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万葉集読解・・・60(847~854番歌)

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     万葉集読解・・・60(847~854番歌)
 頭注に(員外、故郷を思う二首」とある。員外は「その他」の意味。
0847   我が盛りいたくくたちぬ雲に飛ぶ薬食むともまたをちめやも
      (和我佐可理 伊多久々多知奴 久毛尓得夫 久須利波武等母 麻多遠知米也母)
 梅花を愛でる歌は前歌で終了の筈である。が、実際には員外2首、追加4首の6首が置かれている。すなわち実質的には847~852番歌の6首を加えた38首が梅花を愛でる歌ということになる。
 員外2首とは本歌と次歌のことだが、現実には「故郷を思う歌」とあって梅花とは直接関連がない。なぜ2首が員外とされ、ここに置かれているか不明。が、梅園で一同そろって春正月の宴会を催している最中、それに誘発されて故郷奈良が恋しくなった故の作歌だとすれば、作者は大伴旅人ということになる。
 「いたくくたちぬ」は「ひどくくたちぬ」という意味だが、この「くたちぬ」は980番歌や1008番歌に「夜はくたちつつ」とあるように、「夜が更ける」という意味に使われている。つまり「長年月たった」ということを意味している。「雲に飛ぶ薬」は神仙思想で「不老長寿の薬」と考えられていた薬のようである。結句の「またをちめやも」の「をちめ」は「若返る」という意味である。
 「私はひどく年老いてしまった。不老長寿と言われる薬を飲んだところで若返ることはあるまいに」という歌である。

0848   雲に飛ぶ薬食むよは都見ばいやしき我が身またをちぬべし
      (久毛尓得夫 久須利波牟用波 美也古弥婆 伊夜之吉阿何微 麻多越知奴倍之)
 「薬食(は)むよは」の「よは」は「よりは」の省略形。「(不老長寿の)薬を飲むよりは」という意味である。都はいうまでもなく奈良の都。「をちぬべし」は「若返るだろうに」という意味。
 「不老長寿の薬を飲むよりは、一目奈良の都を見られたら若返るだろうに」という歌である。

 頭注に「後に追加した梅歌四首」とある。
0849   残りたる雪に交れる梅の花早くな散りそ雪は消ぬとも
      (能許利多留 由棄仁末自例留 宇梅能半奈 半也久奈知利曽 由吉波氣奴等勿)
 これら四首は作者が記されていない。理由不明だが、梅花の園の宴の後なのであるいは作者は大伴旅人か。
 「早くな散りそ」は「な~そ」の禁止形。「どうか散らないでおくれ」という意味。結句の「雪は消ぬとも」は「雪は消えても」である。
 「残雪に混じって梅花も咲いているが、どうか散らないでおくれ、雪は消えても」という歌である。

0850   雪の色を奪ひて咲ける梅の花今盛りなり見む人もがも
      (由吉能伊呂遠 有<婆>比弖佐家流 有米能波奈 伊麻<左>加利奈利 弥牟必登母我聞)
 第二句「奪ひて咲ける」は新鮮な驚きを与える表現である。結句の「もがも」は、419番歌、805番歌等に使用されているように「であったなら」という願望用語。805番歌には「常磐なすかくしもがもと思へども世の事なれば留みかねつも」と詠われていて、「岩のように不変でありたい」という願望を表現している。したがって、本歌の結句「見む人もがも」は、「見る(愛でる)人がいてくれたなら」という意味になる。
 「白雪の白さえしのぐ白梅は今真っ盛り、見る(愛でる)人がいてくれたなら」という歌である。

