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万葉集読解・・・64-1( 892~ 896番歌)

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     万葉集読解・・・64-1(892~896番歌)
 頭注に「貧窮問答の歌と短歌」とある。
0892番 長歌
   風交り 雨降る夜の 雨交り 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば 堅塩を とりつづしろひ 糟湯酒 うちすすろひて 咳かひ 鼻びしびしに しかとあらぬ ひげ掻き撫でて 我れをおきて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾 引き被り 布肩衣 ありのことごと 着襲へども 寒き夜すらを 我れよりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ凍ゆらむ 妻子どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ この時は いかにしつつか 汝が世は渡る 天地は 広しといへど 我がためは 狭くやなりぬる 日月は 明しといへど 我がためは 照りやたまはぬ 人皆か 我のみやしかる わくらばに 人とはあるを 人並に 我れも作るを 綿もなき 布肩衣の 海松のごと わわけさがれる かかふのみ 肩にうち掛け 伏廬の 曲廬の内に 直土に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲み居て 憂へさまよひ かまどには 火気吹き立てず 甑には 蜘蛛の巣かきて 飯炊く ことも忘れて ぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて 短き物を 端切ると いへるがごとく しもと取る 里長が声は 寝屋処まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世間の道
   (風雜 雨布流欲乃 雨雜 雪布流欲波 為部母奈久 寒之安礼婆 堅塩乎 取都豆之呂比 糟湯酒 宇知須々呂比弖 之<z>夫可比 鼻?之?之尓 志可登阿良農 比宜可伎撫而 安礼乎於伎弖 人者安良自等 富己呂倍騰 寒之安礼婆 麻被 引可賀布利 布可多衣 安里能許等其等 伎曽倍騰毛 寒夜須良乎 和礼欲利母 貧人乃 父母波 飢寒良牟 妻子等波 乞々泣良牟 此時者 伊可尓之都々可 汝代者和多流 天地者 比呂之等伊倍杼 安我多米波 狭也奈里奴流 日月波 安可之等伊倍騰 安我多米波 照哉多麻波奴 人皆可 吾耳也之可流 和久良婆尓 比等々波安流乎 比等奈美尓 安礼母作乎 綿毛奈伎 布可多衣乃 美留乃其等 和々氣佐我礼流 可々布能尾 肩尓打懸 布勢伊保能 麻宜伊保乃内尓 直土尓 藁解敷而 父母波 枕乃可多尓 妻子等母波 足乃方尓 圍居而 憂吟 可麻度柔播 火氣布伎多弖受 許之伎尓波 久毛能須可伎弖 飯炊 事毛和須礼提 奴延鳥乃 能杼与比居尓 伊等乃伎提 短物乎 端伎流等 云之如 楚取 五十戸良我許恵波 寝屋度麻悌 来立呼比奴 可久<婆>可里 須部奈伎物能可 世間乃道)

  長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「とりつづしろひ」は「取って少しずつ食べ」、
「うちすすろひて」は「啜り啜りして」という意味である。糟湯酒(かすゆざけ)は酒糟を湯で溶かしたもの。「鼻びしびしに」は「鼻をぐすぐすさせ」ということ。麻衾(あさぶすま)は麻で作った粗末な上ぶとん。布肩衣(ぬのかたぎぬ)はやはり粗末なかぶりもの。「わくらばに」は「幸いに」という意味。「海松(みる)のごと」は「深い海底に生える海草のように」ということ。「わわけさがれる」は「破れ下がった」という、「かかふのみ」は「ぼろきれ」ということ。「伏廬(ふせいほ)の 曲廬(まげいほ)の内に」はよく分からないが、地面に掘った粗末な住まいのことを言っているらしい。甑(こしき)もよく分からないが、広辞苑に「米などを蒸すのに用いる器、瓦製」とある。「ぬえ鳥」はトラツグミ。「のどよひ居るに」は「うめき声をあげ」という意味。「いとのきて」は「格別」ということ。「しもと取る」は「ムチをかざす」という意味。里長(りおさ)は五十戸をまとめて里を置いていたので、その長のこと。

