万葉集読解・・・73(1034~1049番歌)
頭注に「美濃國多藝に行宮(かりみや)の際、大伴宿祢東人(おおとものすくねあづまひと)が作った歌」とある。「多藝」は岐阜県養老町のことだという。東人は後年の少納言。
1034 古ゆ人の言ひ来る老人の変若つといふ水ぞ名に負ふ瀧の瀬
(従古 人之言来流 老人之 「云水曽 名尓負瀧之瀬)
「古(いにしへ)ゆ」は「~から」のゆ、「古来から」という意味。「変若(を)つといふ水ぞ」は原文の「變若」を訓じたもので、「若返る」という意味である。「名に負ふ」は「名にふさわしい」。
「これが古来言い伝えてきた、老人が若返るという水なのだな、いかにもその名にふさわしい滝の流れよ」という歌である。
頭注に「美濃國多藝に行宮(かりみや)の際、大伴宿祢東人(おおとものすくねあづまひと)が作った歌」とある。「多藝」は岐阜県養老町のことだという。東人は後年の少納言。
1034 古ゆ人の言ひ来る老人の変若つといふ水ぞ名に負ふ瀧の瀬
(従古 人之言来流 老人之 「云水曽 名尓負瀧之瀬)
「古(いにしへ)ゆ」は「~から」のゆ、「古来から」という意味。「変若(を)つといふ水ぞ」は原文の「變若」を訓じたもので、「若返る」という意味である。「名に負ふ」は「名にふさわしい」。
「これが古来言い伝えてきた、老人が若返るという水なのだな、いかにもその名にふさわしい滝の流れよ」という歌である。
頭注に「大伴宿祢家持の作歌」とある。
1035 田跡川の瀧を清みか古ゆ宮仕へけむ多芸の野の上に
(田跡河之 瀧乎清美香 従古 官仕兼 多藝乃野之上尓)
「田跡(たど)川の瀧」は養老の滝のこと。第四句の「宮仕へけむ」がちょっとわかりにくい。結句に「多芸の野の上に」とあるから、「養老の野に宿(行宮)を構えて」を意味していることが分かる。要するに天皇は毎年ここにおいでになることを意味している。天皇は四十五代聖武天皇。
「養老の滝は清らかなので、古来から天皇にお仕えしている、ここ多芸の野に」という歌である。
1035 田跡川の瀧を清みか古ゆ宮仕へけむ多芸の野の上に
(田跡河之 瀧乎清美香 従古 官仕兼 多藝乃野之上尓)
「田跡(たど)川の瀧」は養老の滝のこと。第四句の「宮仕へけむ」がちょっとわかりにくい。結句に「多芸の野の上に」とあるから、「養老の野に宿(行宮)を構えて」を意味していることが分かる。要するに天皇は毎年ここにおいでになることを意味している。天皇は四十五代聖武天皇。
「養老の滝は清らかなので、古来から天皇にお仕えしている、ここ多芸の野に」という歌である。
頭注に「不破の行宮で作った大伴家持の歌」とある。不破は岐阜県不破郡関ヶ原町。
1036 関なくは帰りにだにもうち行きて妹が手枕まきて寝ましを
(關無者 還尓谷藻 打行而 妹之手枕 巻手宿益乎)
「関なくは」はむろん「この不破の関さえなければ」という意味である。「帰りにだにも」は「とんぼ返りであっても」という意味。この歌によって奈良時代には不破の関が整備されていたことがうかがわれる。
「この関さえなければ京に飛んでいき彼女と共寝してとんぼ返りしようものを」という歌である。
1036 関なくは帰りにだにもうち行きて妹が手枕まきて寝ましを
(關無者 還尓谷藻 打行而 妹之手枕 巻手宿益乎)
「関なくは」はむろん「この不破の関さえなければ」という意味である。「帰りにだにも」は「とんぼ返りであっても」という意味。この歌によって奈良時代には不破の関が整備されていたことがうかがわれる。
「この関さえなければ京に飛んでいき彼女と共寝してとんぼ返りしようものを」という歌である。
頭注に「天平十五年(743年)内舎人大伴宿祢家持が久邇京を讃えて作った歌」とある。内舎人(うどねり)は天皇の付き人。天皇は四十五代聖武天皇。家持が久邇京(くにのみやこ)に勤務していたことは765番歌の折にも言及した。
1037 今造る久邇の都は山川のさやけき見ればうべ知らすらし
(今造 久邇乃王都者 山河之 清見者 宇倍所知良之)
