔、神功皇后が新羅を征討なさった時、この二つの石を御袖』の中に入れ、御心のしずめとなさった。細字で(実際は御裳裾の中)とある。往来する人がこの石を拝むのはこうした次第である。そこで作った歌」
神功皇后(じんぐうこうごう)は十四代仲哀天皇の皇后であり、十五代応神天皇の母でもある。
前文を用語の解説も付して詳細に記したのは、駅家制度や神功皇后伝説等々当時の制度や風聞の一端が詳細に述べられているからである。
0813番 長歌
かけまくは あやに畏し 足日女 神の命 韓国を 向け平らげて 御心を 鎮めたまふと い取らして 斎ひたまひし 真玉なす 二つの石を 世の人に 示したまひて 万代に 言ひ継ぐかねと 海の底 沖つ深江の 海上の 子負の原に 御手づから 置かしたまひて 神ながら 神さびいます 奇し御魂 今のをつづに 貴きろかむ
(可既麻久波 阿夜尓可斯故斯 多良志比 可尾能弥許等 可良久尓遠 武氣多比良宜弖 弥許々呂遠 斯豆迷多麻布等 伊刀良斯弖 伊波比多麻比斯 麻多麻奈須 布多都能伊斯乎 世人尓 斯n斯多麻比弖 余呂豆余尓 伊比都具可祢等 和多能曽許 意枳都布可延乃 宇奈可美乃 故布乃波良尓 美弖豆可良 意可志多麻比弖 可武奈何良 可武佐備伊麻須 久志美多麻 伊麻能遠都豆尓 多布刀伎呂可儛)
長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「かけまくは」は「口にかけるのは」という意味である。「足日女(たらしひめ)」は神功皇后のことである。「斎(いは)ひたまひし」は「おまつりになった」という意味である。「今のをつづに」は「うつつに」という意味で、「現世に」ということ。
(口語訳)
口に出すのも恐れ多いことですが、神功皇后が韓国を平定され、御心をお鎮めになろうと、御手にお取りになり、まつられた丸玉状の二つの石を世の人々にお示しになった。そして後世に語り継ぐようにとおっしゃった。海底深いここ深江の向こうの子負の原に御自ら置かれた。その二つの石は神そのものとして、神々しく、霊妙な霊石として、今の世にも貴いことよ。
口に出すのも恐れ多いことですが、神功皇后が韓国を平定され、御心をお鎮めになろうと、御手にお取りになり、まつられた丸玉状の二つの石を世の人々にお示しになった。そして後世に語り継ぐようにとおっしゃった。海底深いここ深江の向こうの子負の原に御自ら置かれた。その二つの石は神そのものとして、神々しく、霊妙な霊石として、今の世にも貴いことよ。
0814 天地のともに久しく言ひ継げとこの奇し御魂敷かしけらしも
(阿米都知能 等母尓比佐斯久 伊比都夏等 許能久斯美多麻 志可志家良斯母)
「天地(あめつち)のともに久しく」は「天地と共に末永く」という意味である。「この奇(くす)し御魂(みたま)」は「この霊妙な霊石」という意味である。「敷(し)かしけらしも」は「お置きになった」という意味。
「天地と共に末永く語り継がれるようにと、神功皇后自らがこの霊妙な霊石をお置きになったものらしい」という歌である。
左注に「右の事を伝えた人は、那珂郡伊知郷の蓑嶋の人で、建部牛麻呂(たけべのうしまろ)という」とある。那珂郡伊知郷の蓑嶋は福岡市博多区美野島あたり。
(阿米都知能 等母尓比佐斯久 伊比都夏等 許能久斯美多麻 志可志家良斯母)
「天地(あめつち)のともに久しく」は「天地と共に末永く」という意味である。「この奇(くす)し御魂(みたま)」は「この霊妙な霊石」という意味である。「敷(し)かしけらしも」は「お置きになった」という意味。
「天地と共に末永く語り継がれるようにと、神功皇后自らがこの霊妙な霊石をお置きになったものらしい」という歌である。
左注に「右の事を伝えた人は、那珂郡伊知郷の蓑嶋の人で、建部牛麻呂(たけべのうしまろ)という」とある。那珂郡伊知郷の蓑嶋は福岡市博多区美野島あたり。
神功皇后(じんぐうこうごう)とはどんな人物だろう。
神功皇后は『古事記』や『日本書紀』に記されている数々の人物中、突出した存在感を持つ有名人物である。両書に目を通したことのある人ならこの点誰しも異存のない点に相違ない。皇后の名は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)(紀)。急死した十四代仲哀天皇の皇后であるが、69年という長期間政権の座にあった。当時は二倍年暦の時代と見ていいのでそれを勘案すれば35年間政権の座にあったことになる。それでもこの期間は異常に長い。が、ここは古代史を論究する場ではないのでこのまま先を急ごう。
神功皇后を有名たらしめている第一は、朝鮮半島に渡って新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり)、百済(くだら)三国を征伐したという、いわゆる三韓征伐を行ったとされる点である。
第二は、今日全国各地に多数広がる八幡神社の祭神、応神天皇のご生母という点である。
第三は、本歌に詠み込まれている霊石に関連した皇后伝説である。
神功皇后は朝鮮半島に渡る際、身重の身であったとされており、その身を冷やすために、お腹に石を巻いたとされている。
以上、本歌の理解の助けになれば幸いである。
次歌から32首に渡ってえんえんと梅の歌が続く。
(2017年12月29日記)
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神功皇后は『古事記』や『日本書紀』に記されている数々の人物中、突出した存在感を持つ有名人物である。両書に目を通したことのある人ならこの点誰しも異存のない点に相違ない。皇后の名は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)(紀)。急死した十四代仲哀天皇の皇后であるが、69年という長期間政権の座にあった。当時は二倍年暦の時代と見ていいのでそれを勘案すれば35年間政権の座にあったことになる。それでもこの期間は異常に長い。が、ここは古代史を論究する場ではないのでこのまま先を急ごう。
神功皇后を有名たらしめている第一は、朝鮮半島に渡って新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり)、百済(くだら)三国を征伐したという、いわゆる三韓征伐を行ったとされる点である。
第二は、今日全国各地に多数広がる八幡神社の祭神、応神天皇のご生母という点である。
第三は、本歌に詠み込まれている霊石に関連した皇后伝説である。
神功皇后は朝鮮半島に渡る際、身重の身であったとされており、その身を冷やすために、お腹に石を巻いたとされている。
以上、本歌の理解の助けになれば幸いである。
次歌から32首に渡ってえんえんと梅の歌が続く。
(2017年12月29日記)