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万葉集読解・・・128(1903~1921番歌)


     万葉集読解・・・128(1903~1921番歌)
1903  我が背子に我が恋ふらくは奥山の馬酔木の花の今盛りなり
      (吾瀬子尓 吾戀良久者 奥山之 馬酔花之 今盛有)
 「馬酔木(あしび)の花」はツツジ科の常緑低木。山地に自生。春、壺形の小さな白花をつける。倒置的表現の歌。
 「あの人に恋い焦がれている、その今の自分の心情は、奥山で人知れず今を盛りと咲いている馬酔木の花そのものです」という歌である。

1904  梅の花しだり柳に折り交へ花に供へば君に逢はむかも
      (梅花 四垂柳尓 折雜 花尓供養者 君尓相可毛)
 「花に供へば」は「お花としてお供えしたら」という意味である。神様に手向けて手を合わせる乙女の姿が目に浮かんでくるような歌である。
 「梅の花としだれ柳を折り混ぜ、束にしてお供えしたらあの方に逢えるだろうか」という歌である。

1905  女郎花咲く野に生ふる白つつじ知らぬこともて言はれし我が背
      (姫部思 咲野尓生 白管自 不知事以 所言之吾背)
 「女郎花(をみなへし)咲く野に生ふる白つつじ」は、作者を女郎花、彼を「白つつじ」と見立てた歌とも取れる。また
、単に「知らぬ」を導く序歌とも取れる。前者に解した方が興趣があるので、そう解しておきたい。
 「一面に咲く女郎花の野に混じって咲いている白つつじのあなたなのに、いつのまにか女郎花のひとつに過ぎない私と噂が立ってしまいましたね」という歌である。

1906  梅の花我れは散らさじあをによし奈良なる人も来つつ見るがね
      (梅花 吾者不令落 青丹吉 平城之人 来管見之根)
 「あをによし」は枕詞。「奈良なる人」だが、漠然とした人ではなく、相聞歌なので特定の人を指す。結句「来つつ見るがね」の「がね」は、364番歌の結句「語り継ぐがね」の「がね」と同意である。その際、詳細な補注を施した「岩波大系本」の見事な解説がある旨を述べた。要するに「かもしれないのだから」という意味である。
 「梅の花を散らさないように手入れを怠らないようにしなければなりませんわ。大宮にお勤めのあの方がやってきてご覧になるかも知れませんもの」という歌である。

1907  かくしあらば何か植ゑけむ山吹のやむ時もなく恋ふらく思へば
      (如是有者 何如殖兼 山振乃 止時喪哭 戀良苦念者)
 「かくしあらば」は「こんなことになるのなら」という意味。「何か植ゑけむ」は「何故植えたのだろう」という意味。山吹の「やま」を「やむ時」にかけた歌。
 「こんなことになるのなら、何故山吹を植えたのだろう。(逢えなくて)やむ時なく恋に苦しむことになるならば」という歌である。

 頭注に「霜に寄せて」とある。
1908  春されば水草の上に置く霜の消につつも我れは恋ひわたるかも
      (春去者 水草之上尓 置霜乃 消乍毛我者 戀度鴨)
 「春されば」は「春になると」という意味。「消(け)につつも」は「消えそうになりながらも」という、「恋ひわたるかも」は「恋い続ける」という意味。
 「春がやってくると、水草の上の霜が消えてしまうように、消えそうになりながらも私は恋続けまする」という歌である。

 頭注に「霞に寄せて」とある。
1909  春霞山にたなびきおほほしく妹を相見て後恋ひむかも
      (春霞 山棚引 欝 妹乎相見 後戀毳)
 「おほほしく」は175番歌の際に記したように、「気が重い」ないし「ぼんやりとした」という意味。
 「春霞が山にぼんやりたなびいているように、ただあの子をぼんやり眺めるばかりだったが、後々恋しくてならなくなるだろうな」という歌である。

1910  春霞立ちにし日より今日までに我が恋やまず本の繁けば [一云 片思にして]
      (春霞 立尓之日従 至今日 吾戀不止 本之繁家波 [一云 片念尓指天])
 「本の繁けば」は「心の奥がいっぱいで」という意味である。前歌の続きのような歌である。同じ作者なのだろう。
 「春霞が立ち始めた日から今日まで、ずっとあの子を思う私の恋心がやむことがない。心の奥がいっぱいで」という歌である。
 異伝歌は「心の奥がいっぱいで」の部分が「片思いのために」となっている。

1911  さ丹つらふ妹を思ふと霞立つ春日もくれに恋ひわたるかも
      (左丹頬經 妹乎念登 霞立 春日毛晩尓 戀度可母)
 「さ丹つらふ」はここまでに3例使われている。いずれも長歌。短歌での用例は本歌が初出。「さ」は真性等の意がこもる美称。「丹」は「赤」。「つら」は「面」。「ふ」は「帯びた」という意味。したがって「さ丹つらふ」は「赤みを帯びた顔」という意味になる。 「春日もくれに」は「佐々木本」と「伊藤本」は「~くれに」と解している。「岩波大系本」と「中西本」は「~暗(くれ)に」としている。原文は「春日毛晩尓」となっている。問題は歌意である。第二句の「妹を思ふと」をおおむね各書とも「思うと」とし、明るい春の日と対比して「暗く」としている。「明るい春日も暗く思われる」というわけだ。なんとなく分かるが、どこかしっくりこない。結句の「恋ひわたるかも」(恋続けている)にフィットしないのである。原文の「晩尓」は「暮れに」ではないのかと思われる。つまり「妹を思ふと」は「妹を思うと」ではなく、「彼女のことをずっと思っていると」という意味に相違ない。
 「赤みを帯びた美しいあの子のことをずっと思っていると、霞を帯びた春の長い一日もすっかり暮れてしまうほど恋続けてしまいました」という歌である。