本歌では結句の「うべ知らすらし」が肝要。「うべ」は「もっとも」という意味。次の「知らす」は「お治めになる」という意味である。
「造営中の久邇の都は周囲の山川の清らかで美しい様を見ればここを大宮となさるのももっともだ」という歌である。
1037 今造る久邇の都は山川のさやけき見ればうべ知らすらし
(今造 久邇乃王都者 山河之 清見者 宇倍所知良之)
本歌では結句の「うべ知らすらし」が肝要。「うべ」は「もっとも」という意味。次の「知らす」は「お治めになる」という意味である。
「造営中の久邇の都は周囲の山川の清らかで美しい様を見ればここを大宮となさるのももっともだ」という歌である。
頭注に「高丘河内連(たかをかのかふちのむらじ)の歌二首」とある。河内連は百済系渡来人の子とされている。
1038 故郷は遠くもあらず一重山越ゆるがからに思ひぞ我がせし
(故郷者 遠毛不有 一重山 越我可良尓 念曽吾世思)
この歌の背景が今いちつかめないため読解は悩ましい。が、次歌の内容から推察するに、これは作者の妻が旧都奈良から久邇京にいる作者の元にやってきたときの歌のようだ。
「ひと山越えるだけなので故郷の奈良はそう遠くないと思っていたのだよ」という歌である。
1038 故郷は遠くもあらず一重山越ゆるがからに思ひぞ我がせし
(故郷者 遠毛不有 一重山 越我可良尓 念曽吾世思)
この歌の背景が今いちつかめないため読解は悩ましい。が、次歌の内容から推察するに、これは作者の妻が旧都奈良から久邇京にいる作者の元にやってきたときの歌のようだ。
「ひと山越えるだけなので故郷の奈良はそう遠くないと思っていたのだよ」という歌である。
1039 我が背子とふたりし居らば山高み里には月は照らずともよし
(吾背子與 二人之居者 山高 里尓者月波 不曜十方余思)
本歌も河内連となっているが、実際は妻の歌に相違ない。
「あなたとこうして二人いれば、山が高くてこの里に月光が射していなくとも構いませんわ」という歌である。
(吾背子與 二人之居者 山高 里尓者月波 不曜十方余思)
本歌も河内連となっているが、実際は妻の歌に相違ない。
「あなたとこうして二人いれば、山が高くてこの里に月光が射していなくとも構いませんわ」という歌である。
頭注に「安積親王(あさかのみこ)が藤原八束朝臣(ふぢはらのやつかのあそみ)の家で宴会を開いた際、大伴家持が作った歌」とある。安積親王は聖武天皇の第二皇子。
1040 ひさかたの雨は降りしけ思ふ子がやどに今夜は明かして行かむ
(久堅乃 雨者零敷 念子之 屋戸尓今夜者 明而将去)
「ひさかたの」はおなじみの枕詞。「思ふ子が」は親愛の「子」。原文に「念子之」とあるので、「思ふ子の」という意味である。
「雨よふれふれもっとふれ彼女の家で夜を明かそうぞ」という歌である。
1040 ひさかたの雨は降りしけ思ふ子がやどに今夜は明かして行かむ
(久堅乃 雨者零敷 念子之 屋戸尓今夜者 明而将去)
「ひさかたの」はおなじみの枕詞。「思ふ子が」は親愛の「子」。原文に「念子之」とあるので、「思ふ子の」という意味である。
「雨よふれふれもっとふれ彼女の家で夜を明かそうぞ」という歌である。
頭注に「天平十六年(744年)春正月五日、諸卿大夫(まへつきみたち)が安倍蟲麻呂朝臣(あへのむしまろあそみ)の家に集まって宴を開いた際の歌」とある。作者不詳とある。
1041 我がやどの君松の木に降る雪の行きには行かじ待にし待たむ
(吾屋戸乃 君松樹尓 零雪<乃> 行者不去 待西将待)
「我がやどの」は「我が家の庭の」という意味。「君松の」は「君待つの」にかけている。「~降る雪の」までは「行き」を導く序歌。
「我が家の家の松に雪が降っている。出迎えに出るのはやめにしてひたすらお待ちしましょう」という歌である。
1041 我がやどの君松の木に降る雪の行きには行かじ待にし待たむ
(吾屋戸乃 君松樹尓 零雪<乃> 行者不去 待西将待)
「我がやどの」は「我が家の庭の」という意味。「君松の」は「君待つの」にかけている。「~降る雪の」までは「行き」を導く序歌。
