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万葉集読解・・・126(1868~1885番歌)

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     万葉集読解・・・126(1868~1885番歌)
1868  かはづ鳴く吉野の川の滝の上の馬酔木の花ぞはしに置くなゆめ
      (川津鳴 吉野河之 瀧上乃 馬酔之花會 置末勿動)
 「かはづ鳴く」は「河鹿(かじか)鳴く」という意味。河鹿はカジカガエルのことで、谷川の岩間に住んでいる。「馬酔木(あしび)の花」はツツジ科の常緑低木。山地に自生。春、壺形の小さな白花をつける。「はしに置く」は「粗末にする」という意味。
 「これは、河鹿鳴く吉野川の滝のほとりに咲いていた馬酔木(あしび)の花ですよ。ゆめゆめ粗末にしないで」という歌である。

1869  春雨に争ひかねて我が宿の桜の花は咲きそめにけり
      (春雨尓 相争不勝而 吾屋前之 櫻花者 開始尓家里)
 「春雨に争ひかねて」とは文学的表現。春になるまでの雨は冷たく、桜の開花を遅らせる役目を担う。が、春の雨は温かく、逆に開花を促す。そのことを歌に込めているのである。「我が宿の」は「我が家の庭の」という意味。
 「降りかかる春雨に促されて我が家の庭の桜は咲き始めた」という歌である。

1870  春雨はいたくな降りそ桜花いまだ見なくに散らまく惜しも
      (春雨者 甚勿零 櫻花 未見尓 散巻惜裳)
 「春雨は」は「春雨よ」という呼びかけ。「な降りそ」は「な~そ」という禁止形。
 「春雨よ。そんなにひどく降らないでおくれ。まだ咲いた桜を十分見ていないのに散ってしまうのが惜しくてならない」という歌である。

1871  春されば散らまく惜しき梅の花しましは咲かずふふみてもがも
      (春去者 散巻惜 梅花 片時者不咲 含而毛欲得)
 「春されば」は「春がやってくると」という意味。結句の「ふふみてもがも」は「蕾のままでいてほしい」という願望。
 「春がやってくると散ってしまうのが惜しい梅の花。ここしばらく咲かずに蕾のままでいてほしい」という歌である。

1872  見わたせば春日の野辺に霞立ち咲きにほへるは桜花かも
      (見渡者 春日之野邊尓 霞立 開艶者 櫻花鴨)
 「春日(かすが)の野辺」は奈良市春日山のふもとに広がる野辺。結句の「桜花かも」の「かも」を「岩波大系本」や「伊藤本」は推量の「かもしれない」と解しているが、「咲きにほへる」と詠われているように、推量ではなく、詠嘆の「かも」である。
 「見わたすと、春日の野辺に霞がかかっている。桜が咲き、一面を美しく染め上げている」という歌である。

1873  いつしかもこの夜の明けむ鴬の木伝ひ散らす梅の花見む
      (何時鴨 此夜乃将明 鴬之 木傳落 <梅>花将見)
 「いつしかも」は「いつになったら」であるが、問題は「この夜の明けむ」である。字面は今夜だが、私には夜を長い冬に仮託しているように思われる。今夜が明ける意なら「いつしかも」などと詠い出す必要がないからである。
 「いつになったらこの夜のような夜が明けるだろう。早く春がやってきてウグイスが枝渡りして散らす梅の花を見たいものだ」という歌である。

 頭注に「月を詠む」とある。1874~1876番歌の三首。
1874  春霞たなびく今日の夕月夜清く照るらむ高松の野に
      (春霞 田菜引今日之 暮三伏一向夜 不穢照良武 高松之野尓)
 「高松」は地名だろうが、所在不詳。
 「春霞がたなびいているこの夕月夜、高松の野に月は清く照りわたることだろう」という歌である。

1875  春されば樹の木の暗の夕月夜おほつかなしも山蔭にして [一云 春されば木蔭を多み夕月夜]
      (春去者 紀之許能暮之 夕月夜 欝束無裳 山陰尓指天 [一云 春去者 木陰多 暮月夜])
 原文の「紀之許能暮之」の定訓は「樹(き)の木(こ)の暗(くれ)の」である。が、「樹の木の」は木が重複するので「木の暗多み」とする訓もある。原文からは定訓でよかろう。さらに、樹は樹木全体、木は枝を意味しているとすれば重複ではない。あえて定訓に異をとなえる理由が見あたらない。春になって木々が葉に覆われるようになると葉の茂みに隠されて月が見にくくなる。
 「春が来て木々が茂り、茂みの蔭で、せっかくの夕月夜も台無し。特に山陰にあってはぼんやりした暗がり状態になってしまう」という歌である。
 異伝歌は「樹の木の暗の」が「木蔭を多み」となっているが、歌意はほぼ同意。

1876  朝霞春日の暮は木の間より移ろふ月をいつとか待たむ
      (朝霞 春日之晩者 従木間 移歴月乎 何時可将待)
 読解不要の平明歌。
 「朝、霞がたちこめていた春の一日が暮れると、今度は木の間をわたる月がいつ出てくるやらと待ち遠しくなる」という歌である。