1912  たまきはる我が山の上に立つ霞立つとも座とも君がまにまに
      (霊寸春 吾山之於尓 立霞 雖立雖座 君之随意)
 「たまきはる」は通常「命」にかかる枕詞。「我が」にかかるとは考えられない。なので私はここも「命」に相違ないとみる。つまり「我が命」を省略した形だ。省略表現にすることによって山(すなわち我が君)を強調する効果が生まれる。「立つとも座(う)とも」は「立つも座るも」という意味である。
 「我が命と仰ぐ山の上に霞がかかっています。立つも座るもあなたの意のままになさって下さい」という歌である。

1913  見わたせば春日の野辺に立つ霞見まくの欲しき君が姿か
      (見渡者 春日之野邊 立霞 見巻之欲 君之容儀香)
 第三句までは序歌。「霞」を導く。「君が姿か」は詠嘆の「か」。
 「見わたすと、春日の野辺に霞がかかっていてよく分かりません。あなたの姿が見たいものです」という歌である。

1914  恋ひつつも今日は暮らしつ霞立つ明日の春日をいかに暮らさむ
      (戀乍毛 今日者暮都 霞立 明日之春日乎 如何将晩)
 読解不要だろう。平明歌。
 「恋つつも今日はなんとか過ごしました。霞立つ明日の春日をどのようにして過ごしたらいいのでしょう」という歌である。

 頭注に「雨に寄せて」とある。
1915  我が背子に恋ひてすべなみ春雨の降るわき知らず出でて来しかも
      (吾背子尓 戀而為便莫 春雨之 零別不知 出而来可聞)
 「すべなみ」の「なみ」は「~ないので」で、「すべがなく」という意味。「降るわき知らず」は「降っているのかいないのかさえ分からず」という意味である。
 「あの方が恋しくてどうしようもなく、春雨が降っているかいないかさえ分からず、家を出てきてしまいました」という歌である。

1916  今さらに君はい行かじ春雨の心を人の知らずあらなくに
      (今更 君者伊不徃 春雨之 情乎人之 不知有名國)
 「今さらに君はい行かじ」は「雨が降ってきた今更、あなたはまさかお帰りにならないでしょうね」という意味である。「い行かじ」は強調の「い」。
 「雨が降ってきた今になってあなたはまさかお帰りにならないでしょうね。引き留めたいと思って降ってきた春雨の心をお知りにならないわけではないでしょうに」という歌である。

1917  春雨に衣はいたく通らめや七日し降らば七日来じとや
      (春雨尓 衣甚 将通哉 七日四零者 七<日>不来哉)
 「いたく通らめや」は「中の肌までひどく通ることなどありましょうか」という意味である。「七日し」は強意の「し」。
 「春雨のことですもの。ひどく着物がびしょぬれになるなんてことがありましょうか。七日降ったら七日ともおこしにならないおつもりですか」という歌である。

1918  梅の花散らす春雨いたく降る旅にや君が廬りせるらむ
      (梅花 令散春雨 多零 客尓也君之 廬入西留良武)
 第三句の「いたく降る」は「ひどく降る」という意味。ここで歌は いったん切れる。廬(いお)りは仮小屋のこと。
 「梅の花を散らすほど春雨がひどく降っている。旅路にあるあなたは仮小屋で泊まっているのでしょうか」という歌である。

 頭注に「草に寄せて」とある。
1919  国栖らが春菜摘むらむ司馬の野のしばしば君を思ふこのころ
      (國栖等之 春菜将採 司馬乃野之 數君麻 思比日)
 「国栖(くにす)らが」は国栖に住む人々のこと。国栖は奈良県吉野川の上流にあった。現在の吉野町にあった村とされる。「司馬(しま)の野」はどこの野をいうのか不詳。ここまでは「しばしば」を導く序歌。
 「国栖(くにす)の人々が春菜を摘む司馬の野じゃありませんが、しばしばあなたのことが思われてならないこのごろです」という歌である。

1920  春草の繁き我が恋大海の辺に行く波の千重に積もりぬ
      (春草之 繁吾戀 大海 方徃浪之 千重積)
 「春草の繁き我が恋」は「繁茂する春草のように積もる我が恋」のことである。
 「繁茂する春草のように我が恋は積もり積もって、大海の岸辺に打ち寄せる波のようにとどめようがありません」という歌である。

1921  おほほしく君を相見て菅の根の長き春日を恋ひわたるかも
      (不明 公乎相見而 菅根乃 長春日乎 孤<悲>渡鴨)
 「おほほしく」は1909番歌に出てきたばかりだが、ここでは「ぼんやりと」という意味。「恋ひわたる」は「恋続ける」ということ。
 「おぼろげにあなたの姿を見かけたばかりに、菅の根のように長い長い春の一日を恋続けていましたわ」という歌である。
           (2014年12月27日記、2018年8月28日記)
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