 (口語訳)
  風に混じって雨が降る夜、雨に混じって雪が降る夜、どうしようもなく寒い夜。固めた塩を取って少しずつ食べ、湯で溶かした酒糟を啜り啜りして咳き込み、鼻をぐすぐすさせ、大してありもしない髭を掻き撫でながら、誇ってみる。「わしほどの人物はおるまい」と・・・。しかし寒くてならないので、粗末な麻衾(あさぶすま)を引き被り、ありったけの粗末な肩掛け類を重ねてみる。それでも寒い夜。このわしよりも貧しい人の父や母は飢え、凍り付くような思いでおろう。妻子たちは何かないかと乞い、泣いていることだろう。こんな時はどのようにしてそなたはこの世をしのいでいなさる。
 天地は広いというが、この私には狭くなっている。太陽や月は明るいというが、この私のためには照って下さらない。人はみんな私のようなのか。幸いに人として生まれ、人並みに私も働き生計を立てているのに、綿もない袖のない肩掛け。海草の海松(みる)のように破れて垂れ下がったボロ布を肩にうち掛けるのみ。地面に掘った粗末な住まいの地べたにじかに藁をほどいて敷き、父母は枕辺に妻子たちは足側に囲むようにして寝る。明日をもしれぬ憂いにさまよいながら・・・。かまどには火の気も起こさず、米を蒸す瓦の甑には蜘蛛の巣が張り、飯を炊くことなども忘れてしまい、トラツグミのようなうめき声をあげるばかり。それなのに、ただでさえ短い布の切れ端を切り詰めろというように、さらに生活を切り詰めろと、ムチをかざした里長が、寝ている近くまでやってきてわめきたてる。こんなにも辛いものだろうか。世の中を生きていくということが。

0893   世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
      (世間乎 宇之等夜佐之等 於母倍杼母 飛立可祢都 鳥尓之安良祢婆)
山上憶良頓首謹上
 第二句に「憂しとやさしと」とあるが、「やさし」は全万葉集歌中もう一例854番歌に使われている。その際に「岩波大系本」の詳細な補注に言及し、「要するに「恥じ入る」という意味であり、ために「恥」の字を当てたようだ。」と私は記した。本歌の場合もそれで意は通じるが、一歩踏み込んで「窮屈」と解しておきたい。後は読解不要だろう。
 「世の中はどんなに辛く窮屈であっても飛び立って逃げ出すわけにはいかない。鳥ではないのだから」という歌である。

 392番長歌は世に有名な貧窮問答歌(漢詩文)である。886~891番歌は山上憶良の代作だと見ていい。そして、892以降906番歌に至るすべてが山上憶良の詩文である。長歌は長文の漢詩文であり、その内容は迫力に富んでいる。
 ここでは私の寸感を述べておこう。886番以降の長文の漢詩文は、山上憶良が当時第一級の知識人だったことをうかがわせる。国内の事情はいうに及ばず、中国の故事や漢籍に長けていたことを伺わせる。孔子はもとより孔子の門人の言葉まで引用している。