「我が家の家の松に雪が降っている。出迎えに出るのはやめにしてひたすらお待ちしましょう」という歌である。
頭注に「同月十一日に活道岡(いくぢのをか)に登り、立っている松の木に集って宴を開いた時の歌二首」とある
1042 一つ松幾代か経ぬる吹く風の音の清きは年深みかも
(一松 幾代可歴流 吹風乃 聲之清者 年深香聞)
結句の「年深みかも」は「年代もの」という意味である。
「この一本松、幾歳月経ているのだろう。すがすがしい風の音からすると相当年代ものに相違ない」という歌である。
左注に「右は市原王(いちはらのおほきみ)作」とある。市原王は三十八代天智天皇の曾孫安貴王の子。
1042 一つ松幾代か経ぬる吹く風の音の清きは年深みかも
(一松 幾代可歴流 吹風乃 聲之清者 年深香聞)
結句の「年深みかも」は「年代もの」という意味である。
「この一本松、幾歳月経ているのだろう。すがすがしい風の音からすると相当年代ものに相違ない」という歌である。
左注に「右は市原王(いちはらのおほきみ)作」とある。市原王は三十八代天智天皇の曾孫安貴王の子。
1043 たまきはる命は知らず松が枝を結ぶ心は長くとぞ思ふ
(霊剋 壽者不知 松之枝 結情者 長等曽念)
「たまきはる」は枕詞。「命は知らず」は「寿命は分かりませんが」という意味である。
「いつまで生きられるか分かりませんが、こうして布を松の枝に結ぶのは長生きできますようにと祈る気持です」という歌である。
左注に「右は大伴宿祢家持作」とある。
(霊剋 壽者不知 松之枝 結情者 長等曽念)
「たまきはる」は枕詞。「命は知らず」は「寿命は分かりませんが」という意味である。
「いつまで生きられるか分かりませんが、こうして布を松の枝に結ぶのは長生きできますようにと祈る気持です」という歌である。
左注に「右は大伴宿祢家持作」とある。
頭注に「旧都奈良の都が荒廃するのを傷んで作った三首。作者不詳」とある。
1044 紅に深く染みにし心かも奈良の都に年の経ぬべき
(紅尓 深染西 情可母 寧樂乃京師尓 年之歴去倍吉)
紅(くれない)は紅花(ベニバナ)のことという。「経ぬべき」は反語表現。
「紅色に心に深く染まった都。その奈良の都がこのまま荒廃していってよいものだろうか」という歌である。
1044 紅に深く染みにし心かも奈良の都に年の経ぬべき
(紅尓 深染西 情可母 寧樂乃京師尓 年之歴去倍吉)
紅(くれない)は紅花(ベニバナ)のことという。「経ぬべき」は反語表現。
「紅色に心に深く染まった都。その奈良の都がこのまま荒廃していってよいものだろうか」という歌である。
1045 世間を常なきものと今ぞ知る奈良の都のうつろふ見れば
(世間乎 常無物跡 今曽知 平城京師之 移徙見者)
「世間(よのなか)を常なきものと」は無常の意。「うつろふ」は「変わりゆく」である。
「無常の世と思わずにいられない。変わりゆく奈良の都を見れば」という歌である。
(世間乎 常無物跡 今曽知 平城京師之 移徙見者)
「世間(よのなか)を常なきものと」は無常の意。「うつろふ」は「変わりゆく」である。
「無常の世と思わずにいられない。変わりゆく奈良の都を見れば」という歌である。
1046 岩綱のまたをちかへりあをによし奈良の都をまたも見むかも
(石綱乃 又變若反 青丹吉 奈良乃都乎 又将見鴨)
岩綱は岩に巻いた綱。「またをちかへり」だが、331番歌に「我が盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ」とある。これは九州太宰府に赴任中に大伴旅人が詠った歌だが、「元気な内に奈良の都に復帰できるだろうか」という趣旨の歌である。つまり「またをちめやも」は「元に復帰できるだろうか」という意味で使用されている。本歌も同様で復帰の意味。
1037番歌でも言及したように、聖武天皇は奈良を後にして740~745年にかけて久邇京、紫香楽宮、難波京とめまぐるしく宮を変更し、745年には平城京に復帰。つまり奈良の都(平城京)が都でなかったのは5年弱だったわけである。
