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万葉集読解・・・75(1068~1086歌)

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     万葉集読解・・・75(1068~1086歌)
 この巻7は特異な巻である。第一に、全首が年代不明であり、作者不明である。第二に、長歌はない代わりに五七七五七七からなる旋頭歌(せどうか)が多い。旋頭歌は万葉集全体で62首登載されているが、その4割余にあたる26首がこの巻に登載されている。巻7は、雜歌(1068~1295番歌)、譬喩歌(1296~1403番歌)、挽歌(1404~1417番歌)の三区分。
 以下雜歌
 詠天(天を詠む)。以下同じ。
1068  天の海に雲の波立ち月の舟星の林に漕ぎ隠る見ゆ
      (天海丹 雲之波立 月船 星之林丹 榜隠所見)
 夜空を大海に、雲を波に、月を舟に見立てた雄大な歌である。筋(すじ)状の雲が幾筋もかかっている状況であろう。
 「天空の海に雲の波が立ち、月の舟が星の林に見え隠れしながら天空を渡っていくのが見える」という歌である。
 左注に「右は柿本朝臣人麻呂の歌集に出ている」とある。

 詠月
1069  常はさね思はぬものをこの月の過ぎ隠らまく惜しき宵かも
      (常者曽 不念物乎 此月之 過匿巻 惜夕香裳)
 「常はさね」は「普段はちっとも」という意味。
 「月を見ても普段はちっとも思うことはないが、月が空をわたっていってこのまま見えなくなるのは惜しい今宵だ」という歌である。

1070  ますらをの弓末振り起し狩高の野辺さへ清く照る月夜かも
      (大夫之 弓上振起 猟高之 野邊副清 照月夜可聞)
 「ますらをの弓末(ゆずえ)振り起し~」は364番歌にもあるように、狩りをする勇ましい男たちの様子を示す。狩高(かりたか)を導く序歌。狩高は奈良市高円山の付近という。
 「勇者が弓で狩り立てるという狩高(かりたか)の野辺さえ清く照らす月夜だ」という歌である。

1071  山の端にいさよふ月を出でむかと待ちつつ居るに夜ぞ更けにける
      (山末尓 不知夜歴月乎 将出香登 待乍居尓 夜曽降家類)
 読解不要の平明歌。
 「山の端にいつ顔を出すかと月を待っているうちに夜が更けてしまった」という歌である。

1072  明日の宵照らむ月夜は片寄りに今夜に寄りて夜長くあらなむ
      (明日之夕 将照月夜者 片因尓 今夜尓因而 夜長有)
 「片寄りに」は「今夜の方に寄ってきて」で、いわば「明日の分まで」という意味である。面白い表現である。
 「明日の宵に照るだろう月夜が今夜の方に寄ってきてこの月夜が長く続いてほしいものだ」という歌である。

1073  玉垂の小簾の間通しひとり居て見る験なき夕月夜かも
      (玉垂之 小簾之間通 獨居而 見驗無 暮月夜鴨)
 「玉垂(たまだれ)の小簾(おす)」は「玉で飾られた美しい簾(すだれ)」のこと。「小簾」は必ずしも小さい簾を意味していない。「可愛い簾」といういわば美称。「験(しるし)なき」は「甲斐がない」という意味。
 「玉で飾られた美しい簾(すだれ)ごしに一人きりで見る夕月夜はわびしい」という歌である。

1074  春日山おして照らせるこの月は妹が庭にもさやけくありけり
      (春日山 押而照有 此月者 妹之庭母 清有家里)
 春日山は奈良の春日大社が鎮座する山。「おして」は「あまねく」という意味。彼女の家から出てきたところだろうか。
 「あまねく春日山を照らすこの月は彼女の庭にも清く照っていたなあ」という歌である。

1075  海原の道遠みかも月読の光少き夜は更けにつつ
      (海原之 道遠鴨 月讀 明少 夜者更下乍)
 「道遠み」は「~なので」の「み」。月読(つくよみ)は夜を司る神の名だが、むろんここでは月のこと。「光少き」は霧がかっていたのだろうか。
 「海原の道が遠いせいか月の光が薄い。夜が更けてきたというのに」という歌である。

1076  ももしきの大宮人の罷り出て遊ぶ今夜の月のさやけさ
      (百師木之 大宮人之 退出而 遊今夜之 月清左)
 「ももしきの」は枕詞。平明歌。
 「大宮人たちが罷り出てきて愛でる今夜の月の清く美しいこと」という歌である。

1077  ぬばたまの夜渡る月を留めむに西の山辺に関もあらぬかも
      (夜干玉之 夜渡月乎 将留尓 西山邊尓 <塞>毛有粳毛)
 「ぬばたまの」はお馴染みの枕詞。「関もあらぬかも」は「関所でもあればなあ」という意味。
 「東から7夜渡っていく月を引き留めるのに西の山辺に関所でもあればなあ」という歌である。