 頭注に「好去好来の歌と反歌二首」とある。好去好来は「好くおいで下された」という意味。
0894番 長歌
   神代より 言ひ伝て来らく そらみつ 大和の国は 皇神の 厳しき国 言霊の 幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人さはに 満ちてはあれども 高照らす 日の朝廷 神ながら 愛での盛りに 天の下 奏したまひし 家の子と 選ひたまひて 大御言 [反云 大みこと] 戴き持ちて もろこしの 遠き境に 遣はされ 罷りいませ 海原の 辺にも沖にも 神づまり 領きいます もろもろの 大御神たち 船舳に [反云 ふなのへに] 導きまをし 天地の 大御神たち 大和の 大国御魂 ひさかたの 天のみ空ゆ 天翔り 見わたしたまひ 事終り 帰らむ日には またさらに 大御神たち 船舳に 御手うち掛けて 墨縄を 延へたるごとく あぢかをし 値嘉の崎より 大伴の 御津の浜びに 直泊てに 御船は泊てむ 障みなく 幸くいまして 早帰りませ
   (神代欲理 云傳久良久 虚見通 倭國者 皇神能 伊都久志吉國 言霊能 佐吉播布國等 加多利継 伊比都賀比計理 今世能 人母許等期等 目前尓 見在知在 人佐播尓 満弖播阿礼等母 高光 日御朝庭 神奈我良 愛能盛尓 天下 奏多麻比志 家子等 撰多麻比天 勅旨 [反云 大命]<戴>持弖 唐能 遠境尓 都加播佐礼 麻加利伊麻勢 宇奈原能 邊尓母奥尓母 神豆麻利 宇志播吉伊麻須 諸能 大御神等 船舳尓 [反云 布奈能閇尓] 道引麻<遠志> 天地能 大御神等 倭 大國霊 久堅能 阿麻能見虚喩 阿麻賀氣利 見渡多麻比 事畢 還日者 又更 大御神等 船舳尓 御手<打>掛弖 墨縄遠 播倍多留期等久 阿<遅>可遠志 智可能岫欲利 大伴 御津濱備尓 多太泊尓 美船播将泊 都々美無久 佐伎久伊麻志弖 速歸坐勢)

 「言霊(ことだま)の」。当時、言語には霊力があると考えられていた。「神づまり領(うしは)きいます」は「神として留まり支配なさって」という意味である。「あぢかをし」は「まっすぐに」という意味か。値嘉の崎(ちかのさき)は長崎県五島列島。

 (口語訳)
  神代から言い伝えてきた大和の国は皇祖神の厳かな国。言霊(ことだま)が幸いをもたらす国と語り継ぎ言ひ継がれて来た国ぞ。今の世の人々もことごとく目の当たりにし、見て知ってのとおり。人は多く満ちているけれど、高照らす日の朝廷に神として天下をお治めになっておられる天皇が慈しまれ、お選びになった家柄の者として大御言(中国式の訓でいうと「大みこと」)を発せられたあなた。その勅命を持って大唐の(もろこしの)遠い境に遣わされた。ご出発にあたり、海原の岸にも沖にも神として留まり支配なさっているもろもろの神様が船舳に(中国式の訓でいうと「ふなのへさきに」)立ってお導きになる。天地の神々、大和の大神は大空を駆けめぐって大海原をお見渡しになる。事が終わってお帰りになる日は、また神々が船の舳に御手をお掛けになり、墨縄で引いた線のように値嘉の崎(ちかのさき)から大伴の御津の浜辺にまっすぐに向かわれ、到着されるでしょう。滞りなく、ご無事で一刻も早くお帰りなさい。

 反歌
0895   大伴の御津の松原かき掃きて我れ立ち待たむ早帰りませ
      (大伴 御津松原 可吉掃弖 和礼立待 速歸坐勢)
 「大伴の御津の松原」は大伴氏の本拠があったとされる大阪湾の浜。63番歌で見たように、憶良自身も唐からはるばるこの松原に帰朝している。
 「大伴の御津の松原をはき清めて立ってお帰りをお待ちします。一刻も早くお帰りなさい。」という歌である。

0896   難波津に御船泊てぬと聞こえ来ば紐解き放けて立ち走りせむ
      (難波津尓 美船泊農等 吉許延許婆 紐解佐氣弖 多知婆志利勢武)
 難波津は大阪湾。憶良は天平四年(732)頃、帰京し、筑前(福岡県)にはいない。
 「難波津に帰朝の船が到着したと聞いたならば着物の紐も結ばないまま走り出てお迎えにあがりましょうぞ」という歌である。
 以上の長短歌は 丹比真人広成(たぢひのまひとひろなり)が天平5年(733年)4月に遣唐使として大陸にわたることになり、その直前の3月に山上憶良宅に寄った際、憶良が長歌とともに贈った歌。
 末尾に「天平五年三月一日に憶良宅で対面し、三日に歌を献上」とあり、宛先は「大唐大使卿(広成)殿」とある。
          (2018年1月23日記)
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