0851   我がやどに盛りに咲ける梅の花散るべくなりぬ見む人もがも
      (和我夜度尓 左加里尓散家留 宇梅能波奈 知流倍久奈里奴 美牟必登聞我母)
 「我がやどに」は「我が家の庭に」という意味だが、人々が集まってきて宴を催した園。すなわち「我らが梅園」のことであって、太宰府長官大伴旅人の邸宅の庭を指していると考えなければならない。旅人邸は公邸ないし半ば公邸だったのではなかろうか。結句は前歌と同じ「見む人もがも」で、「見る(愛でる)人がいてくれたなら」という意味である。
 「我らが園に盛んに咲いている梅の花も散るときがやってきた。散り際の花を見る(愛でる)人がいてくれたなら」という歌である。

0852   梅の花夢に語らくみやびたる花と我れ思ふ酒に浮かべこそ (一云 いたづらに我れを散らすな酒に浮べこそ)
      (烏梅能波奈 伊米尓加多良久 美也備多流 波奈等阿例母布 左氣尓于可倍許曽 (一云 伊多豆良尓 阿例乎知良須奈 左氣尓于可倍許曽)
 「みやびたる花」は「風流な花」という意味。末尾の「浮かべこそ」の「こそ」は「岩波大系本」に「動詞連用形につくコソは希求の意を表す。」とある。「こそ」の使用例は数多くあり、「強調、断定」などに使用されていることが多い。本歌の場合は「希求」で、「浮かべてほしい」という意味になる。
 「梅の花が夢の中で申すには、私は風流な花だと思います。なので酒杯に浮かべてほしい」という歌である。
 異伝歌は「みやびたる花と我れ思ふ」の部分が、「いたづらに我れを散らすな」(いたずらに散るがままになさいますな)となっている。本歌も異伝歌も「酒に浮かべて風流を楽しもうではありませんか」が歌意で、両歌に大差があるわけではない。
 以上、実質38首に及ぶ梅花を愛でる歌は完了である。
 太宰府長官に任官した旅人が都落ちしたと感じて、風流ごとに明け暮れる様子がここにもよく現れている。太宰府に任官したときの宴会の際詠われた328~351番歌の酒をほめる歌に見られる、お坊っちゃん然とした高級官吏の姿がここにもある。
 
 頭注に「松浦川に遊ぶ」とあって、詳細な序文が付いている。その概要は次のとおりで
 「私が松浦川(佐賀県松浦郡内を流れる玉島川のこと)の川辺に遊んだ際、魚を捕る、とても美しく気品のある乙女たちを見掛けた。いずれの家の娘かと尋ねたところ「しがない漁夫の娘にございます」と返答するばかりだった。私は娘たちに歌を贈った。」
 ここにいう私は誰なのか不明だが、大伴旅人でいいと思う。
0853   あさりする海人の子どもと人は言へど見るに知らえぬ貴人の子と
      (阿佐<里><須流> 阿末能古等母等 比得波伊倍騰 美流尓之良延奴 有麻必等能古等)
 「海人(あま)の子どもと」は序文から見て「漁夫の娘と」を意味している。「人は」は「あなたがたは」という意味。「見るに知らえぬ」は「一目で分かりました」という意味である。
 「魚を捕る漁夫の娘とあなたがたはおっしゃるが、ひとめで貴人の娘と分かりました」という歌である。

 頭注に「娘が答えた歌」とある。
0854   玉島のこの川上に家はあれど君をやさしみあらはさずありき
      (多麻之末能 許能可波加美尓 伊返波阿礼騰 吉美乎夜佐之美 阿良波佐受阿利吉)
 娘が前歌に応えた歌。
 第四句「君をやさしみ」は「佐々木本」の訓で、原文にもそうある。だが、「岩波大系本」その他は「君を恥しみ」と「恥」の字を当てている。「やさし」には「岩波大系本」が詳細な補注を設けて解説している。要するに「恥じ入る」という意味であり、ために「恥」の字を当てたようだ。が、「恥」は「ハジ」ないし「チ」としか読めず、「やさしみ」を「恥しみ」とするのは強引。恐縮という意味である。
 「実は玉島川の川上に家はございますが、恐縮して申し上げませんでした」という歌である。
           (2013年11月16日記、2018年1月6日記)
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