1078  この月のここに来たれば今とかも妹が出で立ち待ちつつあるらむ
      (此月之 此間来者 且今跡香毛 妹之出立 待乍将有)
 「今とかも」は「今頃は」である。平明歌。
 「月がこの位置にかかってきたのだから、今頃、妻は門に出て私の帰りを待っていてくれているのだろうか」という歌である。

1079  まそ鏡照るべき月を白栲の雲か隠せる天つ霧かも
      (真十鏡 可照月乎 白妙乃 雲香隠流 天津霧鴨)
 「まそ鏡」は枕詞(?)。35例にも及ぶが、かかる言葉が多彩で一定しない。ここは「鏡のように」と解してよかろう。「白栲の雲」は「真っ白な雲」。
 「鏡のように美しい月。白雲が隠しているのか、霧がかかって見えない」という歌である。

1080  ひさかたの天照る月は神代にか出でかへるらむ年は経につつ
      (久方乃 天照月者 神代尓加 出反等六 年者經去乍)
 「ひさかたの」は枕詞。夜空に輝く月は神々しい存在であることは今も昔もかわらない。その気分が出ている歌である。
 「月は神代の昔に出現し、出ては帰ることを繰り返しているのだろうか。年々歳々年はかわっていくのに」という歌である。

1081  ぬばたまの夜渡る月をおもしろみ我が居る袖に露ぞ置きにける
      (烏玉之 夜渡月乎 (忄+可)怜 吾居袖尓 露曽置尓鷄類)
 縁側にでも座ってずっと月を眺めていたのだろうか。「おもしろみ」は「魅せられて」という意味である。
 「渡っていく月に魅せられて眺めている内にすっかり夜更けになり、袖が露に濡れてしまった」という歌である。

1082  水底の玉さへさやに見つべくも照る月夜かも夜の更けゆけば
      (水底之 玉障清 可見裳 照月夜鴨 夜之深去者)
 典型的な倒置表現歌。「夜の更けゆけば~水底の玉さへさやに見つべくも」の倒置表現。「さやに」は「くっきりと」ないし「清らかに」という意味。「見つべくも」は「見えるほど」という意味である。
 「夜が更けてきたためか水底の玉もくっきり見えるほどこうこうと月が輝いている今宵は」という歌である。

1083  霜曇りすとにかあるらむひさかたの夜渡る月の見えなく思へば
      (霜雲入 為登尓可将有 久堅之 夜<渡>月乃 不見念者)
 「霜曇りすとにかあるらむ」は「空が霜で曇ったのだろうか」という意味である。「ひさかたの」は枕詞。本歌も倒置表現。
 「夜渡っていく月が見えないのは空が霜で曇ったためだろうか」という歌である。

1084  山の端にいさよふ月をいつとかも我は待ち居らむ夜は更けにつつ
      (山末尓 不知夜經月乎 何時母 吾待将座 夜者深去乍)
 1071番歌とほぼ同様の歌としてよかろう。
 「山の端にいつ顔を出すかと月を待っている。夜が更けていくのに」という歌である。

1085  妹があたり我が袖振らむ木の間より出で来る月に雲なたなびき
      (妹之當 吾袖将振 木間従 出来月尓 雲莫棚引)
 「妹があたり」は「直接彼女の姿が見えるあたり」という意味なのか「彼女が住んでいる家のあたり」という意味なのか両様にとれる。観賞者の判断に委ねていいと思うが、「屋」や「庭」が見あたらないので、私は「直接彼女の姿が見えるあたり」という意味に解しておきたい。「なたなびき」は「な~そ」の禁止表現。
 「彼女に向かって袖を振ろう。木の間から出て来る月のために、雲よたなびかないでおくれ」という歌である。

1086  靫懸くる伴の男広き大伴に国栄えむと月は照るらし
      (靱懸流 伴雄廣伎 大伴尓 國将榮常 月者照良思)
 靫(ゆき)は矢を入れて背負う道具。したがって「靫懸(か)くる」は「靫を背負う」という意味になる。「伴の男(とものお)」は従者、すなわち武士ということである。「広き」は「多勢」のこと。「大伴に」は「大伴の本拠地に」を意味している。大伴氏の本拠地は難波津(大阪湾)の御津の浜松にあったとされる。
 「靫(ゆき)を背負う大伴氏が大勢いる大伴の本拠地よ。栄えていけとばかりに月が照り輝く」という歌である。
 以上で、1069~1086番歌まで、月を詠む歌は終了である。
           (2014年4月18日記、2018年3月24日記)
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