「岩に巻いた綱が元に戻ってくるように、奈良の都が復帰して元のきらびやかな姿を再び見られるだろうか」という歌である。
(石綱乃 又變若反 青丹吉 奈良乃都乎 又将見鴨)
岩綱は岩に巻いた綱。「またをちかへり」だが、331番歌に「我が盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ」とある。これは九州太宰府に赴任中に大伴旅人が詠った歌だが、「元気な内に奈良の都に復帰できるだろうか」という趣旨の歌である。つまり「またをちめやも」は「元に復帰できるだろうか」という意味で使用されている。本歌も同様で復帰の意味。
1037番歌でも言及したように、聖武天皇は奈良を後にして740~745年にかけて久邇京、紫香楽宮、難波京とめまぐるしく宮を変更し、745年には平城京に復帰。つまり奈良の都(平城京)が都でなかったのは5年弱だったわけである。
「岩に巻いた綱が元に戻ってくるように、奈良の都が復帰して元のきらびやかな姿を再び見られるだろうか」という歌である。
頭注に「故郷奈良の都を悲しむ歌と短歌」とある。
1047番 長歌
やすみしし 我が大君の 高敷かす 大和の国は すめろきの 神の御代より 敷きませる 国にしあれば 生れまさむ 御子の継ぎ継ぎ 天の下 知らしまさむと 八百万 千年を兼ねて 定めけむ 奈良の都は かぎろひの 春にしなれば 春日山 御笠の野辺に 桜花 木の暗隠り 貌鳥は 間なくしば鳴く 露霜の 秋さり来れば 生駒山 飛火が岳に 萩の枝を しがらみ散らし さを鹿は 妻呼び響む 山見れば 山も見が欲し 里見れば 里も住みよし もののふの 八十伴の男の うちはへて 思へりしくは 天地の 寄り合ひの極み 万代に 栄えゆかむと 思へりし 大宮すらを 頼めりし 奈良の都を 新代の ことにしあれば 大君の 引きのまにまに 春花の うつろひ変り 群鳥の 朝立ち行けば さす竹の 大宮人の 踏み平し 通ひし道は 馬も行かず 人も行かねば 荒れにけるかも
(八隅知之 吾大王乃 高敷為 日本國者 皇祖乃 神之御代自 敷座流 國尓之有者 阿礼将座 御子之嗣継 天下 所知座跡 八百萬 千年矣兼而 定家牟 平城京師者 炎乃 春尓之成者 春日山 御笠之野邊尓 櫻花 木晩牢 皃鳥者 間無數鳴 露霜乃 秋去来者 射駒山 飛火賀<す>丹 芽乃枝乎 石辛見散之 狭男<壮>鹿者 妻呼令動 山見者 山裳見皃石 里見者 里裳住吉 物負之 八十伴緒乃 打經而 思<煎>敷者 天地乃 依會限 萬世丹 榮将徃迹 思煎石 大宮尚矣 恃有之 名良乃京矣 新世乃 事尓之有者 皇之 引乃真尓真荷 春花乃 遷日易 村鳥乃 旦立徃者 刺竹之 大宮人能 踏平之 通之道者 馬裳不行 人裳徃莫者 荒尓異類香聞)
1047番 長歌
やすみしし 我が大君の 高敷かす 大和の国は すめろきの 神の御代より 敷きませる 国にしあれば 生れまさむ 御子の継ぎ継ぎ 天の下 知らしまさむと 八百万 千年を兼ねて 定めけむ 奈良の都は かぎろひの 春にしなれば 春日山 御笠の野辺に 桜花 木の暗隠り 貌鳥は 間なくしば鳴く 露霜の 秋さり来れば 生駒山 飛火が岳に 萩の枝を しがらみ散らし さを鹿は 妻呼び響む 山見れば 山も見が欲し 里見れば 里も住みよし もののふの 八十伴の男の うちはへて 思へりしくは 天地の 寄り合ひの極み 万代に 栄えゆかむと 思へりし 大宮すらを 頼めりし 奈良の都を 新代の ことにしあれば 大君の 引きのまにまに 春花の うつろひ変り 群鳥の 朝立ち行けば さす竹の 大宮人の 踏み平し 通ひし道は 馬も行かず 人も行かねば 荒れにけるかも
(八隅知之 吾大王乃 高敷為 日本國者 皇祖乃 神之御代自 敷座流 國尓之有者 阿礼将座 御子之嗣継 天下 所知座跡 八百萬 千年矣兼而 定家牟 平城京師者 炎乃 春尓之成者 春日山 御笠之野邊尓 櫻花 木晩牢 皃鳥者 間無數鳴 露霜乃 秋去来者 射駒山 飛火賀<す>丹 芽乃枝乎 石辛見散之 狭男<壮>鹿者 妻呼令動 山見者 山裳見皃石 里見者 里裳住吉 物負之 八十伴緒乃 打經而 思<煎>敷者 天地乃 依會限 萬世丹 榮将徃迹 思煎石 大宮尚矣 恃有之 名良乃京矣 新世乃 事尓之有者 皇之 引乃真尓真荷 春花乃 遷日易 村鳥乃 旦立徃者 刺竹之 大宮人能 踏平之 通之道者 馬裳不行 人裳徃莫者 荒尓異類香聞)