 頭注に「雨を詠む」とある。
1877  春の雨にありけるものを立ち隠り妹が家道にこの日暮らしつ
      (春之雨尓 有来物乎 立隠 妹之家道尓 此日晩都)
 「春の雨にありけるものを」は「何のことはない、濡れてもたいしたことがない春雨だったものを」という意味である。「立ち隠(かく)り」は「雨宿り」のこと。「この日暮らしつ」は「この日暮れたり」という意味。
 「何のことはない、濡れてもたいしたことがない春雨だったのに、途中で雨宿りしていたために彼女の家に着くまでに日が暮れてしまった」という歌である。

 頭注に「河を詠む」とある。
1878  今行きて聞くものにもが明日香川春雨降りてたぎつ瀬の音を
      (今徃而 聞物尓毛我 明日香川 春雨零而 瀧津湍音乎)
 「聞くものにもが」は「訊きたいものだ」という願望。明日香川は現在飛鳥川と表記されている。奈良県明日香村、橿原市、田原本町などを流れる川。
 「今すぐ出かけていって聞きたいものだ。明日香川に春雨が降り注ぎ、たぎりたつすさまじい瀬の音を」という歌である。

 頭注に「煙を詠む」とある。
1879  春日野に煙立つ見ゆ娘子らし春野のうはぎ摘みて煮らしも
      (春日野尓 煙立所見 (女+感)嬬等四 春野之菟芽子 採而煮良思文)
 春日野は奈良市春日山のふもとに広がる野辺。「春野のうはぎ」は山野に自生するヨメナのこと。野菊のことである。若葉は食用にされる。
 「春日野に煙が立つのが見える。乙女たちがヨメナを摘み取って煮ているようだ」という歌である。

 頭注に「野遊びの歌」とある。1880~1883挽歌の四首。
1880  春日野の浅茅が上に思ふどち遊ぶ今日の日忘らえめやも
      (春日野之 淺茅之上尓 念共 遊今日 忘目八方)
 野遊びは、若い男女が農作業などを休んで山や野に集まり、踊ったり歌を詠みあったりして楽しんだ、いわば歌垣(うたがき)のことである。が、こうした集まりは農民ばかりでなく、役所勤めの官人の間でも行われていたらしいことが、本歌を含む一連の歌から読み取れる。
 「思ふどち」は820番歌や1591番歌に使われていたように、「気心の知れた仲間」という意味。浅茅は「浜辺に生えている丈の低い茅(かや)」のこと。春日野は地名と取ってもいいが、「穏やかな春の野」と受け取ってもよかろう。
 「気心の知れた者同士一同、春の野に集まって浅茅原で遊ぶ今日のような一日は決して忘れようがない」という歌である。

1881  春霞立つ春日野を行き返り我れは相見むいや年のはに
      (春霞 立春日野乎 徃還 吾者相見 弥年之黄土)
 「いや年のはに」は「来る年も来る年も」という意味。「年のはに」は毎年という意味だが、「はに」を同音の「黄土」(原文)で代用しているのが面白い。
 「霞がかかっている春の野を行ったり来たり、互いに相集おうではないか、来る年も来る年も」という歌である。

1882  春の野に心延べむと思ふどち来し今日の日は暮れずもあらぬか
      (春野尓 意将述跡 念共 来之今日者 不晩毛荒粳)
 「心延べむと」は「思いを述べる」というよりは「羽根を伸ばす」という意味。「思ふどち」は「気心の知れた仲間」という意味。
「春の野に思いっ切り羽根を伸ばそうと仲間同士で集まってきた今日というこの日、このまま暮れてしまわなければよいのに」という歌である。

1883  ももしきの大宮人は暇あれや梅をかざしてここに集へる
      (百礒城之 大宮人者 暇有也 梅乎挿頭而 此間集有)
 「ももしきの」は枕詞。第三句「暇(いとま)あれや」は各書とも「暇があるからか」と解している。それだと、第三者の目線に立って造った歌になってしまう。結句の「ここに集(つど)へる」が意味不明瞭になり、歌意がとおらない。すなわち役所勤めの人々を批判した歌になってしまう。本歌までが「野遊びの歌」だとすると、「ここに集へる」は明らかに集まってきたメンバー(大宮人)の思い。批判や皮肉では歌意不明。むしろ賛歌でなければならない筈である。なので「暇あれや」は「同じ時間にこうして集まることが出来て」という意味の筈である。「あれや」は「あるからか」ではなく、「あるために」という意味。
 「われら大宮人はいっせいに集うことができるお休みをいただいているおかげで、こうして梅を頭に挿して集まってこられた」という歌である。

 頭注に「歎旧」とある。「歎旧」は「歳を取る嘆き」。歌二首。
1884  冬過ぎて春し来れば年月は新たなれども人は古りゆく
      (寒過 暖来者 年月者 雖新有 人者舊去)
 「春し」は強意の「し」。旧暦の新年は今日の二月から三月。春到来を意味する。「人は古(ふ)りゆく」は「人間は年を取る一方である」という意味。
 「冬が過ぎて春がやって来ると、年は新年を迎えるけれども、人間は年を取る一方である」という歌である。

1885  物皆は新たしきよしただしくも人は古りにしよろしかるべし
      (物皆者 新吉 唯 人者舊之 應宜)
 「ただしくも」は「ただし」という意味である。前歌の頭注に「歳を取る嘆き」とあるので、本歌は空威張りの歌なのだろう。
 「物はみな新しいのがよろしい。ただし、人間は年を取った方がよろしいだろう」という歌である。
           (2014年12月12日記、2018年8月22日記)
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