長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「すめろき」は「天皇ないし皇祖」のこと。「八百万千年を兼ねて定めけむ」は「かって後世代々にわたって決められた」という意味である。春日山は奈良市の東の山。御笠山は春日山の一部。貌鳥(かほどり)はカッコウのこととされる。生駒山は奈良県と大阪府の境の山。飛火が岳は生駒山の一峰で軍事の合図に使用された。「 しがらみ散らし」は「からませ散らして」という意味。「うちはへて」は「ずっと長らく」という意味。
(口語訳)
われらが大君が治めていらっしゃる大和の国は神の御代より代々お治めになっている皇祖の国である。生まれ出てくる御子たちが次々に治められるとかって定められた奈良の都はかげろうの立つ春ともなれば、春日山の御笠山の野辺に桜の花が咲く。その木陰で貌鳥(かほどり)(カッコウ)が絶え間なく鳴く。露霜の降りる秋ともなれば、生駒山の飛火が岳に萩の枝をからませ散らして、牡鹿が妻を呼んで鳴き立てる。山を見れば、見飽きることがなく、里は里で住み心地がよい。大宮人たちもずっと長らく思っていたことは、天地の果てのさきまで、代々ずっと栄え続けると思って大宮を頼みにしていた奈良の都。
新しい時代になったということで、大君の仰せのままに、都を遷され、春の花々が移り変わり、群れ鳥がいっせいに飛び立つように、大宮人たちは立ち去っていった。かっては大宮人たちが踏みならして通った奈良の都の道は馬も人も行かなくなり、すっかり荒れ果ててしまった。
われらが大君が治めていらっしゃる大和の国は神の御代より代々お治めになっている皇祖の国である。生まれ出てくる御子たちが次々に治められるとかって定められた奈良の都はかげろうの立つ春ともなれば、春日山の御笠山の野辺に桜の花が咲く。その木陰で貌鳥(かほどり)(カッコウ)が絶え間なく鳴く。露霜の降りる秋ともなれば、生駒山の飛火が岳に萩の枝をからませ散らして、牡鹿が妻を呼んで鳴き立てる。山を見れば、見飽きることがなく、里は里で住み心地がよい。大宮人たちもずっと長らく思っていたことは、天地の果てのさきまで、代々ずっと栄え続けると思って大宮を頼みにしていた奈良の都。
新しい時代になったということで、大君の仰せのままに、都を遷され、春の花々が移り変わり、群れ鳥がいっせいに飛び立つように、大宮人たちは立ち去っていった。かっては大宮人たちが踏みならして通った奈良の都の道は馬も人も行かなくなり、すっかり荒れ果ててしまった。
反歌二首
1048 たち変はり古き都となりぬれば道の芝草長く生ひにけり
(立易 古京跡 成者 道之志婆草 長生尓異<煎>)
「たち変はり」は「すっかり変わって」という意味。
(名付西 奈良乃京之 荒行者 出立毎尓 嘆思益)
「なつきにし」は「すっかり慣れ親しんだ」という意味。
「すっかり慣れ親しんだ奈良の都も日ごとに荒れ果て、表に出てみるたびに嘆きがつのる」という歌である。
(2018年3月18日記)
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1048 たち変はり古き都となりぬれば道の芝草長く生ひにけり
(立易 古京跡 成者 道之志婆草 長生尓異<煎>)
「たち変はり」は「すっかり変わって」という意味。
「奈良の都はうってかわって古い都になってしまい、道の芝草もぼうぼうに伸び放題になってしまった」という歌である。
1049 なつきにし奈良の都の荒れゆけば出で立つごとに嘆きし増さる(名付西 奈良乃京之 荒行者 出立毎尓 嘆思益)
「なつきにし」は「すっかり慣れ親しんだ」という意味。
「すっかり慣れ親しんだ奈良の都も日ごとに荒れ果て、表に出てみるたびに嘆きがつのる」という歌である。
(2018年3月18日記)